悪役令嬢は逃亡先でヒロインを演じる
「ハイデマリー・ラインダース!君との婚約を破棄する!」
そう声高に宣言する皇子にキャロラインはさっと顔色を悪くした。相対するラインダース侯爵令嬢は忌々しげにこちらを睨みつけてくる。
よろめいたキャロラインを支えたのはディートリヒ皇子だ。「安心して、リーネ。君が心配するようなことは何もないよ」冷たい表情に少しだけ温度が乗る。残念ながらキャロラインはそんな微笑みにもちっとも心動かされなかった。
何が安心して、よ。すべて手のひらの上で踊っているだけの愚かな男にキャロラインは心の中で毒づいた。そして一年前の夜を思い出す。
悪趣味なほどあの時と同じような断罪の場で、ただ違うのは――キャロラインが今は断罪する側に立っていることだった。
侯爵家の唯一の娘であるキャロラインは物心ついた頃から王子の婚約者として扱われてきた。つまり、順当にいけば未来の王妃になるということだ。それだけがキャロラインの誇りだった。父から厳しく接されても、泣きたくなるほどつらい授業を毎日毎日受けさせられても、値踏みするような不躾な視線を向けられても、キャロラインは王妃になるのだから耐えなければならないと思っていた。
婚約相手の王子は見目麗しく、まさに王子といった気品を備えていた。キャロラインのことをどう思っているかはわからなかったが、キャロラインは彼が嫌いではなかった。後になって思えば、彼の王子という肩書きが嫌いではなかった、というだけの話だったけれど。
そんなキャロラインの将来に翳りが出たのは貴族の子女が通う学園に入学した頃だった。最初は噂に聞くだけだった。男爵令嬢が王子に馴れ馴れしくしている、と。キャロラインは王子とは別の授業を取っていたし、普段あまり関わることがなかった。けれど周りに囀られては確認しないわけにはいかず、わざわざ王子に会いに赴いたのだ。
「ごきげんよう、殿下」
「キャロラインか。どうした」
「お尋ねしたいことがあって参りました」
王子は嫌そうな顔をした。心当たりがあると言わんばかりの表情だ。
「近頃、下級貴族の女性とよく一緒にいらっしゃるというお話を耳にしたのですが、事実でしょうか」
「……事実だとしたらどうする?」
質問に質問で返されるのは気に食わないが、つまりそれが答えだった。隠すならちゃんとしてほしいとキャロラインは思う。将来婚姻関係を結ぶなら、王子の評判はキャロライン自身の評判にも関わってくる。
「どうもいたしませんわ。生徒の規範たる殿下が風紀を乱すようなことはなさりませんものね」
嫌味を交えて釘を刺しておく。王子は眉間のシワをいくつか増やした。
「それをいうのなら、お前もだな」
「ええ。皆様の手本となれるよう励みたいと思いますわ。では、これで失礼します」
優雅に一礼をしてキャロラインはその場を去った。キャロラインがこの件で能動的に動いたのはそれきりである。
しかし、キャロラインの周りは彼女を放って置かなかった。王子の男爵令嬢の様子を逐一キャロラインの耳に入れてきた上に、一部の人間は男爵令嬢へ嫌がらせもしていたらしい。
無関心でいたからだろうか、キャロラインは一年生最後のダンスパーティーで王子にエスコートをすっぽかされた上にいわれのない罪を突きつけられたのである。
「キャロライン・アシュベリー!お前がナナリーに行った非道の数々、この国の王子として見過ごせない!よってお前との婚約を破棄する!」
堂々と言った王子に、キャロラインはどんなに見目のいい人間でも醜く見えるときがあるのだなと感心した。唯一無条件に好ましく思う部分が翳ったので、もはや王子に対して未練は微塵も持てなかった。
「非道とやらに覚えはございませんが、婚約の破棄については同意いたしますわ。どうぞ殿下から国王陛下に奏上なさってください」
「なっ……なんだと!ここまできてしらを切るか!」
「事実を申し上げたまでですわ。証拠がございますの?」
「目撃者もいる!」
「わたくしにもアリバイがございますわ。学園では常に護衛がついておりましたもの」
「お前の家の手の者など信用できるか!」
「あら、お忘れになって?護衛をつけられたのは王家の方でしてよ。あなた様の家の手の者、ですわ。王子殿下」
鼻で笑ったキャロラインは「職務を全うしていた護衛と有象無象の証言、どちらが正しいのでしょうね?」とだけ告げてその場を後にした。最後までちらりともナナリーとかいう女のほうは見もしなかった。――認識しておけば、その後何か違ったのかもしれない。
騒ぎは当然ダンスパーティーで収まらず、帰宅したキャロラインにアシュベリー侯爵は激怒した。王子の心もつなぎとめられない役立たずと謗られ、ならばこの家に用はないとキャロラインは出て行くことにした。行き先は母の故郷である皇国だ。
わずかな供を連れて逃亡したキャロラインは、その国の公爵家の位にある伯父を頼った。伯父の妹、つまりキャロラインの母に似ているキャロラインは歓迎され、かつて母に与えられていた公爵家配下の男爵の位を名乗ることが許された。
