第25話
僕はサンケーテレビからの帰り、新橋行きのゆりかもめに揺られながら、携帯の画面を見つめていた。
検索窓には「23時、舞踏会にて。メンバー」と入力されている。
一次審査の対戦相手。
彼女達を見た瞬間、僕は気づいてしまった。
あの動き。あの声。
15年前、まだ僕が子供だった頃、事務所で見た彼女達、『シンデレラガールズ』。
そして、彼女達をプロデュースしていたのは、江ノ島裕美。
その名前を思い出した瞬間、僕の手が震えた。
スマートフォンを取り落としそうになる。
違う。落ち着け。
もう13歳の、あの時の僕じゃない。23歳だ。プロデューサーだ。
でも、胸の奥で、不安が渦巻いている。
まさか、また——
廊下で声をかけられたのは、2日前の収録が始まる直前だった。
「久しぶりね、健人くん」
体が凍りついた。
江ノ島裕美。15年ぶりに聞くその声に、首筋が疼いた。
「今度、ゆっくりお話ししましょう」
彼女は微笑んだまま、僕の横を通り過ぎていく。
震えている僕を、千佳が心配そうに見ていた。
電車の揺れが僕を正気の世界へと戻す。ゆりかもめの窓に映る自分の顔は、青ざめていた。
***
2日後の土曜日、僕は7人を店に集めた。
「転生?」
ルナが片膝を立てて座る。
「名前を変えて、別のグループとして再デビューすることですよ。」
菖蒲さんが答えた。
「しかも、対戦相手は『シンデレラガールズ』の転生グループかもしれないって?」
志歩が整理する。
「『シンデレラガールズ』って、元々うちの事務所だったんだよね〜」
玲奈ちゃんが言った。
「15年前、江ノ島裕美がプロデュースして…」
僕は言葉を切った。その名前を口にするだけで、喉の奥が渇く。
「4年後に事件が起きて、メンバーごと移籍した。」
「でも健人、『シンデレラガールズ』のメンバーって、私と玲奈が共演した時はもう20代後半だったよ?」
初歌ちゃんが首を傾げた。
「デビュー時で最年長は30歳手前。今は全員アラフォー近く」
「『シンデレラガールズ』?聞いたことあるよ〜!」
千佳がワイン片手に現れた。頬が赤い。
「高校受験の時に聞いてたよ〜!」
「ああ、SHAKE! SHAKE! SHAKE!が流行ったのってそういえばその頃か。」
僕が頷いたのは千佳と玲奈ちゃん、初歌ちゃんくらいだった。他の4人は首を傾げている。
「13年前なんて、僕ですら小学5年だったんだよ?」
「……えっ!?」
僕が千佳の肩に手を置いて諭すように言うと、千佳はジェネレーションギャップで目を見開いた。
「話を戻そう。『シンデレラガールズ』は一発屋だった。2020年の活動終了まで、2発目のヒットは出せなかった。で、同じ時期に始動したのが『23時、舞踏会にて。』」
「公式は何も言ってないけど、ファンの間では両グループが同じメンバーだって暗黙の了解になってるんだ。」
「そして今回、相手の課題曲がSHAKE! SHAKE! SHAKE!だ。建前上は『持ち歌は使わない約束』だけど、『23時、舞踏会にて。』は『シンデレラガールズ』とは別グループ。つまり彼女達にとっては、歌い慣れた曲なんだ。」
「明らかに有利になるように仕組まれてる。」
沈黙。千佳のグラスの氷が溶ける音だけが聞こえる。
「でも、おかしいと思わない?ファンには周知の事実なのに、わざわざSHAKE! SHAKE! SHAKE!を課題曲に選ぶなんて。あまりにリスキーすぎる。」
「つまり…」
「何か大きな力が働いている。」
どう考えたって江ノ島が仕組んだに決まっている。
「江ノ島…」
玲奈ちゃんが小さく呟いた。
「あの人、まだ業界に影響力を持ってるの?」
その名前を聞いた瞬間、僕の体が強張った。呼吸が浅くなる。
首筋に、あの時の感触が蘇る。
「乃木さん?」
志歩の声が遠くに聞こえる。
深呼吸。もう一度。
「ああ…あいつは、まだ業界にいる…」
テーブルの下で、僕は太ももを強く掴んでいた。
「え、健人会ったの?」
「…うん。2日前、テレビ局で…」
『久しぶりね、健人くん』
あの笑顔。あの声。
僕の体は、13歳の時と同じように凍りついた。
「その話はまた今度でいい…?」
今はまだ、言えない。
「どうするの?このまま不利な条件で戦うしかないの?」
志歩が身を乗り出した。
「証拠を掴む。江ノ島が裏で糸を引いてる証拠をね。」
「でも、どうやって調べるんだよ。あたし達、そんなコネもないだろ。」
ルナが眉をひそめた。
その時、僕のスマートフォンが震えた。
見知らぬアドレスからのメールだった。
『乃木健人様。お話があります。今夜、お店に伺ってもよろしいですか? 23時、舞踏会にて。元マネージャー』
「罠かもしれないよ?」
スマホを覗いてきた志歩が警戒する。
