一話
2024年11月18日の昼、僕はいつものようにレッスン室でメンバーたちと談笑していた。
「健人、今日のリハーサルお疲れさま」
綾瀬彩葉が笑顔で声をかけてくれる。
「新曲のダンス、だいぶ息が合ってきたよね」
「そうだね。みんなのおかげだよ」
僕は心からそう答えた。7年前の無名時代から、僕たちは本当の家族のような絆で結ばれてきたのだ。
上原優太が肩を叩く。
「健人がいるから、僕たちはここまで来れたんだ。ありがとう、リーダー」
そんな和やかな午後のひとときを破ったのは、事務所からの呼び出し電話だった。
「乃木さん、社長がお呼びです。至急、社長室までお越しください」
電話を切り、僕は首をかしげた。今日は特に重要な話があるとは聞いていない。新しいCMの件だろうか、それとも年末のコンサートについてだろうか。
「どうしたの?」
彩葉ちゃんが心配そうに尋ねる。
「社長から呼び出し。たぶん、いい話だと思うよ」
僕は軽い気持ちで答えた。社長室の前に立った時、その予感は裏切られた。
扉の向こうから漂ってくる空気が、鉛のように重く、苦しい。まるで葬式の会場のような静寂が支配していた。ノックを3度、返事を待って中に入る。
向かい合わせに配置されたレザーソファの上座に社長と副社長、その横に重役が2人立っている。この陣容を見た瞬間、胸の奥で嫌な予感が膨らんだ。
僕はアイドルグループ「Emma」のリーダー、乃木健人。メンバーが問題を起こせば、最終的な責任は僕にある。それがリーダーとしての務めだ。
「座ってくれ」
社長の声は普段よりも低く、重かった。促されるがままソファに腰を下ろす。誰も口を開かない。壁に掛けられている時計だけが規則正しく時を刻んでいる。
一分が過ぎ、二分が過ぎた。やがて、社長が重い口を開いた。
「乃木」
「はい」
「お前も薄々分かってるだろう。今日呼び出した理由を」
僕は脳内でここ数日の出来事を必死に振り返った。思い当たることは何もない。
「申し訳ありません。思い当たることが…Emmaに関する件でしょうか?」
僕は恐る恐る尋ねた。
「まあ、大体正解だ。だが、問題はお前に関する件だ」
社長は副社長と視線を交わし、何かの合図を送った。副社長が僕の前に厚い書類を置く。
「まずは、これを見てくれ」
そこには見覚えのないメッセージが印刷されていた。綾瀬彩葉へのセクハラメッセージ。文面を読むにつれ、血の気が引いていく。
『彩葉ちゃん、今度二人で食事でもどう?君の可愛い唇を見てると、つい…』
「これは…僕が送ったことになってるんですか?」
「お前の名前で送信されている。違うか?」
「違います!僕はこんなメッセージ、送っていません!」
副社長が次のページをめくった。今度は上原優太へのパワハラメッセージ。
『優太くん、君の歌は下手すぎる。センターから外してやろうか?リーダーの僕に逆らうなよ』
文字が揺らいで見える。心臓が激しく鳴り、喉が渇いた。
「これも僕じゃありません。誰かが僕の名前を騙って…」
「落ち着け」
社長が手を上げた。
副社長が無言でスーツの内ポケットに手を伸ばした。取り出したのはスマートフォンだった。
「これもご確認ください」
低い声でそう告げると、副社長は再生ボタンを押した。
スピーカーから流れてきたのは、確かに僕の声だった。だが、その内容は聞くに堪えない暴言の数々。
『彩葉ちゃんなんて、顔だけのくせに偉そうに…』
『優太くんのダンスは見てて恥ずかしいレベルだ。早くクビにしたい』
僕は思わず身を引いた。僕の声なのに、僕の言葉ではない。いったい何が起きているのか。
「ぼ、僕は言っていません。AIか何かで作らせたんでしょうか?第一、僕は…」
言い切る前に社長が片手をあげた。もう喋るな、という意味だろう。
「お前の声紋分析も済んでいる。99.8%の一致率だ」
「でも、僕は本当に…」
その時、社長室のドアがノックされた。
「入れ」
扉が開くと、そこにいたのは彩葉ちゃんだった。一人だけ。彼女の目は赤く腫れており、泣いていたことは明らかだった。
「彩葉ちゃん!」
僕は希望を込めて彼女を見た。
「僕の潔白を証明してくれるよね?僕がそんなメッセージを送るわけないって」
彩葉ちゃんは僕の目を見ることなく、俯いたまま答えた。
「健人…私、もう耐えられない」
「え?」
「あのメッセージ、本当に健人から来たの。私、とても怖かった」
僕の世界が音を立てて崩れ始めた。
「彩葉ちゃん、何を言ってるんだ?僕は…」
「お疲れさま」
