51話 白い衣の少女
どこからか降ってきた声は、汚れた白い布を纏ってオオイノシシの背後に立つ。
「さっきはよくも追いかけ回してくれたな! 元はと言えばお前が野菜独り占めするのが悪いんだ。トアトの二つ三つくらい素直に譲ってくれれば良かったのに。――死ね!」
簡単に作られたフード付きのポンチョコートのような服から伸びた細腕が、軽く横に振られる。
たったそれだけだった。
「プキィィィイイーッ!!」
大きな断末魔の叫びを上げながら、大量の血を撒き散らしたオオイノシシは、ズシンとその巨体を地に伏せる。
倒れたオオイノシシの目からは光が失われ、開いた瞳孔が木にもたれかかって足を放り出すヤヒトを静かに見据える。
「――――し、死んでる?」
状況が飲み込めないヤヒトは、オオイノシシの亡骸を呆然と見つめながら呟く。
どうやら、外腿から腹や背中に向かって深く刻まれた大きな傷が死因らしい。
まるで大きな刃物で切り開かれたかのような傷――。
しかし、オオイノシシを挟んで向かいに立つヤヒトと同い年くらいの少女は剣どころか武器らしい物は何も持っていない。
深く被ったフードやダボっとした汚れたポンチョコートの中に隠し持っている可能性もあるだろうが、もしそうだとしても、隠せるのは短剣くらいのもので、オオイノシシを絶命させるだけの大きな傷を付けるのは難しいだろう。
「――でも魔力強化を使えばあるいは……? いや! そ、そうだ! 君は誰だ? 声の感じからして木の上にいた……。でも、それじゃあこのオオイノシシは!? ここに冒険者は俺しかいないし。ってことは、やっぱりこの女の子が? いやいや、まさか! だってさっきまで木の上で『だずげでー!』って泣いて助け呼んでたのに――」
「それは忘れろ!」
――ドチャッ。
「ぅおあ!」
混乱していたヤヒトは、突然少女に投げられた腕に驚き、ビョンッと跳ねるように立ち上がる。
肘のあたりから千切れた腕は、間違いなくヤヒトのものだ。
未だに盾が握られているのが何よりの証拠。
オオイノシシの突進で後方に飛んでいったはずだが、いつの間に拾ってきたのだろうか。
それに、いったいどこから取り出したのか。
理解の追い付かいないことが立て続けに起こるせいで、ヤヒトの頭はパンク寸前である。
自分の腕を持ったままオロオロとするヤヒトに少女は言う。
「それ、腕の良い回復術師のとこにでも持っていたらまだくっつくかもよ? 町にいんのかは知らないけど。まあ、隻腕でも死ぬわけじゃないから、いいっちゃいいか」
「く、くっつく? ああ、腕? それでわざわざ取ってきてくれたってことか。サンキュー」
「さんくう?」
少女の言葉を聞きながら、盾を握ったまま固まった腕の指を外していく。
まあ、どうせしばらく待っていれば新しい腕が生えてくだろうが、それはヤヒトだからであって、普通ならありえない。
回復術師という職業も初めて聞いたが、医者とはまた別なのだろうか。
後で誰かに聞いてみることにしよう――などと考えて、目の前の大きな疑問から目を逸らそうと考えるヤヒトだが、そう簡単にはいかない。
まず、一番気になることを問う。
「で、そろそろ君が誰なのか聞きたいんだけど? なんで木の上にいたわけ? あ、俺はヤヒトな。アマモリ・ヤヒト。冒険者やってて、依頼でこのオオイノシシを討伐しに来たんだ」
「私か? 私はルーベル! 貴様のような下等生物に名乗る名はない!」
「いや名乗ってるじゃん」
「あ……。うるさい!」
ルーベルと名乗った少女は、顔を赤くして足元に落ちていた枝を拾ってヤヒトに投げつける。
どうやらルーベルは気に障ることがあると物を投げる癖があるようだ。
「ごめんって。それで? ルーベルは何でオオイノシシに襲われてたんだ?」
「ふんっ! それはオオイノシシがトアトを独り占めしてたからだ! あそこのトアト畑は私の縄張りで、村人共に気付かれないように毎日一つずつ採ってたのに、こいつは強欲にも多くのトアトを食い散らかしやがったんだ!」
「それで奪い返そうとしたら返り討ちにあっていたと?」
「まあ、そんなとこだ」
