憑依
人は死の瞬間にそれまでの人生を走馬灯のように回想するというが、この状況はそんな次元の話ではない。
そもそも智花の記憶に、西洋ファンタジーじみた趣の部屋は存在しない。天蓋付きのベッドも、クラシックな調度品も、憧れたことすらない。
ならばこれは、死の直前に見るひと時の夢だろうか。
「どういうことなの」
鏡の中にいるのは、腰まで伸びた艶やかな黒髪と、磨き上げた黒曜石のごとき瞳の見目麗しい少女。困惑の表情は、智花の内心をそのまま表していた。
「レイラ・シュネーグランツ」
透き通ったアルトボイス。慣れ親しんだ声との差異に違和感を覚える。
鏡とにらめっこを始めてからどれくらい経っただろうか。唐突に部屋の扉が開かれ、一人のメイドがずかずかと部屋に入ってきた。
「まだ着替えてなかったんですか」
その言葉で初めて、自分が寝間着姿なのだと気付く。
「さっさと着替えて顔を洗ってくださいよ。あんたが朝食に遅れて咎められるの、あたしなんだからね」
二十歳くらいだろうか、赤毛のメイドは不機嫌そうに眉をひそめ、抱えていた湯桶のテーブルに置く。その手の甲には古い傷跡があった。
「ほら早く!」
早くと言われても、何が何だかわからない。
赤毛のメイドは反応が返ってこないことに苛立ち、呆然と立ち尽くす智花の手首を掴んだ。
「痛っ」
無遠慮に引っ張られ化粧台の前に座らされると、濡らしたタオルで顔を拭かれる。その手つきもまた乱暴であった。智花は反射的に身をよじるが、それがメイドの神経を逆撫でしたようだ。
「ちょっと! 動かないでったら!」
手首を握りこまれ、一層強く顔を拭かれる。未だ混乱の最中にいる智花は、ただ耐えるしかない。
それが終わったかと思うと、今度はぽいっとヘアブラシを投げ渡された。
「えっと……」
おずおずとヘラブラシを取る。いかにも高級そうな造りだ。
「早くしなさいったら。それともなに? その気持ち悪い髪を人に触らせようっての?」
汚物でも見るかのようなメイドの目つきに、智花はますます混乱した。
(気持ち悪い? こんなに綺麗なのに)
黒絹のように艶やかで、窓から差し込む陽光を艶っぽく映す様は、誰もが羨む美の象徴ではないか。
だが、『銀の乙女』の舞台であるスピリタス王国では、黒い髪は忌避の対象とされている。メイドの反応はその設定に忠実であった。
煮え切らない感情を言葉に出来ずにいると、開け放しだった扉から別のメイドが顔を覗かせた。
「ねぇ。まだなの」
急かすような調子だ。
「だってー。このカラスがちんたらしてんだもん」
赤毛のメイドが答えると、扉越しのメイドが舌打ちを漏らす。
「もう体調不良ってことにしておいたらいいんじゃない? 連れてくのも面倒でしょ。あとはあの奴隷に任せればいいじゃん」
「また~? 流石に多すぎじゃない?」
「いいっていいって。どうせ誰も気にかけやしないし」
メイド達はくすりと笑い合って、智花を一瞥する。
「じゃあ、そういうことで」
浮ついた声を残して、赤毛のメイドは部屋を後にした。湯桶とタオルはそのまま。
「なんなの」
静寂の中で呆然自失とした後、我を取り戻した智花は先程の出来事を反芻する。
なんと失礼な態度だろうか。智花はメイドを雇ったことはないが、さっきの態度が召使として適切でないことくらいは分かる。
苛立った心のまま、智花はベッドに倒れ込む。最初はふかふかとした感触を楽しんでいたが、すぐに立ち上がり、所在なさげに部屋を見渡したりうろうろしたりを繰り返していた。
「夢……にしてはリアルよね」
窓の外に広がる広大な庭園を見下ろす。整然とした生垣。色とりどりの花々。白亜の像。ガラス張りの温室。西洋ファンタジーの大貴族らしい風情だった。
「小説の世界に来た……レイラに憑依したってこと?」
現実味のない考えだが、この身に起きたことは否定できない。
(ビルから飛び降りたはずなのに)
あの時の恐怖を思い出し、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
自分からすべて投げ出しておきながら、未練たらしく生きたいと願ってしまった。最後の最後までろくでもない人生だった。
「あーやだやだ」
押し寄せる後悔の念から逃げるように、智花は部屋を物色し始めた。考えようによっては、ファンタジーの世界を体験できるなんて類稀な幸運ではないだろうか。
(とういうか……この部屋、広すぎない?)
部屋を一周するのに百歩ほども必要である。狭いワンルームで一人暮らしをしていた身としては、落ち着かないことこの上ない。
ベッドやソファ、テーブルなどは無駄に大きく、ところどころ配置された調度品は装飾過多である。だが手入れが行き届いていないのか、よく見るとそれらは汚れたり痛んだりしているようだった。それでも貧乏性の智花からすると、贅を尽くした感は否めない。
(まぁ、私みたいな庶民とは価値観が違うか。なんたって公爵令嬢だものね)
シュネーグランツ公爵家は、スピリタス王国における四大家門の一つだ。その財力は並の貴族とは比べ物にならない。『銀の乙女』作中では、レイラは贅沢を好む欲深い悪女として描かれていた。この部屋はそれを象徴しているのかもしれない。
「あれ? この机」
ふと、部屋の隅に置かれた白いデスクが目に入った。造りこそ綺麗だが、他の家具とは違って簡素なデザインだ。なんとなく気になって、そのデスクに吸い寄せられるように腰掛ける。
この体が憶えているのだろうか。考えるまでもなく、智花は引き出しにはめ込まれた宝石に触れた。すると指先に淡い光が生まれ、引き出しの鍵がかちゃりと開いた。
「わ。これって魔法?」
作中でも度々描かれていた魔法の存在。実際に目にすると感慨一入である。
人間の魔力は一人一人異なる性質を持っており、専用の魔石に登録することでその人物にしか開けられない錠となるのだ。現代でいう指紋認証のようなものだろう。
ひとりでに開いた引き出しの中には、数冊の本が詰め込まれていた。そのうちの一冊を開いてみる。
(これは、レイラの日記?)
ページ毎に年月日が振ってある。その日の出来事や、レイラの心情などが記されているようだ。
一抹の好奇心と、この状況を理解する手助けになるかもしれないとの思いから、智花はその日記をじっと読み始めた。
数ページほど読んだところで、智花は表情が険しくなっていくのを自覚する。
「なによ、これ……!」
内容の大部分を占めていたのは、公爵家におけるレイラの不遇。そして嘆きと悲哀の吐露だった。