わたしの常識と世間の非常識
後ろに手を組みなおしたカルフは、いつもの姿勢に戻って、淡々と説明する口調へと戻る。穏やかな表情の下には何が隠れているのか窺い知れない。
「屋敷に張っていた陣と同期していたので、屋敷の異変にはすぐに気付けました。内側から陣を壊そうという魔力の流れを感じ、予定も終わらせず転移で帰ってきたのです。誰も屋敷に入れぬ筈なのに何故と急いで帰れば、お嬢様のあの血の惨状を見たわけですが」
「大変申し訳ありませんでした」
額を布団につけて身体をくの字に折って深々を謝罪するが、早々にカルフに体を起こされた。
「何をしてるのですか。まだ本調子ではないのですから、いつもの奇妙な行動はお控えください。体に障ります」
「いえ、こう申し訳ないと…き、みょう?」
自身は誠心誠意を込めて、謝罪の土下座なるものをしたつもりであったが、そういえば文化体系も違えば私のこの土下座は謝罪にすらならない。
カルフは失礼します、といって脇を持ち上げひょいっと元の態勢へと戻していく。その際、心構えができていなかったせいでくすぐったさからあまりにも無様な声を上げてしまったが、これは私の所為ではないだろう。表情を変えないまま咎めるような視線にこちらもにっこりと笑って返す。いまのは私の所為ではないと断固反意を唱えよう。
「つぶれた蛙のような真似をしてお嬢様が何を訴えているのか、凡愚なる私には理解しかねますが、お嬢様のご意向を察するのが私の勤めだと留意しております。それを汲み取り、健やかに暮らせるよう手配するのも。しかし、他の者がみれば乱心したのかと、それとも心の病でもかかっているのかと邪推されかねません。お嬢様が想像もつかぬ行動を起こすことはここ数日のうちに把握いたしましたが、他の者はそれを理解するまで時間がかかりますので、なるべく奇妙な行動はお控えいただけると」
今の無様は言葉の前後を推測すれば謝罪かそれに相当することは理解しましたが、の言葉が続いて、わかってんじゃん、の言葉が出かけた。出さない理性はぎりぎり残っていた。
というより、仮にもお嬢様と称する者に無様という言葉の選びはどうだなのだろうか。本当に言葉の遠慮というものが段々なくなってきている気がする。
「今後の参考の為に聞きたいのですが、カルフ的には私の行動のどのあたりが奇妙にうつりましたか」
的?と言葉を奇妙に思ったのが、カルフは一度首を傾げる。
「行動の奇異に暇がないので、これと具体的に申し上げるのは大変気が咎めるのですが」
既にその言葉で心的なダメージを多大にくらった。お嬢様然とそれらしく振る舞おうとしていたが、及第点にすら及んでいなかった可能性すらある。カルフは事あるごとにそれらしく忠言はしてくれていたが、私が気付いていないものもあったかもしれない。
途端、羞恥なるものが胸を押し上げる。奥歯を噛んで冷静に、冷静にと唱えるが、それが如何ほどに役に立っているかは顔の熱さからお察しである。あのアルカイックスマイルの下で、変な子だなとずっと思われていた訳である。いっそ穴に埋めてくれと思うが、言ったところで通じないだろう。これもあちらの慣用句だと思う。似たような慣用句はあるかもしれないが、通じなければ本当に穴に埋められたいのか再度頭の心配をされそうだ。
全部ではなく例えばでいいのです、と言うと一つ相槌をうって顎に片手を当てながらなにやら考えているような仕草をする。
「再三申し上げておりますが、一つの物事ごとに礼をおっしゃるのは控えた方がいいかと。以前の教育係がどのような教育をお嬢様になさったのか今はもう確認する術はございませんが、通常主人というものは傅かれるのが当たり前で、側仕えや下働きの者の行いに対して感謝等するのは筋違いです。侮られる原因にもなりかねません」
「それはなかなか…難しいですね…」
そんなに礼をしていただろうか、とも思い浮かべたが所々で何となく口についてでていた程度しかおぼえていない。ああそういえばこの前はこんなことあったな、ぐらいの認識である。意識的に行ってる事ではない。日常に染みついたそれは考える前に口について出てる半ば反射のそれに、それは感謝と呼べるのか、とも思われそうだが無意識のそれを突然直せといわれてもなかなかに難しい。
幼少期より他の人になにかしてもらったらありがとう、悪いと思ったらすいませんと言いなさいと繰り返しされた教育は馴染みに馴染み切っている。そもそもひと様に傅かれる人間ではなかったのだから、急に態度を変えるのは無理だろう、と心の内から囁く自分がいる。
