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第一話 熊が道場にやってきた!

プロローグ


 いつになく真剣な父の表情に闘子は一抹の不安を覚えた。

 父、グレート猪狩は語る。

「時代は求めている! 世界最強の格闘家を!」

十年前の全盛期ならイザ知らず、まさかその歳で自分が最強などとは言い出さないだろうが……。

娘の冷たい視線に構うことなくグレート猪狩は熱く語る。

「絶対的な強さ! 圧倒的な存在感! 俺はついに見つけた!」

それを真にうけて早速、パンダマンが「マジっすか!」と、目を輝かせる。

試合後のパンダマンは目の周りのメイクが汗で流れかけているのだが見かけ通りにマヌケな奴だ。

グレート猪狩はニヤリと笑って親指を立てる。

「で、近々そいつをうちのリングに上げる。スーパースターの誕生だ! そして俺達の時代がやって来る!」

そこでレスラー達が一斉に「おおっ!」と、どよめく。

「シャチョさん凄いデスネー」と、アシムが熱い視線を猪狩に送る。

「シャチョさん最高!」と、ハマドも兄に続いて猪狩を絶賛する。

まったくもって『おめでたい兄弟』だ。大体このパキスタン人の兄弟は人を疑うということを知らない。普通に考えればそんな凄い格闘家がこんな潰れかけのプロレス団体のリングに上がるはずがないのだ。

闘子は疑り深そうな目つきで父、グレート猪狩を睨む。

「で、どこの誰なのよ? その最強の格闘家ってのは?」

すると猪狩は自信たっぷりに答えた。

「熊だ。本物の熊をうちのリングでデビューさせる!」 

……長い沈黙。

まるでその場に居た全員の脳みそが一瞬で蒸発したように皆が皆アホ面を同時に浮かべた。

そんな中、唯一冷静なロシア人悪役のキラー・ロマノフが猪狩に聞き返す。

「ク、熊デスカ? 熊ッテ、動物ノ?」

ロマノフの質問に猪狩が答える。

「当たり前だろ。熊といえば熊に決まってるだろうが!」

(熊をプロレス・デビューさせる?)

その馬鹿げた父の発想に闘子が切れた。

「な、な、何考えてんのよっ! バッカじゃないの?」

そんな闘子の凄い剣幕とは対照的にのんびりした口調でハマドが口を挟む。

「シャチョさんは『パッカ』じゃないヨ。バカなだけヨ」

それを聞いた猪狩がすかさずハマドに掴み掛かる。そしてコブラツイストでハマドを締めあげながら宣言する。

「とにかく俺に任せておけ! あてはあるんだ! 必ずや熊をスーパースターにしてみせる!」

闘子は目の前が暗くなるような気がした。

(またこの馬鹿親父がとんでもないことを……)

闘子の経験上、この後ろくでもない事になってしまうことは容易に想像できた。が、既に事態はとんでもない方向に進みはじめていた。試合後の控え室、正確には体育館の用具室に集合した面々の想像をはるかに超えて……。


  *  *  *


 移動用のマイクロバスで高速を乗り継ぐこと6時間。さらに山道を延々と進む。気がつけば周りはどこもかしこも大量の緑に覆い尽されていた。視界を埋め尽くす緑に圧倒された闘子はすでに(ここはどこ?)状態だ。多分、日本地図の一番緑っぽい箇所のど真ん中を目指して闇雲に走っているのだろう。

出発して半日がかりでようやく目的地に到着した。到着したところは昔ながらの日本家屋。外観だけでは農家なのか林業を営んでいるのかは分からない。

からぶき屋根を見上げながら闘子が呟く。

「凄……はじめて生で見た」

まあ、大きな家といえる。ただ、そもそもこんな山奥のそれも人里から隔離された場所に人が住んでいるものなのか怪しいものだ。

猪狩は長時間ドライブでグロッキー気味の闘子を残してマイクロバスを降りた。そして疲れもみせずにスタスタと胸を張って玄関に向かう。さすがプロレスラー。無駄に体力があるらしい。仕方なく闘子も後に続く。

猪狩は開けっ放しの玄関にずいと足を踏み入れて怒鳴った。

「ごめーん!」

が、反応が無い。

猪狩がイライラしているとしばらくしてコントに出てくるような風貌の老人が「あ〜いよ」と、間の抜けた返事をしながら出てきた。

老人を見て闘子は思った。

(小さっ!)