今の内容でどうしてルーベルが威張っているのかわからないが、要はトアト泥棒が同じくトアト泥棒と争っていたということらしい。
それならば、ギルドにルーベルのことを報告したほうがいいのだろうか。
しかし、特にトアト泥棒についての依頼はなかったし、もしかしたらトアトの被害は全てオオイノシシのによるものだと思われているのかもしれない。
ルーベルも村人には気づかれないように採っていたと言っていたし、危ないところを助けてもらった恩もあるのだから、ここは見逃すべきなのだろうか。
「ところで――」
「ん?」
顎に手を組当てて考え込むヤヒトにルーベルが不思議そうに声をかける。
「随分悠長にしてるけど、お前、腕無くなってるんだぞ? このデカいのに結構やられてたし、その、痛くないのか? お前らみたいな下等生物なら腕とか足とかもげたらもっと焦るんじゃないのか?」
「あ、ああ……。それは、まあ、そうだよな。うーん」
まあ、普通ならルーベルの言う通り腕がなくなれば痛みとショックでもっと騒ぐのかもしれないが、治癒能力を持ったヤヒトは、どうせ待てば腕が元通り生えてくることがわかっているし、痛みもピークを越えれば我慢できないこともない。
それに、早めに戦闘が終わったことで制限解除状態もまだ持続しているため、痛みをあまり感じていない。
体力の消耗を抑えられたことで今回は気絶もしないだろう。
ただ、それをどうルーベルに伝えるべきか。
治癒能力を誤魔化すか、それとも素直に伝えるか。
考えた末ヤヒトは、
「――あの、これ内緒なんだけどさ、俺手足もげても治るんだよね」
「は?」
正直なところ、騒がれても面倒なので誤魔化したい気持ちの方が大きかったのだが、こうして話しているうちに治癒が始まってしまったのだ。
どうせこの場を切り抜けるために嘘を並べても、その間に治ってしまったらどっちみち治癒能力のことを打ち明けなければならないのだから、初めから言ってしまったほうがいい。
怪訝な顔をするルーベルが見えやすいように肘から下を失った腕を胸のあたりまで上げる。
話している時点でほぼ収まっていた出血は完全に止まり、千切れて傷付いた皮膚はゆで卵の殻が剥けるように下から新たな皮が貼り、骨や肉、血管や神経などが植物が育つように傷口からニョキニョキと生える。
――前腕、掌、指、やがて千切れた事実など元からなかったように完璧な状態の右手が再生する。
ヤヒト自身、まじまじと見るのは初めてだったが、結構気持ち悪い。
これを初対面のルーベルに見せるのは色んな意味でまずかったのではないかと、配慮を欠いてしまったことを反省しながらチラリと様子を窺うヤヒトだったが、それは驚くことに、全くの杞憂であった。
「貴様! 下等生物と侮っていたがまさか、まさか――!」
「え、何? なんでそんなに目を輝かせてんの? 結構キモかったくね?」
ルーベルは、オニガ村の村民とはまた違った深いワインレッドの目を大きく見開き、治ったばかりのヤヒトの右手をこねたり、叩いたり、擦ったりしながら、まるで本物かを確かめるように触る。
「おい痛いって! せっかく治ったのにまた怪我するって! 何? 何がしたいんだ? おい、ルーベル? ルーベルさん?」
堪らずルーベルの手から逃れるように右手を引くと、つねられて赤くなったところを抑えるヤヒトだが、ルーベルの興奮はまだ冷めていないようで、「痛いのか? じゃあやっぱり本物なんだな?」と言ってまたヤヒトの右手を触ろうと手を伸ばしてくる。
避ける、手を伸ばす、避ける、手を伸ばす、避ける、手を伸ばす――幾度の攻防の末、遂にヤヒトの右手を捕まえたルーベルは、両手で強く握りしめてヤヒトに満面の笑顔を向ける。
「貴様、いや、ええっと、ヤヒトって言ったっけ? 下等生物なんて言ってごめんな! いやー、私も会うのは初めてでさ!」
「『初めて』って、そりゃあ大抵初対面の人と会うのは初めてだろ! あれ? なんか日本語おかしいな。いや、俺喋ってんのって日本語じゃないんだっけ? んなことより、どうして急にそんな態度が急変するわけ?」
「いやいや、ごめんって! 臭いも見た目も人間そのものでさ! それに、まさかこんな所で――同族に会うなんて思わないしさ」