今はまだ屋敷にカルフしかいないのでこれはまだ保留でいいだろう、と他にはありませんか、と次を促す。
話題を私の中で流した事を察したのか、カルフは目を細めてこちらを見下ろすが、次はと言って言葉を促す。続きを聞きたい訳ではないが、ここで聞かなければ恥を衆目にさらす危険がある以上聞かない訳にはいかない。
しばしの睨み合いの末、先に折れたのはカルフの方だった。
「あとは会話の途中に挟まる相槌もお控えいただければ。講師の方から会話術等の教育は?」
「相槌?」
「はい、それもです。質問された際は答えを明確にし、疑問等があれば話を一度終わらせてから改めて提起する方が会話先の方々にも失礼になりません。まだ上位の方に目通りするような事がないので今は問題はございませんが、お嬢様より身分が格上の方を相手取る場合、その返答は無礼に取られかねません。下位の者であったとしても決していい顔はしないでしょう。教育の施されていない者だと認知されれば、取り返しできない瑕疵になり得ます。態度や顔、言葉に出さないでしょうが、いい感情は抱かないかと。
言葉尻を捉えて、足を引っ張るものもおります。そこから足元を掬われる原因にもなりかねませんので」
「それは…はい、気を付けます……」
「言葉遣いや会話の間合いがお嬢様の場合独特ですので、言質一つ取られて弱みになりかねません。お嬢様もそのような状況お望みではないでしょう」
それはもう、と大きく頷くと、そうだろうとでも言いた気にカルフは鷹揚に頷く。
揚げ足を取られて、延々とそれについてネチネチ言われるのは嫌だ。社会人をしている時に、以前の失敗を事あるごとに会話を盛り上げる話題の一つだと認識していた先輩の一人を思い出して顔が思わず真顔になってしまう。そういうのが沢山いるのが上位の者に多いという認識でいいのだろうか。カルフがこれだけ言葉を長く言うのだからそういう事なのだろう。
そんな世界に飛び込みたくないな、というのが正直なところだ。何とか状況を回避できないだろうか、とも思うがその為にはやはり私の周辺情報の把握が必要で、そんな資料は今のところこの屋敷にはない、で結論がついてしまって最初に戻ってしまう。せめてカルフ以外に私の周辺に詳しかった側仕えが屋敷に残っていればよかったのにとは思うが、ないものはどうしようもない。
「できればお嬢様のお身内の方以外には対外的に問題ない会話を身に着けていただきたいのです。なかなか教本等ではわかりにくいとは思いますので、実地で習うのが一番かと。知る範囲でお嬢さまの手本になりそうな教師の方に打診してみます。一人、顔を知る方に教養のある女性がいますので」
「カルフではだめなの?」
「男性の場合ならお教えいたしましたが、女性には女性の会話等が必要な場合もあります。女性だけの会食やお付き合いもあるので、そちらの知識に精通した方の方がよろしいかと。何分、そればかりは経験した事がありませんので知識の不足が否めません。きちんと教養のある、お嬢様の手本になるような方をご紹介いたします」
本当にそんな場面があるのだろうか、と疑問がなくはない。このまま屋敷に封ずるように暮らすなら、カルフの言う雅な暮らしなど無縁に違いない。それでもこうやって丁寧に理由を並べて教育を与えてくれるのはそれが必要になる時がいずれくるかもしれない、という事。
だからと言ってそんな暮らしがしたいとは私は思わないが。
捨て置かれるだけならいずれこの屋敷を出てもいいとさえ思う。雅な暮らしに生憎と興味はないといえば、このように骨を折ってくれるカルフはどう思うだろうか。
想像する私の中のカルフは、そうですか、といって穏やかに笑うだけ。心中など想像の中でも察せなかった。
身分が高くなればなるほど、それに伴う義務も大きくなることを知っている。もちろん彼方にいた時に私がそういう身分であった、という事実はない。が、それこそ知る機会はいくらでもあった。今も昔も歴史の中には権力者というものがわんさかといたし、題材にした本も尽きない。調べようと思わなくても、それなりに義務教育課程を通っていれば知識はついていく。
こちらの世界のあれやこれやが私の想像するより面倒事ではなかったとしてもあまり気は進まない。