「でも、情報が欲しいのは事実だ。」
夜9時。約束より30分早く、その人は現れた。
30代半ば、ベージュのカーディガンを着た女性。店内を見回す目が落ち着かない。
「『METROPOLARiS』プロデューサーの乃木健人さん、ですか?」
「はい。」
「私、『23時、舞踏会にて。』の元マネージャーです。」
どうやら罠じゃなかったようで、志歩の手が止まった。
「収録の日、控え室で江ノ島社長とサンケーテレビの浜町プロデューサーが話しているのを偶然聞いてしまって。『課題曲はこれで決まりね。健人くんのグループなんて敵じゃない』って。」
彼女がバッグから封筒を取り出す手が、小刻みに震えている。
「2ヶ月前に辞めたんです。でも、黙っていられなくて。」
僕は椅子を引いて、彼女に座るよう促した。
「江ノ島社長と浜町さんとのメールです。」
女性が書類を読み上げる。
「『課題曲はSHAKE! SHAKE! SHAKE!で決定。審査員の件も任せて——』」
その瞬間、視界が歪んだ。
——『健人くん、いい子ね』
練習室。13歳の僕。首に回された手。
『秘密、守れるわよね?』——
「乃木さん?」
菖蒲さんの声で、僕は現実に引き戻された。冷や汗が背中を伝っている。
「すみません」
女性が僕を見た。
「あなたも…江ノ島社長に、何かされたんですか?」
沈黙。
「その顔は、メンバーたちと同じです。社長に傷つけられた人の顔。」
僕は何も答えられなかった。
「だから」
女性は真っ直ぐ僕を見た。
「あなたにこそ、この証拠を使って欲しい。告発してください。」
「待ってください。」
菖蒲さんが手を上げた。
「リスクを整理しましょう。」
「そんなの後でいいだろ!」
ルナが遮る。
「今大事なのは、健人がどうしたいかだ。」
「でも、告発したら健人、またあの人と向き合うことになるよね…」
初歌ちゃんが不安そうに言った。
「でも健人の決めたことに、私達は従う、よ」
綾乃さんが僕の肩に手を置いた。
「無理しなくていいんだよ。」
千佳が優しい声で言った。
みんなが、僕を見ている。その目には、信頼があった。
「告発は、しない。」
「え?」
女性の声が裏返る。
「今は、まだ」
僕は封筒を見つめた。
「あいつと対峙するには、僕はまだ…」
言葉が出てこない。
「逃げてもいいんだよ。」
千佳が静かに言った。
「僕は…逃げてない。」
即座に反論して、でもそれが嘘だと分かっていた。
沈黙。
「……逃げてるのかもしれない。でも、今あいつと戦ったら、僕はまた壊れる。だから、今は実力で勝つ。それで自信をつけてから、もし必要なら…」
「その時は、アタシらも一緒に戦う」
ルナが遮った。
あの時以来もう一度、僕は泣きそうになった。
「この証拠は持っておきます。そして、僕たちは実力で勝つ。」
手が震えている。でも、これは恐怖だけの震えじゃない。
「もし負けたら?」
志歩が聞いた。
「その時は告発する。でも、できれば使いたくない。正々堂々勝ちたい。」
ルナがニヤリと笑った。
「そうこなくっちゃ」
女性が立ち上がった。
「分かりました。でも、もし何かあったら連絡してください。」
扉が閉まる。ベルの音が遠ざかる。
その夜、スマートフォンが鳴った。非通知着信。
嫌な予感がした。でも、無視できなかった。
「もしもし」
『久しぶりね、健人くん。』
心臓が止まりそうになった。
「……江ノ島さん」
『私のとこの元マネージャー、あなたに会いに行ったそうね。可哀想に、あの子も病んでしまって』
「何の用ですか。」
『用?ないわよ。ただ、昔の教え子が頑張ってるって聞いて、応援したくなっただけ』
優しくて、冷たい声。
『SHAKE! SHAKE! SHAKE!、いい曲でしょう?あなたにも思い出深い曲だものね。13歳の時、あの練習室で何度も聴いたわよね?』
息ができない。首筋が熱くなる。
『じゃあね。本番、楽しみにしてるわ』
電話が切れた。
僕は震える手でスマートフォンを握りしめた。
壁に背中を預けて、床に座り込む。膝を抱えて、目を閉じた。
深呼吸。1回、2回、3回。
千佳の声が蘇る。『逃げてもいいんだよ。』
ルナの声が蘇る。『アタシらも一緒に戦う。』
僕はもう1人じゃない。もう、13歳の僕じゃない。
「よし」
僕は立ち上がった。
握りしめた拳は、まだ震えていた。でも、今度は恐怖だけじゃない。
窓の外、夜の街に目をやる。
次に会う時、僕は彼女の目を見て言えるだろうか。「もう、あなたを恐れない」と。
その答えは、まだ分からなかった。
でも、少なくとも今は、戦う理由がある。
「待ってろよ、江ノ島裕美。」
小さく呟いて、僕は明日の練習メニューを考え始めた。




