表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界転生はまず恩返しから  作者: 漱木
1.はじめての異世界は塔の見える屋敷
3/26

わたしは死んだのか死んでないのか

 ふと、自分は死んだのだろうか、と唐突に疑問が浮かんだ。あちらでは特に大きな病も持っていなかった。寝ている間に心臓発作でとか、備え付けのタンスに押しつぶされてとか、押し入り強盗が入って来て知らないうちに刺されたとかでもなければいくらなんでも死んだのなら覚えていそうなものだが、今のところそんな記憶はない。人から恨まれるような心当たりもなかった。いや、もしかしたら知らないうちに恨みをかっていた可能性はなくはないが、ごく平凡に生きていた一般人であった自負がある。あまりその線はないと信じたい。

 思い返す記憶にそれらしいものは、とここ数日思い出そうとしたが、思い出すのはとりもめもない日常の延長の出来事だ。何てことはない変哲も変化もない日常。週末はそういえば実家に帰省すると言っていたのにどうなったのだろうか、とそんな事を思い出したくらいだ。

 食前のお茶を手に取りゆっくり精一杯優雅に見えるように手先に神経をとがらせて口を湿らす程度に含む。香り立ついいお茶だ。前はファミリーパックの1つ幾らもしないティーパックを湯の中にちゃぷちゃぷと揺らしてお茶などのたまっていたが、匂いも味も格段に違う。

 いや、あれはティーパックが悪いのではなく、私がいれた入れ方が悪いのだとわかってはいるが、この味に慣れてしまうと他の味に満足できなくなりそうだ。味覚というのは往々にして住環境以上にいいものに慣れてしまうのが早い。

 二口目のお茶で唇を湿らせて、どうしたものかと頭を悩ませる。


 急務だったはずの現状把握を私は気長に時間をかけてやることにした。理由は何てことはない。この家や自身の身の上を調べるにあたって匙を投げたからだ。

 まず、廃墟とまではいかないが、相応に古く年季の入った屋敷内部を長時間かけて探索するのは色々と何かが削れた。主に勇気とか恐怖心を抑える何かとかが中心に。朽ち具合や埃の被った様だとか、その第一印象を思い浮かべると夜にお手洗いに行けなくなりそうなので考えないようにしていたが、外観や内装はうち捨てられた洋館、しかも曰く付きと言われても納得してしまうくらいこの屋敷は雰囲気がある。おまえんちお化け屋敷といわれても反論できる材料が今のところない。

 そう部屋数も多いわけではないのでざっと屋敷内部を探ったが、それでも調べられそうな所はまだ半分以上残っていた。本館にあたるここから少し離れた住み込みの使用人の棟にある部屋まで調べるとなるとそれなりに骨が折れる。それでも奮い立たせて探索した私を褒めて欲しい。褒めてくれる人は今のところ誰もいないが。

 探索したはいいが、成果はあまり芳しくない。まず資料らしい資料が見当たらなかった。子どもと使用人しかいないお屋敷で書斎がないのは検討がついていはしたが。ならばと側仕えの筆頭や代表の控え部屋らしき場所に忍び込んで資料を探ろうと検討を付けたはいいが、当初の目論見は外れて目ぼしいものはとんと見つからなかった。探索と言えばと、定番ともいえる手記さえ見当たらない始末。

 立つ鳥跡を濁さず。綺麗に整頓された側付きの使用人の部屋はベッドマッドさえなかった。唯一の使用人といっていい彼の目を盗んでまで忍び込んだ甲斐さえない。ないない尽くしの三段活用さえ嫌になってきた。扉を開けるために重い台を引きずりながら廊下を忍び足で歩き回った苦労を返して欲しい。


 そう、唯一なのである。彼こと、カルフと改めて名乗った穏やかそうに笑う栗色の青年はこの屋敷ただ一人の使用人だった。驚くことに洗濯番などの下働きさえいないのである。今までどうやってこの屋敷の生活を成り立たせてきたのか、と驚くほどの人材不足。記憶を辿ろうとしたが、何ともその辺が曖昧で、幼さ故の理由で大人たちの事情が伏せられていたのかもしれない。

