第十四話「驚きは激流に飲まれて」
「マシュー、マシュー!」
暗闇の中で声が、声が聞こえる。
「……もう十日も、目を覚まさなくて。本当にこれで良くなるんですか?」
これは……母さんの声だ。
「ふむ、精神の根源たる魂に干渉されたのだ。それを少し整えてやれば……」
今度は、知らない男の人の声だ。
「先生、マシューは、目を覚ましますか?」
この声は……そうだ、ダイアさんだ。
「ワシは武道家だ。医者ではない。が、この手の症状ならば」
武道家? この人は一体、何者なんだろう。
「師父……今は何も言いません。とにかくマシューをお願いします」
母さんから、心配そうな声がした。
「お前の言いたい事は分かる。話は治療が終わってからだな」
そして、温かい掌が僕の額に触れた。
「これで、どうだ?」
と、男の人が言った。
額から、温かさが全身に広がっていく。
そして、その広がりと共に、意識が鮮明になってくる。
僕に、僕の思考に、現実感が戻ってきた。
……どんどんと、沈んだ記憶が浮かび上がってくる。
あの時、ジュリアーナが僕と、レンを、そしてレベッカを、
そうだ、レベッカだ! レベッカはあの後、どうなってしまったんだ。
「レ、レベッカ……」
と、僕は夢現から抜け出して、レベッカの名を呼んだ。
「マシュー!」
目を見開くと、そこには母さんの顔があった。
そして、
「あっ」
僕の言葉を遮り、母さんに抱きしめられた。
「マシュー、良かった! どこか痛くない?」
「いや……だ、大丈夫。いや、今は痛いかな」
「ああ! 私ったら、つい嬉しくて! またやっちゃったわ!」
と、相変わらずの母さんは、抱きしめた腕の力を緩めた。
枕元に用意されていた水を、少しずつ口に含むと、奇妙な魔道具から放たれた光が、僕を上から照らしている事に気付いた。
これは何だろう? でも何だか心地良かった。そのせいか、身体の変調を感じることは無かった。
水を飲み終わると、
「ゴメン、心配させちゃって」
と、母さんに謝った。
「いいのよ! ちゃんと目を覚ましてくれたんだから」
母さんの瞳は、涙で潤んでいた。
「そんなことより母さん! レベッカは――」
「レベッカちゃんは大丈夫よ。怪我一つ無かったわ。今は人探しを手伝ってもらっているの」
「本当に? 良かった……」
僕が意識を失う前に、レベッカとジュリアーナは臨戦態勢で向き合っていた。
敵に相対したのに、無事でよかった。と、僕は胸を撫で下ろした。
推測するに、レベッカは見逃されたのかもしれない。
あの巨躯の女は、僕からレンを抜き出す事に、随分と執心していた。
事後は、レベッカが戻ってきたら聞いてみよう。
「母さんも無事だったんだね」
「もちろんよ。あれくらいどうってことないわ」
と、母さんは微笑んだ。
「さすが母さんだね」
ジュリアーナは母さんの事を、確か【解放者】とか言っていた。
それは何なのだろう。気になる事ばかりだが、まずは一番の気掛かりから確認したかった。
「ちょっといいかな?」
と、もう一度目を閉じた。
レンは僕から抜き出されてしまったのだろうか?
僕は、僕の中で、レンの気配を探った。
「駄目だ……」
気配は消えてしまって、何も感じることは出来ない。
だが、それはレンが顕在化するまでの、今までもそうだった。
「居なくなってしまったのか、レン……」
僕がレンの影響で変わってしまった部分は、戻っていない。
今でも、年齢不相応の、精神的な成熟は残ったままだ。
だけど……。
「マシュー、その事なんだけど、話は聞いたわ」
と、ダイアさんが傍らにあった、大きな鏡に視線を移した。
「目覚めたばかりで悪いんだけど……」
ダイアさんは鏡から視線を戻し、
「これは、このギルド支部で使われている魔鏡よ。これで改めて今のキミを調べたい。例えば、今の状態とか」
と、鏡の縁に触れ、鏡に薄っすらと魔力の光が灯った。
その【魔鏡】は王城で見たものより、装飾は少ないが、魔道具らしき物が幾つも繋がれていて、より仰々しかった。
ダイアさんの話から、この場所がギルド支部だと分かった。
僕に起きた出来事を、ダイアさん達も知っているのだろう。
僕は、再び試されるのだ。
「わかりました」
と、僕はベッドから起き上がった。
「大丈夫? 本当に無理していない?」
心配そうな、ダイアさんに、
「本当に大丈夫です。今はちょっと眠気が残ってる位で、お腹も鳴ってないし」
と、僕は以前の粗相を思い出し、冗談交じりに微笑んだ。
僕の状態がハッキリしなければ、自由は保障されない。
そうでなくても、僕自身が一番、自分の現状を知りたかった。
「食いしん坊の君が、そう言うなら大丈夫ね」
ダイアさんも微笑んで、
