公爵家①
この世界にやってきて数日が経った。
眠りと目覚めを繰り返しても、一向に夢から覚める気配はない。
(また朝が来た)
すでに智花は現実を受け入れつつある。咲希の書いた『銀の乙女』の悪役レイラ・シュネーグランツになり代わったのだと。
窓から庭園を眺めていると、ノックの音が鳴った。
「入って」
「失礼いたします」
控えめな声で入ってきたのはニコルである。
「おはようございますお嬢様。お着替えをお持ちいたしましたが、体調はいかがでしょうか?」
「もう大丈夫よ。すぐ着替えるわ」
ニコルはおっかなびっくりとしながら智花の着替えを手伝う。コルセットの締め上げからドレスの着用まで手際よくこなしていくが、これはニコルが特段優秀というわけではなく、着用者の体形に合わせて調節する魔法がかけられているからだ。高価であるため一部の大貴族しか所有できない希少品である。
(持ってる物は高級なのよね)
こうなると外の人間は、家でレイラが虐げられているとは思わないだろう。
着替えを終えた智花はお湯で洗顔を済ます。タオルで顔を拭いていると、ヘアブラシを持ってもじもじしているニコルが鏡に映っていた。
「あなたもこの髪が嫌い?」
「あっ! いえ、決してそのようなことは」
「気を遣わなくていいわ。みんなそうでしょ? ここの人達は」
智花はニコルからヘアブラシを受け取り、自分で髪を梳かす。
意地悪な言い方だっただろうか。ニコルは上手く返答できずにいる。
若き日の公爵がレイラの母を抱いたのも、酒に酔ってのことだった。髪の色もわからないくらい泥酔していたのだろう。母を遠方のカントリーハウスに追いやったのが、公爵に愛がない証拠だ。
「はい。終わり」
智花は鏡を見る。身だしなみを整えたレイラを見つめていると、そのまま吸い込まれてしまうのではないかと錯覚する。その美貌はどこまでも妖しげであった。
「そういえば、お化粧はないの?」
「あ、申し訳ありません。お嬢様は外出の際にしかされないので、今朝は持ってきていませんでした」
「そうだったわね。じゃあこれでいいわ」
そうなんだ、と思いつつお茶を濁す智花。
「朝食はどうなさいますか? 体調が良くなったのであれば、お嬢様を食堂へお連れするよう旦那様に仰せつかっています」
「行くわ」
エマと一悶着あってからも、智花の食事事情は改善されなかった。あれだけで状況が好転するとはもとより思っていない。しかし、流石に何日もまともな食事をとれないと心身共に疲弊する。とにかく温かいご飯にありつくべく、智花は家族との食卓へ足を運んだ。
(いつまでも部屋に籠ってるわけにはいかないか)
憂鬱でも行かざるを得ない。
溜息を押し殺し、智花は重たい足を必死に動かした。
食堂への道中。屋敷の回廊で出会う使用人達は、挨拶どころか会釈の一つもしない。みな智花を一瞥しては眉を顰めてすれ違っていく。
(予想してたとはいえ、気持ちのいいものじゃないわね)
エマのようにあからさまな悪意を向けてくる方がまだ対処のしようがある。智花を遠巻きにする使用人達は、いじめを見て見ぬふりをする傍観者のようだった。
(娘がこんな扱いを受けているってのに、父親は何をやってるのかしら)
小説では語られていなかったが、レイラは庶子であるらしい。公爵家の下働きだった母が、酒に酔った公爵のお手付きとなって産んだ娘だ。
下女として育ったレイラは、共に働いていた母が病に倒れたことをきっかけに父に認知され、令嬢としてシュネーグランツ公爵家に迎えられた。
精霊信仰に関する宗教的権威を持ち、高い政治力で国の舵を取る国王の右腕。それが現当主シュネーグランツ公爵である。
