魔導と魔術
おそらく否が正しい答えだったのだろう。カルフは、そうですかと相槌をうつ中で、満足そうに鷹揚に頷く。
「しかし、それなら入浴の際はどのようにしていたのでしょうか。この屋敷の浴室へは魔力の発現なしには入室できなかった筈ですが」
「え?カルフが毎晩桶に湯を準備してくれていたじゃない。そこで毎日体は拭いていましたよ。」
何を突然と思いながら言葉を言い切らない内に見上げるカルフの顔色を見て言葉尻がどんどん萎んでいく。いや、何でそんな顔をするのか。何もおかしいことは言っていないよな、と吐き出した言葉を瞬間、思い返すが何もおかしいところがみつけられない。
カルフが頭を押さえて、僅かに変える感情の色を映す目が見えなくなる。それが見えなくなると途端に何もわからなくなってしまうので、できれば隠さないで欲しい。
「カルフ?」
「いえ、不徳の致すところでもうしわけございませんでした。お嬢様に確認を怠ったこと、お詫びの言葉もございません」
そんな大げさな謝罪をしなくても、と思って見上げた先のカルフの表情はどう見ても謝ってるそれではない。手を後ろに組みなおしたカルフは何ともないように、それこそいつものように唇に微笑みを薄らと浮かべているが、至極残念な子を見るように見下ろすその目の色は隠しきれてない。いや、隠すつもりもないのかもしれないが。
別に謝って欲しかった訳ではないので、それで構わないのだが、このしっくりとしない気持ちはなんだろう。
毎回、湯浴みのたびに通される部屋は、湿気とかそういう諸々に配慮した上で別室に通されるのだろうな、と思っていたのが間違いだったらしい。謝罪の言葉から察するに、あの部屋のどこかに浴室に繋がる扉があるのかもしれない。自身の目で確認してないので言い切れはしないが、カルフの口ぶりだとおそらくそうなのだろう。
「お風呂に入るのにも魔力が必要なの?」
「貴族や裕福な商家の屋敷には陣が大体備わっています。強度については、その家の裕福さによりますが。屋敷の出入りも同様に大抵の屋敷には陣があるのが通例で、維持管理の優劣で屋敷の陣は様々、それこそその家の伝統に則った陣が施されております。その中でも使用用途が然程変わりない厨房と浴室にはどの屋敷にも同じような防御関係の陣が存在しています。入浴というのは最も無防備な状態の一つになるので、魔導の術式と陣で入室の制限を施すのが大体ですが……こちらの屋敷もその術式であった筈です。以前の屋敷の者がいた際もそうしていたのでは?」
「私は殆ど家人に任せていたので……」
そのあたりの事はよくわからないと言い切らない内にカルフは納得したらしい。
当初、お世話になり始めの頃はあまりの私の無知ぶりに、しつこいくらい念押しに確認していたのに最近は知らないというと、以前の屋敷仕えの者については何かと含むところはありそうではあるが、私自身の知らない部分に関しては特に咎めるという事もなく、淡々と事細かに子細を説明してくれる。
こういう意外に世話焼きなところが屋敷仕えという所に向いているのかもしれない。これだけ優秀なのだから、捨て置かれたこんな屋敷の屋敷仕えに収まっているという事に疑問がなくはないが、やんごとなき事情があるのだろう。
淡々として、冷たさも温かさも態度から感じられる人ではないが、何に対しても真摯であるのには変わりない。小さな疑問にも考えすら及ばなかった細かい部分まで、それこそ私が理解するまで言葉を尽くしてくれるのだから誠実であるのは間違いない。いちいち鼻のつく慇懃無礼さはあるものの、慣れれば然程気にはならない。
私だからいいものの外ではそういう態度はいけませんよ、と一応釘を刺した方がいいかとも思うが、大きなお世話とでも言われそうだ。そのうち折を見て言おう。
カルフは寝台の横の椅子に掛けられていたストールを手に取ると、少々お借りしますと言って私のすぐ横にそれを平に広げる。
「これが陣です」
かざした掌から細いほそい光の糸のようなものが浮かび上がる。まるで本当の糸であるかのように空を縫って複雑な模様を造っていく。わぁと思わず出た歓声に口を塞いだが、咎める声は飛ばなかった。一瞥したカルフの視線が何やら笑ったように見えて、思わず食い入るように見てしまった。
