10話 絶体絶命
リュックの近くには乱暴に折れた戦斧があった。
同じくこれにもベッタリと血の跡が残っており、ボロボロになった刃には大きくヒビが入っている。
その目を覆いたくなるような光景から、先の戦闘の激しさが窺える。
「ギルベルトのだ……。あたしが弱いせいで、せっかくのチャンスを無駄にしてごめん」
リーナはペッカのリュックに折れたギルベルトの戦斧を詰め込んで背負う。
背中の傷も痛むだろうが、それよりも今は心痛の方がよっぽど辛いだろう。
「あとはデュアンさんのだけだな」
「ああ。何か残ってるといいが」
ここまで来てまだ何の役にも立っていないヤヒトは、少しでも力になろうと率先して周囲を探す。
茂みの中、木の陰、岩の裏――リーナから離れ過ぎないように気を付けながら、見落としがないように探す。
そうして歩き回っていると、ヤヒトは見覚えのある渓谷に辿り着く。
「――――ここ、俺がツノグマに襲われたところだ」
「ここが? お前、こんな逃げ道のないところでよく逃げ延びたな」
「ああ、いや、逃げたというか、俺も死んだと思ったんだけど……」
「はぁ? 何言ってんだ? ああ、記憶がないんだっけか。――ん? アレ」
白み始めた空、朝日を反射してキラリと何かが光る。
近寄って確認してみれば、それは、血や泥で汚れた金属の板――――。
リーナであればそれが何か一目でわかる。
「これ、デュアンの盾だ。こんなに離れたところまで……。きっと、ツノグマがあたしの方に来ないように引き付けてくれたんだな。――ありがとう。おかげでなんとか生き延びた。さすがはあたし達のリーダーだ」
リーナの目にはじわりと涙が溜まり、溢れ出した一滴が頬を伝う。
リーナは顔を袖でグシグシと雑に拭うと、盾をそっと抱いて立ち上がり、ヤヒトの方に振り向く。
「じゃあ、戻るか」
そう言ったリーナの顔は笑っていた。
知り合って間もないヤヒトにでもわかる、ひどく下手くそな作り笑いだった。
しかし、それをヤヒトは馬鹿にしない。
長い間共にいた仲間の死を受け入れて、それでも笑って前を向こうとしている彼女は、本当に強い人なのだと思ったから。
それに比べて、自分は何だ。
戦う力も怪我の手当てをする知識もない。
おまけにリーナに無理やり付いて来たくせに、遺品を探すのだってリーナ一人で十分で、精々道中の話し相手ぐらいにしかなれなかった。
元の世界だろうが異世界だろうが、結局自分には何かを変える力はなくて、その時その時の状況に流されて生きていくだけの、退屈で、いてもいなくても誰も困らないような人間でしかない。
「――いや、むしろこっちに来てからは他人の世話になってばかりだな。迷惑かけてばっかな分、より悪質だ」
「おい、何ボサッとしてんだ? 早く戻らないと村長さんたちが心配するだろ」
改めて自分の無能さ加減を思い知ったヤヒトが虚空を見つめてぼんやりしていると、リーナが戻ってきて顔を覗き込む。
不意に目の前に現れたリーナの顔の近さに驚いて、ヤヒトがバッと素早く顔を逸らすと――
「――――ぁ」
それはいつの間にかそこにいた。
僅かな木漏れ日を反射して黒光りする角と爪を持ち、赤黒い剛毛を身に纏った獣――赤黒のツノグマ。
動かず、木々の隙間からこちらの様子を窺うようにジッとしている。
