目が覚めたらなぜか異世界
ふと目が覚めた。
目が覚めて最初に覚えたのは違和感。些細、何てものではない。
天井を見上げて、違和感を感じるまで数秒。天幕と呼ばれるような布が四方に下がっているのが見えて、少しばかり年季の入ったベッドに寝かされていたことに気付くと、どっ、と心臓が鳴った。
ここはどこだろう。
何のことはない毎日を過ごし、慣れた道を歩いて帰路について、何十回何百回と閉じて開いた玄関を潜り、一日の終わりを迎える準備をする。明日は何があったかとスケジュール帳を覗いて予定にそった荷を改める。片手で化粧を落としながら、何となくつけたテレビの音を聞き流して、今日はシャワーだけでいいか何て考えて湯はりのスイッチは押さず隣の給湯の緑のボタンだけ押す。
詳しくは覚えていないけれど日常で反復していたほぼ変わらないルーチンワーク。そんな事をして昨日は寝たのではないかと、思う。
思う、という何だか曖昧な言葉なのは覚えていないからだ。
例えば唐突に一昨日の昼ごはんは何だった?と聞かれるような感覚。差して代わり映えのない日常の一コマ。それが特別な日だったら覚えていたのかもしれないが、本当に何気ない日常の一場面から切り離されたそんな感覚に近い。
視線をぐるりとまわし、身体をゆっくり起き上がらせる。疲労感の濃い体を支えてから、寒気がして片方の二の腕を摩った。早かった心臓の音をさらに加速させたのはその腕の細さ。腕から手を離して、掌を顔の前にかざす。隠しようもなく震えている手は想像していた己の掌より何倍も小さいモノだった。
ぐっと握ると頭で考えていた事と同じ動作を繰り返す掌。自分のものという実感が薄い。なのに確かにそれは自分の手だ。視線を落として肩から先にあるのはマグカップさえ満足に支えられないのではないかというほど小さな手。首から上と下が繋がった同じ体なのだとしたらそれらは自分のものに他ならない。
すでに早鐘のようだった心臓は口からまろび出てしまうのではないかと思うほど薄い肉の下で鼓動を速める。落ち着こうと深呼吸すると過呼吸のように短い息を吸い込む音が重なって制御もできず儘ならない。
成人をとっくの昔に終えて、親元から離れて久しい。体躯は大きいとも小さいとも言えないが、国で出されている成人女性の平均的な身長にほど近い身体をしていた。にも関わらず、今はありえない頼りない体。昨日まで何十年と慣れ親しんだ自身の体と程遠い。
いや、昨日とは言ったが本当に昨日の話なのだろうか。その記憶すら曖昧だ。
思い出そうとすると記憶は混線して、ぐるぐると色んな場面を思い出す。切り替わる様々な場面はどれも脈絡がなく、思い出した場面を一つづつ紐解こうとすると頭痛が酷い。二日酔いに目覚めた朝のようだ。昨日は晩酌でもしたのだろうか、とも思いながらそんな物は一滴も飲んだことがないという奇妙な思考。自分の記憶が当てにならないという経験はしたことはあるが、こんなにも不安に落とされるのは初めてだ。
考えても埒があかない。膝を立てて、じりじりとベッドの端に近づいて床に足を下す。すぐ目の前に垂れる天幕に手を掛けた。
それを左右に開くまで、天幕に閉ざされた寝具の外を覗くのまでは随分と勇気がいったが、まんじりともせずただ此処で時間が過ぎていくのを見送るのも拙い。これが夢か夢でないか定かでないが、夢じゃなかった場合は行動を起こさなければ事態は好転も何もしないだろう。最も行動を起こしたとしても好転するとは限らない。こんな訳の分からない状況、どうかこれが夢であってほしいと思うのが本音だ。
重い体を引きずって少し躊躇った後、天幕に手をかける。覗けるだけの隙間を開けて外を窺う。
窺った先は随分と古めかしい部屋だった。年季の入ったもの、という意味ではそれもあたるが、並ぶ部屋の家具や窓の格子、天井や壁紙、置かれているちょっとした生活用品までいつの時代の物だと首を傾げたくなるものばかり。少なくとも身近で見たこともないような代物ばかりだ。美術館や書籍等々で見たことのある古い時代の調度品のようにも見える。歴史に然程詳しい訳ではないから詳しくは断定できないが、自分の住んでいた地域のほぼ裏側で昔々に使われていた調度品に似ているという所感だ。