が、すぐさま目は胡乱な色を作り、お嬢様?と咎める声が飛ぶ。おっと、と視線を剥がして慌ててカルフの手元を見やる。一瞬の隙に既にその模様は出来上がっていたようで、糸のようなものは仄かに光を放って、カルフの掌でくるくると回っている。
絨毯の模様やちょっとした小物にこの刺繍や柄があったら高級感でも出そうだ、という見事な細工造りの模様。カルフはこれを陣と呼んだ。魔導や魔術の話をする時に共に話にだされていたので、これもそれらに関するものなのだろう。
それにしても、と腕を組んでカルフの掌に浮かぶそれをまじまじと見る。何もない所から有が生み出されて、その光景をこの目で目の当たりにした辺りから、本当に私のいた世界とここは違うということを思い知らされる。
魔法かぁ、と胸の縁で呟くと連想するあれやそれやが思い過る。黒猫を伴に箒で飛ぶ魔女になれたり、不思議なステッキで何か素敵なことを起こせたり、時をかけて大切な人を守るそんな女の子になれるかもしれない。いや、前半はまだしも後半の戦う魔法少女になるつもりはないが。
何かを害したりとかではなく、日常のほんの些細な事、生活が楽になる魔法を考えるとわくわくする。傘を片手に空を飛べるようになるかもしれないし、この世界のどこかに願いを3つ叶えてくれる魔人がいるかもしれない。魔法があるなら、あちらで幻想と呼ばれた生き物だっているかもしれないのだ。もしいるなら会ってみたいとも思う。
カルフの許可が出る様なら農作業に自動水やりと除草、あとは他から飛来するごみの除去等が人の手をいれずにできるようになれば楽だなぁ、と思考が行ったり来たりする。発酵魔法とかどうだろうか。チーズとか納豆とか、おいしいあれやそれやが異世界であっても手軽に食べられるようになるかもしれない。
頬が自然と吊り上がるのが留められずににやにやとカルフの掌を見つめているとぎゅっと握られた手の先の陣がふっと消えた。
おやっ、と見上げる視線の先、目を細めて口には変わらない微笑みを浮かべたカルフが見える。ひえっ、と声を出さなかった事を褒めてもらいたい。
聞いておりましたか、と念押しする言葉は私があれやこれやと思考を飛ばして聞いていない事が分かった上でそう言っているのだろう。間髪いれず、聞いていますよ、と何でもない風を装って返答するが、細められた瞳は油断なくこちらを見下ろしている。間を置かずに幾分か早口になったのが拙かっただろうか。
流れる沈黙に耐えきれなくて、何にもわからないふりをして首を傾げると、僅かに眉間に皺が寄った気がしたが、注目する前に手を差し出された。
何だろうと見てから、手を繋げということかと大きな掌に小さな手を乗せてみる。
「…お嬢様、一体何をしているのでしょうか」
「手を繋げということではないの?」
「違います」
繋いだ手を速やかに離された。あまりの速さにぽかんとその手の行方を目線で追ってしまったが、見下ろすカルフは穏やかな笑みを浮かべたまま険を含んだ視線を隠しもしない。器用だな、なんて思っていると、お嬢様、と一段低い声が飛んできた。
「お嬢様、みだりに差し伸べられた手を繋ぐことは有るまじきことと記憶ください。もし万が一、知らぬ…いや知っている方だとしても差し出された手を軽々に重ねる事をしてはなりません。まだ幼いとはいえ、それが許されるのは親族のみです」
「それは一般的なことなのかしら」
神妙にカルフは頷く。そんなにいけない事だったのか、と心のメモ帳に書き留めておいた。文化が違えば常識も違う。私の住んでいたあちらの世界ともちろんこちらは文化も言語もあらゆるものが違うだろうが、それを一つひとつ理解するのは随分と骨が折れそうだ。
「説明が足りず申し訳ございません。ただ、先程のように掌をみていただきたかっただけです」
同じように掌を差し出される。
なんだ授業の延長なのか、と勘違いに少し恥ずかしくなる。
「魔導に於ける陣の役割は属性の配置です。魔力を細い線に組み、正確な位置に配することでその属性にあった効果が得られます。ただ、何でも配置すればいいという訳ではなく、効果の大小、属性の…いえこれは今はいいですね。ともかく陣と魔力を行使することで魔導が発動し、その効力を得られます。ここまではよろしいでしょうか?」
正確な位置に配置という事は、正確にできない場合は発動しない、という認識であっているのだろうか。属性というからには幾つかの属性を表す物も覚えなくてはならないという事なのだろう。魔法というよりは科学とか暗記必須の科目のようにも聞こえる。