皇国にも王国と似たような学園がある。キャロラインはそこへ編入し、学生生活をやり直すつもりだった。
けれどその平穏はたやすく崩壊する。
「やあ、カロリーネ・ベルマン嬢」
皇国風の発音で呼んだのは一人の男子生徒だった。さらりと銀髪が流れる。青い瞳がどこか冷たく見えた。
この外見で想像がついたキャロラインはすっと頭を下げた。
「ごきげんよう、ディートリヒ殿下」
キャロラインは皇国の貴族学校に編入するにあたってきっちり貴族たちの名前を把握してきている。とはいえ、皇子ともなれば王国にいた頃から名前くらいは聞いていた。
「そう硬くならないで。ここは学園だ」
高位貴族にありがちな勘違いだな、とキャロラインは冷めた目で皇子を見た。侯爵程度ならまだしも、皇族が相手なら硬くならないわけがない。それにキャロラインと皇子は初対面だ。そう言われたとしていきなり馴れ馴れしくなれるほど無礼ではなかった。
「転入生がいると聞いたから、珍しいと思ってね。カロリーネ嬢は今まで外国にいたんだって?」
「さようでございます。皇子殿下」
「だから、もっと気軽に話してほしいんだけどな」
にこやかに言いながらもやはり瞳の奥は警戒心が滲んでいる。どういうつもりなのだろうとキャロラインは首を傾げた。向こうから話しかけてきたくせに。
皇国の人たちはどこか排他的だ。外国からやってきたというだけでも警戒の対象になるのだろうとキャロラインは結論付けた。
それから皇子や彼の取り巻きと思しき男子生徒たちがやたらと話しかけてくるにつれ、キャロラインは学園の中で孤立していった。高位貴族の子息たちに言いよる異国の無礼な女、というのがキャロラインの評価になっていったからだ。もしかしてこうなることも皇子の作戦なのかしら、とキャロラインは思う。机の中にしまっていたノートはずたずたに切り裂かれていた。
あるときは皇子の婚約者である女生徒――ハイデマリー・ラインダース侯爵令嬢が直接文句を言ってきた。婚約者のいる男性に気安く近づくなと言われて、キャロラインは首を傾げた。向こうから近づいてきているだけで、キャロラインから近づいたことは一度たりともない。
しかし、この時点でキャロラインは察していた。仮にハイデマリーにそう伝えたところで逆上されるのだろう。皇子に伝えておこう。
「もしかしてハイデマリーに何か言われたのか?」
付きまとってくる皇子に「なぜいつも話しかけてこられるのです?」「婚約者以外の異性に気軽に声をかけるべきではないのではありませんか」と伝えたところそう返されて、キャロラインはめまいがした。
「これは一般論です、皇子殿下」
「そういえばこの間、君の文具が壊されていたね」
「話をそらさないでくださいませんか」
「そらしてはいないよ。そうだろう?」
「いいえ。関係のない話です」
「強情だね、カロリーネ。僕のことを頼ってはくれないのかな」
「何をおっしゃっているのか分かりかねます。わたくしは殿下のふるまいについてお話させていただいていたのですが」
「僕のことは心配しないで」
あまりに話が通じない。難聴でも患っているのだろうかとキャロラインは思った。こんなにもこちらをないがしろにされると腹が立ってくるし何より気味が悪い。
最近は皇子以外の男子生徒もこんな感じだった。あまりに不気味だったので伯父にも相談してみたが、現状を正しく理解してもらえた気がしない。むしろ皇子に目をかけられていることを喜ばれてしまった。
そんな日々の中、キャロラインは毎晩同じ夢を見るようになった。
――どうして。
女の声がキャロラインを詰る。
――どうして、あなたのせいで。
ハイデマリーの怨念だろうかと最初は思った。魔女の呪いというものは存在する。
けれど、だんだんとその女の姿が見えるようになってくるとそうではないということに気がつく。ウェーブしたやわらかな栗毛を持つ小柄な女は目を血走らせてこう言った。
――どうして、殿下を諫めてくださらなかったのです。あなたが婚約者としてちゃんとしていれば、わたしはこんな目に遭わなかったのに!第一王子を誑かした女として悪しざまに言われることも、実家が没落することもなかったのに!
キャロラインは気になって自分が去った後の王国のことを調べた。後ろ盾を失った第一王子は失脚し、アシュベリー侯爵令嬢を不当に罰したとして廃嫡されたらしい。どうやらキャロラインは死んだことになっているらしかった。そっちのほうが侯爵に都合がいいからだろう。
そしてナナリーとかいう女は社交界の爪弾きにされ、実家はあっという間に没落したらしい。
また別の夜、ナナリーは夢に出てきてこう言った。
――あなたも同じ目に遭えばいいんだわ。わけのわからない、話の通じない、傲慢な男に言い寄られて破滅してしまえばいいのよ。わたしだけこんな目に遭うなんて、許さない!
