はじめてのスープの味
あちらそちらへと音もなく歩き回る姿を見て、放っておいてくれてもそこらへんに座って大人しく待ってるから大丈夫、とは思うものの口にはしない。この家の流儀やマナーもあるだろう。それを退けてまで我儘を通したい訳ではない。彼が準備してくれるというのだから、流儀に沿った準備をしてくれるだろう。仕事を増やしてしまって申し訳ない、とせめて心の内で呟いた。
ぼんやりとその動き回る背を見ながら、流れ込んできた記憶を順序だてて思い起こす。
私の記憶は正しくとはいえないが、大人であった私と子どもの私と絶妙な配分で記憶しているようだ。だから少しの間であれば普段顔を合わせる事のなかったであろう彼と接する分には困らない程度にはなんとかなるとは思う。ただ、ずっとこういう訳にはいかないだろう。
子どもだからわからなくても大丈夫である事、この屋敷の子どもだからこそ知っておかなくてはならない事、この見極めを早くにできなければ中身を怪しまれる可能性はずっと高まる。聞きたいこと、聞かねばならない事、知りたいことは沢山ある。けれど、それを口にしていい事なのかどうなのかの差配が私にはまだわからない。
だから些細な事でも見て、考えて知らなければならないだろう。ここがどこなのかもまだわからないが、異端とはじき出され、別人と見做されて、ここのお嬢様はどこに行ったのだと追及されれば困るのは私自身だ。
ここがどこなのか、貴方は誰で私は何者なのか、他にこの屋敷に人はいるのだろうか、どうしてこんな状況になったのか。不安はまだあるが、すこしばかり好奇心が勝るのも嘘ではない。誰かの保護下にあったという事実に気が緩んだせいか、今の状況がそう悪い事には思えなくなった。狭かった視野も少しだけ広くなったような気もする。
大人の私がどうなってしまったのかとか、気を揉むような疑問はまだまだあるが、今気を揉んだとしてもわからないだろう。まずは彼と信頼関係を築くこと、それが先だ。生きていれば何とかなるとは、いつ誰が言ったのだったか。お嬢様と呼ばれる身分があるのなら、それを活用できる間は存分に庇護を活用して、知った上でどうしていくのか決めればいいのだ。
だから、できれば彼とは良好な関係が築ければいい。記憶にある側仕えだった彼女らが何故辞めていったのか、子どもだった私の視点では今のところ手掛かりはない。これだけ続けて屋敷の使用人が辞めて要ったにも拘らず、補充がないのは何か理由があるのだろう。分からないからと言って分からないままにして、手を打たないのはただの愚策だ。尽く辞めていった彼女らと同様に彼が職を辞するという可能性もない訳ではないのだから。
もしも彼が辞めるといった暁には泣いて追いすがるくらいのことをする覚悟はあるが、できれば最終手段としたい。だから彼を引き留められるだけの何かを早急に見つけなければならない。彼が何を望んで、まだこの屋敷に仕えてくれているのか。
打算だらけの思考とその先に自身の悪い部分が浮き彫りになるが、それを嫌と厭て止める清廉さはない。
何せ生死がかかっている。全く自慢にならないが、この小ささ幼さで誰の庇護もなければ、あっさり死んでしまう自信すらある。
彼に申し訳なくなるが、その分の対価をいづれ準備するのでどうか末永くこの屋敷で仕えて欲しい。さすがに自分でも何様だとは思わないでもないが、子どもだから許してほしい、と何度目かの言い訳がこぼれた。子どもという言葉を免罪符にしている自覚はありつつも目を瞑ることも。
木製の机は綺麗に拭かれて、用意された椅子もそこらへんの適当な椅子ではなく、場違いなほど綺麗な椅子が一脚置かれる。どこかの部屋から持ってきたのだろう。華美や装飾等を一切排した厨房にはそぐわない。机には白いクロスがかけられ、無骨な見た目を隠す。染み一つないテーブルクロスはそれだけで薄暗い厨房が華やいだように見えるから不思議だ。
