第203部 誘拐事件と思わぬ展開……藍に実母が?
1975年5月3日 東京
*)自主退院……
嫌がるマイケルに会計に行って自主退院したいと申し出てくるように言うのだが、やはり嫌だと言って頑なに拒んでいる。
「亜衣音さんが窓口に言ってくれよ、俺はゴメンだからな。」
「え~どうしてだよ、言うだけじゃん。」
「だって入院費用+出産費用+病室の現状復帰費用+カムイコロさんの宿泊費+それから何だかんだと俺には無理だ。」
「あ~……そうだったわね。激情に駆られてお部屋を壊したのを忘れていたわ。私が行きます。マイケル、お財布!」
「先に銀行に行って預金を引き出すから待っていてくれないか。」
「マイケルさん。引き出す前に金額を聞いておきませんと、そうでしょう? 私が訊ねてきますから。」
「藍~……お願い、」
「はいはい分りました。では行ってきます。」
私をいびって気を良くしている藍ちゃん。ルンルンみたいな足取りで部屋から出て行く。あれから三十分は過ぎただろうか戻りが遅いのだ。
「藍ちゃんは遅いわ、どうしたのかな。」
「だから俺は行きたくなかったんだよ、説教されてんじゃねぇ~の?」
「まさか、私にだったら……あり得るかも。」
暫くして疲れた顔をした藍が戻ってきた。手には紙を持っていてこれが請求の内訳だと言いながら私に渡してくれた。所々が横線を引かれて上に改めて数字が書かれてあったのだ。そんな文字は素通りして最終金額に目を落とした。
「藍ちゃんさ、これ……ホントかな~……。」
「本当よ、でも随分と値切ってきたからさ、それ位は払いなさいよね、出来るわよね?」
「うん金額が三割はお安くなったみたいでありがとうございます。マイケル、三百二十五万四千円……引き出してきて。」
「それ位で済んで良かったよ。で内訳を見せろ。」
「はい、これ。」
「う~……まだ高い、この警察に払った食費は必要ない。……病院の私設警備費用これも必要無い。やはり俺が行くしかないか。後は亜衣音が責任取れよ。」
「いいわよ覚悟の上じゃん。最初からマイケルが行けば良かったのよ。」
マイケルが交渉した結果、百万までに下がった。これを見て喜ぶ私にマイケルが言った事は、
「もう二度と来るな! とさ。」
「そ、そうなんだね、随分と迷惑を掛けたから損害賠償も要求されていたんだ。」
「損害賠償なんてあからさまには書けないからだろう。医院長の気が変わる前に出て行くぞ。」
「はい!」
*)実母と……藍……詩織
「君たち、ちょっと待ってくれないか。」
「はい……?」
「埼玉県警の刑事の玉置というが、雨宮藍さんはどなたかな。少しお話をしたいと思って下で聞いてここに来たんだが、居るのだろう?」
「はい、雨宮藍は私です。」
「藍社長、何なのでしょうね。私は警察に答えられる事は全部をお話しましたが、更に問題とか? す、すみません!」
玉置警部、埼玉県警の刑事で今回の資産家女児誘拐事件の担当をされてある。ソフィアもそれなりに顔を合わせていたと思ったが、どうも初対面らしいのだ。ソフィアからの事情聴取は婦警さんだったかな。
「あ、いやいや。女児誘拐事件の協力は助かった。お陰で無事に戻られたよ。」
「わ~それは良かったです。それで赤ちゃんはどうなのでしょうか。」
「もう自宅に着いたと思うが、埼玉で特別な誘拐事件が二十年前にありましてな、その件で出て来ました。ここではなんですので応接室へ参りましょうか。」
「藍ちゃん、大丈夫?」
「亜衣音ちゃんは自宅に帰っていて、お話が済み次第に帰るから。実家の方ね。」
「うん、早く戻ってよね。」
「あ、奥さん……心配はありません。直ぐに終わります。」
「はい、私の家族ですのでよろしくお願いします。」
「なに、小一時間もあれば十分でしょうか。雨宮さんには会って頂きたい女性がおりまして、今も待って頂いておるのですよ、さ、行きましょうか。」
「……はい、」
私は怪訝な目つきで二人の後ろ姿を眼で追っていた。でも直ぐに子供たちが催促するので後ろ髪を引かれる思いで帰路に就く。
ゆっくりと歩を進める警部さんと藍ちゃん。
「この写真をご覧下さい、感想は後ほど伺います。」
玉置警部は藍に古い白黒写真を渡していた。随分と色あせた七五三の時の写真で参拝した神社で記念撮影されたようで、三歳の写真で綺麗な着物姿の女児と母親が収まっている。
「これは……どなたの写真なのでしょうか。」
「答えは応接室にてお話いたします。貴女には写真を見て何か思い出したりしないのかと考えております。」
「は……い、分りました。」
藍は小声で答えている。降って湧いたような事なので全く意味が分らないのだ。それにこの写真に写っている女児の和服、どことなく想い出があるような無いような気もするが、分らないのだった。
次に藍は母親の顔をしげしげと見つめてみる。何処かで見たような顔形をしているように思えてきた。何分古い写真だし顔色なんてグレーだよ。
「そう言えば私は小さい時に迷子になった記憶があります。」
「そうでしたか、他には何か思い出す事はないですか。」
