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 (はる)は夢から覚めるとまだ眠い目を擦った。

 夢中の自分を思い出して、今の私とはまるで正反対だな、と皮肉げに笑った。

 洗面所の鏡に向かうと、つまらなそうに浮腫んだ自分の顔が映った。最近気晴らしに肩まで切った髪も、梅雨の湿気を含んで好き勝手に跳ねている。

 髪にアイロンをかけてからリビングへ降りていくと、姉が一人朝食をとっていた。

「おはよう、陽も食べな」

「うん」

 適当に返事をして食卓についたものの、なんとなく食べる気になれずにこんがり焼けたベーコンをフォークで何回かつついた。

「お母さんは?」

「今日は早番だからもうでて行ったよ」

「ふうん」

このところ母親とは進路のことで喧嘩が増えているので、朝から顔を合わせずに済んで少しホッとした。

「もう三年生なんだから、進路だって真剣に考えないと。友達はもう進路を決めて勉強しているんでしょう」

 母親の言葉を思い出すだけで腹の底がムカムカしてくる。陽だって進路について考えていないわけではなかった。やりたいことが見つからずにむしろ悩んでいるのだ。

「食べないの?」

「ごめん、食欲ない」

「そっか」

 姉は仕方ないという風に食卓を片付け始めた。陽はそれを尻目に自室へ戻って制服に着替え、再度洗面所の鏡へ向かった。

 顔の浮腫みはとれたがブレザーのリボンがまがっている。

 鏡で見る自分はいつも不完全だ。その不完全な姿は今の日常そのもののように思えた。悩みはあっても今の日常に概ね不満はないし、むしろこの平凡で波風のたたない毎日が続くことを願う自分がいる。

 しかしその一方で、心の奥底では何か新しい刺激を求める自分がいることも確かだった。だがその刺激が何なのか、それは陽にもよく分かっていない。

 まがったリボンを直して折り畳み傘を鞄に入れ、陽は玄関を出た。

 空は夢に見た曇天とそっくりだった。

 垣根で囲まれた公園を迂回して最寄りの停留所からバスに乗り込む。二十分ほどの道のりだが、車中では読書をすると決めている。陽は読書が好きだ。本に触れている間は余計なことを考えずに済むからだ。

 降車ボタンを押してバスを降りる。このバス停で降りるのはいつも陽だけだ。

「陽ちゃんおはよ〜!」

 Y字路で電車組と合流すると一気に騒がしさが増し、このように話かけられることも少なくない。

「ねえねえ、昨日のドラマ観た?出演してた新人俳優イケメンじゃなかった?」

「うん、イケメンだった」

「だよね〜!やっぱり陽ちゃんは分かってくれるわあ〜」

 実のところその新人俳優は好みではなかったが、陽は話を合わせるために小さな嘘をついた。こうして人に流されることはいつしか陽の癖になっていた。

 彼女と別れ、自分の教室のドアを開ける。教室の喧騒の中、窓際の席についたところでやっと肩の力が抜けた感じがした。思わずため息がでる。

「陽!おはよ!」

「ああ、紗英。おはよう」

 紗英は陸上部のユニフォームを鞄にしまいながら首を傾げた。それと一緒に彼女のポニーテールが揺れる。

「どうしたの、ため息なんてついて」

 紗英は陽の机に腰を預けた。

「ううん、何でもないの」

「そう?それならいいんだけど」

 紗英はしつこく追求することなく一つ前の席についた。

 でも、と紗英が腰を捻る。

「何かあるならすぐ言ってね。陽はため込んじゃうところあるから」

「分かった、ありがとう」

 教室のドアがカラリと軽い音を立てて開かれ、担任の教師が入ってくると、それを合図に出歩いていた生徒たちがそれぞれ自分の席に戻っていく。紗英も捻っていた体を元に戻した。

 朝のホームルームは始まっているが陽は肘をついて外を眺めていた。空を覆う分厚い雲がじわじわとその濃淡の形を変えている。担任が連絡事項を話す声は陽の耳には届かなかった。

 ぼーっとしている間にホームルームは終わり、担任の姿も見えなくなっていた。陽は一限で使う教科書を机から引っ張り出した。

「なにそれ?」

問いかけてきたのは紗英だ。教科書と一緒に引き出された紙切れのことを言っているのだろう。紙切れは机の奥でくしゃくしゃになっていたものだ。陽が今一番見たくないものである。

「進路調査票だ……」

 陽は進路調査票のしわを手で伸ばした。もちろん進路希望欄は空白のままである。

「まだ出してなかったんだ。期限今日までって先生言ってたよ」

「え、そうだっけ」

「まったくもう陽ったら、聞いてなかったの?」

 紗英が呆れたように首を振った。

「どうしよう、私進路なんて全然決まってないよ」

「とりあえず、大学進学とか書いておけば?」

「うーん」

 一応少し考えようとして筆箱からペンを取り出した時、昨日母親から言われた言葉がフラッシュバックした。

「もう三年生なんだから、進路だって真剣に考えないと……」

 一気に腹の底がムカムカしてくる。そんなに追い捲らなくても良いではないか、と反感の気持ちがむくむくと顔を持ち上げた。

「いいや、今すぐ出してくる」

 陽は進路希望欄に乱暴な字で「未定」と書いて教室を飛び出した。

 各クラスのある新棟と、職員室や図書室などの特別教室がある旧棟をつなぐ渡り廊下を一気に駆け抜ける。職員室とラベルの掲げられた部屋のドアをノックして担任の元へ向かった。

「先生、これ出しに来ました」

 走ったせいでくしゃくしゃに戻った紙を差し出す。

「……野咲。もう三年だし、何か少しでも興味あることとかないのか」

 担任は白髪混じりの頭を持っていたボールペンで掻いた。

「すみません。まだやりたいことが見つかってなくて」

「一応受け取るけど、真面目に考えて決めないと。対策が遅れて損するのは野咲だぞ」

「分かってます。失礼しました」

 少し強引に職員室をでた。母親の言葉と担任の言葉が重なる。

 分かってるよ、そんなこと。

 陽はため息をついてポケットから携帯を取り出した。天気の欄を確認すると、明日から本格的に降り始めるようだ。

「はあ……」

 陽はさっきよりも大きなため息をついた。



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