黒い怨念が渦巻いてキャロラインの視界を覆う。次の瞬間目を覚ましたキャロラインは納得した。なるほど、皇子たちの意味の分からない行動はこの呪いが原因だったのか。
哀れなことだ。ナナリーも、皇子も。皇子の婚約者もだ。原因が分かるとキャロラインはすっきりして、そして次にすべきことのために行動を開始した。
そして、その日が訪れる。ナナリーの呪いにより断罪の舞台が整えられた日。
シャンデリアがきらめく。皇子は自らが始めた断罪の場で、堂々と正義の体現者のように婚約者の令嬢を詰った。
「君の非道については調べはついている。カロリーネを虐げ、あまつさえ直接危害を加えようとしたということも」
「誤解ですわ、殿下。私はそのようなこと、何も」
「証拠はあるんだ。見苦しい言い訳は聞きたくない」
「証拠ですって?ならばわたくしにも証拠がございますわ。わたくしには常に王家から遣わされた侍女と護衛がついておりましたもの!」
「そうか。では、彼らの言い分を聞こうか」
皇子の言葉に応じてハイデマリーの後ろに控えていた男女が歩み出る。彼らは一礼して、先に侍女の女が口を開いた。
「はい。ハイデマリー・ラインダース嬢はカロリーネ・ベルマン嬢の名誉を棄損する発言をたびたび口にし、社交界に広まるよう周りの令嬢に伝えておりました。また、ベルマン嬢の私物を壊すよう侍女へ命令されたこともございます」
「なんですって!嘘を言わないでちょうだい!」
淡々と告げる侍女にハイデマリーは顔を青くさせた。しかし皇子はただ冷たい視線だけをハイデマリーに投げかける。
「君への発言は許可していない。次」
「はい。ラインダース嬢は侍従を使いベルマン嬢を襲う計画を立てておりました。幸いこの学園の生徒の働きによりこちらは未遂に終わりましたが、ベルマン嬢への殺意があったとみなせます」
「そうだね、エックハルトがたまたま一緒にいたから未遂に終わった事件だ」
「殿下!これは何かの間違いでございます!何か……ッ、そこの、女が!わたくしを貶めるために企んでいるのに違いありません!」
あまりの事態に声を荒げるハイデマリーに周囲がざわつく。キャロラインはただそっと首を横に振った。気づかわしげな視線が向けていたが、やがて皇子は顔を上げてハイデマリーを睨みつけた。
「君が婚約者に定められたときと今とでは状況が違う。この婚約の破棄は妥当だ」
「ディートリヒ様ッ!」
「連れて行け。彼女はもう、この学園の生徒ではない」
騎士たちがハイデマリーの腕を掴む。令嬢に対する扱いではないわね、とキャロラインは思って、そして彼女がもう罪人であることを思い出した。
哀れなスケープゴート。そう、ナナリーと同じだ。
「大丈夫かい、リーネ」
「ええ。ラインダース様は……お認めになってくださいませんでしたね」
儚げに微笑みながらキャロラインは当たり前だとも思う。
だって、ハイデマリーの言うことは正しい。彼女がしたのはちょっとした嫌がらせだけで、キャロラインに直接危害を加えようとなんてしたことはないのだ。
ハイデマリーも、ディートリヒ皇子も。ただキャロラインの手のひらの上で踊っただけだ。ナナリーが整えた舞台を存分に利用して、公爵家の力を使って、キャロラインは自分で筋書きを用意した。
「あのような女性とは思えなかったが……代わりに私は君という至宝を得た」
甘ったるく吹き込んでくる皇子をそっと押し返す。婚約すらしていないのにこんな距離感で迫ってくる男は勘弁だったので、キャロラインは眉を下げて囁く。
「ディートリヒ殿下。今はまだ……」
「そうだった」
ようやくキャロラインから体を離した皇子はざわつくあたりを見回した。
「皆の者、騒がしくしてすまない。引き続きパーティーを楽しんでくれ!」
そんなことできるわけがないのに。キャロラインは呆れながらも皇子から離れることはしなかった。
キャロラインがこの後公爵家の養子となり皇子の婚約者の座を得るのは確定事項だ。そのために伯父を炊きつけてラインダース侯爵家の不正やらを掘り出させ偽の証拠を用意した。ラインダース家が政敵でよかったとキャロラインは思う。そうでなかったらもう少し面倒なことになっていた。
呪いで盲目になっている皇子は筋書き通り偽証に飛びつき、ハイデマリーを断罪した。今は評判のよろしくないキャロラインだが、公爵令嬢かつ皇子の婚約者となれば悪い噂は全てハイデマリーのせいにされるだろう。そういう意味でのスケープゴートでもある。
そして皇国でも継承権を巡る争いはあるものの、ディートリヒは公爵家の後ろ盾を得れば十分に玉座を狙える。すこしばかり盲目になっているがそれはキャロラインに関してのことだけだし、これからはキャロラインがうまく操縦してやればいい。つまり、キャロラインは将来的に皇妃になるということだ。
給仕からグラスを受け取ったキャロラインはシャンデリアの明かりに中身を透かせた。
「さあ、ナナリー。これで満足かしら?」




