第10話
午後7時の渋谷駅は相変わらず人で溢れていた。赤塚さんとの面談が予想以上に長引き、必要な買い物を済ませるため急いで駅に向かったところだった。
そこで僕は、スマホのバイブレーションが鳴っているのに気付いた。ポケットからスマホを取り出し、画面を見てみる。
電話を掛けてきた相手に僕は驚いた。画面に『湯島玲奈』と表示されていたからだ。
「もしもし?」
僕は意を決して電話に出た。
「け、健人…?」
電話の向こうの玲奈ちゃんは誰かと一緒に居るように聞こえた。
「玲奈ちゃん、何?僕、忙しいんだけど」
「あの、ね…聞いて…」
玲奈ちゃんの声は震えていた。
「私達、もう後がないの。健人しか頼る人がいないの」
「……突然だね。どうしたの急に?」
「今、ニュースって見れる?」
「え?うん。多分見れるけど…」
嫌な予感が胸をよぎった。足早にスクランブル交差点へ向かいながら、僕は最悪のシナリオを頭の中で描いていた。
まさか、と思いながらも、玲奈ちゃんの声の切迫さが不安を煽る。胸騒ぎが現実になった瞬間だった。
巨大ビジョンに表示されたニュースには、速報で湯島玲奈と赤坂初歌が『Emma』を脱退し、所属事務所を退所したと表示されていた。
「事務所、辞めたの…?なんで?」
「色々あったのよ...」
玲奈ちゃんの声が小さくなった。
「でも今は説明している時間がない。お願い、私達をオーディションしてくれる?あなたの判断を信じてるから」
電話の向こうから聞こえる玲奈ちゃんの息づかいが、事態の深刻さを物語っていた。僕の知ってるいつもの明るい声調とは打って変わって、今の彼女は藁にもすがる思いで僕に縋っている。
彼女達がどんな状況に置かれているのか想像すると、ここで断るのは酷だった。僕だって、困った時には誰かに頼りたくなる。
「……分かったよ」
僕は小さくため息をついた。
「じゃあ3日後、時間ある?」
「……うん!」
玲奈ちゃんの声が途端に明るくなった。
「じゃあ、3日後の15時、宇田川町のエクセルシオールで」
「うん!分かった!」
僕はそこで電話を切った。
***
この3日間、僕は複雑な気持ちでいた。玲奈ちゃん達がなぜ事務所を辞めることになったのか、そして僕に何を求めているのか。
様々な憶測が頭を巡ったが、答えは本人達から聞くしかない。
12月24日。クリスマスイブの日、すっかり渋谷の街はクリスマスムード一色だった。
14時50分、僕はエクセルシオールカフェの奥のテーブル席に座っていた。温かいダージリンティーの湯気が立ち上り、店内にはクリスマスソングがかすかに流れている。
窓の外を行き交う恋人達の華やかな様子を眺めていると、自分の置かれた状況との対比に胸が重くなった。
5分後、玲奈ちゃんと初歌ちゃんが現れた。
「ごめん健人。待たせちゃった?」
「いや、全然。僕も今来た所だから。」
僕は2人の表情を見た。玲奈ちゃんは少し疲れているように見えたが、3日前の電話の時よりもずっと落ち着いていた。
隣に座る初歌ちゃんは緊張した面持ちで、僕の顔を見つめている。
「それで、何があったの?」
僕は2人にこれまでの経緯を聞く。
「実は、健人が辞めた後、色々なことが重なって…」
玲奈ちゃんが重い口を開いた。
「健人が脱退してからの『Emma』は酷かったよ。彩葉が待ってたかのように調子に乗り始めたの。優太は彩葉のご機嫌取りしかしなくなっちゃったし。」
「具体的に酷かったって?」
「私達が少しでもミスすると『プロ意識が足りない』って言われた。自分も大したことないのに。」
初歌ちゃんが静かに付け加えた。
「なるほど…それで僕を頼ってきたって訳だね。」
2人の話を聞いているうちに、僕の心は重くなっていった。確かに『Emma』は今や見る影もない。
かつて複数あった冠番組は全て終了し、歌番組への出演も激減している。今では新曲のウェブCMやよく分からない企業の広告でしか彼女達を見かけなくなっていた。
「厳しいことを言うけど」
僕は言葉を選びながら続けた。
「今の2人には、正直言って足りないものが多すぎる。歌もダンスも、バラエティでの立ち回りも」
「うっ…結構はっきり言うんだね…」
初歌ちゃんがそう言う。2人は相当食らったような顔をしていた。
「確かに僕が今計画してるグループは、歌が上手くて、ダンスが上手い子ばっかりだよ。でもね、僕は2人みたいな人も必要だと考えてるんだ。」
「というと…?」
「繰り返しになるけど、今の2人は歌唱力もダンス力もない。だけど僕がいる時までは上手だった。あの時みたいに、僕の言うことをちゃんとやれば前みたいに歌ったり踊ったりできる。2人が本当にアイドル人生をやり直す気があるなら、僕はいつでも2人を歓迎するよ。」
そこまで言い切ると、2人の表情がパッと明るくなった。まるで重い荷物を下ろしたかのように、肩の力が抜けているのが分かった。
「嘘…本当に…?」
初歌ちゃんが信じられないと言う表情で聞いてくる。
「うん、本当だよ。」
僕がそう言うと、2人は目を見合わせて小さく微笑んだ。玲奈ちゃんの目には涙が浮かんでいて、初歌ちゃんは安堵のため息をついている。
カフェという場所を考慮してか、2人は抑えた様子だったが、内心では飛び跳ねて喜んでいるのが手に取るように分かった。
***
「あのさ、私達、健人には申し訳ないと思ってるんだ。」
カフェを出てセンター街を歩いている時、玲奈ちゃんが言ってきた。
「どうしたの急に?」
「健人が社長室に呼ばれた時あったじゃん?あの時、私達が『態度が気に食わなかった』とか、『ずっと嫌いだった』とか、思ってもない事言っちゃって。」
「ああ、そんなこともあったね。」
「あの時はあんなこと言っちゃって、本当にごめんなさい。」
そう言って2人は深々と頭を下げる。
「……頭を上げて。じゃあ2人共、どうしてあんなこと言ったの?」
僕は疑問に思って聞いてみる。
「彩葉に『言え』って言われて…本当にごめん。」
「別に怒ってる訳じゃないんだ。本当の事を言ってくれてありがとう。僕はもう気にしてないから、あまり自分を責めないで。」
僕はそう言って2人を宥める。僕がそう言っても、2人はまだ申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「そんなに気にしないで。明後日の26日、ここに来てもらえる?」
そう言いながら、僕は秋葉原のカフェの住所を書いたメモを手渡した。
「分かった。」
2人は互いに顔を見合わせ、決意を新たにしたように表情を引き締めた。
2人と別れて田園都市線のホームで電車を待っている時、僕は今後のことを考えていた。赤塚さんを含めて、これで7人のメンバーが揃った。
長い準備期間を経て、明後日からいよいよ新しいグループが本格始動する。すべてはここから始まるのだ。
電車に乗り込み、電車の窓に映る自分の顔を見つめながら、僕は小さく微笑んだ。きっと、今度は違う結果が待っているはずだ。