椅子の背面に立って彼が椅子を引いてくれる。彼にとっては当たり前の行動なのだろうが、ちょっといいレストランに行った時にしかされたことがないので、少しだけ背中に妙な緊張がはしる。人に傅かれる身分というのは何ともむず痒い気分にさせられるし、知っていたことだがど庶民の自身には性に合わない何てものではない。慣れろと言われれば、郷に入るしかないが、なんとも座り心地の悪い気分になる。
椅子を引いたままの彼は動かない私を見て、どうかいたしましたか、と声を掛けてきた。いえ、と言ってから続く言葉が見つけられない。考えたような事は口に出すべきではないし、それに代わるような取り繕った言葉を見つけられなかった。
いっそのこと何も言わない方がましか、と続けようと考えていた言葉を放棄した。視線を引かれた椅子の方に戻して、その横についてはたと気付く。
自身の体の小ささは起きた時から扉一つ開けようと苦労して、嫌になるくらい分かっていたつもりだが、ここもかと気分が沈んだ。恨めしく椅子を睨んで、その高さと相対する。座面は胸の上。座るには台座を持ってきた上がるか、それとも無様に椅子に縋り付いてよじ登るしかなさそうだ。普通に座る事さえ困難なのか、と肩が落ちる。
足を掛けてよじ登ろうとしたところ、ふっと体が浮いた。あっ、と思う間に椅子にちょこんと座らせられる。見上げると変わらない微笑みを浮かべた彼の姿がある。どうやら抱き上げてくれたらしい。
「ありがとうございます」
礼をするが、数瞬妙な間が空いた後、彼は小さな礼を取ってまた他の作業へと移っていった。無口な人、というよりは仕事中は無駄な言葉をしないタイプの人なのだろうか、と思う。邪魔にならない程度に質問をすると言葉を返してはくれる。微笑んだままの顔は変わらない。端的な言葉は的確でわかり易いが、会話らしいかと言われれば悩む程度には業務的なそれに近い。ただ、柔らかな物言いと笑顔で誤魔化されているだけで、会話を文章で書きだせばそれが形式的なものだとわかるくらいにはまるで教科書のお手本のような会話文だ。高校生時代に習った英会話の和文を何となく思い出した。
火の入れられた竃はちろちろと炎を燃やしている。散々寝ていた筈なのに、眺めていると何だか眠気がそこまで来そうだ。
水場に立つ彼の背を視線で追う。てっきり料理番でも呼び寄せるのかと思えば、彼が厨房に立つらしい。使用人の補充が間に合わないというのは厨房の者もなのだろうか。一番最後に辞めた側仕えの彼女の言では料理人は来るという話だったが、いつの間にかその話も立ち消えたのだろうか。後日、来るという話ならいいのだが、他の使用人の気配がないのも何とも拙い。
肘をつくのは大層行儀が悪いだろうから我慢しているが、許されるなら頬杖をついて自分以外がたてる音を聞きながら微睡んでいたい。厨房は扉がなく、風通しがいいが、竃に火が灯るとじんわりと暖かくなっていく。とんとんと規則正しく鳴るまな板の音が気持ちいい。外食以外で人の手料理を食べるのは本当に久しぶりかもしれない。何となく子どもの頃の賑やかな食卓を思い出した。ここの私の本来の境遇を思えば、随分と恵まれたものだっただろう。
家族で卓を囲んで、遊んでないでお皿運んでだとか、週末は友達と遊びにいくから夕飯いらないよだとか、明日のごみ当番お願いねだとか、取り留めもない事を言って、文句を言って言われて。実家にいた頃はそれが鬱陶しいな、何て思っていたけれどそれの何と恵まれていたことか。我儘をいうのも言われるのも、不満をいうのも言われるのも、相手に甘える事ができるからこそできる事だ。
一人、卓につくいまだからこそ強くそう感じた。
湯気の立つ食事が並べられる。給仕も彼の手ずから行われるらしい。かさがねかさがね何とも申し訳なくなる。本来の彼の業務内容ではないだろうに。