「さあ、鏡の前に」
僕を右腕で誘った。
「お~い、ちょっと待て。ワシを無視するな!」
そう言って、僕と鏡の間に、初老ぐらいだろうか、逞しい男性が割り込んできた。
この声は、さっき僕を治療してくれた人だ。
動きやすそうな上下黒の服を纏い、白い帯を腰巻き。
白髪頭に、深い皺が刻まれた面立ちは、目付き鋭く雄々しかった。
鍛え上げられた二の腕が、小麦色の肌、沢山の古傷と相まって、只者ではない強者の風格を漂わせている。
その姿全てで、この人の強さ、剛毅さが、伝わってきた。
「師父、話は後でって言いましたよね? 邪魔しないで下さい!」
しふ? 何だか母さんの様子が変だ。
「これは先生。こちらこそ失礼致しました」
逆にダイアさんは恐縮して、頭を下げた。
「邪魔とか言うなよな。いいから機嫌直せ。マシュー、ワシの事覚えとるかな?」
その男の人は大手を広げ、僕に微笑んだ。
「師父、最後に連れてきたのは、2歳くらいの時ですよ。覚えているわけが無いでしょ?」
と、突っ慳貪に母さんが答えた。
どうやら僕はこの人と、幼い時に会ったことがあるらしい。
さっきから、母さんはやたらとこの人にきつく当たっている。
その態度が逆に、母さんとの親密な関係を感じさせた。
「ごめんなさい。流石に覚えてないです……」
僕は二人の顔色を伺いながら、素直に謝った。
その人は、肩を落として、
「はぁ、寂しいのう。ワシはお前の爺さんみたいなもんだぞ?」
大きな溜息を吐き出した。
「ま、仕方ないか。ワシの名はリュー・カイ――」
「この人は私のお師匠様よ。そしてレンと同じ【転生兵士】だってさ」
母さんが言を遮って、衝撃的な一言を発した。
「え?」
僕は二人の顔を行き来して、
「はぁっ!?」
それだけ衝撃的な一言だった。
「私もさっき知ったのよ。まったくもう! 昔から変な人とは思ってたけど」
母さんの変な態度、それはお師匠様に対する、怒りだったのか。
「おいおい。ラフィー、散々怒り散らかしただろう? もう許してくれんか。こんな事が無ければ一生の秘とするつもりだったのだ。この意味は、お前になら分かるだろ」
「確かに、わかります。わかりますけど! ずっと黙っているなんて……」
「ワシは周りの者を巻き込みたくは無かった。この世界の者として、この世界に骨を埋めるつもりだったのだ」
「そんな事……、でも、私は……」
と、母さんは涙目で、言葉を噤んだ。
そして涙を拭うと、
「師父……私も大人気なかったわ。意固地になったりして」
と、母さんは僕に目を向けた。
「師父へのお礼、まだだったわね」
母さんは向き直って、
「息子を治療してくれて、ありがとうございました」
母さんは襟を正して、頭を下げた。
「いや、分かってくれればそれで良い。ワシも悪かった」
お師匠様は冷汗を拭いながら、
「お前の母ちゃん、怒らせると怖いよなぁ」
母さんを横目に、僕の耳元で囁いた。
「この方は、私を武術を通じて導いてくれた、リュー・カイエン師父よ」
「マシュー、宜しくな。 ワシの事は師父と呼べい」
と、師父は腰に手を当てて、胸を張った。
「師父……、母さんのお師匠様が、【転生兵士】だったなんて」
母さんが規格外だった理由の一端がこれだったのか。
「ワシが赤子に転生して70余年、異世界関係者とは無縁に過ごしてきた。【転生兵士】に志願して、お陰で新しい人生でも、武道を探求する事が出来た」
と、師父は筋肉を隆起させ、全身に力を漲らせているようだった。
「凄い。これも異世界の技ですか?」
「ふむ。体内で魔力を循環させ、力を得ておるのだ。魔法や【術式】だけが魔力の使い道ではないぞ」
師父はまた、鼻息荒く胸を張った。
「先生、ご高説賜り、大変にありがたいのですが……」
と、ダイアさんが申し訳なさそうに促した。
「おっと、こりゃ失敬」
「先生、お気遣いありがとうございます」
ダイアさんはまた、深々と頭を垂れた。
「では改めて、マシュー。鏡に額を付けて」
ダイアさんの声に、僕は鏡の中の僕と向き合った。
「あっ、おでこの痣……消えちゃったんだ」
鏡の中の見慣れた顔に、見慣れた額の痣が無い。
「産まれた時からあった痣ね。それは、私も不思議に思っていたの」
と、母さんが後ろから声を投げた。
「レンと僕との……繋がりの印だったのかな」
そして僕は、痣のあった場所で【魔鏡】に触れた。
「どうですか?」
「……変化無しね」
と、ダイアさんは無反応の【魔鏡】を眺めていた。
鏡面が光る事も無かった。
「マシュー、君には今、スキルが無い。所謂【使えない者】だわ。レンの影響だろうけど――」
「つまりマシューは【解放者】になった、と言うことだな」
ダイアさんの言葉を、師父が遮るように言った。
