1-3 我らが愛しのバルベイジア通信基地 4
川強ほどザーベオンのハードをいじり回す趣味を持たない縁藤は、バルベイジア通信基地の中を、宛もなく歩き回るほか、やることもなかった。
ぐねぐねとした廊下を、延々と歩き続けている。
歩けども歩けども、ひたすら白い壁が続く。蛍光灯が規則正しく並ぶ。
廊下は、どこまで進んでも似たような見た目であって、方向感覚を狂わせる。
ある種、異様な空間であった。
こんな場所に勤務したがるのがどういう人間なのか、さっぱり分からない。
戦時中の前線基地なのだ。
活気づいていて良さそうなものなのに、進めば進むほど辺りが静まりかえっていくような気がする。
遠方で喧噪は聞こえているのだが、水面を介しているかのように、その音は遠かった。
遠藤はブーツの靴音を響かせ、廊下の真ん中を進む。
歩調は乱れることはない。
傭兵の表情は、ひたすら無表情だった。
半眼の状態で、ただ進む先を見つめながら、とにかく歩いていた。
彼の進んだ後をなぞるように、マントが揺れていた。
「もし、そこのお兄さん」
背後から声をかけられる。
縁藤の足がぴたりと止まる。
縁藤は誰かに話しかけられることを想定していなかった。
だが、廊下には縁藤の他に、歩く人の姿はない。明らかに自分が呼ばれたのだ。
縁藤は一呼吸の間、静止していた。それから縁藤は、ゆっくりと振り返った。
廊下の中程に、小さなテーブルが置かれていた。
ローブ姿の小柄な人物がテーブルの後ろに腰掛けている。テーブルにはタールのような質感のサテンの布がかけられ、その上には水晶が置かれていた。
水晶は微かに明かりを発しているように見える。あるいは目の錯覚だろうか。
「占っていきませんか?」
ローブの人物が音を立てずに縁藤の方を向く。
田舎の女性がやるようにローブを頭から被っているので、体の線が消えているし、顔も影に紛れてよく分からない。
声も、初老の女のようであり、小娘のようでもあった。
だが、問題はそれではなかった。
この廊下を縁藤は歩いていた。三秒前に通過した時には、占い師も水晶玉もなかった。
だが、今、占い師はそこにいる。
縁藤には、周囲の気温が十度ばかりも下がったように感じた。
「占いかい」
縁藤は言いながら、占い師に一歩近づく。
次の瞬間、縁藤のショットガンが占い師に突きつけられていた。抜く手も見せない早業だ。
「すまんの。わてが信じるのは、鉛弾とザーベオンの牙だけでな」
縁藤はショットガンのストックを肩に当てて言った。左手でバレルを支え、右手の指は引き金にかかっている。
占い師は微動だにしない。実弾の入った銃を向けられているのに、何の反応も見せなかった。
沈黙している。
置物じみた沈黙だった。
縁藤も引き金に指をかけたまま、動かなかった。
双方とも、一切動かず、時間だけが過ぎる。
「インチキな手品は好かんのや」
縁藤が薄く口を開いて言う。
占い師は何の反応も見せなかった。ローブの陰から覗く口元には、微笑が浮かんでいる。
まるで、蝋で出来ているかのような微笑みだった。
それを除くと、ローブの下に見えるものはなかった。タールのような黒々とした闇があるばかりだ。
縁藤は舌打ちして、もう一歩占い師に近づく。
ショットガンを右手だけで持つ。一杯に伸ばした腕の先で、ショットガンを占い師に近づけていく。ショットガンの銃口が占い師の顔に迫り、ローブの端にかかった。
縁藤がローブを跳ね上げようとする。
その刹那、辺りが暗くなる。縁藤の頭上の蛍光灯が消えたのだ。何の予兆もなかった。
縁藤は瞬時にショットガンを引き、構えた。ストックを肩に当て、引き金を半ば絞り初めている。
それでも占い師は動かなかった。
薄暗い廊下で、銃を向ける者と、向けられる者が彫像のように固まっていた。
「子供だましなら余所でやるんやな」
縁藤が言う。声が低い。
「まあ、そう言わずに、実際に占ってもらうと、気が変わるかもしれませんよ」
占い師の口が動いて、細い声が言った。
「いいやろ。占ってくれ」
銃を構えたまま、縁藤が呟いた。
「何を使って占いましょう? 手相? カード? 焼いたザーベオンの骨?」