何となくわかったような気がして、こくりと静かに頷くと応答を待っていたカルフが続きを口にするのも同時だった。
「慣れてくれば時を於かずにこんな風に一瞬で陣を敷くこともできます」
同じようにかざした掌から先程とは違って、ぱっとカルフが陣と呼んだそれが浮かび上がる。
おもわずまじまじと見てると、重なるようにもう一つの陣がくるりと浮かぶ。二つは折り重なるようにして、さらに複雑な模様を作っていた。
「このように瞬時に対応できるようになれば、咄嗟の攻撃等にも対応できなくはないですが、流石にすぐにはできる者もすくないので、作った陣は転記できるものにその姿を写し取って、使用するのが今は一般的ですね」
このように、とカルフは掌の陣を手近に置いていたストールに押し当てる。押し付けられる度にどんどん光は小さくなっていって、どうぞと差し出された時には既にストールに同じ模様が浮かんでいた。
「これは誰もができるようになるのですか?」
「一定の魔力を有するもので練習を続ければ陣の作成は然程難しいものではありませんよ。陣は魔導の領分なので、発現の仕方が個々とは違う魔術とは違い、理論さえわかっていれば赤子でも作れます」
それは言い過ぎではないだろうか、とも思ったがやってみれば実際容易いのかもしれないと考え直す。カルフの出す課題は頭を悩ますものもあれど、解けなかった事はなかった。難易度を彼が私に合わせて出してくれているからだろう。ならば、魔導も魔術もカルフが教えてくれるというなら、きっとその言葉の通りになる。
「これはどんな魔法なの?」
「魔法ではなく、陣を用いた物は魔導と呼ばれます。これは複数の属性が重なっていて、主たる効果は忘却と思考の意識をずらすというのが半分。後は複数効果が重複してはいますが、表だって出る事は滅多にないので今は気にせずとも問題ありません」
カルフの掌に浮かんでいたままの模様がそのままストールの真ん中に当たる部分に記されている。指でなぞると線が描かれた部分は凹凸がなく、柔らかいストールの生地の感覚に触れた。魔力の細い糸のようなものの実態がわからず裏に表にとひっくり返してみるが、まるで初めからあった模様のように表面からは何も窺い知れない。
何度目かしらないこの世界が本当に魔法のある世界なのだと感嘆の溜息が漏れる。魔力を発するというのはどういう感覚なのだろうか。試しに自身の掌をじっと見てみるが、何も出る気がしない。
「魔導の良い部分は陣に描く記号を知ってさえいれば一つのもので複数の効果が得られることです。一つの陣で複数の記号を調和させるには幾つかの知識は必要ですが、お嬢様ならすぐに覚えられるでしょう」
「どうやったらカルフみたいに魔力を出せるの?」
少し首を傾げたような仕草をしたカルフは言葉の意味を理解したというように、目元を緩めた。表情はそれこそあまり変わらないが、目元だけ彼はその感情が豊かだ。あまり目を見ながらの会話は得意ではなかったはずなのに、その不思議な色の眼に惹かれる。
「初めからこれを行うのは少々難しいかと…そうですね、魔力を通した炭で陣を描くので毎日その陣に魔力を通す練習から始めましょうか。そうすれば、自然と魔力を発現するという現象に馴染んでいくかと」
「炭に魔力?」
「はい。世を構成する精霊達に魔力で以て働き掛けるのです。魔力で力を働き掛けたものは2,3日は維持できますので魔導の練習は3日に一回にいたしましょう。なぞった陣に苦なく魔力が流せるようになったら次の課題にしましょう」
「せいれい?精霊ってあの精霊?本当にいるの?」
「お嬢様がどの精霊を想像しているかは存じ上げませんが、精霊はいますよ。大気も水も土にも、それこそ人が熾す火にも精霊は宿っていますから。彼らは魔力を食べて対価をくれます。魔導と魔術の発露は精霊への力の働きかけに近いのです。それぞれどちらも少しづつ違ってくるのですが、精霊達にとってはそこに大きな差異はないので、魔力の行き来で精霊との力の行使ができる、ということを覚えていただければよろしいかと。精霊たちがいるからこそ魔導も魔術も人の手で成り立ち、日常に溶け込んでいます。彼らと我らは共生関係。互いになくてはならない存在です」
カルフの口から飛び出たファンタジックな言葉に呆けてぱかりと開いた口をカルフの手で以て閉じられた。猫背気味になっていた背を正して、精霊とはどんな姿をしているのだろう、と想像する。
