私リナリア80歳、74年ぶりの喧嘩です。
私は長年生きたことで、大したことでは感情の揺れが起きなくなったという自覚がありました。
昔でこそ親友から導火線3cmの爆弾と呼ばれたり、何もしなくても勝手に開くびっくり箱と呼ばれたりしましたが、数十年の時を経て私の導火線もずいぶんと伸びたとそう思っていたのです。今日までは。
「……どうしてくれましょうか」
今の状態でも色々試しました。
どうすれば、この怒りを収められるのか、と。
深呼吸をしてみたり、胸をトントンと叩いてみたり、疲れ果てれば多少なりとも怒りが収まるかと思って、公共馬車も使わずに目的地まで歩いてみたり。
しかし、何をやってもこの体が熱を持つ感覚は収まることなく、それどころか、変に疲れたことでこの怒りの原因であるアホの顔が頭に浮かぶようになり、さらにヒートアップしただけに終わってしまいました。
家仕事ばかりで日に焼けていない筈の私の肌は、何故か茹でた甲殻類のように赤く染まっていますし、おまけと言わんばかりに熱気を発しています。
もし今が冬ならば、私の体からは白煙が上がっていたことでしょう。
……ああ、全く。
本当に、どうしてこうなったのやら。
私は、久方ぶりに見る竜の看板を見上げ、ため息を付きました。
――事の発端は、今から1時間ほど前。
銀行にて発生したとある出来事でした。
最低限の用意をして皆に挨拶をした後、屋敷を出た私は、乗り合い馬車を捕まえて近隣の町へ向かいました。
その名はクラッカー。
大昔は爆竹や花火の生産で有名だったと言われる町で、屋敷が町の外に位置しているのは、その名残なのだと先代さまから聞いております。
ただ、今ではベッドタウンと化しており、活気はございませんが。
……そんなこの町に訪れた理由は、二つ。
一つは、銀行へ預けていた私の貯金を全額引き出すため。
クビになり職を失った以上、この町――というかスミス領内に居る意味はごさいませんので、他の領、もしくは他国へ渡ろうと私は考えました。そのための移動・生活資金として、お金が必要だったのです。
そして、もう一つは、冒険者ギルドを一目見るため。
私がスミス家に拾われたのは、冒険者ギルドでのとある出来事から。つまり、あのギルドはある意味私の原点となった場所。ある意味、リナリア・スカビオサの人生が始まった場所とも言えます。
他国へ渡れば、二度と目にする機会はなくなるでしょうから、どうしても一目見ておきたかった。
家なしの孤児から始まった人生が、家なしの老人として終わる。それはある意味運命的で、物語としては綺麗な終わりなのかもしれません。
けれど、“私”は物語の登場人物ではなくて、一人の人間なのです。
そんな“終わりかた”は嫌ですし、何より、この世界には私の知らないものが沢山ある。仕事があるからと諦めていたことが、今なら何でも出来る。
好きなことをするためには、それ相応のお金が要ります。
けれど、私は74年にも渡る従者生活で、沢山のお金を稼ぎました。それこそ、豪華な船で世界一周旅行をしても、まだ資金は潤沢に余るほどに。
これからは、自分の好きなことをして、この先の短い人生を謳歌しよう。そう、思っていたのです。
――……意気揚々と銀行へ行き全額下ろそうとした私へ、銀行員の方から投げ掛けられた言葉。
それは私の度肝を抜くものでした。
『リナリア様の預金ですが、一月ほど前に全額引き出されております』
何とも気まずそうな彼の口から、そのような言葉が出てきた時には、本当に心臓が止まるかと。
しかも、引き出した記憶が全く無かったので、念のために誰が引き出したのかを調べて貰ったところ、出てきた名前は『ジギターリス・バルタク・スミス』です。
80年生きた人生の中で、本気で人間に殺意を抱いたのは初めてでした。
銀行員の方へ聞いたところ、どうもあのバカは私の代理としてお金を下ろしたという色々と無理のある話が飛び出してきました。
本来、ここの銀行は本人以外が預金を引き出すことは出来ない筈なのですが、ヤツと私が従主関係であることや、当主直々の命令であること、そしてこの銀行が『スミス銀行』であることが災いし、お金を引き出されてしまったようです。
こんなことになるのなら、代替わりした時点で国営銀行へ預け先を変更すべきだったと心底後悔しましたが、もはや後の祭り。
どうしようもございません。