普段、大男に囲まれた生活をしている闘子にとって腰の曲がった老人はやけに小さく見えたのだ。

一方、老人は猪狩親子の姿をジロジロと眺める。

「あ? 誰だ、おめぇ」 

「あんたが小次郎さんか? 俺は伝説のプロレスラー、グレート猪狩だ!」

そう言ってグッと胸を張る猪狩の隣で闘子が顔を赤らめる。

(自分で伝説とか言っちゃってるし……)

「はあ。電鉄の人だんべ」

「誰が電鉄の人だ! 伝説だ。デ・ン・セ・ツ!」

「こりゃまたスツレイ。んだども、何でまたこんな山奥まで来なすったど?」

「ここに人間に育てられた熊がいると聞いてきたんだが!」

「熊? あー、ひょっどして『熊五郎』のことだんべか?」

目的の人物、もとい熊の名は熊五郎というらしい。

熊五郎という名前を聞いて猪狩が顔をしかめる。

「そ、そのまんまの名前だな。で、どこだ? そいつは今どこにいる?」

「あ〜 熊五郎ならコタツでテレビみてるだ」 

小次郎の意外な言葉に猪狩親子が「はぁ?」と、同時にマヌケなリアクションをとる。

闘子が顔を引きつらせる。

「コ、コタツでテレビって、そんな……」

「ま、オラについてくるだ」

そう言って小次郎が猪狩親子を家に招き入れる。

玄関を上がって、やたら幅の広い廊下を進んでいるとやがてテレビの音が聞こえてきた。

「ほれ。そこが居間だんべ」

小次郎に促されて猪狩が居間を覗き込む。

すると、コタツに入って誰かがテレビを観ているのが目に入った。正確に表現するなら『誰か』ではない。誰か、というよりは黒い物体だ。黒い物体がこちらに背中を向けているのだ。

それを見て猪狩は息を飲んだ。

続いて闘子が居間を覗き込む。

(で、デカっ! な、何アレ?) 

一瞬、その奇妙な構図に思考が追いつかない。

コタツに足を突っ込み肩肘ついて寝転がる黒い巨体。黒くて大きくてもこもこしている。よく見ると確かに熊だ。いや、はじめに『熊』と聞いていなければその物体が何であるのか恐らく理解出来なかっただろう。

突然、闘子の膝が勝手に震え出した。おまけにアゴまでガクガク振動し始めた。

(く、く、く、クマだ。熊だ。本物の熊だ!) 

熊は入り口で固まる猪狩親子の存在などまるで気付かず手を伸ばしてコタツの上のみかんをつまんでは一口で飲み込んでしまう。

(く、熊がコタツでみかん!)

そんな光景を目の当たりにして唖然とする猪狩親子に小次郎が声を掛ける。

「遠慮せんと中に入ったらどうだべ? 寒かろうて」

それを聞いて闘子が首をブンブン振って激しく遠慮する。

「だ〜いじょうぶだって。おい。熊五郎!」

小次郎に呼ばれて熊が「ガッ?」と、反応する。

「熊五郎よう。この人たつ、おめぇに会いに来たんだど」

熊五郎はむっくり上体を起こして振り返る。そしてきょとんとした表情で首を傾げると、またテレビの方に顔を向ける。

(む、無視された……でも何をそんなに夢中で観てるんだろ?)

不思議に思って闘子が目を凝らす。

どうやらテレビでは野球中継をやっているらしい。

そこで小次郎が説明する。

「こいづ、熊のくせにタイガースのファンなんだ」 

「本当にルールをわかってんのか?」と、猪狩が眉をひそめる。

「ルール以前の問題でしょ!」と、闘子が猪狩に突っ込む。

だいたい熊がテレビに夢中になっていること自体あり得ない。まず突っ込むならそこだろうと思う。

その時、熊五郎が「ガーッ!」と吠えた。

画面を見るとタイガースの四番がホームランを打ったようだ。

熊五郎は嬉しそうに右手でコタツをバンバン叩く。結構、豪快だ……。

(た、たぶん。画面の歓声に反応してるのよね……)

闘子はそう思い込むことにした。熊が野球観戦なんて……あり得ない!