お嬢様と呼ばれているからにはそれなりの身分の子女だということは嫌でもわかる。私がその義務を背負っているのか今は謎だが、将来を見据えてカルフは必要な教育を施してくれているだろうことも理解はしてる。理解はしているが、その道を歩きたいかと問われれば選べるなら辞退したいのが本音だ。
権謀渦巻く権力者の渦中に飛び込みたいなど思わない。私の願いなどささやかな物だ。私は自由気ままに好奇心が満たされるまま楽しく美味しいものを食べながら暮らしたいというのに尽きる。
彼がこの屋敷に仕えてるとしたら、私の願いがそうであっても叶う見込みは少ないのではないだろうか。少なくとも忙しい時間を割いてまでこうやって私に懇々と諭し、立ち振る舞いを矯正することに惜しみない時間を使うくらいには。
ただ大きいだけのこのおんぼろ屋敷で教師など雇う銭などあるのだろうか、とも思うがそれを聞くのも何となく躊躇われる。人を雇う伝手などがないからこの屋敷にはカルフ一人なのだ、という見方もできるが、貧乏だからという線も私は捨てていない。
どこぞの時代は貴族は働くことは恥だ、などという価値観もあったのだからこの世界がそうではないとも言い切れない。お金のあれこれに口だししてはしたないなど言われるかもしれないし、またこのダメだしセレクションに加わるかもしれない。
様子見リストにもう一つの事柄を加えて、とりあえず棚上げにする問題を一つ増やした。これも価値観を学んで追々解決していこう。
カルフの口が一度止まったので、こんなところでしょうか、と問うと、いいえ、という返しが返ってくる。ならばなぜ会話をきったのか。
まだ言い足りないらしい。
背をしゃんとして耳を傾け続けるのに少々疲れて、態勢を崩すと咎めるような視線がすぐに飛んでくる。それに気付かないふりをして次は、と問う。寝台の枠に直接布団を乗せているせいか、同じ体制をしていると猛烈に尻が痛くなってくる。生地はいいが、詰め物の綿か何かはあまりいいものではないのだろう。ぺしょりとしている。寝台板と布団の間に挟む敷布団が欲しいが、あるだろうか。
じっとこちらを見下ろしているカルフはまだ口を開かない。これで終わりなら終わりで嬉しいが、終わりにしてくれる気配はない。
咽喉でもかわいたのだろうかと水差しをちらりと見やる。その仕草ですぐ動くのはカルフだ。
置いたままの陶器を新しい布で拭きあげると水差しから注いで、ごく自然な仕草でそれを差し出した。あまりにも自然な仕草で思わず受け取ってしまったが、別に咽喉が乾いていた訳ではない。それでも受け取ったからにはありがとうのあ、まで出かけて思わず口を閉じた。やめた方がいい事の一つを先程きいたばかりで舌の根が乾かぬ内にやってしまう訳にはいかない。なるべく実行しようとしているという体こそが大事なのだとは一度社会人をしていたから染みついているそれだ。
陶器を見つめたまま動かない私に必要ございませんでしたか、と問うカルフにいいえ、といって唇を湿らす程度に含む。
陶器はそのままカルフに返し、寝台横の台には新しい陶器が置き換えられた。
こちらを向き直ったカルフがどこかいつもと違う表情をしているように見えたが、具体的にどこがといわれると難しい。いつものように穏やかそうに微笑んで見えるから気のせいといわれるとそんな気もするが、どこか違うという考えを捨てきれない。
カルフは後ろ手に組んで、姿勢を正すと一呼吸置いて、静かな声で一つの事を問われた。
「お嬢様は神庭教会とは別のものを信仰しているのでしょうか」
当たり前のようにそう問われるが、シンテイキョウカイとは何ぞやと首を傾げる。信仰というからには何かを奉ったり、崇拝したり、何かの教えを信じ信奉しているか、ということだろうか。
「こちらの勘違いであるなら申し訳ございません。しかし、もし万が一、上都することになって知らないままでいたらお嬢様にとって不愉快になる場面があるやもしれません。
隣国とは違い、聖都と呼ばれる都市が国内にある故に今は非常に国教以外の信仰に厳しい環境下にありますので。あちらは現在は神庭教会の権威が非常に強い地域になっているようですから、別の信仰があるとすれば少々面倒なことになるかと。地域によっては精霊信仰の強いところもありますから、咎められはしないでしょうが、それでも風当たりは強くなるでしょう。それともそれも講師の方から習ったのですか?」
「なぜいきなりそんな話に?」
