知らないものに触ってはいけません
朝食後に自室で寛いでいた私に、では言って参りますお嬢様、と律儀に挨拶に来たカルフを見送った。おそらく課題をこなしているのか見に来たであろう。慌てて教材を出した私に二三言の小言があり、精一杯反省しているというようなフリをみせて何とかまだ言い募りそうなその唇を、ほら早くしないと夕飯までに間に合わないかもしれないと言って強制的に閉じさせて、いってらっしゃいと見送った。完全に油断をしていた。
それから数刻は大人しく机に向かってはいたが、屋敷内が静かすぎる程に音がなくなってからたまらず廊下を出た。大人になってから一人の家に慣れたとも思っていたのに、たった数日カルフの生活音がそばにあっただけなのに、それが聞こえていたのがなくなっただけでこうも落ち着かなくなると思わなかった。
彼の行く先を音で探りながら屋敷を探索していた時はあんなにわくわくしていた。それがなくなって途端、一人ぼっちの屋敷は火が消えたように静まり返って落ち着かなくなる。それもこれも此処が幽霊屋敷のようだからだろうかと口に出して文句を言ってしまった所で、薄暗い通路にかち合ってぶるりと背筋に冷たい何かがはしったように錯覚する。他人からみたこの家の正しい認識をいまさら思い出してから、こわくなんてないさ、と子どもの頃に聞いた歌を口ずさんで自分を奮い立たせた。
日当たりがあまりよくないせいか昼前だというのにこの屋敷の廊下はいつものように薄暗い。ランプの燃料がもったいないからとカルフは昼に灯を点けない。勿論、彼はそう言った事は一度としてない。何とはなしに目についた先にそこかしこで節約らしき跡がたびたび見えて、私がそうなんじゃないだろうかと勝手に思っているだけ。ただその予想はあまり外れていないのではないかとも思う。ここは、これだけ大きな屋敷と敷地があるにも関わらず、絢爛とは程遠い。
それに陽が落ちてからも私の通る道にしか灯は灯らない。だからそうなのだろうと勝手に私が判断しているが、屋敷の運用資金もあまり与えられていないのかもしれないという予想。だから新規に雇用する際の手段もないのかもしれない、と。本家から採用されたらそれはそこから出るだろうが、下働き等の資金はここの屋敷から直接出ていたのかも、と。
質素極まる食事を思い出して気落ちする。もし庭を自由に出られるようになったのなら家庭菜園でもできないだろうか。どうせカルフ以外いないのだから、体裁を整えてもしょうがない。時間はしばしかかるが、土地だけはあるのだから有効活用した方が、とまで思ってもうすぐ冬が来ると彼が言っていたことを思い出した。秋にまくような種を幾つか私は知っているが、この土地にそれがあるかもわからない。
種や苗を手に入れるにしても春先までお預けだろう。耕す場所はカルフに聞いてから、と考えてその前に説得か、と立ちふさがる難関にくじけそうになるが、そこは豊かな食生活の為に譲れない。パン以外は味に文句なんて何もないが、何せ量が足りない。一度成長期を経験した身としては、これからもっと大きくなっていくにつれの食欲を馬鹿にできないのだ。
馬鹿みたいに大食らいになる気はないが、先細りする未来を憂いながら食の心配はしたくない。それに庭や畑いじりくらいならば、カルフの手助けもなくできるだろう。お嬢様のやる事ではないと苦い顔をされるかもしれないが。でも半ば捨て置かれたお嬢様と呼ばれるだけの私にいくらの価値があるというのだろうか。教育もまともに施される様子もないから、家の価値になるどこぞの他家に嫁に出すなんて事もない雰囲気だ。幼いからまだわからないが、まともな教育を施されない子どもなど当家の当主の前にさえ出せる筈もないのだろう。カルフだけがこの屋敷にいる間はそんな未来を憂う必要ななさそうだ、というのが今の私の見解だ。ここまでくるといっそのこと存在すら忘れていてくれないかな、とも思う。
