師と呼ぼうかそれとも先生だろうか
玲瓏な笑みでこちらを見下ろし、佇む人がいる。
片手には水差し。もう片方には陶器のカップ。加減は如何でしょうか、と問いながらもその笑顔の裏に鬼が見えた。彼の笑みを例えて鬼と伝えても伝わらないであろうが。いや、例えば意味が通じるにしてもそう例えたなどと口に出す迂闊さは流石にない。
関係ないことをつらつらと思い浮かべて、返す笑みが引きつっているのがわかってはいる。一方、一向にカルフは口を開く様子はない。てっきり追及されるのかと思えばその気配はなく、その恐ろしく寒々しい笑顔を張り付けたままこちらを見下ろしている。クッションを背に寝台で起き上がっている私は目をそらすこともできずにまるで蛇ににらまれたカエルのように見上げ続けた。
そろそろ首が痛い。これはこっちから話を始めろという合図なのだろうか。
弁明を待つとは聞こえがいいが、気分は捕殺前の鶏だ。今日はどんな締め上げ方をされるのだろうか。
いや、一歩譲って今回の事は前面に私の行いの悪さだ。がしかし、もうこう少し手心は加えられないものか、と伺うように見上げる。やはり穏やかそうなその顔とは裏腹に物騒な気配を纏わせたままのカルフの笑顔にいっそう口を噤む。第一声を間違えるとこれは間違いなく耐久お説教コースになるのではないだろうか。
差し出されたカップを受け取って目をそらしても大丈夫なのだろうか、と恐る恐る手を伸べて受け取った。視線を落とすように日に焼けてない手に目を向けてじっと見る。特に何も言われなかった。
痛いくらいに沈黙が落ちても、カルフは口を開く様子はない。寝台横に水差しを置いて、手を後ろにまわしたままにこやかにこちらを見下ろしている。恐ろしい。
しばらくうろうろと何処を見るでもなく視線を彷徨わせて、小賢しいあれこれを考えていたが、止めた。あれやこれやと代替案は幾つか出てくるが、決定的な打開策はこれといってない。そもそも言い訳して失望された場合、立ち直れる気がしない。
だから謝罪のタイミングをうかがっているが、しぃんと静まり返った室内に口を開くのさえ怖気づいてしまう。人間、時を経れば経るほど素直に謝ることが難しいとは聞いていたが、己がそれを実感することになろうとは。
いや、だって知らなかったんだもん、と心の内は駄々をこね返す。それでも迷惑を掛けた自覚は大いにあるので猛省とはこれのことをいうのだろう。
帰ってきたら血まみれスプラッタを見る羽目をなったカルフにはまず謝罪が正しい道筋なのではないだろうか。しかもどういう原理かはわからないが、真っ先に元通りに治してくれた彼の対処に感謝しかない。同じ立場であったなら、カルフ同様の対処が自分はできただろうか、と考えると頭が上がらなくなる。
社会に出て講習の一環で救急救護を習った事はあるが、あのように咄嗟に判断できるかと問われると難しい。慌てふためく自身の姿を想像しなくても手に取るように思い浮かべられる。
手の内の白いカップを見下ろしていると、揺れる水面に自分の瞳の色をみつけて視線を上げた。一息吸うと、立ったままのカルフがわずかに聞く態勢に傾けてくれるのがわかった。彼がここまで私の話をなおざりに聞かなかったことはそういえばなかったな、と思った。
「もう大丈夫です。本当にごめんなさい…心配を、かけましたか?」
「まったくです」
いつもの歯に物がはさまるような物言いではなく、ひどく率直なその言に目を丸めると、すっと目が細められ、ぴゃっと背が伸びる。
最後の言葉は聞くつもりがなかったのにするりと言葉にしてしまった。
一応、心配はしてくれたらしい。まぁ、目の前であれだけの惨状見せれば、誰でも心にもなくても心配するような口ぶりはするとは思ってていたが、実際口に出されて聞くのとは実感が違う。
カルフがどう思っているかは私には推し量れるわけもないが、少なくともそう言ってくれる程度には私に心を砕いてくれているのであろうという事実にじんわりと胸が温かくなる。
ただ、申し訳なかったという気持ちの反面、心配されていたのか、という不謹慎にもどこかふわふわと覚束ない気持ちにもなった。