「はぁ~……この女の人を何処かで見たような気もしますが、時代が違いますのできっと気のせいでしょうね。」
「それはどうでしょうか、着きました。あ、あぁここで少しお待ち下さい。」
「はい、待っております。」
玉置警部はドアをノックして入っていく。ドアの隙間からはほんの瞬間だが地味な色のスカートらしきものが見えたので、きっと女の人が居るのだと思う。待つ事五分だろうか、ドアが開いて警部が私を招き入れる。
「お待たせしました……どうぞ。」
少し躊躇したので警部さんはドアを更に大きく開いて再度「どうぞ、」と言ってくれたのだ。
「はい、失礼します。」
この応接室にはつい今まで座っていただろうと思われる、ご婦人が立って私を見つめていた。思うに写真の人のようにも見えるが、何分歳も重ねてあるから今いちハッキリとしない。
「紹介します、こちらは田所明美さんと言いまして、ご覧になった写真のお母さんになります。」
「田所さん、こちらがかねてよりお話しました雨宮藍さんです。よく似ていると思いませんか?」
「はい、私の若い時の姿に良く似ています。この子がもしかして……。」
「そうだと思います。少し調べてみましたら家族構成が歪でした。戸籍は間違いだと思われます。」
「警部さん何を言ってありますか、私の素性をお調べになられたという事でしょうか、何のためにそのような。」
「すみません、何もかもが説明不足ですね。田所明美さんのお子さんがその記念撮影の後に誘拐されまして、その後の捜査でも全く浮かんできませんでした。今はお宮入り扱いになっております。」
この警部さんは少しユーモアがあるみたいだが、蔵を七五三の宮参りの宮とわざと間違えているみたいで笑えないよね。
「それと私が何の関係があるのでしょうか、分りません。」
「今回の誘拐事件で東京を訪れた時に偶然貴女を見かけまして、それで何処かで見かけたな~と、ず~っと考えておりました。それがつい先日思い出しまして事件簿を探して読み返しましたよ、それがその時の写真なのですがね?」
「詩織……、」
突っ立ったままの婦人が小声で詩織と呼んでいて私はハットしたのだ。
このひと言で何もかもが繋がった。もつれた赤い糸がクルクルと糸巻きに逆戻りするような感覚に陥った。
「もしかして……お母さんなのですか? 私に母は居りますが今では何処に行ったのか行方不明なのですが。」
「失礼ですがお父さんも行方不明とかなっていませんか?」
「あのジジィは知りません。妹を連れて何処かに行きました。」
「やはりそうでしたか、私たちも追跡していますが全く手がかりが無くてですね、おくらになりました。」
おくらになる……転じて「お蔵入り」
「はぁ……それで私が誘拐されたこの写真の子だと言うのですね?」
「はい、今の貴女が田所明美さんにソックリなのでして、それでもしやと考えて連絡しまして一緒に出て来ました。」
「そんな~今更……。」
「田所さん、娘さんの特徴があると思いますが、黒子とかどうなんでしょうか。」
「黒子でしょうか、そう言えば……右腕の脇の下にあったと思います。」
「すみません、私が確認したいのですが流石に男ではですね。」
「いいですよ、無いと思いますが見て下さい。」
(うわ~脇毛の処理をしていて良かった。でも黒子は鏡に映ったことは無いよ。)
私は上着の下は長袖のブラウスを着ているから、これでは見られてしまうのか。
「私は呼ばれるまで外で待っていますから。」
「はい、申し訳ありませんが終わりましたらお呼びにまいります。」
警部は別に気にしていない素振りで部屋から出て行くが、問題はこの女の人がなんだか哀れみの眼で見るている、どうしよう。
「私は雨宮藍と言います。二十一歳ですが、どうなのでしょうか。」
「はい娘は詩織という名前ですが容姿が私の若い時と、とても似ています。もし詩織でしたら今は二十歳になります。あれから十七年は長かったです。」
「え、私が二十歳って少し得した感じです。」
「おやおや、そうですね一歳若返りますか。」
「はい、でも黒子ですね、」
「詩織。そうだと思いますので、ごめんなさい恥ずかしい処を見せて下さい。」
「脇の下には黒子はありません、消えていたらどうでしょうか。」
「その時は諦めます。でも~お風呂で身体を洗って見える位置ですから背中の方ですね。上着は持ちます。」
「あ、お願いします。ブラウスは私の会社で作ったのですよ、どうでしょうか。」
「まぁ~とても可愛いですわ、これをご自分で作ったの?」
「いいえ、会社の縫子さんたちですよ。この襟が……あ、すみません。どうでしょうか背中にありますか?」
「……、……。」
「田所さん?」
「うっ……詩織、貴女は間違いなく詩織です、良くぞ生きていてくれてありがとう。母の事は小さい時だから覚えていないでしょうが、間違いありません。そのやや三角形の……覚えている黒子そのものですよ、あ~詩織ちゃん……。」
「え、そんな~本当にお母様なのでしょうか、そんな~……だって、」
