軽井沢康夫の『孤道』完結編・落選作品~天皇からの贈り物を運んだ人生~ 上巻
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前書き
内田康夫氏の遺作『孤道』完結編プロジェクトの最優秀賞作品が2018年9月21日に決定発表されました。
和久井清水女史の孤道副題「我れ言挙げす」です。
102作品の応募が在ったそうです。浅見光彦に未解決事件があることは許せないと思う人がいかに多かったかを物語っています。私もその一人でした。2017年5月12日に発売された『孤道』単行本を購入して1年間をかけて、2018年4月30日の締め切り日に投稿応募しましたが、残念乍ら落選でした。構想を考えながら、大阪・京都方面に取材旅行したのが9月25日ころでした。それから本格的に取り組んで作品を仕上げましたが、間違いや、説明不足が多々あり、まあ、当選はできないと思っていたのでそれほどの落胆はありませんでした。
今回、間違いを修正し、説明を追加した作品をここに投稿します。
来年の春に講談社より出版される『孤道・完結編』が100万部突破することを祈念して、私の作品をその露払いとして投稿します。
光彦ファンの方々、お愉しみください。
『孤道』完結編(上巻)
〜天皇からの贈り物を運んだ人生〜
軽井沢康夫
『孤道』プロジェクト応募・落選作品です。
内田康夫原作『孤道』(2017年5月20日毎日新聞出版発行)の
第七章考古学者の痛恨 の続き
「異変って?」と光彦が訊いた。
「和室の床の間に飾ってあった壺が違うらしいのです。」と鳥羽が言った。
「違う?まあ、警官が到着したのだから、取り合えず家の中に入ってから詳しく聞こう。」
二台のパトカーから警察官が四人降りてきて、鳥羽に声をかけた。
「鈴木家に空き巣が入ったということですが、こちらでよろしいですか?」
「はい。お待ちしていました。ご苦労様です。」
鳥羽が四人の警官と光彦を十二畳位の広さがある洋間の応接室へ案内した。そこには鈴木真代と大谷宮司がソファに座っていた。竹内三千惠はすでに神社の社務所に戻って行っており、姿が見えなくなっていた。鳥羽が警察官に真代と宮司を紹介した。
そして、鈴木真代が警察官に家中の状況を説明し始めた。
ひとりの警察官は真代の話をメモしている。
「市内の斎場で主人の葬儀を終えて帰ってきましたらお勝手の入口鍵が壊されていました。現金など、特に盗まれたものはないのですが死んだ主人の部屋を物色したような跡は残っておりました。それから、和室の床の間に飾ってあった西瓜の玉くらいの大きさの信楽焼の壺が以前在ったものとは違っていました。空き巣に入った人物が交換していったのではないかと思います。」
「確かに、今回、空き巣が入ってから壺は替わっていたのですか?もう少し以前から替わっていたと云うことはありませんかね。」と警察官が確かめるように言った。
「意識して観ていた訳ではありませんので、そこまでは判りません。ただ、以前に在った壺と形や大きさはほぼ同じですが、釉薬の色相や垂らし具合が明らかに違っています。また、壺の裏底に彫ってあった文字も変わっていました。」
「壺の文字が違うとは?」と警官が訊いた。
「以前にあったものは『法』という漢字でした。しかし、今残されている壺の漢字は『僧』という字です。明らかに置き換えられています。」と真代が言った。
「壺は昔からあったのですか?」
「はい、曾祖父の鈴木義麿という人の遺品です。大切なものだから
丁寧に扱うように言われていました。」
「高価なものなのですか?」
「いえ。骨董的な価値はあまりないと死んだ主人は申しておりました。」
「その残されていた壺を見せていただけますか?」
「はい。ご案内いたします。こちらへお越しください。」と言って真代は警官たちを和室の方へ連れて行った。光彦たちも同道した。
残されていた壺の写真と死んだ義弘の部屋の荒らされた状態を撮り、その後、鈴木家の勝手口や周辺などの状況を十五分くらいで確認してメモを取った後、警察官が言った。
「それで、被害届はお出しになりますか?」
「どうしようかな・・。ええかな・・。」と真代は考えながら言った。
その言葉を聞いた光彦が慌てて警官に向かって言った。
「だめです。被害届出します。」
「あなたは、何方ですか?」と警官が訊いた。
「あっ、この人は私の相談人で浅見光彦さんです。すいません、被害届、出します。」と真代が改めて言った。
「そうですか。それでは明日の午前十時に警察署の方へ来てもらえますか。手続しますよって。印鑑を持参してくださいね。」
「どこの警察署です?」
「海南署です。場所はご存知ですか?」
「はい、知ってます。午前十時ですね。」
「それから、犯人に持っていかれた壺の写真はありますか?」
「あったかな?写真必要ですか?」
「全国の古物商、骨董商、質屋などに盗難品として照会する時に説明が文章だけではちょっと弱いですからね。」
「探して、有れば明日持っていきますが、無いかも・・・。」
「わかりました。それでは明日お待ちしています。受付で橘を呼び出してください。」
「橘さんですね。」
「はい、そうです。」
警官たちが帰った後、応接間で光彦が真代に壺に関する質問をした。
「壺は義麿さんの遺品ということですが、どのようにして手に入れられたのかご存知ですか?」
「何でも、お亡くなりになった大学の先生がお持ちだった物を祖父の義麿さんが頂いた壺だと、主人は申していましたが。」
「その先生の名前は何というのですか?」