 だから使用してない部屋は埃がかぶっていたのか、と納得はしたが、保護者への不快指数はさらに上方修正した。私が私として意識を覚醒させたから何とかなっているが、幼子へこのような仕打ち許しがたい。本当に何も知らない幼子への仕打ちであったら児相案件まっしぐらだ。この時代にそんなものないかもしれないが。


「お嬢様、今朝準備した顔洗いの湯はそんなに冷たかったでしょうか。こちらの不手際でしたら申し訳ございません」

「え、あ、いや、大丈夫です。何もありませんよ」


 口に手を当てて、楚々と笑って誤魔化す。不思議な色の瞳がそっと細められて、笑っているようにも見える顔に手を振るとさらにすっと目が細められる。ぴゃっと飛び上がる背を正して手を速やかに下げた。

 ここ数日で分かったことだが、カルフのこの顔は決して友好的に笑っているの訳ではないらしい。物事を円滑に進めるために相手に隙を作るためのそれだ。いったい何と戦っているんだと思わないでもないが、実際私自身に有効であったから文句もぐうの音もでない。そもそも友好的に接しているのだから何も問題もないと言われればそうなので、抗議の為に上げた掌を大人しく下げざるを得ない。私の意見は却下らしい。

 先程の言葉の注釈には変な顔をするな、という所だろうか。考え事をし過ぎて顔がいくらか彼から見たら見苦しくなっていたのだろう。私はそんなつもりはないが。

 裏側さえ読まなければ、なんて事はない不手際に対する謝罪であるが、ここ数日の仕事ぶりで彼の卒のなさを私は知っている。寝室に運ばれる顔洗い用の湯だけではなく、水差しやうち履きの準備など不備があったことはこれまで一度もない。これは言葉の真意を読みなさいという私への課題と粗の目立つ私の一つ一つの行動への注意といったところか。この言葉だけでなく、しばしば嫌味にも似た諌言が取り留めもなく飛んでくる。半分くらい私は聞き流している。


 使用人だというのに教師のような真似事をすることに奇妙を覚えるが、それすら彼の仕事の一環なのかもしれない。使用人がどんどん辞めて、補充すらない雇用問題は深刻そうだ。おかげで一日中あちらこちらへと動き回っているカルフに申し訳ないとは思うが、一方で目がないから屋敷内を探索できているのでしばらくは忙しくしていて欲しいというのが本音だ。

 そんなもんなので、まともに雇用が出来ていないのだから、教師役の者がいないのも頷ける。もっともここの屋敷で雇われる事に対し忌避があるのは何やら理由がありそうだが。再三頭を悩ませた様に解決するための糸口を見つけられないのだから詰み状態だ。服を買いに行くための服がないといったところだろう。話が逸れた。


 以前までの私がカルフを見たことないと認識していたが、いくら優秀であろうともこの慇懃無礼さではお嬢様の前に出せなかったのだろう。いつか居たはずの側仕え筆頭のファインプレーを心の中で拍手する。もの知らずの子どもであったら外面もなにもなく泣いてしまうかもしれない。優しい好青年はどこにいった。

 でっかい溜息が聞こえて、カートが扉の向こうから運び込まれる。


「問題ないのなら朝食にいたしましょう」


 運びこまれた朝食はスープとバケットに積まれたパンという簡素なものだった。いつも思うのだが、お嬢様扱いにしてはあまりにも食事が質素過ぎないだろうか、というところだ。こちとら育ちざかりの幼女である。あまり声を大にしていいたくないが、食べたりないし物足りない。しかも用意してくれたカルフには悪いが、パンが硬すぎて噛み切るのにも苦労する。顎が痛くなるからパンをスープに付けて食べたいのだが、おそらく行儀が悪すぎるので彼の目がある所ではそれができない。スープはおいしいのにパンがあまりにも残念で涙がでる。欧州の方ではハード系のパンが主流だったと記憶しているが、ハード過ぎないだろうか。私の歯が弱いだけとは思いたくない。

 目元だけで笑う小器用を披露する彼は目の前に食事の準備をしてくれる。それが何ともむず痒い。元々わたしは、恐らく人から何かをしてもらうような身分の子なのだろう。でも根っからの庶民の私にはそれが慣れない。口癖のようにありがとうを告げるといつもきょとんとした顔に出会う。