心配してくれたのか、とカルフの言葉を内で反芻する。
ただ、その余韻に浸る暇もなく、カルフの追撃が来た。
「お嬢様、ご自分が何をなさったか自覚はございますか」
「はい。ごめんなさい…カルフの許可もなく、勝手に地下におりて…しかも貴方のランプも割ってしまいました」
割ってしまったランプの補償はどうすればいいのか。
こちらの貨幣価値や物の価値感等々も未だ学習中ではある。彼の物が彼にとっていくらの価値があるのかは別としても、誰かの物を損なってしまったという事実は変わらない。しかもそこに無断で持ち出しても付くのだからそれがどれだけ最悪なコンボなのかは想像しなくてもわかるだろう。どうやってカルフへの補償をすればいいのか、と頭を悩ましては、自身の至らなさに打ちのめされる。
「違います…いえ、本来下働きの通用口を通った事は、貴女の身に有るまじき行為ですが、申し上げたいのはそこではありません。いくら貴女がここの主とはいえ、勝手にこの屋敷の魔道陣に触れるなど…それほど外に出たいのであれば、伴をすると言を誓いましたが、それが信じられなかったのでしょうか」
「魔道陣?」
オウムのようにカルフの言を言い返して、呟く言葉にぴたりとカルフは動きを止めた。
「……お嬢様、恐れながら…以前の教育係より基礎の魔導と魔術は学習をお修めしていますね」
カルフの言いようは疑問の体をとってはいるが、言外にそんなわけないだろう、という含みをもって聞こえた。何かそれらを知らなければまずいのだろうか、と首を傾げると増々カルフの顔は険しくなっていく。
少し逡巡する。
見たあれらは本当に魔法なのか、と今更ながら思い起こし、自在に使えれば面白い事が色々とできそうだとも思った。
この世界には魔法なるものがあるのだ、という衝撃は記憶に濃い。
損なわれた指が元通りに戻ったのだから、いまさらそれを信じられないとは言わないが、そんなものが本当に現実に存在しているのか、という妙な感慨はある。
「お嬢様」
「あ、えっと…それは、どちらも大切なものなのですか?私の記憶違いでなければ、正式にそちらを習った覚えはないのですね」
思考が逸れた事に気付いたのだろう。妙に低い声音のカルフの言に慌てて返答を返した。カルフはなぜか妙に鼻が利く。なぜ別の事を考えているのに毎度気付くのだろうか。
以前、教師役のような人がいた記憶はうすらぼんやりと思い出してはきたが、覚えている数はそう多くない。私の予想するところは在任期間が短かったのではないだろうか。その短い期間でも優先して習ったのは文字の読み書きや礼節、主に受け答えの練習など、本当に基礎の基礎だったと覚えている。以前の稚い記憶を探ってもカルフのいう魔導や魔術の様な記憶は出てこなかった。
覚えていないのか、はたまた習っていないのか、どちらとも判別はつかないが、少なくとも私はカルフがいうどのどちらも知らない。
以前の教育係なる人が判明すれば、ひどい言いがかりになるかもしれないが、知らないものは知ったふりなどできないし、この状況で特に親しみも感じていない教育係を擁護する利はない。どこともしれぬ赤の他人とカルフの信頼を比べるまでもないが、信頼されるならばカルフの方がいい。
「習ってはいない、と?」
「はい、そうですね。正式に習った記憶はないですね」
「そう、ですか」
殊更ゆっくり相槌をするカルフの気配がよりいっそう物騒になっていく。
笑みをたたえるカルフのその表情からごっそり感情そのものがそぎ落とされて、ひゅっと心臓が縮み上がった音がした。
「あ、えっとごめんなさい…」
「何の謝罪かは推察しかねますが、それが学習してあるはずのことを教えられていないということなら、お嬢様が謝罪することではありませんよ。そもそも下働きに謝罪をする必要はございません」
いや、推察できてるじゃんとは言わない。
張り詰めた弓の弦のような雰囲気が言葉と共にゆるゆると緩んでいく。
「家人が選出した教師以外が魔導と魔術の基礎をお教えするのは本来御法度ではありますが……お嬢様」