私は、現金引き出しの為の手数料――になるはずだった10000Ce硬貨5枚を、先代さまから頂いた硬貨入れの中へ大切に仕舞い、銀行を後にしました。
これからは、個人でやっている銀行は絶対に信用しないと、そう心に決めて。
そうして、失意のままに向かったのが、今私の目の前にそびえる建物です。
年期の入った土色のレンガと、黒ずんだ木材からなる二階建ての建物は、鮮やかな赤レンガ造りの建物が建ち並ぶ町並みからは、少し浮いていて。
まるで、この建物だけが時代に取り残されたように、重々しくも華々しい、独特な雰囲気を纏っています。
正直、近寄りがたい外見であることは、否定のしようがございません。
けれど。
それこそが、この建物の重要性を演出しているような気がしてなりません。
……気がするだけですが。
さて、無駄話もこの辺りで切り上げるとして、さっとご紹介いたしましょう。
雄々しい竜の頭をイメージした鉄製の看板揺れるこの場所は、特殊依頼仲介・紹介所・ベレネ王国スミス伯爵領クラッカー町支部。
人呼んで冒険者ギルドと、そう呼ばれる場所。
そして、74年前、当時6歳だった私を先代さまに拾っていただいた場所であり――リナリア・スカビオサというメイドの人生が始まった場所でもあります。
私のルーツ、というわけです。
……少しばかり感傷に浸りたい、という気持ちは無くもないのですが、何時までも建物の前で立っていても意味がありません。
悲鳴のような音を上げるウエスタンドアを通り抜けて、ガラガラの受付まで一直線に進みます。
今の今まで、ワリと――クラッカーにしては――騒然としていたギルドが一瞬にして静まったのは、こんな物騒な場所に訪れた老婆に驚いたのか、はたまた私が何者であるのかを精査しているのか。
私はしがない無職の老婆ですよ、なんて。
このような特殊な状況に対して一々物怖じしなくなったのは、長年の従者生活のお陰か、はたまた年の功なのでしょうか。悪いことでないのは確かですし、あまり深く考え過ぎる必要は無さそうてすけれど。
「ごきげんよう。冒険者登録の手続きをお願いしたいのだけれど、大丈夫かしら」
可愛らしい丸眼鏡をかけた少しだけ気弱な感じのする受付嬢へ、私は出来る限り柔らかい表情と声色を作りながら、そう言いました。
歳を取ると、どうにも表情が険しく見えてしまうので、私のような人に仕える職に付く者は若い頃よりも一層気を付けなければならない、とはこの従者業界では鉄則とまで云われています
それが功を奏したのか、彼女は私を怖がるような素振りは見せませんでした。
――が。
「あ……えっと、はい? ――……あ、あの、失礼ですが、ご年齢は……?」
聞き返されては、どうしようもありません。
流石に、いきなり冒険者登録について聞くのは悪手だったのでしょうか。
私とて今年――というか、今日で80歳。
人より元気な自覚はあるのですけれど、老人であることには変わりありません。
そんな、本来ならば隠居しているような人間が、突然冒険者になりたいだなんて言って来れば、困惑するのは当たり前なのかもしれません。
そう考えると、彼女には悪いことをしてしまいました。
ただ、私も昨日までは眠る時間以外はほぼ立ちっぱなしの仕事をしていましたからね。
下手な若者よりも体力はあると自覚していますし、私の場合はある種の『ドーピング』もしているので、鍛えた人間程度の身体能力はありますから、よほどのことでなければ問題はありませんが。
しかし、そんな私の秘密を知らない受付嬢の方は、私の年齢を聞いて眉をぐっとひそめ、少し困惑したような、なんとも言えない表情を浮かべています。
小さな声で『む~』と唸っている辺り、少し混乱させてしまったようです。
そして、ギルド内にある酒場で飲み食いをしていた冒険者たちも、一斉に私へ視線を寄越してきました。
それらは好ましい視線ではなく、敵対心に近しいものですが、正直なところそれはそうでしょうね、という感想しか出てきません。
いきなり見知らぬ老婆がやって来たかと思えば、この仕事は自分にも出来るのだと言っているようなモノなのですから、彼らからすればナメられていると感じるのも仕方がないこと。
故に、こうして怒気を纏った大男が私の方へやって来るということが起きるのも、致し方ないことなのです。
ええ、仕方のないこと、なのですよ。
「……ふふっ」
上手いこと、この男を焚き付けて、自分の実力を示そうだなんて。
これっぽっちも、考えていません。
…………本当ですよ?