 後の二つ目のでっかい溜息。


「お嬢様、いま屋敷には仕える者は少ないですが、これからもし人が増えるようでしたらそのような振舞いはお止め下さい。まだ貴女は幼いとはいえ、屋敷の主人はお嬢様なのですからこちらが謙りこそすれ、お嬢様からそのような振舞いは必要ありません。あまりにも頭が低すぎると貴女のその見目から侮る者が出てくるでしょう」

「してくれた事に感謝を述べるのは当たり前のことでしょう?」

「以前の教育係がどのようにお嬢様の教育を行ったのか記録がないのでわかりませんが、そこは頭の痛い問題ですね」


 言外に教育係の過失だといいたいのだろうが、残念ながら私のこれは日本生まれ日本育ちのそれだ。成人過ぎた大人がそう性格を変えられるものではない。ちゃんとするところは学習すればそれなりに取り繕うので、素の部分は諦めて欲しい。

 出会った一日目はそれはそれは使用人の鏡のように振る舞っていたカルフだが、二日目以降はずっとこんな調子だ。私としてもずっと畏まられるよりは気が楽だが、一方でまるで犬猫に躾するような調子なので口がへの字に曲がりそうになる。せめて人間扱いをしてくれ。

 物腰が柔らかく優しい、と第一印象で抱いていたが、接していくうちに今やそれがすっかりひっくり返されている。彼のそれは丁寧ではなく、慇懃無礼なのだ、と。

 栗色の長い髪を後ろで一つ結びをした不思議な目の色の青年。この屋敷の使用人で、仕えてそんなにたっていないようだ。カルフもおそらく誰かが辞めて補充された口なのだろう。

 本来何の仕事を務めていたのかは知らない。使用人が尽くいない、ということで私の手でどうにもならない部分をほぼ請け負ってもらっているため事実上この家の使用人頭だ。頭といっても彼一人しかいないが。


 ただ入浴と着替えに関して一人でさせてもらうのはありがたい。さすがにこれらの領分にはカルフも自身の仕事の範囲ではない、と思っていたのだろう。何度かお伺いはたてられたが、大丈夫と返すと今はもうそれらの事に関して何も言われることはなくなった。まだまだ幼いとはいえ、異性に体を洗われたり、着替えをさせられるのは流石に勘弁願いたい。

 湯船はなく、暖かいタオルで体を拭くだけなのは我慢ならない事の一つであったが、湯船があっても一人で入ったら溺れそうなくらいに小さい体であるから仕方がない。小さなたらいに張られた湯につかる事でそれは今は我慢している。せめて女性の使用人がいれば、とも思うが贅沢は言うまい。

 着替えもそれほど複雑な作りの服でなくて安堵した。以前博物館で見た、歴史ある年代のドレス達はどれも一人で着られなさそうな物ばかりであったから、どうしたものかと思っていたが、カルフが用意してくれたのはどれも何とかすれば一人で着れる物ばかりだった。まだ幼い故に複雑な編みこむような服ではないのだろう。一通り着替えて後ろだけ締めてもらっている。さすがに後ろに手が回らないのでそれだけはお願いした。恥ずかしくないといえば嘘であるが、まだまだ幼女なので大丈夫だろう。思春期が来る前にはなんとか女性の使用人を雇用してもらいたい。


 朝食が終わると温かいお茶を一杯カルフは準備してくれる。これがこちらの習慣なのか、それともこの家の習慣なのかはわからないが、存外この時間は嫌いではない。

 お茶をする間にカルフが昨日あった出来事や私の教育の進捗状況、これからの課題等々それとだいたいの一日の予定を淡々と知らせてくれる。

 屋敷の事で許可や報告事などがあれば、それもまとめてこの時に裁可を求められる。それは私が判断してもいいものなのだろうか、とも思うものもあるが、使用人歴の短いカルフと屋敷の一応主である私の二人しかいないのなら自然私が判断するしかないのだろう。それでもカルフが話を挙げてくる内容は、私の耳に入るものはもうほぼ筋道ができて返事一つで終わるものが殆どであって、私が本当に頭をひねるくらい悩むものはないに等しい。