なんで、という言葉が思い浮かんでぐつぐつと不安が腹の底を煮る。ぐうっと圧迫されるような不快感は吐き気を一層ひどくする。
裸足の足をそっと進めて部屋を歩き回る。特に目立った物もなく、生活感がないわけでもないが必要最低限といったような部屋の様相。寝かしつけられていた天蓋付きのベッドは見た限りでは子ども用と言っていいような大きさだった。備え付けられた調度品は簡素という訳ではないが、華美とも言い難く、必要だから設えられたという印象だ。何とも全てがちぐはぐな印象だが、寝具と設えられた家具などの大きさを見ると此処が子ども部屋らしいというのが何となくわかる。子ども部屋と言い切るには何とも寂しい印象をぬぐい切れないが。
外に出られるであろう扉に手をかける。つま先立ちして精一杯背伸びをすると漸くそこに手が伸びた。取っ手を掴むより難なく開いた扉は、キィと微かに軋む音をたてて開く。
「…誰か…いますか」
通路に響くのは自分の声だけだ。暫く返事を待ったが誰の返答もない。
邸の中は静まりかえっている。でも、恐ろしいという感覚は不思議となかった。静まり返った空間には戸を開閉した軋む音を反響した後、暫くは耳が痛いほどの静寂があって、ぼんやりと周りを観察していたところに囀りが聞こえた。外で何の種類かはわからないが鳥が鳴いている。朝、よく聞く烏や雀の囀りとは少し違う。
どこか古めかしい中世の建物を思わせる内装。寝かせられていた部屋もいつかどこかで見たような文化遺産のような佇まいで、これが観光か何かだったら好奇心が爆発してあちらこちらと見て回ったことだろう。
見慣れない視界は以前の高さよりずっと低い。一歩進む歩みの何と短いことか。
陽が射す窓に近づく。やや造りの悪い歪んだ像を映すガラス窓の向こうには青々と茂った庭と茶色の塀らしきもの。草木が生い茂るといえば聞こえはいいが、整備も何もされていない庭らしきそこは雑然として、人の手が随分と入っていない事がわかる。
塀の向こう、遠くに塔のような物が見えた。視界一杯の窓の上まで入りきらない高い建物。遠くとおくにあるその塔に見覚えはない。いや、見覚えはあるのかもしれない。じっと目を凝らして、塔を見上げて、思考に落ちると勝手にいつもの光景だ、と思う自分もいる。一方で、美術書でもマスメディア媒体でも教科書でも、それを見たことがないという自分もいる。共通するのは、その塔の名前を知らない、という事だろうか。
唸りそうになる声は噛み殺すが、唸った所で咎める人もいない。声を掛けても、廊下を歩いても誰かとすれ違う事もないのが奇妙だった。人の気配すらない。
等間隔で並ぶどこぞの部屋に続く扉を開いたらいいのだけれど、残念なことにこの小さな体躯では取っ手に手が届きそうにない。どこかで台座か椅子でも持って来ればいいのか。果たしてこの小さな手でそれができるだろうか。寝かされていたあの部屋だけは他の部屋と違って取っ手が下に取り付けられていたから予想通り子ども部屋で間違いないのだろう。それでも身長ぎりぎりであったが。
儘ならないことに目を瞑って、足を進める。窓から見える風景も特にこのような奇妙な事態に対する手掛かりはなかった。
殺風景な廊下を気の赴くまま歩いて、時に思い出したように、誰かいませんか、と声を掛ける。もちろん返る声はなく、歩くたびにわずかに軋む廊下の音が響くだけだ。
廊下を右へ左へと行ってつきあたりの道。歩いて来た通路とは少し違う様相を見せる。カーペットもなく、むき出しの通路の奥には扉はない。他とは少し造りが違い大きく幅をとるような造りになっているようだ。角から覗き込むようにそっと顔を出す。視線の先は薄暗く、例にもれず埃っぽかった。ここもまた馴染みのない見慣れない物ばかりだ。