カトラリーまで並べられて、はたと気づく。そういえば食事の際のマナーを何も知らない、と。こちとらそんなものは覚えてない。混濁したままの記憶を再度思い返すが、そういった日常生活に必要そうなものは穴だらけ。思い出せないのか、はたまたそもそもが知らないのか。
改めて思い返して気付くことがある。私の記憶は穴だらけだ。ぽつりぽつりと様々な場面を記憶を手繰れば幾つかを思い出しはするが、思い出せないこともある。食事風景を思い出そうにも手繰り寄せられる記憶がなかった。なぜだろうと首を傾げるも答えなどでるわけもなく、朝食を準備してくれている彼に聞けば何かわかるだろうか、とも思ったが、いきなりそんな事を問いかければ態度には出さないでも頭の心配をされそうだ。そもそも何でそう思ったのか聞かれた時に何と答えればいいのかわからない。
今の私はマナーと言えば、精々少しばかりいいレストランに行って恥をかかない程度のマナーしか知らない。カトラリーは外側から使うんだよ、ということを何となく思い出したが、目の前には匙の大きいスプーンが一つだけ。服が汚れないよう、ナプキンは彼の手ずから首に掛けてもらった。何となく赤ちゃんが食事前にかけられる前掛けを思い出したが、頭を振り払って考えを消した。
厨房の卓とはいえ、大きな卓だ。そこにぽつんと置かれた一人分の食事は何とも言えない気持ちにさせられる。寂しい子どもだ、と他人事のような感想がぽつりと沸く。何となく自身のこととして顧みれないのは、あまり感情を揺らす子どもでなかった所為かもしれない。
親らしき者がこの屋敷に訪れない事も、親し気に話しかけてもあくまで使用人の態度を崩さない態度の屋敷の者たちを見ても、去ることを伝えてきたその場面を思い出しても、そこに伴う感情というものを私は掘り起こせなかった。取るに足らない記憶であったのか、それとも忘れてしまっただけなのか、どうにも判然としない。ただ、それに対する感情というものが『私』には育っていなかったようにも見えた。
私という意識が混じって、純粋にここの子どもであった時の意識は塗りつぶされ、生まれ変わった気分とでも言えばいいのだろうか。私はここで育った少女とは全く別物になってしまった、という事だけはわかる。だから以前の自分に対してもどこか他人事のような目で見てしまうのかもしれない。
手を合せていただきます、は流石にまずいだろうことはわかっている。ならば、どうしようかと首をひねって考える。映画の一場面が何となく思い浮かんで食前の祈りを捧げる。周りにある品々を見れば何となく文化圏が海のずっと向こうの西欧圏のものではないかと予想できるが、それがいつの時代かはわからない。もっと歴史で文化等を学んでおけばよかったと思うがそれも後の祭り。屋敷の中や使われている器具備品、それらを見て、私が生まれ変わった先が同じ時代だとは限らないと何となく思った。これが転生、生まれ変わりというものならば、時代を超えて生まれ変わったとして少々の差異に思えた。現状どうしようもないという事実は変える事のできないものであり、どこに生まれ変わったとて順応していくしか今は道はないからだ。
祈っている途中で背後に立つ彼に意識を向けたが、特にこれといって何もリアクションはなかった。訝しむでもなく、眉を顰める様子もない。これで合っていただろうか。もっとも何もないからこそ、彼が使用人のそれらしく私の行動に対しての疑問を伏せたのかもしれないが、それを確かめる術はない。
用意されたスプーンを手に取って、まだ湯気の立つ朝食を見た。
青い葉の浮いたスープと茶碗蒸しのような見た目の卵料理らしきもの。随分と簡素なものだ。主食はないのだろうか。いや、これがいつもの朝食なのかもしれない。質素ではあるが、この肉体年齢的には適切な量の食事なのだろう。
