第15話
練習場所のドアを開けた瞬間、ルナが飛びついてきた。
「見ろよ健人!」
スマホの画面を僕の顔から5センチの距離に突きつけてくる。反射的に後ずさると、ルナは構わず画面をスクロールし始めた。掲示板には『METROPOLARiS』の文字が何度も繰り返されている。
「ネットでもアタシ達の話題で持ちきりだぜ!」
興奮で上ずったルナの声が、がらんとした店内に響く。
初ライブから1日経った今も、この盛り上がり具合を見る限り、昨日は間違いなく成功だと言えるだろう。
そんな余韻に浸ってる暇もなく、僕が今やらなくてはいけないことはコンセプトカフェの開店準備だ。これをアイドルの活動と同時に行なって資金を工面しないといけないので、一切手は抜けない。
キッチンの人手は、千佳の父親である太一さんのツテで飲食経験のある人を何人か紹介してもらい、ホールはメンバー7人で接客してもらおうと思っている。
「とりあえず、接客の練習をしてみよう」
僕は客席に座り、7人に実際の接客をやってもらうことにした。まずはルナから始めてみる。
僕が椅子に腰を下ろすのを待たずに、ルナが水の入ったコップを運んできた。
ガタン、という音と共にテーブルに置かれたコップから、水が波打って溢れ出す。冷たい水滴が僕のシャツの袖を濡らした。
「……ルナ」
「何だよ」
ルナは悪びれた様子もなく、濡れたテーブルを袖で雑に拭う。その動作でさらに水が広がった。千佳が小さく溜息をついたのが聞こえる。
「アタシはこういうの苦手なんだよ。丁寧に接客するとか。」
まあ、これは開店までに教育していくことにしよう。
「次は千佳、お手本を見せてもらおうか」
「はーい♪」
千佳が立ち上がると、なぜか玲奈ちゃんと初歌ちゃんも一緒についてきた。
「あれ、3人でやるの?」
僕が聞くと、千佳が振り返る。
「まあね、ちょっと見てて。」
そう言って、3人が深々と頭を下げる。そして——
「ファンの皆様〜、お帰りなさいませ〜♡」
声を揃えたその瞬間、店内の空気が微妙に凍りついた。
26歳の千佳が、目を輝かせながらこのセリフを言っている。玲奈ちゃんと初歌ちゃんも満面の笑みだ。
僕は視線の置き場に困った。どう反応すればいいのか、脳内で高速で選択肢を検索する。
「素晴らしい」と言えば嘘になる。「やめよう」と言えば戦争が始まる。
正直、玲奈ちゃんと初歌ちゃんはいいと思った。だが、問題なのは千佳だ。
視線を逸らそうとした時、隣で志歩が小さく肩を震わせているのに気づいた。笑いを堪えているのか、それとも。
「まあ……いいと……思うよ……」
言葉が自然と歯切れ悪くなる。
「健人くん、本当にいいと思ってるの〜?」
「そうだよ健人、本当はイタいとか思ってるんでしょ〜?」
千佳と玲奈ちゃんが詰め寄ってくる。
「そ、そんなことないって!」
僕は慌てて手を振る。
「めちゃくちゃいいと思うよ!」
心の中では『ちょっと痛い』と思いつつも、口には出せない。
「でしょ〜!」
千佳が嬉しそうに手を叩き、玲奈ちゃんと初歌ちゃんも満足そうに微笑んでいる。まあ、争いは避けられたようだから良しとしよう。
「次は志歩。やってみて」
「は〜い!」
志歩が勢いよく立ち上がった拍子に、椅子が小さく音を立てる。彼女は僕の前まで駆け寄ると、一度大きく深呼吸をした。
緊張しているのだろうか。でも、顔を上げた志歩の表情には、緊張よりも何か別の感情があった——純粋な楽しさ、とでも言えばいいのか。
「ファ、ファンのみんな〜!」
最初の言葉が少し上ずる。でもすぐに、志歩らしい明るい声が店内に響いた。
「来てくれてありがと〜!」
彼女の屈託のない笑顔を見ていると、こっちまで自然と頬が緩む。計算のない、本物の笑顔だ。
「流石だ…素晴らしい」
思わず出た言葉に、志歩が嬉しそうに目を細めた。彼女をメンバーに入れて、本当に正解だった。
「……いらっしゃい。」
そう言って綾乃さんが静かに水の入ったコップを置く。
「なるほど、こういうのもアリですね…」
最後に菖蒲さんが前に出てくる。彼女は丁寧にお辞儀をすると、穏やかな笑顔で言った。
「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」
落ち着いた、大人の接客だ。