ヤヒトと目が合ったのはほんの一瞬だった。
何十秒、何百秒にも感じられるその一瞬の後、ツノグマがその太い腕を徐に持ち上げる。
これは、直感に過ぎない――
「リーナ!!!!」
「……っ!?」
飛び込むようにしてリーナの体を押し倒し、覆い被さるように自分の身も低くする。
直後、バキバキメキメキと激しく音を鳴らしながら周辺の木々が倒れる。
危機一髪、二人が木と一緒に真っ二つになることは避けられたが、だからと言って危機的状況を抜け出せたかというとそうではない。
「リーナ、大丈夫か!?」
「ああ、助かった。それより、ツノグマか……!」
リーナがこの木々の一掃を経験するのは二度目になる。
そのため、なにが起きたのかはすぐに理解できた。
土煙が晴れれば前回同様、威風堂々たる立ち振る舞いの赤黒のツノグマが一頭。
ヤヒトが気付いた時と変わらず、ここより少し離れた位置から動いていない。
――そう、動いていないのだ。
近寄ることもせず腕を振るうだけで、文字通り必殺の威力の攻撃が放たれる。
「化け物が……!」
堪らずリーナが悪態をつくがツノグマには聞こえたのか聞こえていないのかどこ吹く風だ。
リーナは仲間の遺品を下ろし、短剣を腰から抜き取って戦闘態勢をとる。
隠れる場所も戦う術もないヤヒトは、ないよりマシと足元に落ちている石を手に取る。
「おい! なにやってる! お前は逃げろ!」
「ふざけんな! リーナだってそんな体で戦えるわけないだろ! 俺が手を貸すから一緒に逃げるぞ!」
「ふざけてんのはそっちだろ! このままじゃ二人ともやられる! どうせ冒険者でも何でもない奴がいたって何もできねえ! だからあたしが気を引くからそのうちに――」
「ガアアアアァァァァ!!」
二人の言い争いはツノグマの咆哮によって遮られる。
どうやらツノグマはこちらの意見に耳を貸してはくれないらしい。
ただの一人も逃すまいと、血で汚れた口元から絶えず唾液を垂らしながらこちらに向かって動き始めていた。
リーナは「チッ」と舌打ちをすると、ペッカのリュックを自分のウエストポーチと一緒にヤヒトに押し付け。
「その中に爆火魔石がまだ余ってる! ただの石ころよりマシだ! あたしが指示したら奴の顔面目掛けて投げつけろ! ――――七、六、五」
いきなり出されるリーナからの指示に、爆火魔石がどんなものかわからないヤヒトはあたふたしながらリュックの中を漁る。
リュックの中身は、先の戦闘によるものかそれとも持ち主の性格によるものか、様々な魔石や道具、ポーションでごった返している。
「どこだ! っていうかどれだ!! 」
「――二、一、今だ投げろ!!」
「あーくそ! これで合っててくれぇ!!」
ヤヒトが知っている魔石など、日常の火起こしに使う発火魔石くらいだ。
この世界の常識なのかどうかはわからないが、爆火魔石と言われてすぐに判別できない。
それでも、リーナの指示通りに動かなくては最善を尽くせずに瞬殺だ。
せめて何か行動しなくてはと、リーナのカウントダウンに合わせて橙色をした野球ボール大のそれっぽい魔石を投げつける。
ヤヒトが半ば強引に投げつけた魔石は、突進してくるツノグマの丁度鼻のあたりに当たると――
ドパァンッ!