そこで試しに尋ねてみる。

「まさか、ホントに野球のルールを理解してるとか?」

 すると小次郎は闘子の顔を眺めながら答える。

「こいづ、ちゃんと分かってんだべ。さすがにスポーヅ新聞は読まねえけどな」

(当たり前でしょ!)

と、闘子が突っ込もうとする前に猪狩が反応した。

「おお! それは良かった。敵味方の区別がつかないんではタッグマッチの時に困るからな!」

本気でそんなことを心配していた父に闘子はうんざりした。

「バッカじゃないの!」

 それにしてもコタツでみかんとは……。つくづく呆れてしまう。

 闘子の呆れ顔を見て小次郎が説明する。

「こいづは自分のこど人間だと思ってるべ。なんせ生まれた時からずうっと家ん中で暮らしてるからなぁ」

さしずめ森の熊さんならぬ家の熊さんといったところか。

小次郎の解説に興奮を抑えきれない猪狩は突如、三つ指をついて小次郎に頭を下げた。

「む、息子さんを俺にくださいっ!」

それを聞いて闘子がガクッとずっこけた。

(婚約者の父親にお願いするんじゃないんだから……)

猪狩がいきなり土下座をするものだから小次郎が戸惑った。

「は? こいづを? 本気だべか?」

「是非スカウトしたい。彼なら必ず日本一、いや世界一の「格闘王」になれる!」

「あ? 角砂糖?」

「違ーう! かくとう王。カ・ク・ト・ウ・王! プロレスで天下を取れるってことだ!」

プロレスと聞いて小次郎が「プロレス……」と、急に険しい顔つきで考え込んだ。

緊張の一瞬。交渉が成立するかどうかの瀬戸際だ。小次郎の反応を見て心配になった猪狩が恐る恐る尋ねる。

「だ、ダメか?」

すると小次郎は「うんにゃ。いんでないかい」と、あっさり同意してしまった。

「よし!」

猪狩のガッツポーズを闘子は複雑な心境で見つめた。

(交渉が成立して良かったんだか悪かったんだか……)

冷静に考えればこれは大変なことだ。ウチに熊がやってくるなんて事はそうは無い。闘子にもそれはちょっと想像ができない。

「よし。それでは交渉成立ということで早速、一緒に来てもらおう」

「え? 今からだべ?」

「ああ。その為にマイクロバスで来た」

「まあ、ええけんど……ちょっと待ってケロ。オラの準備があるだて」

「何? あんたも来るのか?」

「勿論だ。だっで、通訳が要るだべさ」

「なるほど。それもそうか」

(そこで納得するな!)という闘子の心の叫びが届くはずも無く、結局、熊五郎と小次郎を乗せてマイクロバスは帰路につくことになってしまった。


  *  *  *


 小次郎の家から山道を下ること小一時間。その道中で突然、闘子の携帯が鳴った。

「もしもし」と、闘子が電話に出るやいなや、

『だ、大丈夫かい? 闘子! 良かった。やっと繋がった!』という声が耳に飛び込んできた。アツシが心配して電話をかけてきたのだ。

「いや。大丈夫だから。一応……」

『ま、まさか熊に襲われたりしてないよね? 大丈夫だよね?』

「だいたい襲われてたら電話出れないでしょ。てか、もっと最悪かも」

『さ、最悪ってなんだよ。ボクは闘子が無事でさえいてくれればそれで……』

そこで電波が途切れた。携帯を見るとまた圏外になっている。

(ま、いっか。帰れば分かるでしょ)

そんな事を考えながら闘子が小さくため息をつくと、猪狩が運転しながら尋ねた。

「なんだ? ハンサム・ボーイからか?」

「……ん。なんか心配で電話してきたみたい」

「フン! 奴め。お前の事より自分の才能の無さを心配しやがれってんだ!」

「酷っ。あれでもウチにとっては貴重な選手なんだよ」

「どうだか。ありゃ長続きせんぞ。動機が不純すぎる」

猪狩の言葉に闘子がドキッとする。ちらりと父の横顔を盗み見するがハンドルを握っている猪狩の視線は前方に注がれている。まるで試合の時に相手のレスラーを睨みつけるような表情だ。