「完璧です。流石菖蒲さん」
綾乃さんの静かな接客、菖蒲さんの大人びた接客。全員が同じスタイルである必要はない。それぞれの個性を活かせばいいんだ。
「じゃあ接客に関しては、みんな千佳先生に教わってくださいね〜」
「は〜い!」という元気な返事が重なる。
時計を見ると、すでに14時を回っていた。カフェの開店準備はこれでひとまず一段落だ。
「じゃあ、ダンスの練習に戻ろうか」
僕の言葉に、メンバーたちが練習スペースの中央に集まっていく。
***
歌唱練習とダンスレッスンを繰り返しているうちに、気がつけば時計の針は20時半を指していた。メンバーたちは更衣室で着替えを済ませ、一人ずつ店を出ていく。
菖蒲さん、初歌ちゃん、玲奈ちゃん、ルナ、綾乃さん、千佳の順番で帰宅していき、最後に更衣室から出てきた志歩は、いつもと違って少し緊張した面持ちだった。
「お疲れ様。」
声をかけると、志歩は一瞬、何か言いかけて、それから小さく首を振った。
「…ねぇ、乃木さん」
「ん?」
「一緒に、帰ろ」
その提案は唐突だった。いつもなら真っ先に帰る志歩が、今日に限って。
理由を聞くべきだろうか。でも、聞かない方がいい気もした。
練習場所のビルを出ると、2月の冷たい夜風が頬を撫でた。
メインストリートの喧騒とは対照的に、裏通りは静かだ。古いビルの間を縫うように続く道は街灯が少なく、コンビニの看板だけが青白い光を投げかけている。この時間になると、昼間の雑踏が嘘のように人影も少ない。
志歩は僕の半歩後ろを歩いている。スニーカーの足音だけが、アスファルトの上で小さく響いた。
ふと、志歩が車道側に寄りかけたのに気づく。無意識だろう。僕は自然を装って歩く位置を変え、志歩の手を軽く取って歩道側へ導いた。
「ありがとう…」
「今のうちだよ、こうして普通に一緒に歩けるのも。」
志歩の足が、わずかに止まった。
「……どうして?」
「アイドルだから」
言葉を選びながら、僕は続ける。
「男と一緒にいるところを見られたら、それだけでネットが荒れる。週刊誌が嗅ぎつけて、記事にする。本人たちがどう思っていようと、『熱愛発覚』って見出しがつく」
志歩は黙って聞いている。時々、街灯の光が彼女の表情を照らし出すが、何を考えているのか読み取れない。
「じゃあ、アイドルは恋愛しちゃいけないの?」
志歩の声には、どこか理不尽そうな響きがあった。
「禁止ってわけじゃないよ。ただ…」
僕は言葉を濁す。
「隠し通せるなら、って話だけど」
「そうなんだ…大変だね」
しばらく無言で歩く。志歩はまだ何か考え込んでいるようだった。
「どうしたの?急にこんなこと聞いて。学校に好きな人でもいるの?」
志歩が少し驚いたように顔を上げる。
「学校には…」
志歩の声が一瞬途切れた。視線が僕の顔を捉えて、すぐに逸れる。
「いないかな」
街灯の光が、ちょうど二人の間を照らした。その明かりの中で、志歩が小さく口を開く。
「学校"には"、ね」
その言葉だけ、わずかに音量が上がった。僕の足が、無意識に止まりかけた。志歩の横顔が、街灯の光の中で微かに紅潮している。それが照明のせいなのか、それとも——
「…どういう意味?」
聞き返そうとして、やめた。答えを聞くのが怖い気がした。
いや、もっと正直に言えば、答えが分かってしまうのが怖かった。
志歩は何も言わず、また歩き始める。僕も黙ってその隣に並んだ。
「アイドルって大変なんだね」
「まあ、そういう世界だから」
「ふ〜ん…」
夜の秋葉原を歩きながら他愛のない話を続けていると、いつの間にか駅前の喧騒が聞こえてきた。
「ほら、駅着いたよ。」
駅の昭和通り口から入ると、目の前に地下鉄日比谷線へ続く階段がある。
「あの…」
志歩が何かを言おうとして、躊躇するように俯く。
「どうかした?」
「何でもない!」
志歩は慌てたように首を振る。
「乃木さん、お疲れさまでした!」
慌てたように駆け下りていく志歩の背中を見送る。
改札の向こうに消えていく小さな影。
彼女が最後に見せた表情——言いかけて飲み込んだ言葉——それらが頭の中でリフレインする。
2月の冷たい風が、首筋を撫でていった。
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