はい、と相槌をうったにも関わらず、こちらを見下ろしたままカルフは口を開かない。何か言いたいことがあったようなのに、と首を傾げて彼が話しやすいように促す仕草をするが、目を伏せられた。
何をそんなに言い難い事があるのか、と待つが、その様に言い淀む姿は初めて見る。
吐息一つ吐いて、カルフは一つ提案を出した。
伏せたままの目がこちらをまだ見ない。
「お嬢様の許可を頂ければ、今後魔導と魔術の課題を出させていただいてもよろしいでしょうか」
「カルフが教えてくれるの?」
「はい。お嬢様に差し支えなければ、の話ではありますが」
「私はカルフが教えてくれるなら、もちろん嬉しいけれど…」
これ以上の業務負担は彼の日常生活に支障がでるのではないだろうか。
カルフが教えてくれるなら私に否やはない。寧ろ知らない誰かから一から習うより彼に教えを乞う方が私にとっても都合はいい。今まで幾つかの課題を彼に課されたが、どこかで教師をしていたのではないだろうか、と思う程カルフの教えはわかり易い。もしかしたら、この職に就く前はそのような職に就いていたのかもしれないが、個人的な事に踏み込んで聞いていいのかわからず聞いた事はなかった。
「本来、魔導も魔術も家に連なる血の近い者か性質が近い者が基礎教育をするのが常です」
「それは、それ以外の者が教育すると何か障りがあるから?」
聞くとカルフから否定の言葉はなかった。
「例えば同じ効果の術を発動する際、その発現方法は個人に依ります。その個人の部分が血統に因る継嗣であることが多く、血縁者の教育者である方が望ましいのはそういう理由からです。たいてい魔術の発現方法は一族の秘中の秘である部分が多いので属性の違う者が教育を施すのはできないとはいいませんが、大変難しくはあります」
できなくはないが、習得までがひどく困難な道になるという意味だろうか。
言葉を幾分か砕いて聞いてみるとカルフはそうだと頷く。
「基礎さえできれば、応用はどの様にもできるので、その部分さえできていれば以降の教育者は誰でも、それこそ個人で研鑽を積もうとかまわないのですが」
そうか、私はその教育を施す事すら拒否された、という事なのか、と理解した。
「魔導も魔術も使えれば確かに便利そうではありますが、カルフの気が進まないのであれば、私はこのままでも構わないですよ」
「……お嬢様、魔道も魔術も日常生活を送る上で必ず必要となってきます。市街へお出かけになられたことがないので知らないとは思いますが、ほとんど魔力を持たない労働階級の者であっても魔術を使って生活をしています。屋敷内だけであればそれほど必要ないかもしれませんが、いづれ外に出る事になればそうも言っていられません。魔術の発現がなければなぜ使えないのかと訝しむ声も出るでしょう。お嬢様の身分であればその他の者が身の回りを整えるのが普通ですが、それでも一つも魔術を使わないというのは異常ということは頭の隅に覚えておいてくださいませ。それほど魔術というものは生活に密接しています。それに、お嬢様の魔力をもってして魔術も魔導も何も知らない、という状態ではいられません」
「見ただけで魔力の量はわかるものなの?」
「隠されていないのであればおおまかな量はわかります。その事もどなたにもお聞きしたことはないでしょうか」
返答に困る。本当に私はこれに関して何も教えられていなかったらしい。
屋敷以外を知らないので、ほぼ軟禁に近い待遇であったのだろう事は予想に難くない。おそらくではあるが、外を知らないのであれば必要ないと放置されていたのかもしれない。それとも近親の者で教育者になりたいと手を上げる者がだれもいなかったか。どちらにせよあまり気持ちのいいものではない。
曖昧に笑って誤魔化すと、カルフは少し口を開いてからきゅっと口を引き結んだ。溜息か何か吐きかけたのかもしれない。
「身を守る術を身に付けなければ、お嬢様のご年齢でその魔力量は人さらいにあう可能性も出てきます」
「ぇっ」
「お嬢さま」
「あ、いえ何でもありません」
油断して出たそれさえも許してくれないらしい。発声寸前に気付いたが抑える事ができず、声を小さくすることで誤魔化そうとしたが、彼の地獄耳にはもちろん届いていたようだ。