「ゴァアアッ!?」
火薬の塊が爆ぜたような小規模の爆発がツノグマの顔面を飲み込む。
そうして生まれた一瞬の隙をついて、ツノグマに急接近したリーナは手に持った短剣を力いっぱい突き出す。
「はああああ!」
短剣の切っ先が向かうのは、ツノグマの口。
以前の戦闘では弱点であるはずの腹を狙っても効果がなかった。
弱点の腹でさえ刃が通らないのであれば、毛も筋肉も関係ない体内を狙えばいいとリーナは考えたのだ。
おまけに、短剣にはペッカのリュックから拝借した毒を塗ってある。
通常のツノグマであれば倒すことができなくても、動きを鈍らせることができるくらいの強さの毒だ。
ただ、この赤黒のツノグマに対してはどれくらい効くのかはわからない。
「グゥア――!」
「よし! やっぱ硬いのは外身だけか!」
リーナの狙い通り、短剣はツノグマの口――頬のあたりを穿つ。
まさか口内を攻撃されるとは思っていなかったツノグマは驚いたような声を上げるが、すぐに、そのままリーナの手を嚙み千切るために口を閉じる。
「危ねっ!」
間一髪、腕が持って行かれる前に離脱することができたが短剣を引き抜くことができず、リーナは自分の武器を失ってしまった。
リーナが離脱するのを見計らって、ヤヒトが爆火魔石で牽制する。
「大丈夫か!?」
「ああ、なんとか! でも短剣を持ってかれた!」
「はあ!? じゃあどうすんだよ! 爆火魔石だってもう五個しかないぞ!」
リュックの中にはまだ色々な道具があるが、どれも注意を引くことはできてもダメージを与えるには力不足である。
せめて短剣に塗った毒が効いてくれればいいのだが。
「元気すぎるな……。効かないのか? それともまだ毒が回ってないだけか?」
「なあ、リュックの中って代え武器とかは入ってないのか? こんなにデカいのに」
残りの爆火魔石をポーチに移しながらヤヒトが問う。
「無い。ペッカは戦闘補助が主な役目だから。ペッカの道具の中でも攻撃向けなのはその爆火魔石くらいだったと思う」
その爆火魔石ですら、この赤黒のツノグマ相手ではほんの目くらまし程度にしかならない。
せめて、リーナの短剣のように内側を攻撃できればいいのだが、動くツノグマの口に爆火魔石を投げ入れるのはとても困難だ。
「万事休すってやつか……。リーナ」
「――――」
「リーナ?」
ただの動物とすら戦ったことがないヤヒトが、異世界の魔獣との戦闘において作戦を考えるのはまあ無理な話しである。
この場を切り抜けるにはリーナの経験や発想から考えられる作戦が必要不可欠なのだが、ヤヒトの呼びかけにリーナが答えることはなかった。
不思議に思ったヤヒトが隣に目をやると、
「は!? おい! リーナ!!」
「ハァ……ハァ……」
苦し気な表情で倒れ込んだリーナが荒い息を吐いている。
紅潮した頬に大量の汗を流その姿にヤヒトはまさかと思い、その額に手を当てる。
「熱い……! 病み上がりで無理し過ぎたせいか! 傷口も少し開いてる!! クソ! どうすりゃいんだ!!」
ツノグマは頬に刺さった短剣を取り除こうと、口に手を突っ込んだり近くの木や地面に顔をぶつけたりしていて、まだこちらに追撃を加えにくる様子はない。
まあ、それは急がなくてもいつでも殺せるぞという余裕の表れなのかもしれないが。
リーナはもう戦えないし、逃げることも困難で、隠れることすらできないこの現状。
またあの時のように川へ飛び込もうと考えたが、ここから崖まで走り切る前にツノグマに追いつかれることは確実。
「――――」
何度思考を巡らせても解決策は見つからない。
やがて、カランという金属が石に当たる音がヤヒトの鼓膜を揺らす。
「グルオオオオ!!」
ツノグマの頬に突き刺さっていた短剣が抜けて、地面に落ちた音だった。
つまりそれは、ツノグマの戦闘再開を意味する。
「グゥウウウウ……」
先ほどのように、口内を攻撃されることを警戒してか、なかなか突っ込んでくる気配はない。
そのまま退いてくれればありがたいがそう都合よく世の中はできていない。
睨みつけるツノグマと、爆火魔石を構えるヤヒト――膠着していたのは十数秒。
先に動いたのはツノグマだ。
「グゥオオオオ」
「――――っ!」
片腕を大きく振り上げる動作――原理はわからないがこれは最初に木々を伐採するときにして見せた動きだ。
つまり、距離を詰めなくてもあの腕を振るうだけで周りの木々同様、ヤヒト達は真っ二つになってしまう。
確かにこの攻撃であれば危うく接近して短剣を刺される心配もない。
身を低くして避けることができるのならよいが、先ほどと比べて半分以下の距離、この間合いであればツノグマも外すことはないだろう。
「知能高すぎだろ……」
ヤヒトの口から出た皮肉が通じたのか通じていないのか、その言葉を合図にツノグマの剛腕が振り下ろされる。




