第6部 亜依音の風遣い
1959年10月5日(昭和34年)北海道・苫小牧
*)遠出
運動会の翌日は必ず学校は休みになる。亜依音は昨日の悔しさを、雑念を払うためにクロと遠出をした。今日の背中のトレードマークは雪だるまだ。
「ちくしょうー!」
と、声を上げる亜依音だったがクロが嘶いた。
「Geひひ~ん!」
「そうだね、みっともないからやめるよ!」
「Jyoひひ~ん!」
「あら! ありがとう褒めてくれるのね。」
亜依音はいつものようにクロを走らせたら今日は東の方の沙流郡平取町二風谷まで来た。ここには沙流川があるから広い河原に降りて気持ち良く休憩した。クロは川で水を飲み近くで草を食む。
「今日のお弁当は何かな!」
亜依音はお気に入りの雪だるまのリュックを背中から下ろしてチャックを開いた。もうこの時には既に雑念は消えている。
「なんだ同じか。でもおいしそう!」
お弁当のおかずは昨日の運動会と同じだったから同じかと言った。お婆ちゃんのお弁当は少し変わっていてね最初は全く気が付かなかったんだよ、もう損した気分。
「お婆ちゃんの御弁当には、ごはんの中に文字があるんだよね~今日はなにかな~。」
ホロが作るお弁当のごはんの中層に文字や絵が隠されていて、上から下までお箸で取ってしまうと絵は分らないのだ。上手に上の半分を取る。
「なんだろう~な~、今日はウインナーだね。」
力いっぱいに走り続けたから腕がしびれてお箸を上手に使えない。だからなのだろうウインナーだった。ウインナーとはいってもソーセージーを細く切ったものだがいつもは海苔を刻んで描いている。
「はは今日はクロの絵だ。お馬さんの形だからクロだ!」
亜依音は嬉しくなり微笑んでお弁当を食べる。一人で散歩に来るから騎手のお兄ちゃんはよく淋しくないかい? と尋ねてくるが、
「ううんぜんぜん淋しくないよ、だってクロが居るもん!」
と、いつも答えている。
だが今日は異変が起きた。クロが突然、嘶いき、それも何時もとは違う大きい声だったから亜依音は驚いた。クロは山の急斜面を見つめていて南側だからか木々は高くそびえている。
「クロ! あそこに何か居るの?」
「ぶひ~ぐ~ぶま~!」
「えれ~? おかしな声だね。」
「ぶひ~ぐ~ぶま~から、ぶを引くんだね?」
「ぶ~ぶ~。」
「そうか、それっ!」
河原から森に向かって旋風が吹いて木々は大きく揺れている。河原の落ち葉が沢山舞い上がった。
ガササッという落ち葉がこすれる音が何度も聞こえる。
「クォーン!」「クォーン!」
なんだか可愛い泣き声が聞こえる。
*)熊・熊・仔熊
それは可愛い仔熊だった。しかも二頭もだよ凄いや。「はは……母の双子の生れ変わりだ!」とは思わない。仔熊の二頭が仲良く山の斜面から下りて来ているよ。それで以て一頭はドジだったか一等賞で転がり落ちてきた。
「クォーン!」
まだ高い所にいる仔熊が啼いた。お前はズルい? とでも言ったか、河原で二頭が揃ったところで川を渡り段々と近づいてきた。
「ガォォーン!」
ひときわ大きい声がして続けて仔熊が吼える。
「クォーン!」
「クォーン!」
大きいヒグマが走ってきて仔熊に追いつき並んでこちらへ来る。
亜依音はクロに乗り警戒した。
「クロ! お前の知り合いかい?」
「ぶひぶひガーゥゥ。」
「そうなんだね違うのか。」
仔熊が戯れるから母熊らしい。
「がううぅぅ~」
山で別のヒグマが吼える。父親だろうか、あの熊は遠くで見ているだけのようだ。
「クォーン!」
「クォーン!」
親のクマは何も言わずに仔熊だけが啼いているから母親に甘えているような仕草だ。クロの前まで来たがクロは逃げなかった。
「ぶひひ~い~ん。」
「どうしたの? 降りてもいいの?」
亜依音は少し怖いとも感じているからクロから降りる動作がぎこちない。
「クマさん……どうしたの?」
亜依音はクロの後ろから声をかけた。仔熊は左から右から二手に別れて亜依音に近寄るもクロは何もしない。とうとう仔熊は亜依音の横まで来た。
「クゥ~ン!」「クゥ~ン!」
犬のように啼きながら亜依音に身体を摺り寄せた。
「そうか遊びたいんだね。何して遊ぼうか。」
母親のヒグマはクロの鼻先に来て何故か鼻息で挨拶を交わしているかのようだった。動物は臭いで相手の素性を考える生き物なかと思ってみたり。
仔熊は私を川に誘いたいのかな、しきりに私と川を見比べているんだよ。
「はは! 亜依音は川には入れないよ。だって服が濡れちゃうもん。」
二頭の仔熊は亜依音にじゃれ付いて離れなかった。
