第28部 1968年8月21日
1968年8月21日(昭和43年)苫小牧
*)時間跳躍
私は目を覚ました。周りが私に気づいて声を掛けているようだが、聞こえないのだった。まだ目が覚めていない夢の中のよう、それは後で思い返してからの感想なのだが見舞いにきて頂いた方は、私は目が覚めてもぼんやりとしていたという。
私は気を失い寝込んでいたらしく、今は病院の個室だと聞いた。麻美お母さんも父もそして白川の祖父母も、私を心配して来てくれていた。
どうも入院直後か翌日らしい感じがした。
「亜衣音、亜衣音?……、……、……。」
(ううん?……聞こえない、)
「おい亜衣音、亜衣音?…気が付いたか。」
「お、父さん、麻美お母さんまでもが、どうしたの?」
「亜衣音さん、私らもいるよ。どうだい目が覚めたかい。」
「お婆ちゃん……うん、まだ頭がボーッする。」
私は周りに目を遣る。みんなは私を覗き込んで話しかけているようだが聞こえないのだ。いやうるさい位に耳に響いていたのだろうが、私の耳は仕事を放棄しているかのようだ。
「お母さん。私、どう…したのか…な……」
「亜衣音さんは………………、」
私はさらに意識を無くしたらしかった。暫くして目を覚ました。
「あらあらどうしたの、急に寝込んでしまって。睡眠不足だったかしら。」
「え?…ここは……なんだ、水脈さんの家か。」
「起きられるかしら、家族が帰ってきたから紹介しますよ。夫の夕也よ、それと娘は分るわね。」
「はい、寝てしまいましてごめんなさい。起こしてくれれば良かったのに。」
「はいはい起こしました。それも何度もねイサナキオ! 頭に鉄槌を与えん。とね。」
「なんだ、それで頭が、頭がボーッする?……あれ? 何だか私、変だわ。」
「亜衣音、もう少しお眠り。目覚めたら直ぐに会えるからね。」
「うん、」
*)入院
次に目覚めたのは翌日だった。私はうつろな目で辺りを見渡した。白いだけの天井と部屋、気持ち悪い、落ち着かない。天井から垂れ下がるカーテンも見るにここは病室なんだ。明かりが灯っているから少し眩しいな。
病室にカレンダーが掛けられていた。7月22日からXの字で数字を消し込んであって、これは日長に何かを待つ時によく書き込む印だったりする。端から見ていてもとてもいい趣味とは思えないが誕生日に丸印を書くのは可愛いくてもXはよろしくはない。
「ならば今日は……8月21日なのかしら! 悪い冗談だよね。」
私が寝ているベッドに突っ伏しているのは、女性の髪が見えるから麻美お母さんかと思って、
「お母さん。……起きたよ、お母さん。」
「え?……あ、やっと目を覚ましたね。ここが判る? 私は誰かな。」
「あ、明子さんですか?」
「やだな~乱れた顔を見せてしまって恥ずかしいわ、ゆだれは見えないよね。」
「よだれなら、くっきりと跡が残っています。」
「言うようになったわね。いいわ、いいわよ。今先生を呼んでくるから待ってて。あ、あ、あ~先にお水飲みたいかしら。」
明子さんの身体は今にも病室を出て行こうという態勢で、顔だけは私の方を向いている。腕は肘で曲げられてマラソンスタイル。
「はい、お願いします。起こして下さい。」
「そうね、起きた方がいいかな。」
私は自力で起きようとしたが力が入らない。可笑しいとは感じたが寝起きで身体が硬直していたのかと思った。
「よっこらしょ、随分と重くなったわ。」
「違います、明子お姉さまの意地悪。」
明子さんは意外な顔をして私に冗談を言った。これは後々になって理由が判るも、この時は長く寝込んでいて体重は十キロ近く痩せていた。これでは一人で上体を起こすことすら出来ないだろう。
「お父さんは居ないの?」
「そうね、今は私一人かな。勿論亜衣音ちゃんは数に入らないわよ。待ってて、」
