第28話
一次審査前日の午前8時、いつものようにコーヒーを淹れていると、スマホがバイブレーションで震えた。
画面を見ると、志歩からの着信だった。
「もしもし」
「あ、もしもし乃木さん。今って大丈夫ですか?」
「大丈夫だけど、どうしたの?」
「……あの、乃木さん」
「うん」
「今日……」
コーヒーを啜る音が妙に大きい。志歩の息づかいだけが聞こえる。
「今日、空いてますか?」
「空いてるけど」
また沈黙。5秒、10秒。
「わ、私と——」
声が裏返る。
「デート、してください!」
スマホを耳から離したくなるほどの大声だった。
「……は?」
思わず聞き返していた。明日が一次審査だというのに?
手に持っていたマグカップを、思わずテーブルに置く。
「あの、今日って休養日じゃないですか。だから、その……」
「今日遊んで大丈夫なの?明日、完璧なパフォーマンスできる?」
「大丈夫です!絶対やってみせます!」
電話口から伝わる彼女の熱意に、僕は少し考え込んだ。確かに休養日だが、こういう気分転換も必要なのかもしれない。
それに、ここまで言うなら止める理由もない。
「……分かった」
「本当ですか! やったー!」
彼女の喜ぶ声を聞きながら、僕は何だか不思議な気分になっていた。
電話を切り、シャワーを浴びて、着替えを済ませ、待ち合わせ場所の東京ドームシティに向かう。三田線の水道橋駅の改札から地上へ上がり、ドームシティの中へ入ると、ジェットコースター乗り場の柱に志歩が立っていた。
普段の練習着姿とは違う、白のロングTシャツにジーンズ。ボブの髪も、いつもより丁寧にセットされている。
「乃木さん」
彼女がこちらに気付き、ぎこちない笑顔を向けてくる。
「ありがとう、来てくれて」
「ああ。……ところで」
僕は視線を彼女の背後、柱の陰へ向けた。
「え?」
志歩が驚いた声を上げる。一瞬の静寂の後、物陰からばつが悪そうに2人の人影が現れた。
綾乃さんとルナだった。
「……あちゃー、バレてたか」
ルナが頭を掻きながら苦笑する。
「で?いつから付いてきてた?」
「私は、神保町駅で、偶然志歩を見かけて。あまりに様子が、違うから。つい、気になって……」
綾乃さんが申し訳なさそうに答える。
「アタシは電車の中!健人の様子がおかしいから、『これは面白そう』って思ってさ」
ルナは悪びれもせずにカラカラと笑った。
「もう……」
志歩が顔を赤くして俯く。僕はため息をついた。
「まあいいけど。せっかくだし、志歩がいいなら4人で回る?」
志歩は一瞬、唇を噛んだ。それから、
「……うん、そうだね。みんなで回ろう」
と言った。声は明るいが、視線は足元に落ちている。
「やったー!じゃあまずジェットコースター乗ろうぜ!」
ルナが無邪気に叫ぶ。
「ルナ、志歩の邪魔しに来たわけじゃ、ないよ」
「違う違う!」
2人のやり取りを見ながら、志歩は小さく苦笑した。
僕達は園内を歩き始める。土曜の午前中、まだ早い時間だからか、人はそこまで多くない。
ルナと綾乃さんが先を歩き、僕と志歩が少し距離を置いて後ろを歩く形になった。
「……ごめんね、乃木さん」
不意に、志歩が小さな声で言った。
「何が?」
「せっかく来てもらったのに、2人きりじゃなくなっちゃって」
「別に気にしてないよ。それより、なんで急にデートに誘ったの?」
僕が尋ねると、志歩は少し考えてから答えた。
「明日、でしょ」
志歩が小さく言う。
「審査」
「うん、怖い?」
「……怖い」
彼女は前を歩くルナと綾乃を見つめている。
「落ちたら、どうなるんだろう」
「どうなるって?」
「みんなと、バラバラになるのかな」
――ああ、そうか。
志歩が恐れているのは、審査に落ちること自体じゃない。