横やりさえなければ、カルフと共にこの屋敷で穏やかに暮らすのも悪くないとも思う。
ふんふんと先を考えてると幾分かこの屋敷の薄暗さを忘れていられる。この年にもなって暗闇が怖いなど、子どもみたいだが、実際今はまだ子供なのだから許されるだろうと開き直った。
そうするとまた別の疑問が幾つか頭の中でもぽこりぽこりと沸いてくる。
これまで考えていた幾つかの一つ。私が今いるの世界がいつの年代だろう、という事。
推察も判断材料が少なすぎて結論は先送りにされた。屋敷内部のあれそれを見ればそれとなく想像はできるが、結論を出すには足りな過ぎる。何よりも調度品のあれやそれやがどれも年代とちぐはぐなのも混乱の一因だった。ただ屋敷が古い故に先祖の物を大切にしているのかとも思ったが、捨て置かれているこの屋敷にそんなもの置いておくのだろうかという疑問もある。
近代に発明された備品も見つけて、ならばその時代だろうかとも思った。でも、それにしては屋敷の生活様相が古すぎる。屋敷の外に出ればわかるかもしれないとも何度も思った。ただこの屋敷の外が治安がいいのかもどうかも不明でそれが一歩を踏み出すに躊躇いが大きい。
何より忙しく動き回るカルフの一日を拘束してもいいかどうかも悩みどころであった。頼めば何とか一日くらいは空けてくれそうだが、彼の一日を潰してまでしたいことかといえば、否の方が強い。だからといって一人で外に出られる訳でもなく、疑問は宙ぶらりんのままだ。
「ここもはずれかぁ」
最近ごく身近な人が結構な頻度で溜息をつくためにそれがうつってしまったようだ。吐き出した息を思いっきり吸い込む。幸せが逃げてしまう。
配膳室の近く、控えの部屋の小さな棚や家具を見て回るがやはりと言ったように目ぼしい物は何もなかった。配膳室も中を覗き見てみたかったが、最近そこはカルフの城だ。あの几帳面が物を動かされても気づかない何て思わない。許可なく戸棚を漁る勇気はなかった。この屋敷の主は私では?と思わなくもないが、バレた時に何を言われるかわからない。部屋を覗き見るだけに留めて、大人しく撤退する。
せめて日記か何かみつかれば、とも思うがそんな超プライベートなものを置いて屋敷を去るわけがなく。カルフが設えたのか以前のように伽藍洞ではないが、それでも必要最低限といった様相だ。
屋敷の書棚にも本や書付けの紙束があったが、ほとんどが私が今習っていることばかりで、カルフがここ最近整えたのが見て取れた。そこは以前は見ていなかったが、他の部屋同様何もなかったに違いない。
厨房もあれ以来、お嬢様が足を踏み入れる様な所ではないからという理由で近づけさせてももらえない。カルフがいる間、つまりはあれからずっと入れてない。
何か手掛かりでもあるとは思っていないが、探していない場所というのは何となくマッピングで全フロアを探していない気分にさせられる。もしかしたら宝箱があるかもしれないじゃないか、なんてうそぶいてはみるもののあそこは一番最初に屋敷をうろうろした時に何もない事がわかっている。今はせいぜい食材が転がっているくらいだろう。それでも行くなと言われると天邪鬼が働いて行きたくなるのは人としての真っ当な性なのではないかと私は思う。
まぁ、だからこうなるのも当然の帰結だろう、と最初に入った時と少し様相の変わった厨房をぐるりと見渡す。
配膳室を抜けて厨房に入ったはいいが、ここも何か触りでもしたらここに忍び込んだことがカルフにバレそうだ。行ったり来たり、うろうろと歩き回るが今日はとんといい案が見つからない。
