バージル・シュネーグランツ
「はぁーあ。なーるほーどねぇ」
自室のソファに腰を落とし、天井を仰ぐ。
「居心地悪いわ、こりゃ」
締まりのない声色でうそぶく智花を、ニコルが怪訝そうに見つめていた。
「なに?」
「あ、いえ。食後のお茶を飲まれなかったなら……お淹れしましょうか?」
「そうね。お願い」
ここ数日。ニコルはなにか理由をつけてはレイラの部屋にいる。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのは助かるし、慣れない場所に一人でいるよりかは幾分寂しさも紛れる。ニコルとの世間話は、この世界の常識や価値観を獲得する助けにもなっていた。
「どうぞ、お嬢様」
ニコルが淹れた紅茶を口に含みながら、智花はお嬢様と呼ばれ慣れている自分に気付いてすこしおかしくなった。
「ニコル」
「はい」
「他のメイド達と一緒にいるのは嫌?」
ニコルは扉を一瞥して、
「……はい」
小さく頷いた。
「みんな意地悪なんです。怒鳴ったり、叩いたり。仕事を押し付けてきたりして。食べ物に虫を入れられたこともあるんですよ」
「それでここに入り浸ってるんだ」
「い、入り浸ってるだなんて……そんな」
「あはは。いいのよ、いくらでもいてくれて。なんだったらここで寝泊まりしたっていいわ。この部屋にはあなたをいじめる奴はいないんだから」
「お嬢様」
ニコルの小動物的な可憐さを見ていると甘やかしたくなる。それだけに彼女の卑屈な目つきは勿体ない。魅力を半減させている。
(私も同じか)
現代日本にいた時も、レイラになってからも、その目つきはちっとも変わっていない。自分自身を誇れないままだ。
(ネカティブね。相も変わらず)
家族の悪意に触れたせいだろうか。
紅茶を飲み終えると、智花はうんと伸びをする。
「美味しかったわ。ありがとう」
「いえ。そんな」
照れ隠しなのか、ニコルは手早くティーセットを片づけていく。
「ニコル。あなた歳はいくつ?」
「先月十四歳になりました」
「そうなんだ。おめでとう」
「へっ?」
「え?」
「い、いえ! ありがとうございますっ。あっ。お嬢様も、お誕生日おめでとうございますっ」
「ふふ、ありがと」
ニコルの年齢を聞いて、智花は内心驚いていた。
(私より十歳も年下。まだバイトもできない歳じゃない)
ニコルが可愛く思えるのも仕方ない。彼女を見ていると、可愛がっていた咲希の妹を思い出す。あの子もちょうどニコルと同じ年頃だった。智花を実の姉以上に慕ってくれていた。
(こんな子が大人の女達にいじめられてるなんて。世も末だわ)
ニコルの目を見ていれば、彼女がどんな目に遭ってきたのか、どんな思いをしてきたのかが手に取るようにわかる。奇しくも、智花も学生時代は執拗ないじめを受けていた。当時の苦痛たるや筆舌に尽くしがたい。未熟な心がどれほど傷つきやすいか、智花は身をもって知っていた。
可哀想だとは思う。けれど手を差し伸べられるほどの余裕はない。智花とていきなりこんな世界に迷い込んでひどく悩ましいのだ。
「そろそろ向かわれますか?」
「ん? どこに?」
「旦那様がお呼びでいらっしゃったんじゃないですか?」
「そうだった」
病み上がりの娘を呼び出すなんて配慮が足りない。
「そっちが来るべきなんじゃないの。まったく」
渋りつつ、智花は公爵の執務室へと足を運んだ。
使用人達はやはり奇異の視線を送りつけてくる。中にはひそひそと陰口を叩く者達もいた。
ああいう類の輩は視界に入れる必要もない。実害がないのならば放っておけばよいのだ。気にして心が乱れれば、それこそオリヴィアの思う壺だろう。今の自分は公爵令嬢なのだから、使用人に何を言われようと胸を張っていればいいのだ。
そう自分に言い聞かせていると、廊下の角を曲がったところでバージルとばったり出くわした。
智花は思わず足を止める。使用人は何を言わずとも道を空けてくれたが、バージルだとそうはいかない。とりあえず会釈をして通り過ぎようとしたところ。
「待て」
背後から呼び止められる。
「お前。何様のつもりだ」
険のある声を投げつけられ、智花は振り返った。
「私が何かお気に障ることでもしましたか?」
「とぼけるな。さっきのことだ。朝食に遅れてきただろう。父上も母上も随分とお待ちだった。だというのに謝罪の一言もないなんて、無礼にもほどがあるぞ」
仏頂面で叱責するバージルを、智花はじっと見上げる。首が痛くなるくらいの身長差があった。
「なんだ? 言いたいことがあるならはっきり言え」
この時智花が考えていたのは、バージルの人物像について。
(イケメンで高身長、家柄もいい。さぞモテるんでしょうね)
『銀の乙女』作中ではエリーは何人もの色男を虜にしていたが、その中でもバージルは群を抜いて優秀だった。十代にして伯爵位を賜り、王太子の信頼も厚く、側近として公私を共にする関係。世の令嬢達の憧れであった。
(でも私は無理。血の繋がった妹を島流しにするような奴よ)
男としても、兄としても、一人の人間としても好きになれない。そう思うのは、智花がレイラを好ましく思っていたからだろう。レイラを酷い目に遭わせる者は、総じて智花の敵である。
「私が病み上がりだとご存じだったのでは?」
「なにが病み上がりだ。へそを曲げて閉じこもっていただけのくせに」
事実がどうであったかは智花にもわからない。けれど、たとえ建前でも心配する素振りくらい見せてもいいのではないか。
「いつになったらシュネーグランツの人間としての自覚を持てるんだ? そんなことだから舐められるんだ、お前は」
一瞬、智花の目の前が真っ赤に染まった。手が出そうになるのを辛うじて耐える。
(誰のせいだと思ってんのよ……!)
使用人達がレイラを軽んじているのは、オリヴィアとバージルがそうであるからだ。メイド達の行いを黙認し、密かにけしかけている節さえある。
(よくもまぁいけしゃあしゃあと)
とはいえ、智花は沸き立つ怒りをぐっと堪えるしかなかった。ここで揉めたところで、智花には何の得もない。
「申し訳ありません。以後、気を付けます」
幾度となく口にした台詞。これくらい慣れっこだ。職場では毎日のように理不尽な叱責を浴び続けていたのだから。
「お父様に呼ばれていますので、これで失礼いたします」
もう顔も見たくない。智花はバージルに背を向けて、そのまま歩き出した。気まずそうにしていたニコルが、バージルに一礼してから智花の後を追う。
(次は呼び止められても無視しよう)
バージルはそれ以上なにも言わなかったが、智花が見えなくなるまで何か言いたげにその背中を凝視していた。
そんなことなど露知らず、智花は肩をいからせてずんずんと歩くのみ。バージルもいけ好かなかったが、公爵には何を言われるのか。
苛立った心持のまま執務室に辿りつくと、智花は深呼吸をしてその扉を叩いた。
「お父様。レイラが参りました」
「入れ」
扉を開けてまず目に入ったのは、窓を背景に立つ公爵の背中だった。逆光の中に浮かび上がるシルエット。その背中は広く、騎士として戦場を駆ける姿を想起させる。
「座りなさい」
振り返りながら、智花の顔を見ることもなく応接用のソファに腰掛ける公爵。
(不愛想ね)
心中で悪態を吐きながら、智花は公爵の対面に腰を下ろした。