明子さんは明るく笑って出て行くし、手の中のコップがやけに重たく感じた。
「飲ませてくれたらいいのに、もう……。」
コップを持ち上げる力も無かったのだと気が付いても、飲む事さえ出来ず辺りを見渡した。部屋のカーテンは閉められているから今は夜だと判る。それから暫くして若いお医者さんが入って来て明子さんはやや遅れて静かに入ってきた。
「亜衣音さん、気が付かれましたね。え~と、いいかな私で、」
「そうですね、その手がいやです。」
「そうか、そうだよね。心音を聞きたかったんだがね。」
「手首でお願いします。」
「おやおや良く知っているね、どこでそれを?」
「知りません。お姉さまお水を飲ませて下さい、重くて持てません。」
「あ~ごめんなさい気が付かなかったわ、先生の診察が終わってからにしましょうか。」
「今がいい。然もないと先生にお水を掛けちゃう。」
「ん~亜衣音さん、気は大丈夫ですか? 私を恨まないで下さい。」
「少しも良くありません。」
「……よろしいですよお姉さん、妹さんに飲ませて下さい。」
「はい、亜衣音さ・・・・・。」
「バタバタタタタ・・・・・。」x3
「亜衣音!」
「亜衣音ちゃん。」
「お父さん。お母さん。」
「起きたか!」
「あれ?……水脈さん? でしょうか?」
「あぁこの看護婦は君の専属だ。昨日から担当させたんだが、名前は知らないはずだよね。」
「え、あ、はい、頭に浮かんで来たのですが……夢で覚えたのかもです。」
「亜衣音さん、杉田水脈と言います。よろしくね!」
「水脈さん、何処かで見たようですが、」
私は水脈という看護婦を見つめるも、確かに見覚えがあったが思い出せない。同じように麻美お母さんも、首を捻っていた。
「無理しなくていいですよ。私はもう交代になりますから、また明後日にお会いしますね。」
「はい、お休みな……、」
「あらあら言葉出なくなりましたね、お母さん砂糖水を飲ませて下さい。後は果物がありますね、薄くスライスして噛みやすくして下さい。」
「はい、後は任せて下さい。(……あんた、誰何?)」
(……あんたは誰! 良く似ているのよね。)と、誰何したくなるのは当然か。母としての子を守る心理が働く。
私は考えた、明子さんが出て行って暫くして先生が来た。それはいいが、それから暫くして苫小牧の父と母が来た。早すぎではないのだろうか、確かに牧場の近くには病院は無いはずだよ。
次の異変が起きた、威勢の良い看護婦さんが勢いよく入ってきたのだ。
「亜衣音さん、リンゴでいいですか。」
「はいお母さん。」
「亜衣音ちゃんが起きたって!」
麻美お母さんはリンゴの皮むきの手が止まり、病室に入って来た看護婦さんに見入っている。私も同じだから気が付いた。
「亜衣音ちゃん、目が覚めたんだ、私、沙織よ!」
「水脈さん?」
「ふふ~ん双子なんだ。あれは妹よ。」
「やだ~驚いたよ、」
「ほら砂糖水を持って来たから先に飲んで、ビタも入れてあるわ。」
「ビ・タ?」
「そうビタミンね、飲んで、飲んで。」
「うん、」
コップにはストローが挿してあって私はぎこちなくストローを口に含んだ。飲めない、逆に咳き込んで泡ブクを作って水を零した。
「あ~ダメか~ごめんなさい、コップをお口に付けるね。」
私は返事もしないで薄く口を開ける。沙織さんはゆっくりとコップを傾けて私へ上手に飲ませてくれた。
「冷たくて美味しい……ゲホゲホ……。」
「失敗したかな。」
「私がね、」
黙って見ていた若い医者は、
「杉田くん少しでいいから軽くストレッチをしてやってくれないか、どうも身体は冷えて固くなっているようだ。」
「先生、間違っています身体が硬いです。」
「じゃぁ、布団が固い、はどうだ、吹っ飛んだ!」