集中はできなそうだが、課題を覚える事に戻った方が有益かもしれない。この課題をこなせたら庭を散策する許可を出す、という言質もとった。ついでに春になったら畑を作りたいという事も伝えればいいのでは。いや、畑と言ったら即却下されそうだ。こうもっとお嬢様がしても許されるレベルの食用の種は何かないだろうか。畑を作ってしまえばこっちのものだ。あとは好き勝手にやろう。
そうと決まれば厨房の中を探り回る。身辺の証拠探しではなく、単純にこの時代に何の種があるか見てみるためだ。秋だから葉野菜等はあまりないだろうが、穀物類ならあるかもしれない、と。
戸棚等触らずに見て取れるのはごく一部だが、それでも幾つかの野菜は目につく。籠に積まれているのはジャガイモだろうか。それにしては細長い気もする。じゃがいもが一般的に使われているということは今は産業革命くらいなのだろうか。それにしては生活様式が後進的すぎる気もするが。こういうところでもやはり妙な食い合わなさが目に付いた。
洗い場には生ごみも溜まっておらず、洗い物の皿等も片づけられているのか特に目ぼしいものもない。使っている者の性格が何となくわかるようである。竃の中の灰もきっちり片付けられていて、微かに燃えた跡が見えるのみだ。朝のあの時までカルフがいた痕跡が残るだけで特に何もない。そんな事を思っていると何だかぼんやりとしてしまう。やはり部屋に戻ってしまおう。こういうよく頭が働かない時は何を考えても碌な事にならないと自分との長い付き合いでわかっている。
とととっと扉の前まで早足で駆けて、取っ手を握って扉を押した。眼前に広がる階下に繋がる階段を見てから、そういえばここは廊下に出る扉はなかったんだ、と気づいた。廊下に出ようと開いた扉は地下のどこかへ繋がる道のようだ。
灯もない地下へと続く階下は黒いの色がぽっかりと口を広げている。目を凝らしても先が見えそうにない。古い建築様式にはよくお酒などを保管するセラー等ある所もあるが、ここも飲料酒や冷蔵保管しておく食材が保管されてるのかもしれない。
独特の籠った空気に触れて、閉めようとした扉を途中で止めた。ここはまだ見ていない所だと思ったのだ。
この敷地内で私が目に触れてない所は外にある使用人棟の他にはここしかない。すべてを隈なく探したのか、と言われれば言葉を濁すけれど、まだ探していない所という言葉に悪癖の好奇心が頭をもたげる。
楽しい事は好き。知らない事を知れるのは楽しいことだ。しかし、痛いのも怖いのも御免こうむりたい。
半々の気持ちがぐるぐると混ざって少しの間、階下を睨むように見つめた。
好奇心が勝利を挙げた。灯になりそうなものを探し、視線は忙しなく動く。カルフは厨房のすぐ横にある使用人通路から出入りするとこが多い所為か、彼がいつも使っているであろう外套と簡易の手持ちランプが無造作に置かれていて、それが目に留まった。出かけたのにここにあるという事はこれは戸締りや外回りをするときにいつもつかっているものなのかもしれない。
ここでもまた二つの選択肢が葛藤を繰り返す。
カルフの顔を思い浮かべて、ごめんなさいと一つ謝罪をいれる。ここでも好奇心が負けなしに快進撃を続ける。少しだけ、少しだけだから、と何となく言い訳を繰り返してランプを拝借した。
そっとランプに触れるとぽっ、と火が灯って思わず目を見開いた。火種でも残っていたのだろうか。何ともカルフらしくない不用心である。謝りながらランプを借りたが、ここに見に来てよかったかもしれない。万が一火事にでもなったら事だ。
ランプを両手にしっかりと持ち直して、それではいざ行かん、といつものわくわくが胸に舞い踊ってきた。地下の探検ほど心躍るものはないだろう。小さい頃はそれこそ家の人に隠れて蔵を探検したり、天井裏、家の裏手の茂みなど子どもだけで探検して怒られたりもしたものだ。大人にしてはいけない、と言いつけられたものほど楽しいのはなんでだろうと思う。背徳感や禁忌への特別感だろうか。