「別に……アツシとは何でもないんだから」

半分は言い訳、残り半分は自分に言い聞かせるように闘子は呟いた。少しブルーな気持ちで窓の外を眺める。ふと何気にバックミラーを見ると熊五郎と小次郎が寄り添って眠っている。まるでおじいちゃんが真っ黒な掛け布団に包まっているように見える。微笑ましいながらも奇妙な光景だ。


  *  *  *


 結局、丸一日を費やして猪狩と闘子は「道場」兼「合宿所」にようやく帰ってきた。

疲れきった表情で闘子がノビをする。

「はぁ。やっと帰ってこれた……」

時計を見ると午前9時を少し回っている。この時間ならまだ朝練の最中といったところか。

(みんな練習中かしら? こんなの見たらみんな引くだろうなぁ)

そんな事を考えながら闘子はシートベルトを外す。

猪狩はマイクロバスを道場の入り口に横付けする。

グレート猪狩が率いるプロレス団体「新日本グレート・プロレス」の本拠地でもあるこの道場は、もとはといえば倒産した精肉工場の倉庫だった。格安の家賃で借りられる代わりに駅からはほど遠く、周りの人口密度は悲しいぐらいに低かった。その分ここに本物の熊がいても目立つことはないだろう。

バスのエンジン音を聞きつけて道場から何人かの選手達が出てきた。

猪狩と闘子がバスを降りて皆の出迎えを受ける。

「お疲れさまッス」と、素顔のパンダマンがおじぎをする。

「シャチョさん遅かったネ〜 ご苦労さんダネ〜」と、アシムが馴れ馴れしく猪狩をねぎらう。

パンダマン、アシムとハマド、おむすび山、ロマノフ、南大門、副社長のケンちゃんと大体のメンツは揃っている。が、アツシの姿が見えない。

(あれ?)と、闘子が怪訝に思っていると道場の中からアツシの「あっー!」という情けない呻き声が聞こえてきた。

(やれやれ……)と、闘子が中を覗き込む。

するとリングの上でアツシが白熊君に関節技をかけられている最中だった。

そこで猪狩が集合をかける。

「おーい! みんな集まれ〜!」

それを聞いてリングの上の2人も練習を中断する。

「痛テテ」と、腰をさするアツシの格好悪い姿を眺めて闘子は小さくため息をつく。

皆が入り口に集合したところで副社長のケンちゃんが尋ねる。

「社長。お疲れ様でした。で、見つかったんですか?」

「おうよ。スカウト大成功だ!」

猪狩の言葉を聞いて一堂が「おおっ」と、どよめいた。

それを見て猪狩はニヤリと笑う。

「じゃ、皆に紹介しよう! スーパースター候補の熊五郎だ!」

そう言って猪狩はマイクロバスのドアを勢いよくスライドさせた。

皆の視線が集中する。緊張が高まる。 

そこで後部座席から熊五郎がひょっこり顔を見せる。意外にあどけないその表情に若干、緊張が緩む。ところが、器用にバスから降りてきた熊五郎が、その全身を見せた瞬間、皆がズッと数歩後ずさりする。 

「で、で、で、でかっ!」と、パンダマンが目を剥いた。

「アワワワ」と、ハマド兄弟が抱き合って震える。

それを見て猪狩がフォローを入れる。

「心配すんな! 大丈夫だ。こいつ、見かけは熊だが……いい奴だ」

それでは全然フォローになっていない。

(見かけだけじゃなくて本物の熊なんですけど……)

闘子はゲンナリしたが口を挟むような雰囲気ではない。

マイペースな猪狩は続いて熊五郎の後から降りてきた老人の紹介をはじめる。

「で、こっちが通訳の小次郎じいさんだ」

猪狩に紹介されて小次郎がぺこりと頭を下げる。

「皆さんよろすく。まんず、オラ田舎者なんでちょっと緊張すています」

小次郎があいさつするのを見て熊五郎が「ガッ!」と、短く吠えた。すると小次郎がすかさず通訳をする。

「気に入った。汚ねえとこだけど悪くない、と熊五郎は言ってるべ」

(絶対言ってないと思う……)

