『銀の乙女』
レイラ・シュネーグランツの断罪は、当人にとって晴天の霹靂であり、その他にとっては待ち望んだ恵みの雨であった。
晴れの日となるはずだった王立アカデミーの卒業式にて、王太子ジェラルドはレイラの犯した罪を列挙し、無慈悲にも婚約破棄を言い渡した。
講堂中の視線が、渦中の人であるレイラに集まっている。
艶のある黒い髪。闇を丸く固めたかのような瞳。白い肌とのコントラストは見る者の恐怖心を刺激し、また嫌悪感を煽った。
精霊の加護を享けるスピリタス王国において、黒い髪と瞳は不吉の象徴。死と不幸を運び来る悪魔の使いを想起させる忌物である。
「レイラ・シュネーグランツ。貴様をサドガートへの流刑に処す。本当なら断頭台に送ってやりたいところだが、シュネーグランツ公爵の功績に免じ命だけは助けてやろう。英明な父に感謝するんだな」
王太子ジェラルドの、威厳に満ちた審判だった。
レイラの白い顔がさぁっと青ざめていく。
「精霊の御名の下、カラス令嬢に霊罰を!」
王太子が雄々しく声を張ると、周囲の卒業生、在校生、また参列の貴族達が揃って復唱する。
公爵家の娘でありながら賤しい血の混じったレイラを庇う者は誰一人としておらず、彼女はただ唇を噛みしめて刑の宣告を受け入れる他ない。
ただ一人レイラを憐れんでいたのは、王太子の隣で凛と佇むエリーであった。
度重なる嫌がらせや悪事の害を被ろうと、彼女の慈悲はレイラの改心を信じて疑わなかった。精霊に愛される銀の乙女らしく、純粋無垢な心のゆえに。
けれど結局、レイラが心を入れ替えることはなかった。未来の王妃でありながら嫉妬に狂い、銀の乙女を蔑ろにし、あまつさえ売国奴のごとき所業を繰り返した。ジェラルドが義憤からレイラを処断したのも、国家臣民を憂えばこそ。
兵士に連行されていくレイラを見て、みな胸のすく思いであっただろう。
たったひとり心を痛めるエリーは、思わずレイラの背中を呼び止めてしまう。
「レイラ様。サドガートの地で、ご自身の行いを反省なさってください。心から贖罪を願えば、精霊様はきっとあなたをお許しになるでしょう。レイラ様に精霊のご加護がありますように」
こんな結末を迎えるまでレイラを止められず、エリーは無力感でいっぱいだった。諍いはあってもいつかはわかり合えると信じていたのに、その機会は永遠に失われてしまった。
それでも、最後に彼女の心を動かしたい。そんな一心で口にした諫言と祝福だった。
黙って立ち去ろうとしていたレイラは、エリーの言葉にふと立ち止まる。
「地獄へ落ちろ」
振り返り発した声は、恨みと憎しみに満ちていた。
エリーはぞっとして肩を震わせる。
「連れていけ!」
ジェラルドが命じると、兵士はレイラの細腕を掴んで歩き出す。
エリーへの罵倒を呪詛の如く吐きながら引きずられていくレイラに、もはや令嬢としての品格などあろうはずもなかった。
講堂内はしんと静まり返り、不穏の残滓が漂っている。
「エリー。そなたは優しすぎる。あのような邪悪な者に精霊の加護などあるものか」
震える肩をジェラルドに抱かれ、エリーは彼の胸にそっと体を預けた。凍てついた憎しみを向けられ痛んだ心を癒すのは、想い人の温もり以外には何もない。
閉ざされた講堂の扉を、エリーはじっと見つめていた。
かつて思うがままに振る舞った黒い公爵令嬢がいたことを、いずれ誰もが忘れてしまうのだろう。だからこそ、自分だけでもずっと彼女を憶えていようと、エリーは人知れず決意していた。
かくして、数年に渡って国を苦しめたレイラ・シュネーグランツの断罪劇は幕を閉じた。
悪名高きカラス令嬢は、ついに白日の下から追放されたのだ。
――長編小説『銀の乙女』第八十二話より抜粋
冷たい夜風の吹き荒ぶビルの屋上。
愛読する小説の最新話を読み終えた智花は、覗き込んでいたスマホを下ろして苦笑した。
「やっぱり、こうなるのかぁ」
断罪されたレイラは、物語におけるわかりやすい悪役であった。主人公を苦しめ、ヒーローとの愛の障害ないし試練として立ちはだかる悪役令嬢。
最後まで憎まれ役として描かれたレイラを、しかし智花は嫌いにはなれなかった。
短気で、ひねくれ者で、自信がなくて、そのくせプライドだけは一人前。傷つくのが怖くて居丈高に振る舞う臆病者。
(本当に、私にそっくり)
だからだろう。主人公のエリーではなく、悪役のレイラに自分を重ねてしまう。
(私は……現実でも、創作の中でも、幸せになれないんだ)
頬を打つ冷たい風。すでに涙も乾いている。
背後で扉の開く音がした。
「智花!」
ペントハウスから飛び出してきたのは、友人の咲希だった。
「何してるの! 早くこっちに来て!」
息を切らせて駆け寄ってくる。