階下に降りて、地下に潜ると上の気温よりほんのり温かいと感じた。それが何とも妙だ。
地下と呼ばれるそれらは用途はそれぞれあっても、家の下に作られている地下は圧倒的に気温が低いと記憶している。一定の温度を保っているから冬場はほんのり温かく感じる事もあるが、それにしても暖かすぎる。暖房を入れてるのか、というぐらいには体感温度が高い。近くに湯源でもあるのだろうか、と首を傾げる。
もし本当にそうなら大変だ。この家の風呂の源泉はもしかして温泉なのではないか。ならば、体を拭いて過ごしていた日々がばかみたいである。目の前に温泉があるというのに入らない、という選択肢はない。
でも温泉があるという事はここ一体の地域は活火山がある島、もしくは大陸なのだろう。幾つか候補を絞るが、それにしても時代をとんでいれば憶測も意味はない。さすがに時代ごとの活火山帯など覚えていない。
階段の終わりが見えて、ランプを首より高い位置に持ち変えると目の前が良く見えた。
上の階にある扉よりずっとずっと古い寂びれた木製の扉。じっと目を凝らすと蝶番の部分は随分と赤錆が目立つ。触れて扉を開けるのも躊躇うような古さだ。少し触れれば倒壊しそうな見た目をしている。
ゆっくり近づいて、頭をかばいながらちょいちょいと扉を突いてみる。思ったよりもしっかりとした造りのようだ。少なくとも開こうとして突然扉ごと倒れてくる心配はないだろう。
上階と同じように扉は鍵穴が見当たらない。こちらも特殊な鍵の掛け方をする扉なのかもしれない。開かなかったらどうしよう、とも思ったが開かなかったらその時はその時だ。特に損するわけでもない。私が此処に降りるか否かの葛藤が徒労に終わるだけだろう。
取り合えず試しにと扉を押してみる。するとギィと音をたてて難なく開いた。上階とは違って鍵はついていないらしい。あまりの呆気なさに思わず開いた口がぽかんと開いたままになったが、ここは鍵をかける必要もない部屋なのかもしれない。
何となく、お邪魔します、と小さな声で呟いて部屋に踏み入る。
この屋敷は自分の家なのだからその言葉はおかしいと自分でもわかっているのだが、何となく地下の雰囲気が上階の普段の屋敷と違い、何となく他人の家に上がる感覚にさせられる。近くに保護者のカルフがいない所為かもしれない。私のテリトリーはここにはないと錯覚させられるのだろうか。
ゆっくりと扉を開いていくとここまでに繋がる階段とは違い、部屋全体がぼんやりと青白く光っている事に気付いた。光源はなんだろう、と首を傾げる。
咄嗟に出てきたのはLED式の電灯だが、この屋敷は電気も通ってなさそうだし、そもそも電気があるかもわからない。だか、ランプで普通に炎をもやしてもこんな風な光源にはならないだろう。ガスを勢いよく燃やしているのか、はたまた銅でも燃やしているのだろうか。不自然なほどの青い光だ。燃やしているにしてもこんな目の届かない所にカルフは火をおこしたりはしないだろうし、何より燃料がもったいなさすぎる。
ではこの光は、という疑問は膨れる。でもその逡巡もすぐ霧散した。考えるよりも早く扉は開き、部屋の全貌を見せた。然程大きくもない部屋はその場に立っただけで視界の全てに収まる。
その先に見えた物はここに降りてくるまでに予想したどれとも違っていた。地下は地下だが、何かを保管しておくような部屋ではないようだ。そもそもガランとしていて、部屋の中央に坐するソレ以外の物は何もない。何の部屋か、と問われた時に私はその部屋の説明に窮するだろう。自身の暮らす屋敷だというのに、以前の記憶にもソレの情報は一切ない。そもそも私はあれだけ情報であふれる日本という国で暮らしていて、何か情報媒体ですらこのような物は見た事もなかった。