 疑問に思った点等は質問すればカルフは的確な答えを返してくれる。今のところどんな質問をしてもいついかなる状況であっても返してくれるカルフの優秀さに恐れおののくと同時に私の判断ではなく彼がしてくれればいいのでは、と思わないでもないが、それに否を返したのは彼自身だ。主である私の顔を立てる必要があるのだという。面倒だな、という言葉が一瞬言葉になりそうになったが、流石に自重した。

 でも顔には出てしまっていたらしく、後に小言混じりに説教くさく諫められたのは記憶に新しい。わかってるから言葉にしなかったじゃないか、と言っても彼には通じないだろう。顔に出した時点で減点対象だ。


 一度、二人しかいないのだから二人でお茶をしながら報告をすればいいのでは、と言ったのだが線引きは必要だと彼は決して同じテーブルにはつかない。

 他人のような距離感に何となく寂しくは思いつつ実際他人なのだから仕方がないだろう。私にとっては彼は生きるための縁だが、彼にとっては雇用されている主人に頼まれた子でしかない。何くれと不足なく動いてくれるだけでも有難いのだから、困らせるような我を通す我儘は言うまい。


「以上で昨日は庭の手入れまで終わりました。お嬢様の希望があれば、庭に何か花を植えられますか。庭師の採用は当分見送られるので、私が出来る範囲の手入れが簡単な花にはなりますが」

「花を選ぶのも楽しそうではありますが、それだと手入れをするカルフの負担がまた増えるでしょう?庭師の手配がついてからでその辺りは構いません。お客様も迎え入れる予定はありませんからね」


 客も何も身内が訪れる気配すらないのだから外面の取り繕いなの後回しでいい。カルフはどうやら私の見える範囲を優先して手入れをしてくれているのだろうが、日常の業務と並行して一人で取り掛かっているらしく、仕事の負担が私が見える範囲だけでも多すぎるくらいだ。

 屋敷の主としては言ってはいけないことなのかもしれないが、生活する範囲が必要最低限清潔に保たれていれば私は構わない。

 ただ、それをカルフにどう上手く伝えたものか、とも思う。必要最低限などいえば、またとびっきりの嫌味付き、教育という名の説教をお見舞いされるだろう。しかも私は今あるこの家の家格にあった必要な事や物もわからない状態だ。具体的に何を止めてもよくて、何に注力すればいいのか判断ができない。そのあたりをカルフに丸投げしている時点で主人としては失格なのだろう。あまりの不甲斐なさに何度か肩を落としては自己嫌悪に頭を抱えて反省会を繰り返すをしている。


 悩んでる間にカルフは話を終わらせてしまった。手元の手帳らしきそれを閉じたのがその合図だ。いつもの仕草。私が茶を飲んでる間に一つでも仕事を終わらせたいのだろう。少し姿を消して、程よい頃合いに戻ってきて退出の際は扉をあけてくれたりするが、あまりのタイミングの良さにどこかに監視カメラでも置いてあるのだろうかといつも疑う。が、おそらくと予想するこの年代にそんな物あるわけがない。

 それとなく横目でカルフを窺っていたが、今日は早々に動き出す様子がない。おや、と思う前に声を掛けられた。

 

「お嬢様、本日一つ許可を頂きたい事がございます」

「許可、ですか?これまでも私の許可など取らずに勝手にしているのに珍しいですね」


 にっこりと微笑まれた。一言多かったらしい。

 背筋に走った悪寒をやり過ごして、許可とは、と続きを促す。


「まだ屋敷の備蓄は足りているのですが、冬に入るまでに補充しなければならないものを買付けに行こうかと。屋敷内部の備品も把握し終わりましたので、壊れた物の代用や不足の手配も行って参ります。ただ、屋敷への商人の出入りが許可されていないので、運び込むには手を借りず行わなければなりません。何日か必要ですので、身動きが取れなくなる前に幾つか準備しようかと。お嬢様の許可を頂ければ、本日は少しばかり遠出します。ですので、お嬢様の身の回りの不足を本日はお許しください。夕刻までには戻ります」

