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アイドル育成計画  作者: 夜明天
第3章

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第34話

翌日、僕は千佳と一緒に渋谷センター街を歩いていた。

「健人くん」

千佳が立ち止まって僕の名前を呼んだ。呼ばれて、僕は自分の手が震えていることに気づいた。

渋谷の雑踏、行き交う人々の喧騒の中で、千佳の声だけが妙に静かに聞こえた。

「顔色も悪いよ。やっぱり会うのやめる?」

「……やめない。もうここまで来たから」

「そっか」

再び、喧騒だけが聞こえるようになった。

数分歩いて、エクセルシオールカフェに着いた。中に入り、江ノ島の姿を探す。

奥へと進み、姿を見つけた途端に心臓の鼓動が速くなり始める。息も上手くできなくなってくる。

「健人くん…!本当に大丈夫?やっぱりやめにする?」

「大丈夫だよ」

「でも…」

「僕は大丈夫だから…!あんまり心配しないで」

正直に言って、今の僕にはもう、余裕なんて残っていない。

隣のテーブルでは、女子高生たちが笑い合っている。

エスプレッソマシンの音。食器の触れ合う音。

BGMのジャズ。あまりにも日常的な空間。

でも僕にとって、ここは戦場だった。

「江ノ島…さん」

僕がおずおずと言うと、驚いたように江ノ島が顔を上げた。

江ノ島の顔を見た瞬間僕は目を疑った。

化粧が薄い。疲れているのか、それとも意図的にそうしているのか。

ごく普通の服装。これも計算なのか、本当に余裕がないのか。

それが僕には分からなかった。そして、その「分からなさ」が、また僕を追い詰めた。

そして何より、あの押しつけがましい笑顔が消えていた。

「健人くん……本当に来てくれたのね」

その瞬間、周囲の音が全て消えた。

僕の世界には、江ノ島の声だけが響いていた。

「座って。お話ししたいことがあるの」

僕は千佳の方を一瞬振り返った。千佳は心配そうに頷いた。

僕は深呼吸をして、江ノ島の向かいの席に座った。千佳は少し離れた場所で見守っている。

「健人くん、私...謝りたくて」

江ノ島の声は震えていた。でもその震えは、僕への恐怖なのか、

自分の転落への恐怖なのか、本当の後悔なのか。僕には判別できなかった。

そして、その「判別できなさ」こそが、僕をさらに苦しめた。

「私、あの頃は...本気で応援してるつもりだったの」

江ノ島が呟く。

「やめてください」

自分の声が裏返った。

「お願い、聞いて。私、全部失ったの。事務所も、仕事も、信用も。誰も私に仕事をくれない。それで、やっと分かったの。私がどれだけ酷いことを……」

「やめてください」

声は思ったより静かだった。でも、その静けさの中に、9年分の何かが込められていた気がした。

僕は立ち上がった。椅子が小さく音を立てる。

千佳が慌てて駆け寄ってくる。

「健人くん...」

江ノ島の目に涙が浮かんでいる。でも僕には、それが本物の後悔なのか、自分の没落を嘆いているだけなのか、判断できなかった。

「あなたが...あなたが全部失ったって?」

僕の声は震えていた。

「僕が失ったものは何だったんですか。僕の9年間は? 夜眠れなくなって、誰にも言えなくて、自分が汚れたみたいで...!」

江ノ島が顔を歪めた。

「ごめんなさい、本当に…」

「謝って済むなら、警察はいらないんですよ」

冷たい声だった。僕自身、こんな声が出せることに驚いた。

「僕は...僕はあなたを許すために、ここに来たんじゃない」

自分の声が震えていた。でも、はっきりと言えた。

「じゃあ、何のために...?」

江ノ島が戸惑ったように尋ねてくる。

「分からない」

僕は正直に答えた。

「分からないんです。あなたに何を言えばいいのか、何をすればいいのか。ただ...逃げ続けるのはもう嫌だった」

気づけば、涙が溢れていた。

「あなたがしたこと、僕は一生忘れられない。13歳の、あの頃の僕は、何が起きているのかも分からなくて。断れなくて。あなたは僕の上司で、権力を持っていて...断ったら、『Emma』のメンバーから外されるって思ってた」

江ノ島が顔を覆った。

「夜、1人でいる時、急に思い出して吐きそうになる。誰かに触れられるのが怖くなった。自分が汚れたみたいで、シャワーを何時間も浴びても、あの感触が消えなくて...!」

「やめて...お願い、やめて...」

江ノ島が泣き始めた。でも僕は止まらなかった。

抑え込んできた全てが、堰を切ったように溢れ出す。だが、言葉が出かけて、止まった。

僕は何を言いたいのか、自分でも分からなくなっていた。怒り?悲しみ?それとも——この人に、まだ何かを期待している自分がいるのか?