これが何かと聞かれた時、私は答えを持っていない。
ぼんやりと部屋を青白く照らす光。部屋の真ん中から放射線状に広がる幾何学模様の何かと浮かぶ黒いひし形の石。くるくると石はゆっくりと回転して、ふわふわと宙に浮いている。
「まほう…?」
特に何に支えられる訳でもなく、私の上半身ほどにある大きな石は空を低空で浮遊し、時計とは反対周りに回るを繰り返している。目の錯覚でなければ確かに浮いている。床に四方に広がる奇妙な紋様は一定の規則で描かれ、石と同じように線にそって仄かに同じ色に光っていた。
じっと床に目を凝らす。思わず口から零れた自身の言葉を未だに信じきれない。床下に大きな磁石でもあって、反発を利用して浮いているのではないだろうか、とも考えが過ったが、一切ぶれる様子もなく自転を繰り返すそれに自分の知り得る知識ではそんな風に奇妙に浮かぶ方はない。強い風でも吹き上げれば浮いているようにも見せられるかもしれないが、残念ながらこの部屋にそんな強風もなかった。そもそもが見た目が相当大きな石のこれが風で飛ぶような代物でもないだろう。どう考えても、あずかり知らぬ何かの力で浮いているとしか思えない。
いや、でもそんな非科学的な、とも幾つもの考えが浮かんでは消えていく。
そしてある一点に考えはたどり着いた。そもそも最初から私は大きな認識間違いをしていたのかもしれない、と。
地球のどこか、私の知る地のどことも知れない時代に生まれ変わった、のではなく、全く知らない世界にいま私はいるのかもしれない。
じわりとその思考が染みていくと、さっきまで温かかったはずなのに背筋をぞっと冷たい何かが通り抜けていく。
急に足元が不安定になったような気がした。
突然その事実が降ってわいたわけではない。むしろ、なぜ今までその事に気付かなかった方が不思議だ。それにここがどこであったとしても今の自分は子どもで、状況を打開できるような手立ても繋がりもないのは変わらない。それでもどこか楽観していたように思う。
ここは私が知る世界ではないのかもしれない。
パリンと音が鳴って、なんだと見下ろすと手元からランプが消えていた。床にはきらきらと割れたガラスの破片がそこかしこに散らばっている。
ああやってしまった、と思うのに、一方の心のうちは何かがつまったように痞えてうまく考えがまとまらない。
ふらりふらりと足が吸い寄せられるように中心へと向かっていく。
ここで目が覚めてから今までどうにかなるかもしれない、という何の根拠もない自信ががらがらと音をたてて崩れていく。私はどうすればいいのだろうか、私がこれから行く先の道には何があるのだろうか、何もわからない。
此処はどこで、私は誰なんだろうか。ここには何もない。私が今まで生きてきた人との繋がりも築いてきた何もかもが。
ひょっとしたら、本当に何もないのかもしれない。捨て置かれた屋敷の中、誰に何を期待されるわけでもなく、屋敷と一緒に捨てられた子どもが私なのではないだろうか。未来には何もなく、ただ今を生きているというだけ。歯牙にも掛けられぬ存在であるが故に生死など誰にとってもどうでもいい存在なのかもしれない。
目の前に迫る黒いくろい真っ黒な石を見上げる。じっと見つめると床の紋様から糸のような細い線が出て、石を取り囲むようにふわふわと浮いているのに今気付いた。青い光に照らされてきらきらと光る様は一種、幻想的にも見えて、何の糸だろうかとも思うが、仄かに光る青は何の安らぎも与えてはくれなかった。心臓はただ忙しなく騒いで、浅い呼吸に胸が詰まってただただ苦しい。深呼吸をすれば、むせるような咳が出てしまいそうで、その苦しさを堪えるしかない。