「屋敷の出入りですか?ならば私が許可すれば大丈夫なのではないですか」


 そう聞くがカルフは緩く首を振った。


「あくまで屋敷の所有者はお嬢様の後見人の方になります。問い合わせができない以上、招き入れるのは不可能です。裏道がないこともないのですが、この屋敷以外の者が関わるとなるとどこからか漏れるかわからないので、あまりおすすめはできません」


 近隣の者がどこから見てるかもわかりませんからね、とはカルフの言だ。見られて拙いことでもあるのだろうかとも思ったが、近所とどういう付き合いをしているのかわからない以上カルフの言に従うのが最良だろう。

 誰も訪れることなく、教育を放棄されて、まるでいないように捨て置かれた屋敷のお嬢様、と言葉を並べてみて、もしかしてやんごとなき身分の者の隠し子あたりか何かなんだろうか、とも思う。ならば下手に人の出入りを許さず制限しているのもそうなのかもしれないとも思った。人としては人格を疑う所業であるが。もし後見人が血の連なる母か父であるなら、決して親しみを込めて呼ぶことはないだろうとも同時にもやもやが形になる。

 むかっ腹がたつ前に考え事をそこら辺にぺいっとした。視線の先には栗色の髪をいつも通り一つにくくった一見穏やかそうな青年がいるだけだ。

 許可に対して特に何も考えずに頷いたのがバレないよう、精々畏まって頷く。相対するのは、口元に笑みを浮かべたまま胡乱な細目でこちらを見下ろすカルフ。咄嗟に口に出る謝罪の言葉は寸前の所で留まって、似たようににっこりと微笑むと今日三回目の大きな溜息をもらった。お咎めはないらしい。心の中でガッツポーズを繰り出して、思わず顔がにやける。


「屋敷は締めて行くので、くれぐれも来客等あっても対応せず留守番をお願いいたします」

「庭に出てはいけないかしら。綺麗になったという所を見てみたかったのだけれど」

「申し訳ありませんが、帰宅して時間が空けばお供いたしますのでそれまでお待ちください。そろそろ外の空気も冷え込んできて、お一人で歩き回るのは承知いたしかねますので。それにまだ庭にある枯れた井戸穴を塞いでいませんので不在中にうっかりお嬢様が落ちてしまってもすぐに駆けつけられませんから」


 なにそれ怖、と目を瞬かせると、痛い思いはしたくないでしょう、と言うカルフの言葉にかくかくと頷いた。それ下手すると死ぬんじゃあ、という言葉は飲み込んだ。カルフはそれを知っている上で、こんな風に言っているのだろう。井戸の穴に落ちた凄惨な人の末路は以前もニュースで何度か見たこともある。

 今日こそ使用人棟をこっそり探索に行きたかったが、無理のようだ。鍵を開けてこっそりと出て戻ってくればいいのでは、と前に考えたが、どういう仕組みなのか鍵があけられなかった。出て戻る以前に出る事すら叶わない。それこそカルフに鍵の開け方を問えばいいのかもしれないが、どうして鍵を開けたいのか尋ねられたら言葉に詰まるからこの方法は悪手だ。

 庭に出たいと言えば、いま言ったようにカルフが連れ出してくれるので不自由はしていないが、隠密行動ができない。季節は秋のようだから窓が開いてもないし、換気の為にあけている窓は私の頭上にある。椅子や台を使えば出られなくはないが、今度は戻れなくなるだろうという八方塞がり。そもそもカルフの言っている井戸穴がどこにあるかわからなくて、おっかなびっくり庭を渡って使用人棟に行くには私には高難易度がすぎる。

 仕方ないから今日は屋敷内を探るか、と心の縁で頷きつつ、口からは返答の相槌をカルフに言う。


「わかりました。なら、お仕事が終わったら早く帰って来て下さいね」

「了承はいたしかねますが、意見は留めておきます」


 あの草が生え放題の庭がどうなったのかも確かに気になっていたからそう声を掛けたのに、彼の返事はこれである。危険な場所を早く知りたいという下心もあったから憤然と抗議はできないが、あまりにも素っ気なさすぎるのではないだろうか。