「飛び降りなんて、馬鹿なことはやめて!」
智花が立っているのは、屋上を囲う柵の外側だ。一歩踏み出せば死のスカイダイビングに興じられる。
それを阻止せんと咲希はここまで上ってきた。そんな友人の必死の表情を見て、智花はくすりを笑みをこぼした。
「そこで止まって。それ以上近づいたら飛び降りるから」
淡々と言われて、咲希は思わず足を止めた。そして、白い息を何度も吐き出す。
(律儀に立ち止まるなんて、なんて素直な子なのかしら)
咲希の純粋さに呆れると同時に、なんとなく嬉しくなった。
「来てくれたのね」
「来るに決まってるでしょ……! あんなメッセージ……!」
「そうね。あなたはそういう子だわ」
ここに来る前、智花は咲希に飛び降りの時間と場所をメッセージで伝えていた。彼女なら必ず来ると確信があった。
別に止めてほしくて呼んだわけじゃない。最期の瞬間に親友の顔を見たかっただけ。
「ねぇ、どうしてこんなことするの? 昨日はあんなに楽しそうに笑ってたじゃない」
「昨日まではね。けどもう疲れたの。やっぱり私は、幸せにはなれないみたいだし」
我ながら冷たい口調になったのは、紛れもない本心だからかもしれない。
「諦めないでよ。智花がずっと辛い思いをしてきたのは知ってる。けど、あたし達まだ二十四だよ? 楽しいことだって嬉しいことだって、生きていればこれからたくさん見つけられるじゃない!」
「咲希」
「あたし! 智花が死んじゃったら悲しい! 一緒に生きていたい! しわしわのおばあちゃんになっても、ずっと友達でいてほしい!」
「あはは、なにそれ。まるでプロポーズね」
目尻に涙を浮かべて、智花は可笑しそうに笑う。
「ありがとう咲希。でもね」
一瞬、風が止んだ。
「言葉一つで救われるほど、私の不幸は軽くない」
智花は心の底から死を望んでいた。
親、学校、職場、恋人。智花の二十年余りの人生で、恵まれていたものなど何一つなかった。生まれつき体は病弱で、ブラックな職場での激務とストレスも相俟って、早死にするに違いない。
だったらいっそのこそ、自分のタイミングで終わらせた方がいい。
くそったれな運命に対する、せめてもの抵抗だ。
咲希は口をパクパクさせる。言葉を吟味しているようだが、その小さな口から出てくるのは白い息だけ。
「さっき読んだわ、最新話」
言いながら、智花はスマホを持ち上げた。
「痛快な断罪劇だったわね。読者の反応もいいみたい」
「あ」
意表をつかれた咲希は言葉を失う。こんな所で、こんな話題を出されるとは思っていなかっただろう。なにせ彼女こそが、長編小説『銀の乙女』の作者であるから。
「あの悪役の子はもう出てこないの? 物語からは退場?」
「……そうだよ。だって――」
レイラがいたら、エリーは幸せになれないから。
咲希はあえて声にしなかったが、智花の耳にはそんな言葉が届いていた。
わかっていたことだ。悪役は役目を終えて、潔く去るのみ。
幸せになるためには、それを阻む何かを排除しなければならない。それが人間という生き物だろう。咲希にとっては、智花がそれに該当するのだ。
(私に構ってばかりで、自分の幸せを蔑ろにしてほしくない)
智花の人生でただ一つ幸運があったとするならば、それは咲希という親友に出会えたことだ。真っすぐで心優しい彼女を縛り付けたくない。
(だから私は、潔く退場する)
ビルの屋上に、一際強い風が吹いた。
「ねぇ咲希。お願いがあるの。あなたにしか頼めない。あなたにしかできないこと」
智花はスマホを操作して『銀の乙女』の挿絵を表示させると、その画面を咲希に見せつけた。映し出されているのは、黒い髪と瞳の美しき悪女。レイラ・シュネーグランツ。
「この子のこと、幸せにしてあげて」
精一杯の微笑みを遺し、智花は倒れ込むようにして身を投げた。
「……っ! 智花――」
手を伸ばした咲希の姿が視界から消えると、急激な浮遊感が訪れる。
(これでやっと……楽になれる)
もう二度と辛い思いをせずに済む。
ほんの数秒後には、人生のすべてを清算できるから。
死がすべてを終わらせてくれるから。
そう思った瞬間、智花の全身に怖気が走った。
(嫌……! やっぱり死にたくない! 生きていたい!)
あんなにも望んでやまなかったはずなのに。
(やりたいことが残ってるのに! 幸せになってないのに!)
いざ死に直面して去来する、もはや遅すぎる後悔の念。
「死にたくない!」
叫んでも選択は覆らない。
冷えた空気に、悲嘆の雫が舞った。
唐突に訪れた意識の断絶。痛みがないのがせめてもの救いか。
――精霊様。精霊様。どうか私の願いを聞いてください。
最期の瞬間。少女の声がほのかに響いた。