じっと見つめるその不可思議な石は暫く見つめていても何の変化もなかった。ただ、この部屋を開けた時と同じく、規則正しくクルクルと回るだけ。それに何の意味があるのか私にはわからない。
中央近く、円に描かれた線を踏み越え、手がもうすぐでその黒い石に触れる。
その瞬間、ごぅっと耳元で大きな音がうねりを上げた。普段耳にする事のない音だ。近い音も私は知らない。初めて聞く音。
伸びた手が体ごと押し返されて、足の踏ん張りが利かない。2、3、4歩と後ずさって、体を支えきれず尻から崩れ落ちた。痛いという感覚はない。それよりももっと強い感覚が私の五感全てを支配したからだ。
痺れる、熱い、ガンガンと耳元で鳴る頭の中の音が止まない。触れようとした指先から目が逸らせない。
「あ…」
ぴちゃりぴちゃりと滴り落ちる血。目の前が真っ赤に染まって、これは何だ、と考える脳がまず思考を放棄した。
幼い、何とも頼りない指だと常々思っていた。記憶ではつい最近まで成人していて、自分でなんでもできる大人だと思っていたから、その頼りない指を見る度に無性にやるせなくなったりもした。
それでも今はそれが自身の手で、いくら遣る瀬無かろうと折り合いをつけなければとは思っていた。未だ見慣れた手とは言い難い。それでも今見えているものを現実のものだと思いたくない。
剥きだした骨は何とも現実味が薄い。指が、ない。
小さなちいさなその手の先。先程まであった筈の稚い指が見えない。生々しい肉の色が覗いて、赤い赤い色を滴らせる。先に少し見えるのは恐らく骨だろう。
絶叫が聞こえた。誰の声だと、煩いと、忙しなく思考は切り替わって、起きた事と感情を結ぶのが酷く難しかった。
それが自身の声だと気付いた時、一つの感情に思考が奪われた。強烈な感情。
苦しい、痛い、助けて、痛い、とぐるぐると回る。いつの間にかうずくまっていたのか、床に描かれた奇妙な紋様に自身の血が点々と夥しく散っている様が見えた。
耳は何かの音を拾った気がするが、それが何かは理解ができない。
ただただ、経験した事のない身体を裂く感情が巡る。
大きな音と共にぐっ、と体を起こされた。重い瞼をゆっくりと上げると、ここ数日で見慣れた顔の見慣れない表情と出会う。
嗚咽が喉に詰まって声が上手く出ない。名を呼んだはずの口は音にならず、身体が引きつって喉の奥が苦しい。
痛みも苦痛もまだまだ身に巣くうように蝕んでいたが、その不思議な色の瞳が見えてぐちゃぐちゃだった感情が一つにまとまる様に感じた。今更この指がどうなるとは思わなかった。それでも此処に独りではなかったという安堵が胸に広がる。途端、堰き止められていた物が決壊したように溢れる。視界が滲んで、ひどく彼の顔が見づらい。
腕を伸ばして、その指先がまた目に留まり、脳からざっと血の引く音がした。惨たらしい小さな手。血の気が失せるとは正にこのことか、とどこか俯瞰で見ている私が冷静に笑っている。
力を入れられなくなって、落ちるように腕が力を失くした。床に落ちた掌はさぞ痛かろうと想像するが、焼け付くようなこの痛みの前では些末事だろう。
浮遊感と共に視線はぐっ、と浮いて、腕は落ちる前に体ごと抱き上げられる。床に落ちる前に腕ごと抱き上げられ、栗色の髪が顔にかかった。彼が身を守るように抱き留めてくれたらしい。
「お嬢様、どうしてここに」
「カ、ルフ…」
彼の言を遮る事になってしまったが、名を呼ばずには居られなかった。縋るような自身の声が何ともみっともないと自覚しつつ、零れる言葉を止める術が今はない。
「カルフ…私、ゆび…指が」
「大丈夫です。大丈夫ですよ、お嬢様」