その気づきが、一番恐ろしかった。

「僕は...」

続きは出てこなかった。言葉にならなかった。

カフェのドアが開いて、誰かが入ってくる。注文の声。笑い声。

世界は、何事もなかったように回り続けている。でも僕の時間だけが、9年前で止まったままだった。

僕は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちそうになった。

千佳が僕の肩を抱きながら、小さく震えているのが分かった。

彼女も、怒っている。悲しんでいる。でも、僕のために、必死に冷静でいようとしている。

「千佳...」

「ううん、大丈夫」

千佳は小さく首を振った。

「健人くんの方が、ずっと大変だから」

その言葉に、僕は逆に申し訳なくなった。

千佳に、こんな思いをさせている。

僕のせいで……いや、違う。江ノ島のせいで。

僕は千佳の腕の中で、子供のように泣いた。

千佳が江ノ島の方を向いたのが分かった。

「あなたが何を失ったとしても、それはあなたが蒔いた種です。健人くんが失ったものに比べたら、何でもない」

千佳の声は、僕に向ける時とは違って、冷たかった。

江ノ島は何も言わず、ただ俯いていた。千佳が僕をゆっくりと立たせてくれた。

「帰ろう、健人くん。もうここにいる必要はない」

「でも...僕は...」

僕は江ノ島を見た。俯いて泣いている彼女の姿。

「僕は、どうすればいいんだろう」

千佳が僕の顔を優しく覗き込んだ。視界が歪んで上手く見れない。

千佳の腕の中で、僕の頭の中では別の光景が回っていた。

警察署の取調室。「その時、どこを触られましたか」と何度も聞かれる。

地検。「なぜすぐに訴えなかったのですか」と詰められる。

法廷。見知らぬ人たちの前で、もう一度、あの日々を語る。

でも、訴えなければ——江ノ島は普通に生活を続ける。いつかまた、誰かを。

そして僕は、「何も起きなかった人間」として生きることになる。

選択肢は2つ。どちらも地獄だった。

「僕は…どうすれば…」

言葉にならない。千佳が静かに待っていてくれる。

「今は、決めなくていいよ」

千佳が言った。

「1ヶ月後でも、1年後でも。健人くんが決められる時まで、時間をかけていいんだよ」

でも、待つこと自体が、苦しみを延ばすことにもなる。

答えのない問いだった。僕の頭の中は、まだ混乱していた。

江ノ島がようやく顔を上げた。

「私、健人くんのこと、本当に応援してたの。だって、他の子とは違って…」

江ノ島が言いかけて、僕の顔を見た。

「……健人くんは、才能があったから」

その瞬間、9年前の声が蘇った。

『健人くんは特別』『君だけを見てる』——録音テープを再生するように、同じトーン、同じ抑揚で。

ああ、何も変わっていない。

この人は今でも、あれが「特別な関係」だったと信じている。

江ノ島が続けた。

「私、本当は...寂しかったの。事務所で誰も私を見てくれなくて。健人くんだけが、私の言うことを聞いてくれて...」

一瞬、僕は何かを理解しかけた。この人も、壊れていたのかもしれない。

でも——だから何だというのだろう。

「それは、僕の責任じゃない」

初めて、はっきりと言えた。

江ノ島が息を呑んだのが分かった。その顔には、驚きと、もしかしたら、初めての理解があったかもしれない。

でも、僕にはもう確かめる気力はなかった。

「僕は特別じゃない。僕は、13歳の子供だった。それだけです」

江ノ島が顔を上げる。その目には、まだどこか、僕を「特別な存在」として見ている光が残っていた。

ああ、そうか。

僕は理解した。この人は本当の意味では、何も分かっていない。

自分がしたことの重大さを。

「健人くんの才能を伸ばしたくて。でも今思えば、それは全部、私が自分に言い聞かせてた言い訳で...」

吐き気がした。この人は今でも、あれを「応援」だと思っているのか。

それとも、自分を正当化しようとしているだけなのか。もう何も信じられなかった。

僕は長い沈黙の後、口を開いた。

「僕は...今すぐには決められない。あなたを許すかどうかも、訴えるかどうかも」

江ノ島は静かに頷いた。

「でも、一つだけ言える」

僕は千佳の方を見て、そして江ノ島に向き直った。

「僕はもう、あなたに支配されない。あなたのせいで、僕の人生が止まることもない。僕は、もう前に進む」

その言葉には、初めて力が宿っていた気がした。

