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カラス令嬢は幸せになりたい  作者: 朝食ダンゴ


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12/20

レイラ・シュネーグランツ

 レイラが生まれ育ったのは公爵邸の旧館だった。

 広大な敷地の片隅に建つ老朽化した館。そこは汚れ仕事を担う亜人奴隷達が住まう場所。

 レイラの母は下女として、亜人奴隷達を管理し束ねる役目を負っていた。閑職である。日陰の仕事を懸命にこなす母のもとで、レイラは健やかに育った。

 ネズミが駆け回り虫が湧く旧館で、幼いレイラはお下がりのメイド服を着て労働に従事していた。給金は雀の涙ほど。他の使用人からは見下される。母娘は奴隷ではなかったが、周囲からは奴隷に等しい扱いを受けていた。

 けれどレイラは幸せだった。大好きな母と共に暮らせることがなによりの喜びであった。なにせレイラには意地も誇りもない。物心ついた時から奴隷の中で働き、ただ真っすぐに務めを果たすのみ。過酷な環境の中にあって、自身が恵まれているのかそうでないのかもわからいので、蔑視も重労働も当然の日常として受け入れていた。

 しかし、レイラが十一歳になるすこし前のこと。母が病に倒れ、療養のため別荘地へと送られた。もちろんレイラは母の傍にいることを望んだが、流行り病の疑いがあると説かれ同行は許されなかった。

 十一歳の誕生日に公爵に認知され本館に招かれた時、レイラは初めて会った父を恨んだ。母と引き離した張本人を好きになれるわけもない。

 後々になってレイラは、公爵がレイラを令嬢にする機を窺っていたと理解した。バージルの出産で生死を彷徨ったオリヴィアは、第二子を産める体ではなかった。だからレイラを認知し、家門の一員にしたのだろうと。レイラは自身が政略結婚の駒であると悟り、失意の淵に落ちた。

 ある日突然令嬢になったレイラを受け入れた者は多くない。不吉な容姿はもとより、下女の出身であったことや、公爵の不干渉やオリヴィアの牽制などが相俟って、使用人達のレイラに対する風当たりは日ごと強くなっていった。

 教育を受けて社会を学ぶと、自分の立ち位置が見えてくる。今までいかに冷遇されてきたか。そして今いかに虐げられているか。

 母だけを拠り所として生きてきたレイラは、多感な時期に一人ぼっちになったことで、日に日にひねくれていった。

 ただ一つの楽しみが母との文通であった。母はしきりに幸せになりなさいと書き伝えており、希望の糧となっていたが、それも長くは続かなかった。病状が悪化し手紙さえ書けなくなってしまった母をよそに幸せになれるはずもない。母の快復を、レイラはただ精霊に祈るばかり。

 母とのつながりがなくなっても日々は続いていく。幼い心を守るため、レイラは公爵令嬢という地位に固執する他なかった。時に衝動的に暴れ、使用人には暴言を吐き、また関心を引くために仮病を使ったり故意に怪我をしたりした。

 だが、そんな言動はむしろレイラを孤独にした。子どもの浅知恵を真に受けるような者は、公爵家には一人としていなかった。

 そしてついに、レイラは母の訃報を聞く。

 涙が枯れるまで泣いた。喉が千切れるほどに叫んだ。

 それはまさに絶望だった。いつの日かまた母の腕に抱かれることだけを希望に生きてきたレイラの、心の死であった。

 レイラに遺されたのは、幸せになりなさいという母の願いだけだった。

 それがレイラの生きる理由になった。母の慈愛は、呪いのようにレイラをこの世に縛りつけた。

 悪役令嬢レイラ・シュネーグランツは、こうして誕生した。




 気付けば智花はレイラの部屋に立っていた。

 意識はどこかおぼろげで、けれど思考ははっきりしている。

「あ……」

 壁際の姿見に映るのは、レイラではない。

 くたびれたスーツを着た二十四歳の智花本人だ。

「あはは。レイラと比べると、全然だなぁ」

 黒い髪。黒い瞳。共通点はそれだけで、気品も美しさもまったく及ばない。

 艶やかな髪。玉のような肌。豊かな胸。細いウエストと長い脚。身分と財力。

 智花にないものを、レイラはなんでも持っている。

(それでも私達は、似た者同士)

 日記の隠し場所である魔法のデスクに、小柄な少女が座っている。公爵家に入ったばかりの十一歳のレイラ。その後姿は儚げで今にも消えてしまいそうだ。

「……レイラ。どうしてあなたは悪女になったの?」

 心のままに尋ねてみても返事はない。

「精霊様。精霊様」

 その代わり、レイラは祈りを口にした。

「どうかお願いします。私を幸せにしてください」

 擦れた声。智花にはすぐに分かった。大泣きした直後の声だと。

(幸せ……幸せか)

 それは智花が諦めて久しいもの。

 期待をしても傷つくだけ。人生なんてこんなものだと、惨めな自分にずっと言い聞かせていた。

「精霊様。精霊様」

 次に祈りを口にした時、レイラはいくつか成長していた。背が伸び、声は幾分大人っぽくなっている。 

「どうしてこんな目に遭わなければならないのですか? 私は幸せになりたいだけです。それだけなんです。どうすれば幸せになれますか? 教えてください。どうか教えてください」

 手を組み合わせて念じるレイラ。その声には、彼女を責める苦痛と不条理への怒りが滲んでいた。

「レイラ……あなた」

 似た者同士だと、そう思っていた自分が恥ずかしい。

 彼女はやはり智花にないものを持っている。

「精霊様。精霊様」

 三度目の祈りが聞こえると、レイラは智花が憑依した十六歳の姿になっていた。

「私は必ず幸せになります。たとえ精霊様が私を見放しても。どんな酷い目に遭っても。どんな犠牲を払っても。この人生をかけて、必ず。世界中の誰もが羨むくらい、幸せになります」

 その言葉には、何かを頼みにしたり縋ったりするような響きは一切なかった。ただ悲壮なまでの決意だけが智花の胸を打った。

「でも……すこしでも私のことを見ていてくれるなら」

 それを祈りとするのは、レイラの純粋な信仰心からくるものだろうか。

 智花はぐっと唇を引き結んだ。

「精霊様。精霊様。どうか私の願いを聞いてください」

 最後の祈りを聞き届けると、智花は背中からレイラを抱きしめた。

「あんたって子は、ほんと……」

 智花は自分の声が震えていることに気付き、涙ぐんでいるのも自覚した。

 レイラにあって、智花にないもの。

 幸福への執念。貪欲。諦めの悪さ。

 レイラは決して死を選ばなかった。すべてを踏み台にして、たとえその先に破滅が待っていようと、必死で幸せを追い求めた。

 もし仮に、追放後もレイラの物語が続いたとして。

 きっと彼女は、暗く冷たい牢獄の中で幸せを願うのだろう。

 生きて、生きて、生き抜いて。非業の死を遂げるその瞬間まで。

「わかった。わかったよレイラ」

 聞こえているのか否か。どっちでも構わない。

「そこまで言うなら、私も腹を括る」

 前世で諦めた夢を、この世界で叶えると決めよう。

「咲希に頼らなくたっていい。私があんたを幸せにする。私がレイラになって、誰よりも幸せになってやる」

 二度目の生が与えられたことに意味があるとするのなら、この不幸な少女と、不幸な自分を、共に幸せにする以外にない。

「私が、あんたの精霊様になる」

 この時、智花は本当の意味で受け入れたのだ。

 悪名高きカラス令嬢。レイラ・シュネーグランツとして生きることを。

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