「先生、後ほど仮眠時のお布団を外へ飛ばしておきますが、よろしいですね?」
「俺も交代だから帰る。」
「またサボるのでしょうか、チクりますよ。」
先生は笑いながら病室を出て行く。女の子の扱いには慣れているのかな、でも私は笑えないよ。元気がもう無くなってしまったよ。
「亜衣音さん立てるかな、このガウンを着れられるかな。」
「……無理、」
「では着ないでストレッチをしますね。」
私の家族はもう蚊帳の外に出されたようなものだった。
「お父さん、帰って休んで……。」
「あぁそうする明日また来るから、」
「うん、」
沙織さんの手伝いを受けて、私はお父さんと麻美お母さんへバイバイの手を振った。
「よくできました、」
「もう私を休ませて下さい。」
「そうですわね、お休みなさい。」
水脈さんには姉が居ると言っていたな。では、沙織さんがお姉さんなのかな、う~ん判らない……。眠ってしまう。
それからは冬のウトナイ湖には行っていないようで夢にも出てはこない。明子さんと麻美お母さんの看病には本当に参ってしまった。事ある毎に何かを私に食べさせようとするのである。勿論、私も食べたい意識はあるのだがなにせ身体が受け付けないし、リンゴのスライスの厚みは五ミリ位までしか噛めない。お口が開かないのだからどうしようもない。話す言葉が「ズーズー弁」だとも言われたのだから、少なからずショックを受けた。
「私はどうしたのかなまだ動けないよ。牧場でクロに乗って散歩に行っていたはずなのにね。」
「そうなのよね。あの日はとうとう帰って来なくてね、夜から警察にも連絡して総出で捜索したんだよね。それでも見つかる事はなかったのよ。」
「それで……どうやって……見つけた……、」
「お母さん。亜衣音は言葉が出ない程に衰弱しているからさ、こちらから一方的にお話したらどうかな。」
「亜衣音さん、それでいい?」
「うん、おね…がい…クロは……、」
「そうね、貴女は三日間も見つからなかったのよ。皆はへとへ……探す範囲を広げてね森や畑を探したのよ。でも見つけてくれたのがウトナイ湖に鳥の観察に来ていたお爺さんだったわ。驚いたお爺ちゃんは腰を抜かしてね、さらに魚釣りに来たお爺ちゃんが二人を見つけたのね。」
「うん、」
「そんな事を聞いたら思わず笑ってしまったわ。お爺ちゃんはこの病院の常連さんでさ、知らせに来て一緒に入院したのよ、ね? 可笑しいでしょう?」
「う…ん、でもウソでしょう。」
「ウソじゃないわよね、明子?」
「え?……そうよ、お爺ちゃんは直ぐに退院してけれどもね。」
お母さん。子守唄をありがとう、私は暫く眠ります。
病院の点滴療法では私の体重までは維持出来なかったという、意味が分らずにドンドンと痩せていったと説明があった。そう言われてベッドの横を見ると、2号液(脱水補給液) 輸液製剤にブドウ糖。と書かれてあった。点滴の袋には名前と日付が8月22日と記入があった。
「私は丸々一月も入院しているのだ……。」
皆は私に気を使ってくれた。私が眠ると明子さんが、私の腕や足を擦ってくれていたと父から聞いた。身体の寝返りだって出来ない程だったから、これも明子さんは黙って行ってくれたと聞いた。
「亜衣音ちゃんはどうしてこんなに痩せたのかな、腕なんか肘の方が大きいよね。足でもそうだよねほっそりとしてさ、ここの医者は薮かよ!」
私を不憫だと思ったら悪態が……出るらしい。
「ねぇ明子さんはいつも看病して頂いていますが、お家はそのう、よろしいのでしょうか。」
「家? 家はここだから心配は要らないよ。」
「まさか、入院とか?」
「転勤よ~無理を言って旦那には転勤して貰ったのよ。ここで病院の管理事務をしているのよね、あ~便利だわ! だって食事はぜ~んぶ病院から出るのよね? 羨ましいでしょう!」
「うん、そんなの…あり得ないわ。」