仲間を失うことだ。
「志歩」
「うん?」
「絶対受かるよ」
「え……」
「昨日までの練習、ずっと見てた。君達なら、『METROPOLARiS』なら絶対大丈夫」
志歩は立ち止まり、僕の顔を見た。その目には、少し涙が浮かんでいた。
「……ありがとう」
彼女は小さく笑って、また歩き出す。
「お〜い、2人とも何話してんだ〜!早く来いよ〜!」
前方からルナの声が響く。
「今行く!」
志歩が明るい声で返事をする。
さっきよりも、少しだけ彼女の足取りが軽くなっていた。
ジェットコースターの乗り場に着くと、ルナが既に列に並んでいた。
「早く早く!待ち時間15分だって!」
「ルナ、私はここで待ってる、よ」
綾乃さんが申し訳なさそうに言う。
「え?綾乃ちゃん、苦手なの?」
志歩が驚いた顔をする。
「高いところは、少しだけ。じゃあ、3人とも、楽しんできて」
「じゃあ僕も待ってる」
僕が言うと、綾乃さんが首を振った。
「乃木さんは、志歩と一緒に、楽しんで」
彼女は小さく笑って、ベンチの方を指差す。
結局、僕と志歩とルナの3人で乗ることになった。
列に並びながら、志歩がそわそわと周りを見回している。
「志歩、ジェットコースター初めて?」
「ううん、小さい頃に1回だけ……。でも、すごく怖かった記憶が」
「大丈夫大丈夫!慣れたら絶対楽しいって!」
ルナが無邪気に言う。
順番が来て、僕達は座席に座る。座席は2人掛けで、前の列に志歩と僕が、そしてルナが後ろの列に。
安全バーが降りてくると、志歩の手がぎゅっと僕の手を包んでくる。
「……乃木さん」
「ん?」
「手、握っててもいい?」
「ああ、いいよ」
彼女の手は少し震えていた。
コースターが発進すると、ガタン、ガタンと音を立てて、上昇していく。
「志歩、目開けてる?」
ルナが横から覗き込む。
「開けてる……けど、こ、怖い……」
頂上に到着する。東京の街が、小さく見える。
志歩の手が僕の手を握りしめる。
言葉を探す。何か伝えたいことがある。
でも、急降下が始まった。風が、声を奪う。
志歩の叫び声も、ルナの笑い声も、すべてが風に溶ける。
そして——気づいたら、笑っていた。
志歩も、笑っていた。
降り場で、志歩が息を整えながら言った。
「明日も、こうなるかな」
「こう?」
「怖いけど、終わったら笑ってるみたいな」
僕は頷いた。
「きっと、そうなるよ」
降り場で待っていた綾乃さんが、手を振っている。
「どう、だった?」
「すっごく楽しかった!綾乃さんも乗ればよかったのに!」
ルナが興奮気味に話す。
「次は私も、頑張ってみよう、かな……」
綾乃さんが苦笑する。
志歩は、さっきよりもずっと明るい表情をしていた。その顔を見て、僕は少し安心した。
その後も僕達は、バイキングや水上コースター、お化け屋敷などを次々と楽しんだ。気付けば空は夕暮れ色に染まっていた。
「あっという間だったね」
「だな〜」
とルナが言うと、志歩は思いついたかのように声を上げた。
「そうだ、乃木さん!観覧車乗ろ!」
志歩が遠くの観覧車を指差す。
「え…いいけど」
「じゃあアタシも…」
とルナが言いかけたところで、綾乃さんに止められた。
「ルナ、ここは、2人にしたほうがいい、よ」
「お、おう。そうだな」
「聞き分けが、いいね」
綾乃さんが微笑む。
僕と志歩は観覧車乗り場へ向かい、ゴンドラを待った。やがて、僕達の番が来たのでゴンドラに乗り込む。
ゴンドラはゆっくり、ゆっくりと上昇し頂上を目指していく。
窓の外には、夕暮れに染まる東京の街並みが広がっている。オレンジ色の空と、ぽつぽつと灯り始める街の明かり。
「綺麗だね」
志歩が窓に顔を近づける。