湯気を揺らして匂い立つ香りに腹の虫がいっそう鳴った。痛いくらいにお腹が空いていたことを思い出した。楽観的に物事を見ていても不安だったのかもしれない、と胸につかえていたようなもやもやが言葉にすることで正しくほぐれていくような気がした。
腹ペコの前では思考が悪い悪い方向へ行くことを経験上知っている。ならば、事をなにか起こす前に考える前にまずは腹ごしらえだろう。
青い葉をよけて、一匙スープを掬う。動作に揺れて垂れる髪を片手で抑えると耳元でかちゃりと何かがなった。さりげなく触れると何やら耳飾りをしているらしい。髪に巻き込まないようにそれをそっと避けて、掬い上げたスープを口に運ぶ。じんわりと腹の底が温かくなって、無意識にまた一口と口にする。
何の変哲もないスープである筈なのに、一掬いして口に運ぶたびに得も言われぬ気持ちで胸いっぱいになっていく。これは何という感情だったか。似たものを探すが、あまりにも大きな気持ちで戸惑いも深い。
「どうかしましたか、お嬢様」
「あ、いえ…おいしいな、って思って」
「左様ですか。お嬢様のお口にあったようで安心いたしました」
何の事もないように彼はそう言うだけで、特に何かを気にした訳ではないようだった。ただ、私が何かに戸惑う様子が見えたから聞いただけのようだ。私も自分自身が何に戸惑ったのか理解ができない。
ごく普通においしいスープだと思う。これよりもおいしい物やおいしい食事などありふれていて、当たり前のように口にしてきた筈だ。なのに訥々と溢れるような感情を抑える事が出来ない。喉の奥が痛くなるような、息ができなくなるような不思議なもの。
鼻の奥がツンと痛くなって、誤魔化すようにスープを口に押し込んだ。青菜はほうれん草のような味で、ひたひたにスープに浸かっていた分、熱くて思わず咳き込んでしまった。
「ごめんなさい」
咄嗟に謝罪の言葉が出てしまって、視線を彼の方に向けるときょとりと首を傾げられた。替えのナプキンを出されて口元の周りを拭かれてから、これはまるで赤ちゃんの扱いだな、と差し出された手を退けようとした手が空に一度浮かんでから下げた。咳き込んで口元が汚れたのは事実だ。それを初対面にも近い彼にやってもらうのは気恥ずかしくはあったが、差し出された手を拒否できない。世話をしてくれるというのだから甘んじてそれを受けようと、心を無にしてその手を受け入れる。
力加減を間違えているのか少しばかり強いそれに口がひりひりするが。
お嬢様、と声掛けられて視線を上に向ける。
「夕食はもう少し品数が多い方がよろしいでしょうか」
物足りないな、というのに気付いていたらしい。顔に出ていただろうか、とぺたりと顔を触るがもちろんわかる筈もなく、こちらの回答を待つ彼の不思議な色の目とかち合った。一連の行動を見られていたらしい。その表情は変わらないが、変な子どもだと思われたに違いない。
少し悩んで、お願いしますと一言添える。育ち盛りなのだ、何を恥じらう必要があるのか、と開き直る事にした。添えてあった茶碗蒸しのような料理に手を付けた。口に含むとやはり卵料理で、こちらも何だか優しい味がする。とろりと中があんのようなものになっていて、火傷してはたまらないと息を吹きかけて冷めるまで少しばかり待った。
かしこまりました、という彼の一連の動作はやはり私の目から見ても洗練されている。この家の使用人はこのレベルの者が揃っているのか、はたまたこれがこの場所での普通なのか。どちらにしてもやんごとなき身分のお嬢様らしき事に慄くしかない。怖気づくともいうが。
先の事にはしばし目を瞑る事にした。今は、ただゆったりと朝食を楽しみたい。
食べやすくなった卵料理をそっと口に運んで、そういえばこれは泣きたくなるような気持ちにも似ているなとも思った。