 柔和な顔立ちに似合わず本当に彼の言葉は尖ったナイフのように容赦ない。私が本当にこの肉体と年齢が一致していたら人前では泣かずともこっそりと泣いていたのではないかと思う程の容赦なさだ。

 これが身分ある者たちの普通のやり取りなのかとはまさか思いたくないが、今の状況では常識の基準が彼になってしまっているため、もうちょっとどうにかならないのかとも言いづらい。

 私の今知る彼の性格上、ではどういう代替案があってどのように対応して頂きたいのですか、と尋ねてくるであろうことは想像しなくてもわかる。やさしくしてほしいとか、もう少し柔らかい言葉を使ってほしいとか言っても、では具体例は、などと言い兼ねない。面倒極まりない。

 彼の個を殺した柔らかな対応と面倒を天秤にかけたら、面倒を引き受けた方が襤褸も出ずに済むだろう。この時代の基本知識が乏しい為、この年齢の子女がどの程度要望を出していいものか、とも思う。昔々の日本なら男女七歳にして席を同じにせず、とも言っていた程だし、いくら使用人とそこの娘と言っても正しい距離感があるだろう。どの程度望んでいいのか図りかねている。

 それに私の第一目標はカルフ(命綱)と仲良く、だ。二番目は私の周辺情報を正確に探るとくる。彼に無理強いさせたい訳ではない。


「では、お嬢様のお部屋に本日分の課題を置いておきましたので夕餉の後に答え合わせ致しましょう。それに全問正解できれば、明日お庭の散策のお供いたしますので」

「……まぁ、ありがとうございます」


 頬が引きつりそうになるのを頬に片手を当てて誤魔化す。いつの間にか課題が一つ積み上がっている。日を追うごとに行儀作法や基礎文字や簡単な計算問題等増えて、私の今の適正レベルにあったものを用意される。以前の教師の記録が残ってないからとできるとわかったものから超特急で積まれていくものだから私のこの反応は正しい筈だ。行儀作法以外は小学一年生が習う様なことなので特に苦痛はない。だがしかし、このままでいくと本当に机に一日かじりつかなければならない勢いである。どうカルフを言いくるめる、もしくはどうにか誤魔化されんか、とは最近目下の頭を悩ます問題の一つであったりする。

 あと勉強といえば驚いた事がある。特に母国語以外の言葉が堪能であった訳でもないのに文字が読める、という事。どちらも私と自認している以上おかしい事ではないのかもしれないが、記憶の配分は圧倒的に子どもの私より大人の私の方が色濃い。性格も行動理由も大きく偏ってしまった自覚はある。私の倫理観や諸々は日本に生きていた私そのものである。

 それに捨て置かれた屋敷でまともに使用人達に相手にされなかった私がこちらの文字を読めるとは思ってなかったのだ。幼さも相まって、文字の読み書きを一からしなければならないだろうな、という認識はカルフの持ってきた教材でひっくり返された。さすがにお嬢様とよばれる身分で読み書きくらいは学習済みであったようだ。そもそも遊び相手もいない閉じたこの世界で勉強以外やることがなかったのかもしれないが。


 このポンコツの記憶は、所々記憶が抜け落ちているくせに生活に必要な部分は覚えているものだから油断ならない。基礎的な事で抜けていたところは食事をする際のマナーぐらいだろうか。あとは生活する上で戸惑う事は少ない。朝の支度の仕方や一日の過ごし方、使用人等への対応所作などはどうすればいいのだろうか、と考えた時にふっと記憶が降ってくる。言動等で駄目だしをカルフに散々くらっているが、今のところ所作等で何やかんやと言われたことはない。頭が覚えているというより体が覚えている、と言った方が正しいか。対応したあとに所々、以前の屋敷の者に習ったような記憶を思い出す。


 それでも一人で学習していた時間が圧倒的に多かった。わからない所は聞いて、忙しい所為かあまり長い時間相手をしてくれる人は少なかったが。

 それを思うと、カルフは以前の者たちと比べようもないくらいに色々なものを与えてくれる。少し口うるさくはあるが、それが嫌だとは思わなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