「ほうら……危ないでしょうが、亜依音が転んじゃうからね。」
親のヒグマは仔熊の行動に無関心のように只管にエサとなる物を探し続けている。
母親のヒグマは河原の大きな石を動かして沢蟹を探していて小さく声を上げる。この声に気づいて仔熊は親クマに向かって走り出すので親クマは沢蟹が逃げ込んだ石を強く跳ね除ける。仔熊は先を争って沢蟹を食べだして食べ終わったら亜依音まで駆け寄る。
「美味しかった?」
仔熊は鼻先を亜依音に向けて大きく上にあげた。
「そうか、美味しかったのね。」
仔熊は親クマと亜依音の間を行ったり来たりしていて、楽しそうに飛んだり跳ねたりしていた。
やがて、
「ガォォーン!」 「ガォォーン!」
父親のヒクマが二度吼える。これは母親のクマは呼ばれたのだろか、仔熊に近寄り鼻先で仔熊の尻を押し出した。
「そうかもう山へ帰るんだね! 今日はありがとう。」
仔熊らは一斉に亜依音に向かって少しの時間見つめた。そして大きく上を向いて身体を山の方に向け、そのまま後ろ姿を残して森に消えた。
「面白かったね! クロ。」
「ぶフー、ぶフー。」
クロの鼻息だ、クロも緊張して疲れたか。
「そうね少しお昼寝するから見張りを頼むね。」
「ぶフー、ぶフー。」
亜依音は河原に在る樫の木の下で眠った。このようなクマが出る山でお昼寝は普通の人間には出来ないだろうね。仔熊の親子が消えてしまっても森から聞こえていた父親熊の叫び声、亜衣音がこの河原から立ち去るまで聞こえていた。もしかしたらあの熊、亜衣音に抗議していたのかもしれない。もっとも父親という事はなかったはずである。六歳の亜衣音にしてみれば家族とは親の二人と子共が寄り添っているものだという認識だから、これを熊の世界に押し当てて考えたに過ぎない。
そういうところは乙女でメルヘンチックなものも持ち合わせていたのだろう。
クロの見張りが効いたのか、熊は山から降りてくる事はなかった。
*)蝦夷リス
お昼寝をしていたら起こされてしまった。なにかしらが顔に当たるのだから。最初は我慢できたが眼球に当り眠れなくなった。
「なによもう~亜依音が気持ちよく寝ているのに……。」
「あいた!」
亜依音の頭にドングリが落ちて周りにはたくさん落ちているので亜依音は上を見た。二匹のリスがドングリを落していたのだ。
「そうかお前のごはんだね?」
「こら! クロ、ドングリを食べるんじゃないよ。ほら、もう食べないの!」
二匹のリスは次から次へとドングリを落している。
「亜依音がお手伝いしてあげる。あそこの木にはねたくさんドングリがなっているわ。」
「ここでいいかな! それ~。」
亜依音は右手を空高く振り上げた。さっきよりも大きい旋風が吹いて樫の木のドングリは一度に沢山が落ちる。
「ほらドングリよ、たくさんで良かったね!」
亜依音もドングリをたくさん拾ってお気に入りの雪だるまに詰め込んだ。蝦夷リスは亜衣音に抗議をしないのだろうね、逆にお礼だと言っていたりして。
「クロ! 帰ろうか。」
「ぶ~、ぶ~」
「お前はまだ居たいんだね! でも、もう帰る時間だから。」
*)風遣い
「クロ! 今日は空を翔けて帰るわよ!」
「ギャヒヒ~ン!」
「覚悟は出来たようね。クロ! 飛ぶわよ!」
「ギャヒヒ~ン!」
「クロ、うるさいわよ。」
「ギャヒヒ~ン!」
「クロ、黙りなさい。」
「ギャヒヒ~ン!」
「もう着いたわよ!」
麻美とホロは、
「おやおや! クロも大変だね~」
「クロや、痩せたかい?」
「ブブ~ン!」
クロは寝込んでしまったとか、いやいや空を飛んで帰るとかウソでしょう? これがクロのテレポートの能力だとはまだ分らない。クロだって訳も分らずに飛んでいたとか考えないよ。
翌日の朝、亜衣音が学校へ行く前に厩舎のクロへ挨拶に行くのだが、
「クロ、おはよう。」
「ブ……、」
「おはようってば、」
「……。」
「こら!」
「プイ!」
と、そっぽを向いていた……らしい。影で見ていたホロお婆ちゃんが笑いを堪えていたとは流石に亜衣音も知らないし、亜衣音が牧場を出てしまえば瀬戸牧場は笑いの渦になってしまった。
「ブヒ!……ブブブ……。」
「クロ、ご機嫌を直しておやりよ。」
「ヒヒ~ン。」
「おや、尻を突き出すのかい?……シッポにブラシを?」
「ゼヒ!」
「んまぁ~こりゃたまげたわ! 女の子だったかの~?」
「ブヒ!」
「おうおう綺麗なシッポだて、こりゃ~楽器屋に数本売るとするかの~。」
「ブヒヒヒ~ン!」
「シッポにリボンを付けておいたよ亜衣音に見せておやり。」
「ブヒ!」