扉のないそこに足を踏み入れて目に入ったものから物色していく。焦げ目のついた鉄製らしき引き扉、木製の大きな台、小さな戸棚がたくさんついた大きな棚が二つ、蛇口こそないが水場らしき囲いに、石造りのあれは竃だろうか。ぐるりと見る。調理場だ、と推理にも満たない答えが沸いて出る。
うろうろと視線を四方へとやるが、ここにも人の気配はなかった。それどころかここは寝かされていたあの部屋より随分埃っぽい。調理場の床には埃が積もっており、裸足だった足の裏を薄ら汚す。
毎日使うはずの調理場が埃っぽいというのはどういうことか、と更に頭を悩ます。木製の調理台らしきそこも長い間使ってない形跡が見て取れた。よほどの事がなければ毎日使うところだろう。それともここ以外の調理場があるのだろうか、とも思ったが屋敷内を歩ける範囲で探索したが、それらしいところはここ以外にない。
ふと、誘拐、という言葉が思い浮かんで、ぞっと鳥肌がたった。
今では誰も使われていない所に押し込められたのだろうか、とも。そこまで考えて、それにしては縄などで縛り上げられていないとも思った。万が一にも本当に誘拐犯がいたとして誘拐した者を自由にさせておくだろうか。廊下に繋がる扉には鍵もなにもされていなかった。鍵穴があるかどうかも、内鍵か外鍵かも確認している余裕もなく扉の様式は覚えてはいないが。
しかし、覚えていないという事は扉の仕掛けも大したものでなかったのだろうという予測はつく。色々と気がまわってなくても、物々しい仕掛けなどあるならば目につきそうなものだ。
状況判断するにしても判断材料が少なすぎる。ともすればまっしぐらに後ろ向きになりそうな不安材料には一度目を瞑って、注意深く周囲を探る作業を続ける。
あちらこちらと手を伸ばしたが、目ぼしい物は見当たらない。そもそも何を探しているのかそれすらも定かではないのだから雲をつかむようなものだ。目的すらわからない。誰かいればいいのだけど、とも思うが、本当に誘拐されたという事だったら、どうしようという気持ちもぬぐい切れない。
大きな甕が2つ3つと並んでいる。これにも見覚えはないが水が入ってそうだ、とも思った。そんな時に、ぐうぅと間の抜けた音が聞こえた。何だ、と思う事もない。その音は自分の腹の中心から鳴っていたから。
そういえばお腹がすいた。随分と何も食べていない心地になったが、夕飯は食べた筈だ。昨日の夕飯は何だったか。自室の冷凍庫には先週末に作りだめた真空パックに封したおかずと小分けにしたご飯がある。いつも通りそれを電子レンジでチンしてから食べたような気もする。はた、と気づいてそれは大人の姿をした自分で今の自分でなかった。私は昨日何を食べたか、記憶を辿る前に体は実行に移る。思い出すより何か口にして、この空腹感を紛らわす方が有意義だと思った。
手の届く範囲で調理場の戸棚を確認する。が、中は空。開けども開けども戸棚ごとひっくり返しても埃以外には何も出てこない。本当に何もでてこない。食器や調理器具さえ見当たらないのは何故なのか。空腹が過ぎるとお腹が痛くなくのは何故なのか、と取り留めもない思考が過ぎていく。天井近くの棚にも視線を移すが、とてもじゃないが手が届きそうにない。椅子をもってきて台にした所で取っ手すら掴めないだろう。何も口にすることができない事を現実として受け止めるとさらに空腹が腹を苛む。だ
勝手口らしき外へ繋がる扉に手を掛けるが、やはり鍵が閉まっていた。見覚えのない形の取っ手の形状は鍵がかかっているのだろうが、開錠の仕方がわからなかった。単純にひねりを捩じったり、閂をはずしたり、錠前を開けたり閉めたりするタイプのものじゃないのだろう。外に出る選択肢も潰されて、思わず虚脱感から膝をついて壁に寄り掛かった。少し休むだけ、と自分に言い聞かせてほんの少しの時間、目を閉じる。
あるいはついさっき窓から見た庭にでれば何かあるかもとも思ったが、空腹に気付いてから脱力感が身体を支配する。厨房から一歩も外に出れそうになかった。寝かされていたあの部屋に戻る事さえ拙いな、と何となく他人事とのように感じた。ふわふわと纏まらない思考がつい魔が差したように悪い方へと転がる。