多分、皆も闘子と同じ感想をもったのだろう。小次郎のうさんくさい通訳に誰もが眉をひそめた。が、猪狩はそんなことはまったく気にしない。

「そういうわけで今日から熊五郎と小次郎じいさんが仲間になった。皆も気合入れていけよ!」

そんな猪狩のゲキに対して「ウィィッス……」と明らかにテンションが下がった答えが返ってくる。選手達が戸惑うのも無理はない。なにしろ今日から熊と生活しろというのだから……。 

解散の号令をかけようとした猪狩が何かを思い出した。

「ああ、そうだそうだ。おい白熊!」

「はい? 何でしょう」と、先程アツシに技をかけていた白熊君が返事をする。

「お前、リングネーム変えろ! キャラが被るから」

猪狩にそう宣告されて白熊君が青ざめる。

「ええっ! そんな〜 やっとこのキャラに慣れてきたのに」

もともと色白で太っているからという理由だけで猪狩がつけた名前なのだ。今更ネーミングを変えろと言われても無理がある。

「しょーがねぇだろ。熊五郎と白熊君じゃ紛らわしいだろ」

「そんなぁ。じゃあボクの名前はどうなるんですかぁ?」

白熊君に懇願されて猪狩がしばし考える。で、出した答えは単純明快。

「なら、「太った人」でいいんじゃないか」

「そんないい加減な……」と、半べそをかく白熊君。

それを闘子が慰める。

「ごめんね。アタシがいい名前考えてあげるから」

ずっと年下の闘子に慰められる白熊君、もとい「元白熊君」をハマド兄弟も励ます。

「ボクラもいっしょに考えてあげるヨ〜 例えばサ「白ブタ野郎」トカ〜」

「ダメダヨ兄ちゃん。「白豚クン」の方がカワイイヨ〜」

傷口に塩を塗りこむようなハマド兄弟のコメントを闘子が一喝する。

「あんたらは黙ってなさいっ!」

まったく先が思いやられる。ただでさえ手間のかかるヘンテコ集団に今度は本物の熊だ。経営者の娘として、これからも彼らの面倒を見なければならないと思うと闘子はうんざりした……。 

しかし落ち込んでばかりもいられない。実質この会社を切り盛りしているのは闘子なのだ。闘子が動かなければ何も進まない。

(まずは……食費が心配だわ)

熊五郎の巨体が頭に浮かんだ。確かにあの図体では他のレスラーの五人分ぐらい食べてもおかしくはない。それと、ここで寝泊りするとなると……。

「あ、部屋どうしよ」 

さすがに熊と相部屋させるわけにもいかない。

「あー! 頭痛い……」

闘子が頭を抱えているとアツシが「大丈夫かい?」と、声を掛けてきた。

アツシが腰をかばいながら歩くのを見て闘子が呆れる。

「ケガ人に心配されたくないんですけど」

「平気だって。ちょっと休めばすぐ良くなるさ。オレ、闘子よか若いし」

「何言ってんの。同級生でしょ。変わんないじゃない」

「それもそうだな」

そう言ってあどけない笑顔をみせるアツシはまだ18歳。つい半年前までは高校生だったのだ。それがどういうつもりか卒業後にグレート猪狩に弟子入りしてしまったのだ。本人は闘子と一緒に居たいからだと言うものの、どこまで信じて良いかは分からない。

「けどさ。闘子も大変だね。まさか本当に熊を連れてくるなんてな」

「……まったく頭痛いわよ。ただでさえ経営苦しいのに」

「そもそも熊って普通の家で飼ってもいいものなのか? 法律違反じゃねぇの?」

「さあ? その辺はアタシにも分かんない」

正確には都道府県知事の許可を貰って基準を満たした飼育設備で飼うぶんには法的に問題ない。ただし熊五郎のように野放しというのは論外であるが。

「じゃ、オレ練習戻るわ。闘子も無理すんなよ!」

アツシはそういい残して爽やかに去っていく。まるで女子の憧れの的であるイケメン選手が練習に戻る時のように。

(格好良いんだけど……なんだかなぁ)

確かに猪狩がリング名を「ハンサム・ボーイ」としただけのことはある。

そんなアツシに言い寄られている自分は幸せだと闘子は思う。なのに本気になれない自分がいる。まるで曇りガラス越しに空を見上げた時のように何かクリアではないのだ。

アツシの後姿を見送りながら今日も闘子は胸の中の痛みを押さえつけた。チクチクと棘が触れるような小さな痛みを……。


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