「それがあり得るのよね、それもこれも貴女のお爺ちゃんのお陰かしら!」
「お姉ちゃん違うと思うよ、それってただ単に利用されているのよ。」
「え”~……それでもいいわよ。それにね……内緒!」
「ふ~ん、それって…これなのかな。」
「おませさんね、手に丸の形ってなにかな。」
「阿弥陀如来さま!」
「だったら私に感謝なさい。」
「は~い……いたします。」
「亜衣音ちゃん、今日は散髪してあげるね。」
「洗髪がいいな、」
「あ、間違えちゃった、シャンプーしようね。」
「うん、ありがとう。」
その頃の東京では我が母校、関東農業大学付属高等学校に双子の転入の試験が行われていた。もうすぐ新学期なのだからか。
*)夏のウトナイ湖
昨日は明子さんにシャンプーをされて今日はとても気持ちがいい。朝から父が見舞いにきてくれた。
「お父さん、言ってもいいかな。」
「ん? なんだ、どうした。」
「あのね、お父さんは色黒だったかな。」
「腕は白いぞ、見せてやる。」
父はそう言いながら長袖を捲り上げると、出てきた腕は日焼けで黒かった。父は私が倒れていたウトナイ湖を丁寧に調べたというし、泥水に足を突っ込んで閉口したとも話してくれた。
この病院は裕福なのか昼間だけは冷房が入る。
「おいおい亜衣音。病院は裕福とか言わないだろうが、それに今は冷房が当たり前なんだぞ。」
「だって家には冷房は無いよ。」
「ん~……それを言うのか。よ~し来年は買ってやるからな、覚悟しておけ。」
「可笑しい。私は何を覚悟すればいいのかな。」
「それはな、冷房の電気代が高いからさ、な?」
「だからと言って冬のお小遣いも減らさないでね。」
「年間を通してだな、嫌か!」
「うん良いよ。それでさ、日焼けしてまで何をしているのかな。」
「亜衣音には言っていないけれども、父さんは役所をクビになった。」
「わ~大変。お小遣いはもう要らないわ。それで今はどうしているの?」
「亜衣音が倒れていた、ウトナイ湖の周りを調べている。だから色も黒くなった。仕事はな、クビではないんだ、休業扱いだから、心配ないぞ。」
父は私が聞き取り易いように一文毎に切って話してくれる。
「私はどこいらで見つかったのかな、あのウトナイ湖にはクロが連れて行ってくれたんだよ。それから気が付いたら冬のウトナイ湖に居たのよ信じられないよね。だって夏なのにさ雪が積もっていてね、女の子が独りでスケートの練習をしていたんだ。今はそれ位しか思い出せない。」
「夢を見ていたんだからさ、思い出せないのが、普通だろう。」
「そうだよね、お父さんもう限界だよ、少し眠らせて……。」
「あぁ、お休み、……。」
父は病室を出てお手洗いに入った。そこで鏡に向かって、
「どうして亜衣音は弱る一方なんだ!」
これを聞いた明子さんは涙を流すしかなかったという。今の私が話せるのは一千文字くらいなのだろうか、今日はこれが限界だったし、優しい父の顔を見たから日頃の200%増しかもしれない。
私は理不尽に寝込まされているのだろうか、点滴は受けている。リンゴだって摺り下ろして飲ませて貰っている。なのに、それなのに少しも元気にはならないのはどうしてなのだろう。
クロの話しは一言も話してはもらってないな。
「亜衣音ちゃん、退院おめでとう!」x?
それからの一週間で私は回復した。筋肉は戻っていないので手押し車のお世話になって退院したのだった。私は荷物扱いなのか!
牧場で使われる、あの、一輪車だった。それから赤い車で揺られて瀬戸家に帰る日がきたのだった。
それからの私は牛一頭を食べたように、みんなから囃子たてられたほどに食欲が戻ってきた。
明さんは、
「おいおい、出る所が違うんじゃないのか!」
「パーン!」
フライパンが空を飛ぶ。




