王太子宮
王宮行きの日はすぐに決まった。
生誕祭からちょうど十日後の朝。公爵の指示でおもいきり着飾った智花は、家のように大きな馬車の中で車酔いと戦っていた。
一流のメイクも、最高級のドレスも、これでもかと引っ付けられたアクセサリも、智花のげっそりとした顔のせいですべて台無しになっていた。
(気持ちわる……乗り心地が独特すぎる)
この世界の高級馬車はサスペンションの役割を魔法が担っている。衝撃を吸収するたび妙な浮遊感が襲ってくるため、智花の三半規管がひどい悲鳴を上げていた。
かてて加えて、同乗者の顔ぶれが智花の気分を悪化させる。よりによってオリヴィアとバージル。気まずさは頂点に達していた。
「レイラちゃん。大丈夫?」
オリヴィアの問いに答える余裕もない。
「情けないな。シュネーグランツの人間が馬車ごときで酔うとは」
額を押さえてぐったりする智花を見て、バージルが唇を歪めた。
(はぁ? うっさいわ。こちとら馬車なんて生まれて初めてなのよ。イケメンだからって調子に乗んじゃないわよ)
胃がせり上がってくるような吐き気のせいで、口に出す気力はない。
「こらバージル。私達とは違って、レイラちゃんは生まれながらの貴族じゃないのだから。車酔いくらい大目に見てあげなさい」
「……そうか。仰る通りです。配慮が足りませんでした」
オリヴィアに諫められ、バージルは窓の外を見る。
(私達とは違って? 妾の子は馬車にもまともに乗れないって言いたいの?)
言うことがいちいち嫌味ったらしい。直接的な罵倒ではないところがまたいやらしくもある。
見下されるのは嫌いだが、慣れてしまっている。心の中で悪態を吐き、身を縮め息を潜めていれば、土砂降りの雨もいずれは去っていく。我慢できなくなったら、たまにやり返せばいい。智花の身に着けた処世術は、この世界でも通用するはずだ。
「レイラちゃん。殿下の前ではそんなはしたない格好をしては駄目よ? あなたのお母さんは異国から来たただの下女だけど、レイラちゃんはれっきとした公爵家の娘なんだからねぇ」
「はい」
「半分だけとはいえお前にも貴族の血が流れているんだ。家門の名に泥を塗るようなことはするなよ。驕らずして尚へりくだらず。シュネーグランツの家訓を忘れるな」
「心得ております。お兄様」
必死に笑顔を作る智花。バージルは鼻を鳴らし、オリヴィアは意味深な表情でじっと智花を見つめていた。
(異国の下女だとか、半分だけとか。わざわざ言わなくてもいいでしょそんなこと)
とにかく智花は、できるだけ早くこの馬車から降りたいと願うばかり。
「そろそろ王宮だ」
しばらく経ってバージルが言った時、この世界に来てから一番の安堵を覚えた。
(やっと、降りられる)
オリヴィアとバージルに続いて、智花はふらつきながら馬車から降りる。すると、すぐ隣で呆れているバージルが目に留まった。
(なに?)
手を差し出したまま止まっている様は、すこし間抜けに見える。
(ああ。エスコートしようとしたの)
出発時は智花が先に乗って待っていたこともあり、レディの乗降時に男がエスコートするという文化があることをすっかり忘れていた。
(あんたのエスコートなんか要らないけど)
智花はそのまま気付かないフリをして歩き始める。外の空気がこれほど美味しいと思ったことはない。
バージルは唇を引き結んでいたが、特に文句を言うことなく智花を追い越して前を歩く。
「先に行くな。王太子宮の場所もわからないくせに」
「そこらの使用人に聞けば案内くらいしてくれるでしょう」
「僕に恥をかかせるつもりか」
溜息混じりに言うバージル。
そこで智花は、オリヴィアがついてきていないことに気付く。
「母上は王妃様とお会いになるそうだ」
「同席されないのですか?」
「事情により、両陛下はご同席されないらしい」
それを聞いて智花の肩の荷が幾分か下りた気がする。会うのが王太子だけならまだ気が楽だ。
バージルの先導で王太子宮に到着する。巨大な門を通過するとき、歩哨の兵士が智花を見て眉を顰めていた。ボンネットから垂れる長い黒髪は、どうしてもおぞましいものに思われるようだ。
(はいはい。なんとでも思ってください)
むっとして歩く智花だったが、王太子宮の庭園に差し掛かると暗い感情が吹き飛んだ。広大な庭園も見事だったが、それより智花の目を引いたのは大きな湖だった。昼下がりの陽光を受けてキラキラと輝く水面には、飼育されている鳥達が優雅に浮いている。
「リーエン湖。七代前の王が、王太子の誕生を祝して作った人工の湖だ」
バージルの説明を聞き流しながら、智花はリーエン湖をぼうっと眺める。
(ボートでも浮かべて、のんびりできたらいいなぁ)
学生時代はよくボートに乗っていたのを思い出す。貸ボートに一人乗り込み、水に揺られて空を眺め、日々のストレスを洗い流していた。
湖は、智花にとって青春時代の限られた楽しみの一つだった。
無意識に遠い目をしていた智花をどう捉えたか、バージルはふむと鼻を鳴らす。
「気に入ったか?」
「え?」
「王太子妃になれば、この湖はお前のものにもなる」
智花は何も答えなかった。そんなことにはならないと確信していたし、リーエン湖を気に入ったわけでもない。ただ昔を思い出していただけ。
「行きましょう。殿下をお待たせしてはいけません」
「……ああ」
顔合わせの席は、湖の上にかかる桟橋の中間に建てられたガゼボだった。
水上のガゼボは背が高く、桟橋から数十段の螺旋階段を上らなければならない。高いヒールを履いた智花は塔のような階段を見上げてぽかんとしてしまう。
(これを上るの? 嘘でしょ?)
智花の感覚では、五、六階建てのマンションを上るに等しい。
「エレベーターとか、ないんですか?」
「エレベーター? なんだそれは」
「魔法で動く昇降機のような」
「リフトのことか? 外にそんなものがあるわけないだろう」
どうやらエレベーターらしきものはこの世界にも存在するらしいが、なぜか屋外にはないようだ。ともあれ、この階段を自分の足で上らなければならないことには尻込みせざるをえなかった。
「行くぞ」
バージルが差し出した手を仕方なく取る智花。
意を決して階段に踏んだはいいものの、ものの十数段で脚が痛くなってくる。
「この程度で音を上げるな。もうすぐだ」
車酔いに加え、ここまで歩いてきたのも効いている。智花はバージルの手に体重を預けながら、なんとか足を持ち上げる。
(レイラの体、貧弱すぎない……?)
貴族の令嬢ならこんなものなのだろうか。それともレイラがひきこもり体質だからか。これではちょっとした外出すら苦労しそうだ。
(帰ったら筋トレしよ)
そう心に誓いながら階段を上りきる。広いガゼボの中央には、イスとテーブルがセットされており、そこには先客がいた。
一人は王太子ジェラルド。
もう一人は、『銀の乙女』の主人公エリーであった。