そして、立ち上がろうとして、僕の足が一瞬すくんだ。

本当にこのまま出ていいのだろうか。何か、言い忘れたことはないだろうか。

いや、違う。

僕は江ノ島に何かを言うためにここに来たんじゃない。自分のために、来たんだ。

9年間、この人の影に怯えて生きてきた。夜中に目が覚めて、あの日々が蘇って、誰にも言えなくて。

でも今日、僕は自分の足でここまで来た。震えながらでも、この人の前に立った。

それだけで、十分だった。

千佳が僕の手をそっと握った。その温かさが、僕を現実に繋ぎ止めてくれる。

「行ける?」

千佳が小さく聞いた。

僕は頷いた。頷けた。

江ノ島をもう一度見た。彼女はまだ、俯いたままだった。

この人がこれから何を思い、どう生きていくのか——もう、僕の知るところではない。

僕には、僕の人生がある。

「行こう」

今度は、僕の方から言えた。

カフェを出た瞬間、渋谷の喧騒が戻ってきた。人々の話し声、車の音、街の匂い。

それらが、僕を現実に引き戻してくれた。外に出て、僕は大きく息を吸った。

「ありがとう、千佳。一人じゃ、きっと無理だった」

「ううん。健人くんが自分で歩いたんだよ」

千佳が微笑んだ。でも、その笑顔の端に、ほんの少しだけ疲れが見えた気がした。

千佳も、どうしたらいいか分からなかったのかもしれない。それでも、そばにいてくれた。

「これから、どうする?」

「分からない。でも...」

僕は空を見上げた。

「今日、初めて自分の口で言えた。それだけで、少しだけ...」

僕は言葉を探した。

「軽くなった、とは言えない。でも...何かが、変わった気がする」

「うん」

千佳が頷いた。

帰り道、僕はふと振り返った。カフェの方向を。

江ノ島はまだあそこにいるのだろうか。

明日になったら、また後悔するかもしれない。

「言わなきゃよかった」と思うかもしれない。あるいは「もっと言えばよかった」と思うかもしれない。

でも、今日という日は、確かに存在する。僕が逃げなかった日として。

「千佳」

「ん?」

「もし明日、僕が今日のことを後悔してたら...」

「その時はまた、一緒に考えよう」

千佳は即答だった。その声が、少しだけ僕を安心させた。

僕たちは、渋谷の人波の中を歩いた。

すれ違う人の視線が気になる。僕だと気づいている人もいるかもしれない。

「あの人、元Emmaの…」

そんな声が聞こえる気がした。

千佳が、さりげなく僕と周囲の人の間に立った。何も言わずに。

ふと、目の前のショーウィンドウに、僕と千佳が映った。

普通のカップルに見えるのだろうか。誰も、僕たちがどこから来たのか、何があったのか、知らない。

それが、不思議だった。

僕の中では、世界が揺れて、時間が歪んで、全てが変わってしまったような気がしていたのに。

街は、何も変わらず、そこにあった。

「健人くん、寒くない?」

千佳が聞いた。

4月下旬なのに、今日は妙に冷える。季節外れの寒さだった。

周りの人たちは、薄手のジャケットやカーディガンを羽織っている。春のはずなのに、冬がまだ居座っているみたいだ。

「大丈夫」

そう答えて、少し歩いて、僕は付け加えた。

「千佳も、寒くない?」

「うん、大丈夫」

何でもない会話。でも、この「何でもなさ」が、今の僕には、とても大切だった。

かつて、日本中で僕は輝いていた。ポスターに、テレビに、雑誌に。

「国民的アイドル」——その肩書きは、鎧でもあり、檻でもあった。

今、僕は誰なのだろう。

元アイドル?被害者?それとも………

「健人くん」

千佳が呼ぶ。僕は顔を上げた。

明日になったら、また分からなくなるかもしれない。

今日のことを後悔するかもしれない。あるいは、もっと言えばよかったと思うかもしれない。

でも今は、今だけは、「逃げなかった自分」がここにいる。

僕はポケットの中で、拳を握りしめた。

まだ震えている。でも、あの部屋から出てこられた。

スクランブル交差点の向こうに、かつて僕のポスターが貼られていたビルが見える。

もうそこに、僕はいない。

それでいい、と思えた。思えた気がした。

明日になったら、またこの確信は揺らぐのだろう。でも今日は、今日だけは、そう思えた。

それで、十分だった。十分だと、思いたかった僕がいた。

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