そうか誘拐か、と述べられた言葉を頭の中でこねくり回す。
耳慣れない言葉だ。
決してゼロではなかったけれど、ごくたまにニュースで聞くくらいであまりにも馴染みのない事。それをぽんと幼い子どもに言い聞かせるくらいにはここのあたりではそう縁遠いものではないのだろう。
というよりやはり治安はあまり良くないのか、と半ば予想はしていたが、実際それを耳にして思いのほかがっかりしている自分に気付いた。どのくらいの歳なれば勝手気ままに出かけることができるようになるだろう、とも同時に考える。もしかしたら成長しても女子供が一人歩きするには難しい世情であるかもしれないとも。
「その、人さらいというのはよく起こるの?」
「ここは聖都なので教会関係者が目を光らせてることもあり表沙汰にはめったにそのようなことはありません」
「表沙汰には?」
「大きな都市ですから人の出入りは当然多いのです。この頃は検問も幾年か前よりは簡易になっているので無法の者が出入りしていてもおかしくはないのですよ。貴族関係者のトラブルがあれば可視化はされやすいですが、それ以外となると目の届かない所も当然出てきます」
「ということは?」
「お嬢様」
当然ながらこの聞き方も却下であるらしい。半ばわかっていたが、畏まった喋り方というのは肩がこる。私とカルフしかいないのだから、これくらいなら許してくれてもいいのではとは思わなくもないが、そこの線引きはカルフには許しがたいことらしい。口調を改めなければ先を話してくれなさそうな雰囲気でさえある。いや、実際話してくれないだろう。
喋り方でどこまでカルフが許してくれるラインか実験しているのがそろそろバレそうな気配はある。私は気安くしたいのだが、彼がそうとは限らないと思うと何となく面白くない気持ちはある。権限を振りかざして強制なんてことはしないが。
「でも魔術を習ったとしても、私くらいの体格であれば大人の人に強引にされたら抵抗の暇もなく、あっという間に連れ去らわれるのと思うのだけど」
「攻撃等の魔術はできないにしても防御系統の魔導であればその限りではありません。知識とそれを補う指導者の補助があれば解呪が不能な防御系統の魔導を自動に施すのも不可能ではありませんから。大抵の貴族令息令嬢には年頃になるとそれらを身に着けています。仮にそれらが突破されたとしても時間稼ぎさえできれば、危急に駆けつける事もできますし、連れ去らわれそうになったという事実が一瞬わかればどうにか対応できます」
どうにかできてしまうんだ、という言葉を相槌にしなかった自身を褒めたい。
こう言い切ってしまう辺りもしかしなくても、護衛のような事も出来るのだろうか。カルフの本職は本当に何なのだろう。見上げてみるが、もちろんカルフが私の思っている事を全てわかるわけではないので心中に収めた疑問に答える事はない。聞きたいような聞きたくないような微妙な気持ち。
それともこの世界では、人に仕えるという事はこのくらい出来て当然ということなのだろうか。そうであるなら、私は人に仕える仕事はできなさそうである。その職に就けるかどうかの資格の有無は別として。
本当にカルフが当たり前のようにするあれやこれやがこの世の基準か、と思わないでもないが、比べようにもカルフ以外を知らないのだから判断などできそうにない。
「魔導も魔術も何も知らない状態ではそれらを発現することさえできません。魔力を発する自身の回路と術が結び合って初めてそれらが発動できます。ですから、お嬢様のそれらの教育は急務であると恐れながら進言させていただきます」
「自動化できるのに自身で魔力を発する事ができなければ使えないの?」
「ところ構わず無差別、というならできなくもないですが……お嬢様はそちらの方がよろしいですか」
思わず首をぶんぶんと振ってしまった。あまりに勢いがよかったせいか心なしか気持ち悪い。
淡々と事実を言っているだけなのに言い方が恐ろしい。事細かく説明されたわけでもないのに恐らくひどいことになるのだろうと漠然と予感させる声音だった。