第29話
目が覚めた。カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。
スマホの時計は午前3時56分を示している。
今日は一次審査当日だ。僕は再び目を閉じたが、もう眠れそうにない。
観念して、キッチンで紅茶を淹れることにした。
やかんの湯が沸く音だけが、静かな部屋に響く。
カップに紅茶を注いだ瞬間、スマホが震えた。
午前4時41分。見覚えのある番号——登録していない、したくない番号だった。
画面を見つめたまま、手が震える。そうしているうちに、電話が切れてしまった。
僕は慌てて折り返しを入れる。折り返しの番号を押す指が震える。
2コール、3コール鳴ったうちに相手が出た。
「もしもし?」
「あなたもこんな時間に起きていたんですね」
僕の声は、意外と落ち着いていた。
「健人くんこそ、こんな時間に起きてるじゃない」
声の主は案の定、江ノ島裕美だった。分かっていても、心臓が跳ねる。
「……なぜ、急に非通知じゃない電話を?」
「それより、よく私って気づいたわね。まだあの名刺、取っておいてくれてるの?」
千佳の前で握り潰したあの名刺、あの中に電話番号も書いてあった。結局、あのままポケットに入れたままだ。
「で、僕に何の用なんですか?」
「今日の、14時からよね。1次審査の収録って」
「ええ、そうですが」
「こんな時間まで起きてて大丈夫なの?寝れなくなっちゃった?」
「あなたには関係ないですよね?」
「あら、紅茶?ダージリンかしら。大事な日の前は、いつもそうだったわよね」
首筋から背筋にかけて悪寒が走った。
「でも、健人くん今までとは少し変わってるわ。」
「……どこがですか?」
「声がほとんど震えてないもの。再会する前の健人くんなら、間違いなく電話に出られなかったと思うわ」
僕はスマホを握り直した。言い返そうとして、喉が言葉を拒む。
「……それで、用件は…」
「でも健人くん」
江ノ島の声がワントーン低くなる。
「強くなってると思い込んでるけど、あなたはまだ、あの時の練習室に囚われたままなのよ。」
心臓が大きく跳ねる。そして、あの記憶がフラッシュバックされる。
「楽しみだわ。今日、あなたは私達の前であの子達を見せるのよね。あなたが手塩にかけて育ててきた子達が、どんな顔をして崩れ落ちていくのか。」
「……お、お前…」
カップを持つ左手が震え出し、紅茶が溢れそうになる。
だめだ、あの時に戻ってしまう。
「じゃあね、健人くん。また、審査会場でね」
ツー、ツー、ツー。
電話が切れた。
僕はカップを置いて、床に座り込んだ。膝を抱えて、深呼吸する。
1回、2回、3回——
震えはまだ止まらない。
スマホの画面を見る。通話時間は2分47秒。
およそ3分足らずで、昔の僕に戻ってしまった。
その時、千佳とルナの声が反芻された。
『逃げてもいいんだよ』
『あたしらも一緒に戦う』
僕は立ち上がった。足には、まだ力が入る。
窓の外が白み始めている。時計を見ると、午前5時03分を示していた。
「みんな、起きてるかな」
独り言のように呟いて、僕はスマホを手に取った。
『METROPOLARiS』のグループチャットを開く。指が震える。
でも、今度は恐怖だけの震えじゃない。
『おはよう。今日、全力で行こう』
送信ボタンを押した瞬間、既読が1つ、2つ、3つと増えていく。
まだ誰も返信はしていない。でも、それでいい。
僕は1人じゃない。それだけで、十分だった。
「よし」
僕は紅茶を一口飲んだ。
完全に冷めていたが、不思議と温かく感じた。