「食前にいつも見慣れぬ礼をとっていらっしゃったので。食と信仰はそれこそ昔から密接してますから、見慣れぬのは信仰の違いかと思ったのですが…存じ上げない動作でしたので密教だと推測いたしましたが、違いましたか?」
いや、それ最初に言ってよ、とは私の心の内の叫びだ。あれは妥当だと思っていたのに、全くの見当違いだったらしい。
いままで散々テーブルマナーだのなんだので、どの食器から手をつけるかとか、お茶を給された時の動作だとか、時事によって違うテーブルの上のもののそれぞれの効果とか使い方とか、それとは逆にしてはいけないことだとかは教えられたのに食前の挨拶については一切なにもない事はたしかに可笑しいなとは思っていた。
非常にセンシティブな内容だったのでカルフも口を出すかどうか思いあぐねていたらしい。そんな仕草すら私は見えなかったわけだが。
そもそも手本となるような食事の仕方を見た事すらないのだ。手探りもしょうがなかろうというのは私の内心だ。言葉にすることはしないけれども。
なぜ手本の食事の仕方すら知らないのだ、と問われても言葉に窮する。今までの側仕えは何をやっていたのか、と言われかねない。散々何度も尋ねられたのでいまさらそれすら別に私の見地するような事ではないのだろうが、それすらも以前の教育係が悪いポイントになったらもしも万が一、今後出会うかもしれない事を考えると思わず口を噤みたくなる。
私は覚えていないが、教えられた可能性もなきにしもあらずなのだ。この屋敷を辞した時点でこの家の関係者からは退いた可能性の方が高いが、いわゆるこちらを保護している家にはまだいる可能性はある。私はないとは思っているが、将来その家に招かれる事があれば面倒事に発展しかねない。どういう関係で私を保護しているのかまだわからないが、可能性がゼロでない限り将来にかかるリスクはなるべく減らしておきたい。
未だに記憶はぐちゃぐちゃだ。思い出すこともあれば、薄らとしか思い出せないこともある。急に二つの人生が入り混じった所為なのかとは、私の思う所であるのだが、それすらも私の推測に過ぎない。
結局この不可思議な現象を説明できる人物もいないのだから。
もし、これがよく物語である神様の所業であるとするならば、いますぐに出てきて状況説明をしてほしいところだ。毎晩寝る前に祈りながら寝ているが、その兆候はない。祈った所で神様には届かないし、神すらいるのかわからない。
別に特定の何かに祈っている訳ではない。これはいわゆる気持ちの問題で、解決できたらもうけもんだな、まぁできないだろうなとも思っているただの気分の問題だ。こんな私が何かを信仰とかそういうのではない。わたしの信仰心はあちらの世界の意識がいまは強いだろう。祈りはするし、願掛けとかそういうのもある。けれど特定の何かを信奉するということはいまいちピンとこない。お国柄であったふわふわとしたそんな物だ。
そういえばいただきます、と手を合せるのもあちらの私が住んでいた国の文化の一つだ。国ごとに挨拶の仕方も違った。だからカルフがいう食と信仰の関係は何となく納得できる。なぜ勘違いしたのかも。
私がした食前の挨拶もあちらの国のある信仰のやり方の一つだからその勘違いはあながち勘違いとはいえないけれども。
そもそも、だ。
何かを習う際は手本を見るというのが基本中の基本だろう。そこらでちょっとみないくらいにはカルフの所作は綺麗で、カルフが1から10までその所作を見せてくれれば早い話なのだ。しかし、頑なに食事は伴にしない。カルフと共に食事ができればそれで解決なのだろうが、下働きは同じ机に座る事はないと固辞される。
その辺の線引きは明確で、教鞭を執っている時は鬼のように厳しい癖にいざそれを離れると途端に従僕ですといわんばかりの態度を崩さない。やんわり笑って喜怒哀楽に感情を振らない様は社会人の鏡のようだ。
というかこの男、奇妙だと思っていても本当に顔色一つ変えない。顔色を窺って、それを正解かどうか判断していた私が馬鹿みたいだ。
「国教がある、というのも私は初めて知りました。この礼の仕方は、以前覚書で見かけたもので、みよう見まねでやっていただけです。カルフから教えてもらうまでこちらが正式なものだと勘違いしていましたが、もし、カルフがその辺りのことを教えてくれるなら、私に否やはありませんし、この行為が外で奇異に映るならやめるのもやぶさかではありません。」
