第27話
一次審査の5日前。
練習場のドアを開けた瞬間、違和感が背筋を這った。いつもスピーカーが置いてある右奥のスペースががらんと空いていて、代わりにマイクスタンドが無造作に入口近くに寄せられている。
「これ、誰か動かした?」
「えー? 知らないけど」
玲奈ちゃんが眉をひそめて、機材の周りを見回す。
「私、一番乗りだったけど、来たときからこうだったよ。気持ち悪いね」
その声のトーンが、いつもより少し高い。彼女も不安を感じているんだ。
音響チェックを始めると、スピーカーから「ジジジッ」という耳障りなノイズが断続的に割り込んでくる。声を出すたびに、まるで何かが引っ掻くような不快な音が重なった。
「これ、壊れてる?」
志歩がマイクを軽く振ると、今度は「ブツッ、ブツッ」と音が途切れた。
「使えないことはないけど、本番でこれは……」
修理に連絡すると、「今日中の修理は無理」との返事。
「予備のマイクは?」
「そんなのないだろ」
おかしい。こんなタイミングで全部?
「乃木さん」
菖蒲さんが僕の肩を叩いた。
「これ、偶然ではないと思います」
「……そうだね」
江ノ島の仕業だ。間違いない。
あの人は昔からこういうやり方をする。直接手を下さず、じわじわと追い詰めてくる。13歳の時、僕は彼女のそのやり方に屈した。
「どうするの?」
初歌ちゃんが不安そうに聞いた。
「もちろん練習は続ける。マイクなしでも、体に振り付けを叩き込ませる」
「でも、本番は?」
「なんとかするよ」
僕は笑顔を作った。
「大丈夫。僕達には、歌がある」
その言葉に、みんなが頷いた。
その夜、僕は1人で事務所に電話をかけた。
「もしもし。マイクの事で電話させていただいたのですが——」
「ですから、明後日では間に合わないんです!」
電話口の担当者は「規定ですので」の一点張りだった。僕は額に手を当てて、深呼吸する。感情的になったら負けだ。
「分かりました。では、レンタル会社を3社ほど、紹介していただけますか? そちらに直接かけます」
粘り強く交渉を続けて30分。ようやく「特例として」という言葉を引き出せた。
電話を切って、僕は大きく息を吐いた。
その瞬間、スマートフォンが震えた。また非通知からの着信。
心臓がドクンと跳ねる。僕には着信を無視できなかった。
「もしもし」
『頑張ってるみたいね、健人くん』
あの声だ。低く、蜜のように甘い江ノ島の声。
「何の…用ですか…?」
喉が渇いた。唾を飲み込むと、自分の心臓の音が耳に響く。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
『用?ないわよ。ただ、応援してるって伝えたくて』
「……ありがとうございます」
『本番、楽しみにしてるわ』
「ええ」
僕は窓ガラスに映る自分の目を見つめた。自覚はなかったが、体は正直に苛立ちを覚えているらしい。
「期待していてください」
言葉が、思ったより真っ直ぐ出た。
「僕達の、全てを見せますから」
電話を切り、スマホを握る手を見る。
手は震えていない。
あの時、13歳の僕は、この人のせいで全てを諦めようとした。もう二度と舞台に立たないとも考えた。
「でも、今は違う」
小さく呟いて、僕は明日の最終調整メニューをノートに書き始めた。
***
一次審査の3日前。
最後の通し練習。
「よし、もう1回!」
僕の声に、7人が位置につく。音楽が流れる。
『SHAKE! SHAKE! SHAKE!』
まだ完璧じゃない。でも、2週間前とは比べものにならないくらい、成長していた。
曲が終わる。数秒の沈黙の後、僕は拍手した。
「みんな、最高だよ」
そう言った後、みんなが笑顔になった。
「よし、今日はここまで。明日は軽めの調整だけ。本番前日は完全休養」
「了解!」
みんなが荷物をまとめ始める。
「健人」
ルナが僕のところに来た。
「あのさ、本番終わったら、お前何かするつもりだろ?」
「……どうして?」
「分かるよ。ずっと一緒にいるんだから」
ルナは真っ直ぐ僕を見た。
「その時は、アタシらも一緒だから」
ルナが僕の肩を掴む。
「1人で抱え込むなよ。健人、そういうとこあるから」
「……ルナ」
「何、お礼とか言うなよ。仲間だろ」
ルナが少し照れたように視線を逸らした。
「ありがとう、ルナ」
「……うるせえ」
ルナがぶっきらぼうに、ポンと僕の背中を叩いた。
「じゃ、明日な」
ドアが閉まる。
1人になったスタジオで、僕は鏡に映る自分を見つめた。
あと3日、あと3日で、全てを変えるんだ。
僕は深呼吸して、電気を消し、外に出た。
外に出ると、街灯の少ない路地に、わずかな星明かりだけが降り注いでいた。まだ少し肌寒い春の空気を深く吸い込む。
見返してやる、絶対に。必ず、僕達の手で。
僕は夜の静寂に包まれた秋葉原を歩き始めた。