どこにも行けない、そんな気持ちがじわりと沸いて胸に一点の黒い染みが広がっていくような気がした。その感情がじりじりと腹の底を焼いて、ぐらぐらと眩暈にも似た何かが訪れる。なにか、何かがないだろうかと、まだ覚束ない思考を手繰り寄せた。
と、途端にどっと記憶が流れるように脳裏に様々な光景が浮かんでくる。
「お暇を頂きたく存じます」
跪く女性を見下ろして、言葉を耳に傾ける。特に何の感慨もなくその言葉を耳にしていた感情は覚えていた。最後まで合わなかった視線。腰を低く、目を伏せたまま彼女は話す。
言葉が流れ込んで来る。以前にあった狭いせまい世界。この屋敷だけで完結していた日常の一欠片。ここに住まう者はいつだって言葉を掛けても、返ってくるものは曖昧で理解しがたいものばかりだった、という感想だけは今も覚えている。
それは不思議な感覚だった。私ではない、私の感情が織り返される。確かに私が感じた感情であるのに、私じゃないという意識の方が強い。
記憶が次々と思い返される。この屋敷で育ったこと、顔を知っていて言葉を交わしたことがあるのはここの使用人達だけであること、それも片手があれば足りる数であること。両親の存在は不明、なぜこの暮らしているのかもわからない。ただ傅かれる身分である、いや、あったということだけはわかった。この屋敷に住んでいた者たちは一様に『私』の事をお嬢様と呼んでいたから。
恙なく暮らしていた事を思えば、ここに仕えていた使用人達に指示を出していた人物はいるであろうとは予想できる。それが血縁の者なのか、親族なのか、はたまたただの保護者、後見人と呼ぶものなのかは不明だが。わかるのはこちらかその存在を知り得ないから援助を求めることさえ困難だ、という事だ。
こんな危機感を今更覚えるのは思い出した記憶の所為だろう。
最初に思い出したあの言葉は、この屋敷に最後まで仕えていた使用人が屋敷を辞する際に告げてきたものだ。兆候は以前からあった。捨て置かれるような雰囲気の屋敷、誰も訪う様子のない人間関係、漠然と不思議には思っていたが其れ以外の世界を知らない幼子の目からはそれが『私』の世界の常識だった。最初にここを辞めると言った側仕えの顔を今はもう覚えていない。咎める者もそれに不満を零す声も聞こえなかった。いや、単純に『私』に聞かせるような言葉ではないからとか、そういうものを零す相手ではないから、というのもあったのかもしれない。
一人、また一人と辞めていき、最後の女性の側仕えが、職を辞する挨拶に来たことをさっきの今、思い出した。彼女らの補充はなく、ただ本家から料理人が代わりにくる、という何とも奇妙な人事を言い残して。その際もこの屋敷を管理しているであろう大人の存在はちらりとも見えなかった。漠然と思うのは放置やら育児放棄やら幼い自身にはどうしようもない事実。どうにかしなければ、という大人の自分の意識が揺れるが、果たしてこの小さな体躯でどこまで何ができるだろう、とも思う。子どもだけで生きていくのはひどく難しいことも大人だった私は知ってる。
私と『私』の記憶が混線して一つの記憶として収まった。どちらも思う感情の人称は自分で、間違いなくどちらも私だった。
そこで初めて私は私じゃない誰かになってしまったのだ、という事を受け止めた。なんとなくそうじゃないか、と心の片隅に思いながら、直視せずにいた事だ。どこか他人事だった。夢だったらいいのにという漠然とした楽観もそこで捨てた。
転生、成り代わり、様々な言葉が思い浮かんでは消えていく。
事実は小説より奇なり。本当にこんな事が起こることがあるのだ、と思いながらマーブル色の感情が激しく音をたてては、胸の内から去っていく。
窓ガラスに薄らと映る姿も見ても考えることを避けていた。子ども部屋になかった姿見に安堵を覚えて、見えるものから目をそらしていた。事実を見たくなくて。
小さな手。何度瞬いても見えるものは変わらない。小さな体躯と誰もいない屋敷。どうすればいいのか、という漠然とした不安に飲み込まれそうだった。こんな時に転生した時のマニュアルがあればいいのに、と脳裏の片隅に過るくらいの余裕があるのは成人し、一人で生活を生計していた大人だったからだろう。あるいは一種の現実逃避であったかもしれないが。