占い師がひっそりと尋ねる。
縁藤は無言のまま、ショットガンで水晶をつついた。
「かしこまりました」
占い師のローブの切れ目から手が染み出てくる。薄暗い中、白くて細い指が水晶の上を這った。
「ほな、占いでわてがどこの誰か当ててみいや。それとも、それはおんしのイカサマには手に余るかいの?」
縁藤が冷たく笑って挑発した。
しかし、占い師の手は止まらずに、水晶をまさぐり続けた。
「まるで……何一つ考えていないような振る舞い」
占い師が絞り出すように言葉を紡ぐ。
「しかし……あなたは心の底につきぬ疑問を感じているのでは……ありませんか?」
「疑問?」
占い師の手の下、水晶の中で黒い何かが渦巻いている。
「持っているのではありませんか? 他人に見せることの適わない……恐れを? 戸惑いを? 疑いを? 深淵としか呼べない、真の闇を?」
水晶が明度を落としていく。縁藤のEUDに闇が映っていた。
水晶に墨汁が滲むかのように黒いものが生まれる。メルシュトロームを描きつつ、広がっていく。
全き黒が、水晶の中央から拡散して止まない。
「疑問か……疑問なら感じとるな……」
壁に伸びた占い師の影が揺らめく。それは広がっていく。
「なぜ、わてらはこれほどまでに孤独なのか。これは乗り越えねばならない試練なのか。さもなければ罰なのか……」
縁藤は言う。語尾が闇に吸われたかのように、掠れた。
「この答えを知らないことには、生きていることの意義など到底分かりはしない……そういうわけなのですね……?」
真っ黒な水晶の中、新たな芽が出る。
光沢持つ、金属の芽であった。
芽は育ち、葉を広げ、茎を伸ばす。成長する。進化する。形を変える。
棘が、節が、筋筒が神経の結線が生まれ、育っていく。
やがて、育った枝同士が重なり合った。そこから血が吹き出る。水晶のそこら中で血飛沫があがった。
みるみるうちに、水晶の内面で血が満ちあふれていく。
血の水面が水晶玉の内面を完全な赤に飲み込まれるまで、幾ばくの時間もかからなかった。
「……たとえ、意義を見つけても、あなたはもう戻って来れないのではありませんか?」
縁藤は水晶から目を逸らし、占い師を見つめた。
右目のEUDが赤い色を反射している。だが、表情は相も変わらず、無表情のままだった。
「本気で撃ち殺すべきかの」
縁藤が平坦な声で言った。
占い師は、やはり動かなかった。
気のせいか、口元の笑みが強まっているような気がする。
気のせいかもしれなかった。
「わてはどこに向こうとる?」
「死に。あなたは死に向かっています」
「人は皆死ぬものや。ザーベオンとは違う。そのぐらい、誰でも知っとる。おちょくるなや」
占い師の両手がローブの中へと引っ込んでいく。
そして、衣擦れの音もたてずに再び出てきた。
「不安で臆病なあなたのために素敵な贈り物をあげましょう」
占い師は何かを握っていた。
「役立てるか、これに食われるかは、あなた次第……」
白い手が何かを縁藤に差し出してくる。
何か、平らな物体を包んだ、小さな布状のもの。表面に文字が刺繍されているのが見える。
縁藤は受け取る素振りも見せずに、銃を構えていた。
「遊撃隊員、縁藤、ここにいたのか」
唐突な男の声。
縁藤はショットガンを構えたまま、眼だけ動かす。
廊下の奥の、蛍光灯の明るみの下、アルデ軍人の孫考が立っていた。
「……どうかしたのか? その銃はどうした?」
孫考がいぶかしんで尋ねてくる。
「気にすな」
縁藤は唇を動かさずに答えた。
「映写室でニュース映画の上映がある。戦況に変化があるらしい。すぐに来てくれ」
「わては占ってもらうのに忙しい」
「何に忙しいって?」
「だから、この占い師に――」
縁藤は眼を占い師に戻す。
縁藤の細い眼が、束の間、見開かれる。
縁藤の前には、占い師も水晶もなかった。
そこには、平らな廊下の壁があるばかりだった。
縁藤が対面していた存在は、忽然と消えてしまった。
「ほう」
縁藤は感嘆したかのような唸りを漏らす。ショットガンをスピンさせて、背中のホルスターに戻す。
傭兵は表情を消すや、その場を後にした。
後に残された、孫考は無言で立ち尽くしていた。