今度はドアの向こうから優太くんの声がした。彼も部屋に入ってくる。その顔には、これまで見たことのない冷たい表情が浮かんでいた。
「優太くん、君も僕を信じてくれるよね?」
優太くんは首を横に振った。
「健人、僕はもう限界だった。毎日のように罵倒のメッセージが来て…」
「そんなの送ってない!僕は君たちを家族だと思ってる!」
次に現れたのは赤坂初歌と湯島玲奈だった。4人全員が揃った時、僕は最後の希望にすがった。
「初歌ちゃん、玲奈ちゃん、君たちは関係ないよね?僕の潔白を証明してくれるよね?」
初歌ちゃんが口を開いた。その声は氷のように冷たかった。
「健人、私たちにもメッセージが来てたよ。『お前たちはEmmaの足を引っ張ってる』って」
「そんなの送ってない…」
僕の声は震えていた。
玲奈ちゃんが続けた。
「それに、健人の普段の態度も気になってた。リーダーって立場を利用して、私たちを見下してたよね」
「見下してなんか…」
彩葉ちゃんが顔を上げた。その目には、これまで見たことのない憎悪が宿っていた。
「ねえ、健人。実はあんたのこと、デビューした時からずっと嫌いだったよ」
僕の心臓が止まりそうになった。
「え…?」
「私だけじゃない。みんなあんたのことが嫌いだった」
血の気が引いて、足元が急に頼りなくなった。これまで信じてきたものが、一瞬で崩れ落ちる音が聞こえるような気がした。
「どうして?僕は…僕はみんなのために…」
優太くんが冷笑を浮かべた。
「お前がグループ最年少で、事務所の新人だったのに、前の社長のお気に入りという理由だけでお前がリーダーになったのが気に食わなかったんだよ」
「そんな…そんな理由で?」
初歌ちゃんが畳み掛けた。
「それに健人の態度も気に食わなかった。いつもペコペコして、媚びてるみたいで」
玲奈ちゃんが最後の一撃を放った。
「7年間、ずっと我慢してたのよ。でも、もう限界」
僕の中で何かが壊れた。
「僕たちは家族だと言ってくれたじゃないか。一緒に夢を追いかけようって、そう約束したじゃないか」
叫んでも、目の前の現実は変わらない。
その重苦しい空気を裂くように、社長が口を開いた。
「まあまあ、愚痴なら飲み屋でやってくれ。乃木、状況は理解できたか?」
僕は震える声で答えた。
「やってないんです。これは全て、誰かの陰謀です」
「証拠は揃っている。メッセージ、音声データ、そして被害者たちの証言。お前にはもう弁解の余地はない」
彩葉ちゃんは立ち上がり、僕を見下ろした。
「条件を2つ出してあげる。このことを公表しない代わりに事務所を自主退所するか、このことを公表して懲戒解雇になるか。選んで」
悪魔のような2択を提示されたが、僕の中で答えは決まっていた。
「やってもいないことを認めるつもりはない。」
彩葉ちゃんが最後に振り返った。
「健人のそういうところ、ずっと大嫌いだったよ」
4人は社長室から出て行った。
僕は現実を受け止めきれずに、涙が頬を伝った。
「あれは本当に僕の知ってる優しいEmmaの4人なんですか?」
「泣くのはあとにしてくれ、乃木。お前は今日からクビだ。手切れ金150万くれてやる。明日からもう来るな。邪魔だ」
僕は怒りを必死に堪えて、社長室を後にした。
廊下を歩きながら、昨日まで信じていた仲間たちの笑顔を思い出した。嘘偽りのない本物の笑顔だと思っていた。だが、今では全て仮面に見えた。
***
「お客様!起きて下さい!」
気持ちよく寝ていたら誰かにたたき起こされた。朦朧とした意識の中で辺りを見回すと、電車の中でドアが開いた状態で停車していた。周囲には誰もいない。終点にでも着いたのだろう。
そういえば、僕は今日久しぶりにやけ酒をした帰り、目に入った電車に駆け込み乗車をしてそのまま寝てしまった。
(終点といっても地下鉄なら歩いて帰ればいいか。)
そう楽観的にいられたのも束の間だった。
「すみません、運転士さん。ここどこですか?池袋ですか?荻窪ですか?それとも方南町とか?」
「お客様、何を言ってらっしゃるんですか?ここは山梨県の大月駅ですよ。」
「え、大月ですか?」
大月って確か、寝過ごした人がたどり着く駅として有名だった気がする…
「すみません、これから東京に戻る電車って、もうないんですか?」
「もうありませんよ。東京方面の電車は21時48分に東京行き最終電車が、22時56分に高尾行き最終電車が発車しました。」
スマホの時計を見てみる。現在時刻は午前1時1分、確かに最終電車が発車してから2時間以上が経っている。
地図で場所を一応確認するが、紛れもなく山梨県だった。これから始発までどうやって過ごそう。