顔の横に垂れる赤身がかった金色の髪に蟀谷が熱くなった。涙腺がいう事をきかない。小さな私のままもう帰れないのかもしれない、という不安。だれの庇護もなく、これからどうやっていけばいいのだろうか、という頭の痛くなるような事実。ここは何処で私は誰だろう、という生まれてから誰かにあたりまえのように教えてもらえる事も私は知らない。どこか楽観的にどうにかなるだろう、と思う自分もいる。けれど、あまりにもあまりな事ばかりで少し疲れてしまった。
目を瞑ったまま大きく溜息をつく。幸せが逃げる、なんていう俗説が頭を駆け巡るがそんなこと憂慮する気にもならなかった。
屋敷の中がただただ静かだ。本当に誰もいないのだろう。近く配属される料理人とやらはどうなったのか、とも考えたが、記憶を探るの限りではそのような人物の影もない。そもそも側仕え以外の下働きの者は見たことがなかったので、普段顔を合わせるような者でないのだろうか、とも思う。
どうしようか、誰もいない空間でふと呟く。と、同時にかちゃりという音を聞いた。
耳に何かの音を拾ってから間もなく、光が床を滑る。鍵がかかっていた筈の裏口の扉がゆっくりと開いていた。あ、っと思った時には既に時遅く、声を上げる前に眼前に迫る扉と背にある壁に挟まれる。
「むぎぅ…」
一瞬かかった圧はすぐに解かれた。ばっ、と扉を引かれて、影が落ちる。
「…誰だ?」
「いや、それはこちらの台詞だと思うんですが」
第一待ち人発見、と有名なあるテレビ番組のあおりをもじったような言葉が思い浮かぶ。首をほぼ真上に上げ、厨の裏口から入ってきた人を見上げた。随分と背の大きな人だ。首を一杯に上に向けてようやく顔が見える。
優し気な顔立ちには似合わぬ警戒しきった猛獣のような気配が何ともちぐはぐな人。不思議な色の目だ。
しばし目線が絡んで、次ぐ言葉を忘れていた。陽が出ている時間にしては薄暗い室内に唐突に開いた扉。日差しが強いせいもあってその人の後ろから光が差し込んでくる。後光がさしているようにも見えた。偏にそれは人がいたという安堵と安心からであろうことは当たらずも遠からず。
しばしの沈黙があって、何やら彼はふむ、と片手を顎に当てて考えるような仕草をする。
ガラス玉のような瞳がこちらを見下ろして、値踏みするような視線に少々たじろぐ。
「こんなところでいかがいたしましたか、お嬢様」
「お…嬢様?」
そう言うと床にへたっていた体を起こしてくれた。一つに結んだ栗色の長い髪が肩にから流れて、立ち起こされた時に不意に頬に触れてむず痒い。流れる髪を彼は仕草一つで後ろに払う。
知らない人だ。間違いなく。手繰る記憶にはない人。以前仕えていた人の面々に彼の姿はない。それとも私が知らない屋敷の人だろうか、とも思う。お嬢様、とこちらを称するに彼は私が誰なのか知っている人なのだろう。そもそも私ですら知らないこの屋敷の勝手口の開錠ができたのだから、鍵を持つこの屋敷の関係者とみるのが早い。
「新しい料理人の方、ですか?」
「ジョゼット様がそう申したのでしょうか?」
「いえ…」
ジョゼット、と口の中で名前らしきその言葉を転がす。聞き覚えはないが、以前仕えてくれていた側仕えの誰かだろうか。
薄く唇に微笑みを乗せて、彼はそうですか、と相槌をうつ。勝手に納得したようだった。
「補充の使用人の手配が間に合わないから、という事情があるようでしたが…お嬢様にはその話はなかったのでしょうか?」
「料理番の方ではないのですか?」
「私に料理番をしろ、とのご命令はお聞きしてないですね。お嬢様が望めば真似事ぐらいはできそうですが」
口ぶりからすると、どうやら普段顔を合わせることのないが、屋敷の人間らしい。
無意識に詰めていた息が自然と吐き出される。折角立ち上がらせてくれたが、膝から崩れ落ちそうだった。誘拐犯とかじゃなくて良かった、と胸中にあった不安が過ぎる。