ソフィアの絡んだ誘拐事件が思わぬ方へ展開していた、私に実母がいたのだ。いや初めからいたのだが、あれは偽物だというのかしら。
「そうね、藍さんと呼びますね。もう服を着て下さい、若いお嬢さまに失礼いたしました。これで安心できます。」
「すみません、上着を下さい。」
「あ、気がつかないで。はい、後ろを向いて下さい。」
「ありがとうございます。……あのうご主人様はいらっしゃらないのでしょうか、おとう……、」
「えぇ主人とは詩織が一歳の時に死別しています。それからが貴女だけが生きがいでしたが、それも可愛い盛りの三歳で行方不明になってからこの方独りで生きてきましたわ。」
「わ、ごめんなさい。」
「構いません。貴女には両親がいらっしゃるのですよね。」
「はい、一緒に暮らしたのが小学校の低学年まででした。妹がいますが殆ど父と行動を共にしているようで、今では何処で何をしているかさえ分りません。それと母ですが、少しも母らしくはなくて殆どが別居でした。それで父からお金を貰って生きていたようなものです。ですから今考えてみると母ではなかったと思っています。」
「そうですか随分と苦労されたのですね。ごめんなさい、今まで貴女を見つける事が出来ませんでした、母親失格ですね、ごめんなさい。」
「えぇ苦労はしました。ですが亜衣音ちゃんと知り合って、それから勉強を張り合ってきました。今では掛け替えのない家族としてお付き合いさせて頂いております、これはご存じでしょうか。」
「はい、警部さんから沢山教えて頂きまして、それで調査の途中だというのに無理を言いまして連れてきて頂きました。今日は思い切って行動に出たのが良かったと、しみじみと感じております。」
「ですが私は、小さい時の事は殆ど覚えておりません。三歳だったら幾ばくかの記憶があってもいいのだと思いますが、あの頃私はどうしていたのですか?」
「はい、とても元気でしたよ。兄弟姉妹を作れずに可愛そうかと考えた事も、何度もありました。少しも母子家庭だという思いは……う~~~・・・、」
遠い過去を思い出して泣き出された女の人。この人を私の母だと簡単には信じる事は出来ない。そりゃ~確かに何度も両親の事を構ってくれないからと恨んでいたのは事実。でも実の両親では無いと考えた事は……数回はあったようだ。最後の方は母ではないのだと考えたかな。
「すみません、落ち着かれましたら警部さんを呼びます。」
「え、そうですね、はい、今涙を拭きました。お願いします。」
「お座りになられて下さい。」
部屋の内側からノックするのは変だとは思うが、一応はドアの直ぐ横に立っておられるのならばノックをすべきだろう。
「コンコンコン、カチャッ。」
「あの~終わりました、どうもお待たせしました。」
「いいよ気にしないでくれ。それでどうでした?」
「はい、黒子はありました。私、詩織というのですって。」
「そうですね、詩織さんですね。二十年前は方々を探しましたがとうとう諦める日が来てしまいました。お宮入りというのでしょうか、神社で、おっと失礼。」
この警部は年甲斐もなく駄洒落を言おうとして、場にそぐわないのだと判断して口をつぐんだ。お宮でお宮入りとは当人たちの前では絶対に言ってはいけない。
「まぁ可笑しな警部さん。それに十七年前です。」
「たいして変わりません。」
昔の事は忘れたと言いたいのだろう。私にしてみれば歳も関係してくるからいい加減では困るものだ。
「田所さん、いや~定年前に事件が解決して良かったです。それで、どうされますか? 誘拐事件の時効は今から起算されます。」
「捜査はお願いします。とても犯人が憎いです。」
「そうですね、雨宮さんの両親が深く関わってもいるでしょう。分りました。」
「あの~警部さん。父は犯罪者ですから捕まえて下さい。白川さん家族を殺すような人ですから是非逮捕して下さい。」
「はい、存じております。あの怖~い白川さんですからね。それと親子としての戸籍は戻せるかと思いますが、いかがされますか?」
「戻せるならばですが。でもまだ親子だとは認められません。暫くは保留と言う事でお願いします。」
「承知しました。では田所さん帰りましょうか。」
「……。」
「あ、雨宮さん。自宅に田所さんを泊めて頂く事は可能でしょうか。」
「それは、大家さんにお願いすれば可能でしょうが、田所さまはどうされますか?」
「え、……。」
私が母と呼ばないので気が落ち着かないのだろうか、しばし俯いて考えている様子。無言である。
「お母様?」
「え! はい、お願いします。明日には帰りますから。」
「分りました。今日は亜衣音さんの退院祝いですのでこれ以上遅れる訳にはいかないのですよ。だって私がいませんと家事の担い手がいませんもの。」
「ま~立派になって嬉しいですよ。」
初対面から見つめ合って小一時間は過ぎただろうか、今では自分の顔を鏡で見るような気分になっている。どことなく優しい女の人、母だとしたらこの安心感が何を意味するのか、今晩は寝ないで長くお話をすれば分るかもしれないな。