「会ってみたいです!どこにいったら彼らに会えるの?」
「会う……ですか?」
お嬢様は変わってますね、と言いた気な雰囲気だ。実際そう思っているのだろう。じっと見下ろしているカルフは、言葉を探しているというよりも珍獣を見た時のような雰囲気さえある。
精霊なんて聞いたらわくわくしない人類はいないだろう、と断言したい。会えるものなら会ってみたいし、会話できるなら会話もしてみたい。あちらでは、妖精なるものは小さなおっさんの姿をしているなんて話もあったが、さすがに小さいおっさんではないだろう。それに妖精ではなく精霊だとカルフが言っていたし。
「彼らはどこにでもいるので、どこにいるというよりは此処にもいる、と言えばいいでしょうか。見る為には天性の才能がいるので才のないものが、何もなしに見えることは難しいですね……少々非人道的な事をすれば見る事もできなくはないですが、あまりおすすめはいたしません」
「非人道的?」
「眼球を切開して直接異界の扉の魔導陣を施すのです。精霊はみえるようにはなりますが、それ以外は見えなくなりますね」
何という本末転倒。見るためだけに払う代償が大きすぎる。いや、私がだけと思うだけで、精霊を見れるというスキルは特別なことなのかもしれない。魔力なるものを捧げてその対価として容易なるままに力を行使できるというのだから、そこで見合って対話すればさらなる力の向上も適うのかもしれない。すべて想像にすぎないが。
しかし視力を犠牲にして精霊と会うという手段など取れるわけもない。何となく会ってみたいな、という心持だっただけなのに、眼球を切開する様を想像してしまった。ぞぞぞっとした嫌なものが背筋を這い、思わず二の腕をさすった。想像しただけで痛い。眼球に切開とか、眼球にメスが迫ってくるのを見なければならない苦行、メスが眼球に迫る様、きっと眼球が動かないように何か施されるのだろうなと勝手に想像する思考に元々減っていた体力が更に激減したような気さえする。
がっくりと肩を落として落胆の意を示したのに、お嬢様がやってみたいと言わず安心しました、などとカルフは言う。私を何だと思っているんだ。さすがにそんなに大きな代償を払って好奇心だけで動く訳がない。
不満を込めてカルフを見上げるが、変わらず彼はゆったりと笑うだけだ。
そういえば、と思い出す。
「そういえば、夕刻まで帰らないと言ったのに帰りが早かったのですね。予定が早く終わったのですか?」
口に出した途端に、その眉間がぴくりと動いた。じっと見ていなければ気付かなかった僅かな変化。微笑みは浮かべたままだというのに、苦いものでも噛んだようなカルフと目が合った。今日は本当に珍しい事ばかりだ。こんな表情のカルフは初めてみる。
出会って1カ月とたっていないのだから、それこそ知らない事の方が多いが、ことカルフの態度に対してはほぼ数日で把握したと思っていたのだ。
決してでしゃばらず、アルカイックスマイルが如き微笑みを浮かべながらも控える姿はまさに物語で読んだような執事と呼ばれるそれに近いのではないだろうかと思っていた。残念ながら私が暮らしていた日常の中ではその様な職の者とはであった事はないからあくまでもこれは想像に過ぎないけれども。
物腰の柔らかさと反比例した鬼教官が如き教育者の顔を見始めてから、生で拝めるうちに拝んでおこうなんて考えは数日で消えたが。
ただ膜一つ隔てたような他人行儀さは仕方なかろうとは思っていた。だって正に他人に他ならないからだ。信頼と信用は長い時を重ねてできるものだと私は知っている。長期戦になる覚悟と長い目で見る事を見据えて、楚々と精一杯のお嬢様を演じては見上げた先の顔色を読んで一喜一憂を繰り返している、今もだ。
カルフが佇む姿、物腰は極端に言えばお客様対応とでも言えばいいのだろうか。私はあちら側の世界で度々目にしてきた接客とでもいえばいいのか。例えば、某ガイドブックに星を三つ頂くようなホテルマンに接した時のような、或いは観光名所でお寺を尋ねた際に僧の方に説法を受ける時のような心地とでも言えばいいのだろうか。彼の態度は柔らかくはあり、決して不快を感じるそれではないが、膜一つ隔てた他人のそれだ。
ある程度、感情を見せてくれてはいるが、本当に彼がそう思っているのかは私には知れない。