そうでしたか、とゆっくり頷くカルフは目の奥を覗くようにじっとこちらを見下ろしている。まるで内心まで見透かしているかのような視線に背筋は伸びるが、別にやましいことは何もない。
やっぱり物腰は丁寧なのに慇懃無礼なんだよな、という印象は拭えない。
「あとは…」
連々、つらつらとカルフの口調は淀みない。まだ終わらないの?という視線を送ってはみるものの黙殺される。私の言いたいことがわかっているのかわかっていないのか。
あと二、三事はあるだろうと高を括っていたのにそれ以上のカルフから見た奇行を連ねられる。丁寧に言葉を積み上げて、カルフから見た奇行の数々が増えていく。
いや、そんなことも?と思うものはあるものの現地人が言うのだからなるべくやめられるなら止めた方がいいのだろう。私は奇人変人になりたいわけではない。
淡々と、本当に淡々と何でもないようにカルフから見た奇怪な行動を挙げられるたびにしおしおと萎れる。背を丸めるとまた教育的指導が飛ぶので、神妙に聞いたふりをしているが、あまりの多さにすでに耳を塞いでしまいたい。前半の方で既に半分以上戦意が削がれていたが、私の戦意が削がれようとカルフの口がとまるはずもなく。
カルフのダメだしセレクションに暇がない。
いやに細かいなと思うところはあれど、大なり小なり確かに今後障りがありそうだ、というのは私でもわかる。覚えておきたいから書置きをしてもいいかと尋ねると一瞬嫌な顔をされた。それはどういう感情だと思いつつも、問うても応えてはくれないだろう。
すっと出された紙片とインク壷は有難く頂戴しておいた。どこから出したんだろう、とは思ったもののそれは今は大して重要ではない。
カルフの言うそれらは正論ではあるが、べこべこに色々と私の内側がへこんでいっている。
手加減してくれないだろうか。してくれないだろうな、とちらりと見上げるそのご尊顔。一見、柔らかな表情で物腰の優しそうな青年の雰囲気があるのに、言いようは容赦ない。外面詐欺だと言おうものなら騙される方が悪いのでは、と言われるだろう、おそらく。
一つ息をついて、あとは少しづつ学んでいけばよいのですよ、と繋げた。さすがに返事に元気がなくなっていくのにカルフも気付いたのかもしれない。
この言葉の意味を考え得るとまだまだ言うことはあるが、今日はこれくらいにしてやろう、ということだろうか。まったく慰めにはなっていない。いや、彼は慰めるつもりもないのかもしれないが。
「あとはそうですね……奇異とは異なりますが」
まだあるのか、と若干顔が引きつったのがわかったのか、カルフはあと一つだけです、と念を押してきた。
「書物で調べたところによるとあれは幼子にはよく見られる行動で問題ないということでしたのでお嬢様のおっしゃる所の奇行とは異なりますが……しかし体面上、下働きにしかみえない者について回るというのはやはり体裁があまり良くありません。でき得るならお嬢様の意思でお止めになっていただきたいのですが、ご家族との縁もなかなか結ぶのが難しい環境下でまだまだ幼いお嬢様にその様に振る舞われるなと押し付けるのはさすがに酷かと考えました。ですのでご状況が許す限りはこちらからは進言せずにいたのですが、講師を招くとなればその限りではございません。他者の目が入るならば、お嬢様には相応のご年齢に見合った振舞いをしていただかなくてはなりません。以前のお嬢様の乳母の方が見つかればいいのですが、こちらには資料が残っておらず。お嬢様は何か記憶はございますか」
「……」
「お嬢様?」
「き、気付いていたのですか」
「気付いていた、とは?ああ、隠れていたつもりだったのですね。お嬢様には申し上げておりませんでしたが、常時この屋敷の敷地内には、魔導陣を配していますので誰がどの位置にいるかは常に把握しております。勝手に起動した件については申し訳ございませんでした。ただ、不埒者が屋敷に不法侵入しないとも限りませんので。お嬢様の安全配備上この陣を敷くのはお許しいただきたいのです。お嬢様?」
完全にばれていた。隠密行動でも何でもなかった。
物陰からカルフの行動を監視して、ルーチンワークを把握してからこそこそと屋敷の内部を探索していたつもりであったが、全て備に把握されていたらしい。カルフの後ろに付いて回っていたのにも気付いていて、それでいて何も言わずにそのままにして幼子のすることだと微笑ましそうに、いやただ無感情に眺めていたのだろう。基本的に害に及ばない事には彼は無関心なのかもしれない。