そうしたら現金なもので、腹の虫が再びきゅうと鳴く。幸いごく小さな音で彼の耳には届かなかったのだろう。見下ろす表情に感情の変化は見えない。
思わず腹を押えそうになる手をぎゅっと握って誤魔化し、何と告げたら良いのだろうかと今までにないくらいに脳内に思考を巡らす。どうやって自身の意思を告げればいいのか。
少し考えたが、その逡巡はすぐにやめた。
幸いこの場には二人しかいないならばどんな物言いをしても目くじらを立てられることはないだろう。心の中で思うところはあるだろうが、彼は表には出さないと思う。希望的観測ではあるが。
ならばどの様に振る舞ったとて、子どもの振る舞いで終わる可能性がある。それにお嬢様と呼ぶからにはこちらが主人みたいなものだ、直接の雇用主でないとはいえ。顔を合わせたことのない保護者の顔をたてる必要もないだろう。育児放棄をしたのはあちらが先なのだから、如何のように私が振る舞ったとて文句は言わせない。
私はそれよりもお腹が空いた。
「世話をしてくれていた側仕えが辞めたので、勝手がわからなくて…朝食はどこに用意されているかわかるかしら?いつもの場所でよろしいのですか」
「朝食、ですか…?」
「ええ、それに呼びかけても誰も出てこないので朝の支度はどうすればいいのかと困っていたのです」
いつも何て言ったが、そのいつもの記憶はない。口からでまかせだ。慎重に言葉は選んだが、これくらいの嘘ならばれないだろうか。
お腹が空いてしまって、という言葉は流石に飲み込んだ。お嬢様と呼ばれているからにはそこそこにいいところのお嬢さんなのだろう。全貌を見たわけではないが、それなりに大きな屋敷だ。維持するのにも大層な金額が動くに違いない。顔も知らない保護者はそこに小娘一人、側仕えを数人遊ばせているだけの財力はあるに違いない。変な事を言い出してこちらの変化に気付かれても困る。現状を正しく理解できるまで迂闊な事を言わない方が身のためだ。
見上げたまま表情を窺うと、目を見開くその動作に彼が驚いた事に気付く。何に驚いたのだろうか、と首を傾げるが、瞬きの間にその表情は消えてしまった。
「いえ、不手際でお嬢様を煩わせてしまい申し訳ございません。すぐに準備をいたします。お食事はお部屋にお持ちした方がよろしいでしょうか」
洗練された仕草に彼の教養が窺える。屋敷内でもそれなりに職位のある者ではないか、という事を予想だてるが私は彼を何も知らない。あちらはこっちを知っている様子なのでなんとも奇妙な感じだ。いまさら貴方だれですか、なんて聞ける雰囲気でもない。
「ここで見ていてはいけませんか?」
「…本来ならここはお嬢様が足を踏み入れるような所ではないのですが」
代わりに吐いて出た言葉に困ったような顔をする。
要観察を続けていれば、彼の人となりをそれなりに掴めるかもしれないという安易な考えであったが、困らせる類の願いだったらしい。よくよく考えなくても、自身が雇用されている関係者にじっとやることなす事見守られていたら落ち着かないのも無理はない。私も会社の社長の娘に仕事ぶりをじっと見てられていたなら落ち着かないなんてもんじゃないだろう。勘弁してくれ、と心の内で血を吐いていたかもしれない。心の内で。
しかし理解したからといって、それをものわかりよく『はい』とは言わないし、言えない。あちらにも事情はあろうとこちらにものっぴきならない事情があるのだから。
「だめ、でしょうか。ただ見ているだけで決して邪魔はしません」
「…承知いたしました。今しばらく場を整えますので、少々お待ち下さい」
困らせただろうな、と顔色を窺うとさっきまで出ていた感情の色は見えない。口元にやんわりと微笑を添えて、早速準備らしきものをはじめている。切り替えの早さと頭の回転は良さそうだ。
彼の人となりはまだわからないが、優しそうな人だとは思った。困った様子がありながらも何だかんだと希望を叶えてくれる。雇用主の関係者とはいえ、こっちは子どもだ。口先だけの優しい言葉で言いくるめることもできるだろうにそれをしようとする素振りもみえなかった。