「【解放者】? 先生、それは一体?」
ダイアさんは初耳なのか、師父に疑問を投げかけた。
「【解放者】とは、スキルという枷を外した者の事よ。異世界人が与えたスキルは、この世界の者に利便性をもたらすと共に、魔力消費の負荷も与え続けている。故に、スキルから解放された者は、この世界の人々が封印されている潜在能力を、解放する事が出来るのだ。その凄さは見たのだろう?」
「それはあの時の、お母様の力ですね……確かに、あの力を知った今となっては、理解できます」
「【解放者】の名付け親は、リガルド・ゼンフォードだ。確か今はギルド大隊長だったかの?」
「あの、リガルド大隊長が! お知り合いだったのですね」
「ああ、昔馴染みの戦友だ。奴こそが最初の【解放者】よ」
師父の話に、ダイアさんは興奮気味だ。
「察するに、マシューはレンの影響で、スキルを得れなかったのだろう。期せずして、マシューはスキルのその先にある領域に、一足飛びで到達したのだ」
そう言って、師父は僕の前に立ち、肩に手を置いた。
「まだ理解出来ないのですが、つまり、母さんみたいに強くなれるという事ですか?」
僕は縋る様な気持ちで、師父に問い掛けた。
「そうだな。が、それには壮絶な修練が必要だ。それこそ、血の滲むような日々を重ねてな」
僕の肩に乗った、師父の手に力がこもる。
「僕を、僕を鍛えてください! 僕は強くなりたいんです!!」
「何故だ? 何故強さを求める?」
「皆の為です。レンの力を借りて、強さを持った時に思ったんです」
僕は拳を強く握り締めた。
「僕の力が世界の、王国の為となり、この街や村の為にもなる。レベッカや、僕の両親の為にもなります。それが周り回って、僕の為になるのかなって」
と、僕は思うがままを、吐き出した。
「成る程。その志は立派なものだ。しかし、その若さで随分と利他的な理由だな。それに覚悟を伴えるのか?」
と、言う師父の強い眼差しを感じた。
「実はレベッカ……僕の大事な幼馴染に言われた言葉が、発端なんです」
僕は師父に、強い眼差しを返した。
そして、言葉を続けた。
「大きな力には、大きな責任が伴う……って。ずっと考えてました。僕は力を得て、その責任を果たします」
「マシュー、成長したわね」
母さんは目に涙を浮かべ、微笑んでいる。
「いや、受け売りだからね、これ」
僕は照れ隠しにそう言った。
「良い言葉だな……」
師父は思案顔のまま、
「良し、ワシが面倒を見よう。ワシにも、異世界から来た異邦人として、この状況に責任があるからな」
と、顔を綻ばせた。
「本当ですか! ありがとうございます!」
僕は師父の手と、手を重ね、
「宜しくお願いします!」
と、力強く言った。
「皆さんっ! 大変です!!」
突如、大きな声が入り込んできた。
それは、ギルド職員のものだった。
彼は大慌てで、部屋に飛び込んできたのだ。
「そんなに慌ててどうした? アインさんが見つかったの?」
ダイアさんが、訝しげに尋ねると、
「はい! アインさんは今、レベッカさんと一緒です。街外れで保護されました」
職員は口早に答えた。
レベッカが探していたのは、アインさんだったのか。
「それとは別のご報告が! 実は今し方、王国より、使者が参りまして……」
「王国から? 王国で何かあったんですか?」
母さんが身を乗り出した。
「はい。王国が鎖国を宣言しました」
「えっ、何ですって!?」
「全ての外国人と、非賛同者は、1週間の猶予で国外退去を命じられたそうです」
と、職員は額に手を当て、俯いた。
「王国が鎖国を? そんな……」
母さんは表情に、険しさを滲ませている。
僕も、他の皆も驚き、一様に黙り込んだ。
「失礼致します! 王国は国境と設定していた、境界街付近の緩衝地域を放棄し、その手前、宿場町辺りまで国境線を後退させるとの事です!」
と、ドアの外から別の職員が続報を投げ込む。
師父は眉間に皺を寄せて、
「国境を後退……魔獣が完全に駆逐された絶対安全圏の中に引き篭るつもりか。国を閉じて、何を考えとるんじゃ」
語気を荒げた。
「とりあえず、アインの元へ行きましょう」
母さんの言葉に、皆が部屋を出て、歩を進める。
道すがらの足取りは、途轍もなく重いものに感じられた。
異世界の力と、スキルも無くなった僕の行く末には、一筋の光が差し込んだ。
だが、それに反して王国の行く末には、暗雲が立ち込めている。
100年ぶりに、異世界を発端とする動乱が、再びこの世界を包んでいく。
短い間に濁流のように押し寄せる出来事に、僕は巻き込まれてしまっている。
これもまた、運命が紡いだ、偶然という名の必然だと、言うのだろうか。