「なぁ、婆さん。さっきの言葉、撤回して貰おうか?」
事実を言ったまでなのに、何を撤回するのでしょう。
彼の言葉が何を指しているのか、今一理解しかねますし、適当に言葉を返しておくといたしましょう。
「さっきの言葉とは、一体何の話かしら?」
「とぼけるんじゃねェ! テメェみてェなひょろいババアが俺たちの中でもやっていける自信があるだァ……? 随分と、俺たちをナメてるじゃねえか?」
「まさかそんな。私は自分自身が冒険者として通用すると、そう考えたからここに訪れたのです。それに、私はおそらくあなたよりは強いと、そう思うのですが」
「ァア!? ――少なくとも、テメェみたいな老いぼれより弱いつもりはねェよ!!」
それはどうでしょうか。
彼のような筋肉達磨の脳筋よりも、私の方が弱い、何てことは絶対にあり得ません。怒りに身を任せて突き進む人間ほど、弱いものはありませんから。
こんな安っぽい喧嘩の売り方で食いついてくるのです。
それが、今の彼の格を明確に証左するものになる。
彼はもう少し、視野を広く持つべきです。店の奥に座っているベテランと思わしき冒険者は、私のことなど気にもせず、酒とつまみを楽しんでいます。
このような戦いは不毛であると理解しているからです。
「そこをおどきなさい。私は今から手続きをしなければならないので、あなたに付き合っている時間はありません」
「――おい、いい加減にしろよクソババア。散々俺をバカにしやがって」
「あ、あの。クラウスさん、あまり、揉め事は……」
そんな生産性のないやり取りを交わしていると、ついに筋肉坊やの堪忍袋の緒が切れました。
受付嬢の子は、私たちの争い事を止めようと手をわちゃわちゃさせているけれど、彼女のそんな言葉は、坊やの耳には入りません。
というか、耳に入れるな。
何でも良いから、早く突っ掛かってきなさい。
――……っと、その前に。
サッと周囲を見渡して、もう一度様子を窺います。
見る限りではありますが、他の受付嬢や客は傍観を決め込むつもりのようです。チラチラと私たちの方を見てはいますが、特に動きはありません。
元冒険者だった元同僚から、ギルドで喧嘩が起きるのは良くあることだと聞いていましたが、彼、彼女らの反応からしてそれは間違っていないはず。
おそらく、余程のことが無い限り、介入されることは無いでしょう。
ただ、目の前の受付嬢はやたら慌てた様子でオロオロしています。この様子からして争い事には慣れていないようですし、もしかするとここで働き出してから日の浅い子だったのかもしれません。
もしそうだとすればら彼女には少し申し訳ないことをしてしまいました。筋肉達磨と老婆の喧嘩なぞ、見るに堪えないでしょうから。
――まあ、それはそれとして、喧嘩はするのですが。