「だね」
しばらく2人とも無言で景色を眺めていた。
ゴンドラが半分ほど上昇したところで、志歩が口を開いた。
「ね、乃木さん」
「ん?」
「今日、誘ってよかった」
彼女は窓の外を見たまま続ける。
「最初は、すごく勇気が出なかったんだ。断られたらどうしようとか、迷惑じゃないかなとか」
「全然迷惑じゃなかったよ」
「うん、それは分かった。綾乃ちゃんとルナまで来ちゃったけど……でも、楽しかった」
志歩が僕の方を向く。
「ありがとう、来てくれて」
「志歩、何か不安なことでもあるの?」
僕が尋ねると、志歩は少し黙った。
それから、
「綾乃ちゃん、可愛いよね」
唐突に志歩が言った。
「うん、そうだね」
「ルナは、誰とでもすぐ仲良くなれる」
「ああ」
「私には、そういうの、ない」
志歩は自分の手のひらを見つめている。
「何もない。普通の、ただの女の子」
沈黙。ゴンドラが軋む音。
——千佳も、同じことを言っていた。
あのとき僕は、何と答えただろう。
「そんなことない」「君にも良いところがある」——
ありきたりな言葉だったかもしれない。
でも、千佳は今、あの言葉を信じて前に進んでいる。
志歩の真剣な表情を見る。
今度は、もっと具体的に伝えよう。
「志歩は、歌ってるとき、目を瞑るよね」
「え?」
志歩が驚いた顔をする。
「高音のとき。必ず目を瞑る」
「……そうかも」
「あれ、すごく綺麗だと思う」
志歩が顔を上げる。
「自分では気づかないんだろうけど、
あの瞬間の志歩は、誰よりも歌に入り込んでる。
それが君の武器だよ」
志歩の目に、また涙が浮かんでいた。
でも今度は、不安の涙じゃない。
「……ずるいよ、乃木さん」
「何が?」
「そんなこと言われたら、もう不安になれないじゃん」
志歩が泣きながら笑う。その笑顔は、今日一番明るいものだった。
そうしているうちに、ゴンドラが頂上に到達する。
眼下に広がる東京の夜景。無数の光が、宝石のように輝いている。
「綺麗……」
志歩が息を呑む。
「あそこに、私達の練習場があるんだよね」
「ああ」
「明日、あっちでオーディションがある」
志歩は深く息を吸って、吐いた。
「よし、頑張る。絶対、合格してみせる」
その横顔には、もう迷いはなかった。
「ねえ、乃木さん」
「ん?」
「ありがとう」
志歩が囁く。
近い。いつの間にか、彼女の顔が近くにある。
逃げるべきなのか。でも、身体が動かない。
志歩の瞳が僕の目を見ている。迷いがない。
彼女の唇が、触れた。
柔らかい。温かい。
一瞬、いや、もっと長かったかもしれない。
志歩が離れる。顔が真っ赤だ。
「ご、ごめん」
「……いや」
何を言えばいいのか分からない。志歩も黙っている。
互いに窓の外を見ているが、何も見ていない。
ゴンドラが降下を始める。
ゴンドラが一周し、降り場に着くと、綾乃さんとルナが待っていた。
「どうだった?」
「すごく綺麗だった!」
志歩が明るい声で答えた。
その表情を見て、綾乃さんが小さく微笑んだ。
「良かった、ね」
「うん!」
「つーか、2人とも変じゃないか?さっきまで普通だったのに」
ルナが首を傾げる。
綾乃さんが小さく微笑む。
「ルナ、それは……」
「え、何?何があったの?」
「聞かないほうが、いいこともある、よ」
駅で別れるとき、志歩が手を振った。
「明日、頑張るね」
「うん」
志歩が改札を抜けていく。その背中は朝とは違って、まっすぐだった。
地下鉄の水道橋駅へ戻る道すがら、スマホを見ると、ルナからメッセージが届いている。
「健人、何があった?」
返信はしなかった。
代わりに、明日の審査会場の住所を確認する。
大丈夫だ。
根拠はない。でも、そう思えた。