はっと彼は息を飲んだようだった。体を支える腕とは別の手で力なく上げた掌をそっと包まれる。そこからじんわりと熱が与えられたように温かくなる。焼け付くような痛みが和らいだ気がして、詰めていた息が、呼吸が落ち着いていく。
目に当てられた掌は青い光を遮って、大きな手が額に触れる。その暗さに瞼をゆっくり閉じる。痛みが和らいだ気がして、詰めていた息がゆっくりゆっくりと整っていった。
名前を呼ぶ。声が微かに震えていてみっともないな、なんて思って、微かな声を拾って返事を返してくれる存在に降り積もっていた恐怖が少しづつ和らいでいた。
目元から掌が離れて、ひどく居心地の悪い青い光が瞼の裏を焼くが、ゆっくりと瞼を開けた。見上げるとカルフは真一文字に口を引き結んでいる。
「カルフ?」
伸びた手を取られて、今度の呼びかけには返事が返ってこない。そっと手を取られ、掌ごとその大きな手で包まれて、じんわりと暖かさが伝わる。
「ごめん…なさい…」
カルフは言葉を求めた訳ではなかっただろうが、思わず言葉がついて出た。思わず視線を落としてしまった。失望されて、その顔を正面から向き合う勇気が今はない。彼はあんなにも心を砕いてくれているのに、私は大人しく留守番でさえ一人前にこなせない事実が此処にある。
正直何でこんな事になったのか未だに理解ができないが、痛みは本物で、カルフにあんな顔をさせてしまう事をしでかしてしまった事だけはわかる。代償が指、というのはあまりにも大きいが。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
カルフの言葉は少ない。
大丈夫だと繰り返す声。たったそれだけなのに泣きたくなるほどの安堵があった。あんなに寒かったのに今は温かい。
だらんと力の抜けた腕ごと手をカルフに抱き留められていて、肉の見えた指先が見えないだけで恐慌が遠い。真っ赤に染まった袖口が何とも無残で、それを見ているとどれだけひどい出血だったのかわかるが、未だに何が起こったのかは理解ができなかった。
さすがに痛みで難しい事を考える余裕はまだなくて、あの部屋の中央に陣取る石か糸か床に描かれた何かが私の指を損なったことだけわかるがそれだけだ。部屋の中央を見る勇気はまだない。
ぼんやりと起こった事を思い起こして、小さな手を包むその手を見ていると、離されるような素振りが見えて、気付いた時にはその胸に顔を擦り付けるように縋っていた。どうか離さないで欲しい、と。
「お嬢様、治療をするだけです。手がそのままでは差し支えがあるでしょう」
宥めるようにとんとんと背を叩かれる。説得するのにその言葉はどうだろう、と思う自分がいるのに、少しだけ躊躇った後、考えとは裏腹に、うんと小さく頷いていた。垂れる栗色の髪から視線をたどって、穏やかに笑ったその人を見上げる。慰めてくれているのだろうか。いつものようにどこか他人事のような微笑みではなくて、此処にいてくれているような気がした。本当に気がしただけだから、私の気のせいかもしれないが。
あの時から多少和らいだものの、体は熱を出したように苛んで、少し動くだけで、手の先から引きつるような痛みを訴える。
爛れた手を取られ、大きな手に包まれた。カルフの手の甲にぼんやりと何かが浮かんでいる。目を凝らしてもそれが何か確認できない。まるで認識するのを阻まれているような不思議な感覚。何をしているのか問う前に仄かに青い光に照らされていた室内がカルフの掌から齎された柔い二色の色に包まれた。
あっと驚く暇もなく、体の中身をかき混ぜられているような気持ち悪さが襲う。痛みの次は何だ、と思う隙さえもない。一瞬で過ぎ去ったその感覚は、まるでなかったことのように次の瞬間には身に何一つ痕跡を残さなかった。なのに、なぜと考えると内臓をかき混ぜられたかのようなあの感覚を思い出してしまって、思い出し気持ち悪いがぐるぐると感覚を支配する。
