第39-2話
審査が始まる2時間前。
日本武道館に入った瞬間、空気の重さが変わった。
今日の審査官は10人。事前に調べてある。顔から、名前、肩書きまで、全て調べた。
中央に座るのが最も発言力のある人物だと聞いた。挨拶のタイミングで、視線はそちらに向ける。
ここまでやれば、多分大丈夫だ。
笑顔は崩さない。声のトーンは落ち着かせる。
「葛西さん、今日はよろしくお願いします」
頭の中で言葉を探す。正解は何か。嫌われない答えは何か。
「こちらこそ、今日はよろしくお願いします」
0.3秒。それくらいの間があったはずだ。
相手には気づかれなかっただろうか。
関係者との会話をこなしながら、頭の中では別のことを考えていた。今日の審査の流れ、自分のパフォーマンスの順番、想定される評価基準。
今日で、決まる。
今日うまくいかなければ、ここまでの全部が無駄になる。
その事実だけが、ずっと胸の中にある。
会話が一段落した。次の人間が来るまで、数秒の空白。
ロビーの端に移動して、スマホを開く。メモを確認するふりをしながら、画面を見つめた。
文字なんて、頭に入ってこなくていい。見ているふりができれば、それでいいんだ。
誰にも見せない。見せる必要はない。
ここで崩れたら、全部終わる。それだけだ。
そのとき視線を感じ、顔を上げる。
少し離れた場所に、1人の男が立っていた。
乃木健人。
胸の中で、何かが跳ねた。
Emmaに入った日から、ずっとその名前がある。比べられる、というより、影のように。
あの人がいた場所に、今自分がいる。それだけで、勝手に並べられる。
「Red eyes」の映像を何度も見た。
アウトロのとき、一瞬だけ彼の計算されたものがなくなる。
それまで完璧に制御されていた表情が、何かに明け渡される。
練習の跡も、戦略も、全部その一瞬に溶けてなくなった。それでも完璧だった。
まさにそれになりたいと思った。同時に、彼のようにはなれないとも思い知らされた。
よりによって、今日。
視線が交わった。向こうも気づいている。
どうすればいい。正解は何だ。
待つか。向こうから来るのを待てばいい。
でも来なかったら?
このまま視線が交差し続けるのか。それは最悪だ。
気づかないふりをするか。でももう目が合ってしまった。
今さら無視したら、それこそ印象が悪い。
だったら、先に動く方がまだましだ。自分から行けば、少なくとも終わりのタイミングは自分で決められる。
笑顔を作り直して、歩き出した。
「乃木健人さん、ですよね。今日はよろしくお願いします」
頭の中で言葉を確認してから、口に出した。
「あ、はい。こちらこそ」
彼は少し驚いたような顔をしていた。何か言おうとして、言えなかった。
その隙に軽く頭を下げて、踵を返した。
よかった、と思う。恐らく。
声は普通だったか。間は変じゃなかったか。「よろしくお願いします」の最後、少し早口になっていなかったか。
踏み出す足のリズムを意識しながら、廊下を歩いた。
パフォーマンスの順番。審査官の顔。自分の強み。
今、乃木健人は関係ない。関係ないんだ。




