第38話
5月31日。
「ねえ、乃木さん」
レッスン場所兼コンセプトカフェに向かう電車の中で、志歩が僕の袖を軽く引いた。
「ん?」
「さっきから何回も乗り過ごしそうになってる。大丈夫?」
「ごめん、少し考え事してて」
志歩は心配そうに僕の顔を覗き込んだが、すぐに視線を外した。
「そっか。まあ、無理しないでね」
……バレてるか。
あの日、優太くんと彩葉ちゃんが店に来てから、僕はずっと考えている。
本当に、あの頼みを引き受けてよかったのだろうか、と。
窓ガラスに映る自分の顔が、まるで別人のように見えた。
「ほら、今もぼーっとしてた」
「少し考えることが沢山あるんだよ」
志歩は「ふーん」とだけ言い、窓の方へ顔を戻した。その横顔は、いつもとは違って見えた。
何か言いたそうに見えたのは、僕の気のせいだろうか。
沈黙のまま大体30分が過ぎ、電車は秋葉原駅に滑り込んだ。
改札を抜けた瞬間、志歩がスマホを取り出した。誰かからメッセージが来たようだ。
「あ、千佳さんから…」
画面を見た志歩の表情が、微妙に曇る。
「どうしたの?」
「えっと…店のセッティングが思ったより時間かかってて。あと30分くらい待ってほしいって」
「それなら、僕も行こうか?」
「いや、乃木さんは来なくて大丈夫だって」
「そう…じゃあカフェで時間潰してるよ」
「うん、ごめんね」
志歩は申し訳なさそうに笑ったが、その笑顔はどこか不自然だった。
何か隠してるのか?
しかし、僕にはそれを追求する気力もなかった。
志歩の妙に不自然な笑顔が胸に引っかかったが、深く考えないようにした。
「じゃあ、私行くね」
小走りに駅の人混みに消えていく志歩の背中を見送りながら、僕は一人、秋葉原の雑踏に取り残された。
胸の中で、あの問いがまた浮かび上がる。
僕に、彼女を導く資格があるのだろうか。自分すら救えなかった人間に。
人混みの中を歩きながら、僕はポケットの中のスマホを握りしめた。カフェで時間を潰す、と言ったものの、足は自然と違う方向に向かっていた。
何も考えずにふらふらと歩いていると、目の前に公園が見えた。
自販機で無糖の紅茶を買ってから、公園のベンチに座り、紅茶を口に含む。
いつもと同じ銘柄、同じ味のもののはずなのに、今日は妙に苦く感じた。
ふと、隣のベンチに目が行く。若い母親が、小さな女の子に何か教えていた。
「ほら、こうやって持つの。怖くないよ」
女の子はぎこちなく、しかし真剣な顔で、シャボン玉の吹き具を持っている。
最初は上手く膨らまない。2回目も、割れてしまう。
3回目、小さなシャボン玉が空に浮かんだ。
「できた!」
女の子の顔が、ぱあっと輝いた。
母親も笑顔で拍手をしている。シャボン玉は風に乗って、ゆっくりと空へ昇っていく。
完璧な球体ではない。少しいびつで、すぐに割れてしまうかもしれない。
でも、確かに浮かんでいる。
僕は、僕が失敗することを許さなかった。センターとして、常に完璧なパフォーマンスをしないといけないと思っていた。
一度のミスも、一瞬の迷いも見せてはいけなかった。でも違うんだ。何度失敗しても、もう一度挑戦できる。
失敗が、次の成功への階段になっている。
……完璧じゃなくても、いいんだ。
ふと、そんなことが頭の中に浮かんだ。
僕はスマホを取り出し、SNSのタイムラインを開いた。
画面には、葛西蒼についての投稿が流れている。
『葛西蒼のパフォーマンス、完璧すぎて怖い』
『表情が硬いよね。笑顔がない』
『なんか乃木健人を意識しすぎてる気がする』
コメント欄を見ていると、ある一つの投稿が目に留まった。
『完璧じゃなくていいのに。もっと楽しんでほしい』
その言葉が、妙に胸に刺さった。
楽しむ、か。
アイドルだった頃、僕は本当に心から楽しんでいただろうか。
笑顔の仮面を被って、不安を隠して、ただ「完全無欠のセンター」を演じていた。
彼女も今、同じことをしているのかもしれない。笑顔を作って、弱さを隠して、完璧を演じている。
だとしたら、僕が彼女に伝えられることがあるとすれば。
それは「完璧である必要はない」ということなのかもしれない。
でも、それを伝える資格が、僕にあるのか。自分も救えなかった僕に、誰かを救えるのか。
一体どれくらい、僕は考えていただろう。
紅茶のペットボトルは、いつの間にか空になっていた。
スマホが振動した。志歩からだった。
『準備できたよ!』
僕は立ち上がり、空のペットボトルをゴミ箱に捨てた。
答えは、まだ出ない。でも、逃げるわけにはいかない。
優太くんと彩葉ちゃんは、僕を信じて頼んでくれたんだ。
彼女も、きっと誰かの言葉を待っている。
例え、僕が不完全な人間でも、できることがあるはずだ。
ポケットにスマホをしまい、僕は足を速めた。
秋葉原の喧騒の中を歩きながら、考える。完璧じゃない僕だからこそ、伝えられることがあるのかもしれない。
割れかけのシャボン玉のように、不安定で脆くても、それでも浮かび続けることの意味を。