ぐっと腕を動かすとすんなりと手を離された。あまりの気も悪さに口を押えるが、吐き出すようなソレには至らない。口元を抑えるとわずかに楽になったような気はするが、気のせいといってもいい範囲ぐらいの小さなものだ。
「大丈夫そうですね」
いや、まったく大丈夫じゃないが?という言葉は飲み込まざるを得ない。そもそも言葉を発すると気持ち悪さが胃からせり上がってきそうだ。
包んでいた指から力が緩んで離された掌に思わず手が伸びたが、それより眼下に現れた奇跡に目を見張った。
引きつるような痛みはもうない。床と袖口、胸から下までの衣装からはまだ夥しいほどの血痕が残るが、伸ばされた小さな手の先に数分前と変わらぬ指が見えた。剥きだしだった骨は今はきちんとふくふくとした柔らかさがあって、惨劇の前の元に戻っている。
信じられないものを見た。
「治癒は苦手なのですが、私に治療できる範囲で幸いでした。違和感はありませんか」
声が耳に届いて、ばっと振り返った。いつもの声音と変わらない。どこか他人行儀で少し寂しくなる声音。付随する表情も変わらぬ表情だと思っていたのに、想像したよりもずっとずっと柔らかくて、安堵の色が滲んでいるのが私でも分かった。
それを見てしまってから、最後とばかりに堰き止めていた物が止められなくなってしまった。
無様な泣き声が部屋中に響く。言い訳とも何ともいえない支離滅裂な言葉が口から零れ、噴き出した。自分でも何を言っているのかわからない。支離滅裂な言葉は転々と変わっていって、彼の所為ではなく、自分自身の自業自得だというのはわかっているのにまるで責めるような口調でぐずぐずとした言葉を止める術が今はなかった。わんわんとこんなに泣いてしまうなんて、いつ以来なのか。感情の制御がごく難しくなっていることにいまさら気付いた。
まるで聞き分けのない子どものような振舞いに心の内の私は顔をしかめるのに、手の届くところに誰かがいてくれることに言葉にできない何かがこみ上げる。
普段はきりきりと怒る癖にこんな時ばかり彼は優しくて、そうですね、何もなくてようございました、はい大丈夫ですよ、と一つひとつ相槌をうちながら背を叩いて抱き留めてくれた。その一つ一つの仕草にいっそう涙腺が壊れて、ばかになっていしまっていうことをきかない。せめて涙を止めたくてぐしぐしと手でこすっているとカルフに手を止められた。
「目元が赤くなってしまいますから」
片手でハンカチを取り出す隙に彼がきっと治してくれたであろう指で胸元を掴む。さすがに貧弱なこの腕ではカルフの軸はぐらりとすることもなく、外から帰ってそのままであっただろうカルフの外套ごしの胸に飛び込む。
「お嬢様、鼻水がつきます」
言外に胸元から離れろと言っているのだろうが、離せとは一言も言っていないので、それをいいことに私は知らんぷりした。
体が枯れるのではないかというほど涙は尽きない。それにお世辞にも綺麗な泣き顔とは程遠いのだろう。何か言いたげなカルフの掌は少し彷徨った後、私の背にまわされて、あやすように背をたたかれる。繰り返されるそれに、子どものあやし方をそれしか知らないのだろうか、とも思うのに何でも器用にこなすカルフのそんな不器用な所を見つけて泣きながら笑ってしまう。
「お嬢様?」
カルフが声を掛けてくれるいつもの声が聞こえる。返事をしたいのに意識がどこか遠い。そこから記憶が途切れて、彼が何を呼びかけてくれたのか私は聞き取れなかった。
泣き疲れて、寝てしまうなんてまるで子供みたいだ、なんて思ったけれど、甘やかしてくれるその掌が離れるのが惜しくて、子どもの自分に甘んじてしまった。
今はまだあやしてくれる手が私にはあるらしい。