(って小説には書いてあったけど)
咲希が綴った『銀の乙女』は、主人公エリーと王太子ジェラルドを中心に描かれていたため、公爵にはあまり言及されていなかった。それ故、熱心な読者であった智花も彼の人物像についてはよく知らない。
(レイラのお父さん、か)
もうすぐ顔を合わせるかと思うと、変に緊張してしまう。
自室を出てからどれくらい歩かされただろうか。一キロメートルは歩いたような気がする。足が疲労を訴えてきたくらいで、ようやく食堂に辿り着いた。
「レイラお嬢様がいらっしゃいました」
開け放しの扉から中に入ると、すでに数人が卓についていた。創作物でよく見る無駄に長いテーブルがあるかと期待したが、存外ただの大きな食卓だった。
「来たか」
上座の公爵が短く口にする。
彼の姿を目にした時、智花は内心目を見張った。雪のように輝く銀の髪。瑠璃色の双眸。厳格な雰囲気を纏う堀の深い顔立ちは、三十代後半とは思えないほど精悍かつ若々しい。
「どうした。早くかけなさい」
「はい」
ニコルが引いた椅子に腰掛ける。末席だ。目の前にはクロワッサン、オムレツ、チーズ、サラダなど、前世でも目にした料理が並んでいた。
(まるでホテルの朝食。咲希の好みかしら)
実際の西洋貴族の文化とは異なるだろう。時代考証も不明だ。とはいえこの世界を作ったのが咲希ならば、現代日本的な感覚が散りばめられていてもおかしくはない。
「久しぶりに家族全員が揃った。では、朝の祈りを捧げよう」
公爵が言うと、食卓につく者と壁際に控える使用人達が一様に居住まいを正し、右手を胸元に添えた。なんとなくそれに倣う智花。前世で培った空気を読むスキルが役に立った。
「万物を読む精霊よ。もたらされた朝に誓いを。祝福に賛美を」
公爵の声祷が食堂に満ちる。
「命を調べる精霊よ。与えたもうた恵みに感謝を。慈しみに返報を」
作中で目にしたフレーズ。
「すべて精霊の意のままに(ノア・エレメンタール)」
公爵が締めの句を紡ぐと、列席者が唱和した。智花の口からも自然とその句が出てきた。レイラの体が憶えているのか、あるいは作中で何度も読んだおかげか。
公爵が食事を始めたのを見て、智花もナイフとフォークを取った。
精緻な装飾があしらわれた銀製のカトラリー。こういうところからも公爵家の権勢が窺える。
(おいしい)
ようやく美味しいご飯にありつけた。今だけは憂鬱を忘れ、智花は目の前の料理に没頭する。
「体調はもういいのか?」
しばらく食器の音だけが鳴っていたところ、唐突に公爵が口を開いた。口では心配しているが目線すら寄こさない。
「はい。ご心配をおかけしました」
「快復したのならいい」
この上なく素っ気ない。これが実の娘に対する態度でよいのだろうか。
(レイラが公爵を頼らないのも納得だわ)
そもそも彼は娘に関心がないようだった。レイラが助けを求めても空振りに終わるのは目に見えている。
「ダメですよぉパトリック。レイラちゃんが体調を崩したのはあなたのせいなんですからねぇ」
公爵を諫めたのは、間延びした柔らかな声。次席の第一夫人オリヴィアである。
「あなたがレイラちゃんの誕生日パーティを開いてあげなかったせいで、ショックを受けて寝込んでしまったんですから。そうよねぇ? レイラちゃん」
眉を下げて心配しているような面持ちだが、その裏にある攻撃の意志を智花は敏感に感じ取った。
(うわぁ。いかにもって感じ)
公爵と同じく、オリヴィアもまた年齢の割に若々しい美女であった。金糸を編んだようなブロンド。宝石をちりばめた装飾品。たおやかな物腰と、常に微笑んでいるような面持ち。その裏に隠し持った刺々しさ。まさに貴婦人を体現したような女性であった。