生還
レイラは冷たい水の中で目を覚ました。
水面に叩きつけれらた衝撃で意識が飛んでいたらしい。幸い水は飲んでいなかったが、呼吸を止めていたことによる息苦しさがレイラに危機感を抱かせた。
空気を求めて懸命に手足を動かし、やっとの思いで水上に顔を出す。
「レイラ!」
すぐに手が掴まれた。それを支えに、レイラは咳き込みながら何度か息を吸った。
「大丈夫か? 水を飲んだのか?」
声の主はバージルだった。彼はしゃがみ込んでレイラの手をしっかりと掴んでいる。
(え、なに? 忍者なの?)
呼吸が落ち着いてきたところで、バージルの足が水面についていることに驚いた。ほのかな魔法の光を靴に纏わせて、彼は文字通り水の上に足をつけていた。
「引き上げるぞ」
バージルは手をぐっと引くと、自身が濡れるのも厭わず、ずぶ濡れのレイラをそのまま抱き上げた。それから水上を歩き、とんと跳び上がって桟橋の上に立つ。息を乱した妹の状態を無表情で確認すると、高所のガゼボを仰いだ。
その視線の先には、柵から身を乗り出して様子を窺うジェラルドとエリーがあった。
(あんな高さから落ちたんだ。よく無事だったわね)
いくら水に落ちたと言っても、高さ十五メートルはあろう位置から落ちれば大怪我は免れない。
レイラが湖に落ちたことを、周囲の者達も見ていたようだった。何事かと庭園から何人もの庭師や使用人が集まってくる。
人目を気にしてか、バージルは自身の上着を脱いでレイラの肩にかけた。
「あ、ありがとう」
「嫁入り前の娘がそんなみっともない姿を晒すんじゃない。家の名に傷がつく」
殊勝な感謝に、ぶっきらぼうな返事。
(は。なによそれ。かわいくないなぁ、年下のくせに)
ようやく呼吸が整ってくると、体にも力が戻る。そろそろ下ろしてくれと言おうとしたところで、バージルは踵を返してもと来た道を戻り始めた。
「馬車に戻るぞ。荷物の中に毛布があったはずだ」
「待ってください」
「なんだ。そのままじゃ風邪を――」
「帰るなら殿下に一言ご挨拶を申し上げないと」
「……もういいだろう。それどころじゃない」
「いいえ。このまま曖昧にしておきたくはありません」
レイラはバージルの腕からぴょんと飛び降りる。不思議と全身に活力がみなぎっていた。その感覚を確かめるように、髪やドレスから水を滴らせながら一つ一つ歩みを進める。
「せめてタオルを」
「結構です。すぐ済みますので」
螺旋階段の前に立ちガゼボを見上げると、間の抜けたジェラルドの顔が小さく見えた。
(見れば見るほど腹立つ顔だわ)
裸足で桟橋を踏みしめ、両の拳を握り締め、できる限り大きく息を吸い込んだ。
「耳の穴かっぽじってよく聞きやがれッ! バカ王子!」
何を言い出すのかと、バージルが顔をひきつらせた。同時に両耳を手で塞ぐ。
「だーれがてめぇなんかと結婚するか! チョーシ乗ってんじゃねーぞ勘違いヤローッ!」
渾身の怒号は、ガゼボはもちろんのこと、湖上から庭園まで王太子宮の隅々までを震わせた。ガゼボの骨組みはビリビリと振動していたし、湖には大きな波紋が生まれ、驚いた鳥達が一斉に飛び立っていった。庭園では、いくつかの花弁がぱっと散り落ちる。
レイラの口から出た声は、拡声器を通したかのようにジェラルドの耳をつんざいた。呆気に取られる彼の隣で、エリーが口元を押さえて驚いている。
今一度の深呼吸。やりきったとばかりに一息を吐く。
「さあ、参りましょう。お兄様」
先程の威勢が嘘のように、優雅な立ち振る舞いを演じるレイラ。顔を上げ胸を張ってすっと歩く様は、まさに公爵令嬢の所作であった。
その変わり身の早さに、バージルはひと時呆けていたが、すぐに我に返り追いかける。
「レイラ。履物を……」
「かまいませんわ。カラスが裸足でいたところで、気に留める人はいないでしょう」
「足が汚れるじゃないか」
「洗えばいいだけです」
頑な妹に、バージルはそれ以上なにも言えなかった。
去り行く兄妹の背中を見送るジェラルドは、目の前で何が起こったのか、何を言われたのか理解できずにいる。エリーの方がよく状況を把握できていた。彼女は銀狼の毛並みを撫でながら、婚約破棄の現場を目の当たりにして些か興奮していた節がある。