危なげな場面では、時には目のない所の行動でもやんわりと諫められるから監視カメラでもあるのかと疑っていたら、本当に監視カメラもどきを全館に配置していた。魔導というのがどこまで見えるのか知らないが、これはプライバシーがほぼないに等しいのではないだろうか。
忍び足で屋敷内を探り回っていたのも彼は知っていて、目を瞑っていたらしい。知った上で幼子のやる事だと生温かい目で見守っていたのだろうか。いや、見守ってなどという生ぬるい感情の発露ではなく、まぁ害がないからいいか程度の考えだったのかもしれない、カルフは。
それよりもお嬢様と仰ぐ私自身に幼子だと言ってのけるこの男のメンタルはどういう構造をしているのだろうか。上下関係がいまいち理解できないから世間一般的にはこれはアリなのだろうかを悩む。言動、立ち居振る舞いにあれこれ口にする割にはそれはいいのだろうか、と首を傾げざるを得ない。
もしかして小さいからと侮られている、と思ったが、カルフにそのような雰囲気はない。事実だから言ったというような雰囲気さえ感じる。いや、私が感じるというだけで本人が本当にそう思っているのかは定かではないが。
意気揚々と隠密行動だと連日あれやこれやをしていた自分を穴を掘って埋めたい。子どものようだと、事実今は子どもであるから問題ないのかもしれないが、自分がそんな風に見られていたのかと思うと全身掻きむしりたくなるような何かがこみ上げる。我に返ると羞恥に頭が爆発しそうなので、あまりそれについては考えない事にしたけれども。
「屋敷には今は他の者がいませんから大して問題にはなりませんが、他の者が出入りするようになればお控え下さい」
丁寧という言葉の上に莫迦が付きそうな程、言葉を繰り返す。それはあれか、大事な事だから何度も言っているのか?
これは子ども扱いというより赤子の扱いか、と思う場面もちょいちょいあって私としては思うと所がないでもない。でもなくはないが、忠言はありがたいことには変わりないので、自身の羞恥はこの際心の深海に重しをつけて沈めた。あれやこれやとどうしようもない所をカルフには見せているので今更である。
カルフは右手を左胸に付けて礼の形をとっている。
「教育が足りていないことは分かりました……何でも貴方に頼んで申し訳ないのですが、これらを加味した上で今後の差配をお願いしたいのです。頼めますか」
「かしこまりました」
微笑んだままの表情は変わらない。答えとしては及第点だと言わんばかりの声音だ。
顎を少し上げて見上げた顔に表情の動きはない。やんわりと微笑んだ佇まいは好青年のそれである。ただどことなく不遜に見えるのは私の心の内にフィルターがかかっているせいだろうか。爽やかさを感じなくはないが、その正反対のものも滲んでみえる。
ひどく物言いがアレなだけで、物腰も言葉選びもカルフは柔らかく優美だ。ただどことなく不遜さを感じるだけで。あくまでも私の実感だから、ただ私が卑屈になってそう見えるだけかもしれない。
「治療後すぐに長々とお話をして申し訳ございませんでした。夕食はこちらに運びますので、本日は身体をお休め下さい」
「いえ、元は私が頼んだことですから。それに治癒ありがとうございました。治るとは思っていなかったので」
「いえ、お嬢様のお役にたてたのなら不肖ながら光栄でございます。暫くは違和感があるかもしれませんが、何か気になる事があればすぐにお知らせください」
コピーアンドペーストしたような返答に思わず真顔になりそうになる顔を堪えた。ネット検索してちょうどいい塩梅の答えをメールに流しこんで、相手方に返答するそれのようだ。
なんだかなぁ、とは思いつつも今日も何も言えないでいる。
少しばかり狼狽した顔だけが本日の収穫だろう。一向に縮まらない距離感にもどかしくもなるが、歩み寄るもその歩数だけ下がって距離感を保つカルフに磁石の同極同士を思い描いた。
あの動揺も惨事あってのことだから同じような事を起こして彼の感情を引き出すのもあまり気は進まない。それにそこまでして体を張りたくはない。
仲良くなるにはまだ道が遠いな、と溜息をつくと、今日はお嬢様の好きなレモネードを食後にご用意しておりますよ、とカルフが言う。気落ちしたのには気付いたようだが中身までは想像してないのだろう。いや子どもはこれで機嫌がなおると思っているのかもしれない。
まぁ検討違いではあるが、レモネードは有難く戴いておこう。