周囲の侍従らは、とんでもない場面に出くわしてしまったと我が身の不運を密かに嘆いていた。
「ねぇ。ちょっといい?」
昼過ぎの空の下。玄関先の吐き掃除をしていたニコルは、背後からかけられた声にびくっと肩を震わせた。語気の強い責めるような声色だった。
振り返ると、数人のメイドが居丈高な様相でニコルを見下ろしている。
「あんたさぁ。最近よく仕事サボってるでしょ」
ニコルは箒をぎゅっと握り締めた。
「あ、あの。サボっているわけじゃ」
「なに? 口答えする気?」
「……ごめんなさい」
弁明の余地もなくニコルは目を伏せた。いつものように殴られるのだろうと、体を強張らせるのみ。
「まぁ待ってよ」
威圧的なメイド達を止めたのはエマだ。彼女は柔和な声と微笑みでニコルの前に立つ。
「サボってるわけじゃなくて、カラスの世話をやらされてるのよね?」
ニコルは否定も肯定もしない。令嬢を悪し様に言うことには抵抗があった。
「ほんと災難よね。専属メイドみたいなものでしょ? 代わってあげたいのは山々なんだけど、あたしったらちょっとしたミスで機嫌を損ねちゃってさ。顔も見たくないって言われちゃった。酷くない?」
悪意のなさそうな笑みにつられ、ニコルも愛想笑いを漏らす。
「それでさぁ。ちょっとお願いがあるんだけど」
エマが体を寄せ、ニコルに耳打ちする。
「あの部屋からお金になりそうなもの。ちょこっと持ってきてくれない?」
「えっ」
「あなたなら簡単でしょ。カラスが寝てる時とか、出かけてる時にくすねるだけでいいんだから」
「くすねるって、そんな」
レイラには同じ部屋で寝泊まりしてもいいと言われた。ニコルはその心遣いが嬉しかったし、多少なりとも信頼の証であると捉えていた。
(お嬢様の物を盗む? そんなことできっこない)
ニコルにも良識がある。それにもし令嬢の財産に手をつけたことが知れたら命はない。文字通り首を斬られてしまう。
「大丈夫」
エマの声は優しかった。
「あたし達には奥様がついてるじゃない。今まで一度だって咎められたことないし。ここにいる皆だってそうよ?」
数人のメイド達は、各々の表情を浮かべている。誇らしげな者。可笑しそうに笑む者。後ろめたそうな者。
「あんなにたくさんあるんだもの。少しくらいなくなっても気付かないわよ」
「でも……お嬢様のものをくすねるなんて」
「お嬢様?」
エマの声が低くなった。
「忘れたの? あんただってあのカラスにさんざん酷い目に遭わされてきたじゃない。今だってどうせ気まぐれで傍に置かれてるだけ」
エマの言う通り、レイラに優しくしてもらえたのはたかだが数日間。数年間の粗雑な扱いを忘れたわけではない。
「ねぇお願い。あたし達、仲間じゃない」
ニコルの鼓動は痛いほど速くなっていた。ここで断れば、エマ達は何かしら理由をつけてニコルを攻撃するだろう。もしかしたら公爵家から追い出されるかもしれない。そうなれば、また奴隷商に売り払われることになるだろう。どちらに転んでも待っているのは破滅だった。
「すこしだけでいいの。そしたら、休みの日にみんなで出かけて、美味しいもの食べて、綺麗な服を買いに行きましょう」
そんなことにはならない。エマ達は良家の娘だ。奴隷を連れて街に行くわけがない。ニコルは体よく利用されるだけ。
「ね? 大丈夫。何かあってもあたし達が庇ってあげるから」
すでに逃げ道はなかった。目をつけられた時点で、未来は決まっていた。
「わかり……ました」
微笑みの皮を被った悪意に、ニコルは屈した。
「ありがとう」
満足そうに口の端を吊り上げたエマは、ニコルの二の腕に馴れ馴れしく触れる。
「じゃ、今から行ってきて」
「今からですか」
「王宮に行ってるから夕方まで帰ってこないわ。今のうちに持ってきてよ。ほら、掃除は代わってあげるから」
エマに箒を引っ手繰られた。
「ほら。早く行かないと帰ってきちゃうわよ」
「……はい」
ニコルは僅かな抵抗も諦めて、逃げ出すようにレイラの部屋に向かう。
後ろからくすくすと、メイド達の笑い声が聞こえてきた。
「奴隷のくせに」
囁くような悪口が、ニコルの薄い胸を抉る。
自慢の耳が、今だけは恨めしかった。