「さあ、それは聞いたことがありません。」
「そうですか。京都大学の先生とか仰っていなかったですか?」
「さあ、どうですか。あの壺に関して、詳しい話をしたことはなかったですから、良く判りません。すいません。」
「そうですか・・・。」
「明日、浅見さんも警察へいっしょに来てもらえませんこと?」
「ご心配なら、同行しますが。」
「はい。お願いします。今日は、この家にお泊りください。寝床を準備します。」と真代が光彦に言った。
「そうですか。それでは、お言葉に甘えます。」
第八章 弔いの八幡宮放生会
天満橋の八軒家船着場から大川(旧淀川)を北に三キロメートルくらい遡ると淀川からの分岐点にある毛馬水門に行き着く。毛馬水門は大阪湾に流れ込む新淀川の開削工事に伴って明治四十年八月に第一閘門が完成し、その後、大川の浚渫工事のために大川の水位が大幅に下がったので、大正七年に第二閘門が建設された。船が大川から淀川へ入れるようにパナマ運河のように水位を調節するための給排水機設備を持った水門になっている。大川は中之島で堂島川と土佐堀川に分けられ、再び合流して安治川となって大阪湾に流れ込んでいる。安治川河口には弁天町や江戸時代には小高い丘であった天保山があった。
そもそも淀川は、京都府北部の水源から京都嵐山を通過し、京都府向日市や長岡京市を流れる桂川と、琵琶湖を水源とする宇治川、そして三重県伊賀上野方面から流れてきた木津川の三つの川が、大阪府三島郡島本町に隣接する京都府乙訓郡大山崎町の天王山と京都府八幡市の石清水八幡宮がある男山に挟まれた地点で合流する川である。
また、平安時代の花山天皇や京都公家たちが熊野古道へ旅する時は、京都市内を流れる鴨川沿いの伏見船着き場から桂川経由で大阪天満にある八軒家船着き場まで船で移動していたと思われる。豊臣秀吉は伏見桃山城下に運河を開設し宇治川経由の伏見船着き場を開設して大阪と京都伏見を繋いだ。秀吉開設による伏見船着き場が江戸時代にも引き継がれた。
八軒家船着場で死体となって発見された不動産業「八紘昭建」の鈴木義弘社長の葬儀が行われた七月十日の翌十一日の朝、散歩中の中年男性によって喪服を着た死体が毛馬水門横にある淀川河川公園川岸に浮かんでいるところを発見された。淀川河川公園は天満橋署の管轄地域である。
喪服のポケットにあった免許証と名刺から水死体は「八紘昭建」の経理担当である松江孝雄と判明した。遺体の後頭部には打撲痕があり、さらに頸部にロープ状の痕跡もあった。
松江孝雄の遺体が見つかったその日、鈴木真代は午前十時からは海南署で空き巣の被害届の手続きを終え十一時には自宅に戻った。その時、天満橋署からの電話連絡を受けた松江夫人からの電話を受け、松江孝雄が死んだことを知らされた。その時、傍にいた浅見光彦が遺体確認で大阪へ行く松江夫人に同行することを依頼された。
七月十一日午後三時ころ、浅見光彦は大阪市立大学医学部付属病院の遺体安置所で孝雄の遺体を確認した松江夫人の静枝に付き添っていた。
その後、大阪府警の松永部長刑事に案内されて天満橋署の会議室で二人は事情聴取を受けている。同行していたもう一人の鳥羽映佑は大毎新聞の記者ということが判り、警察情報を知られないために事情聴取同席から外され、警察署の玄関待合所にあるベンチに座っていた。後で真代や光彦から聴取内容を聞き出せば判ることなのに、建前上、警察署は立ち合いを拒否したのであった。
「朝八時頃、孝雄氏は鈴木宅へ向かった後に行方不明になったと云うことやが、鈴木家には現れへんかった。何処ぞに寄り道するとかは言うとらんかったですかね。」と部長刑事が聞いた。
「ええ、鈴木さんとこへ行くとしか・・・。」と静枝夫人が答えた。
「そうですか。」
「お葬式の前日に松江孝雄さんと不審な男があっているのが目撃されています。その男が特定されれば何か判ると思うのですが。」と光彦が言った。
「あんたは、鈴木さんとはどう云う関係やねん。刑事みたいな言い回ししよって。浅見光彦とか言うたな。」と部長刑事が不愉快そうに言った。
「ああ、はい。主に「旅と歴史」と云う雑誌に紀行文や旅行案内の原稿を書くルポ・ライターを職業にしています。玄関にいる大毎新聞の鳥羽記者の知り合いで、今回は、田辺市内の熊野古道にある牛馬童子の首が行方不明になった事件の取材で鈴木様方にお邪魔しています。鈴木真代さんが田辺市役所にお勤めということで。」と言いながら、名刺を差し出した。
「東京のルポ・ライターね。それで、お前さん、何を知ってるというねん。」
松永部長刑事は静枝に対する言葉使いとは明らかに違う態度を光彦には取っている。
「藤白神社の巫女さんが鳥居の前で松江氏と男があっているのを見ています。その後、ふたりは熊野古道の入口の方へ歩いて行ったそうです。その男は一週間前に藤白神社境内にある鈴木屋敷を見学に来て、鈴木家のことに関心を持っていたそうです。」
「巫女さん云うて、竹内三千恵のことか?」
「そうです。ご存知でしたか・・。」
その後、不動産会社のこと等を聞かれ、事情聴取は終わった。
帰りがけに松永が訊いた。
「浅見。お前の宿泊先を聞いとこか。」
「あっ、はい。田辺市にある、鳥羽記者の住んでいる大毎新聞田辺通信部です。住所は判りません。」
「そこの電話番号は?」
「はい。これです。」と言って光彦は携帯の電話番号リストの中の大毎新聞田辺通信部の番号を松永刑事に見せた。松永はその電話番号をワイシャツの胸ポケットから取り出した手帳にメモした。
浅見たち三人は午後四時半頃、天満橋署を出て鳥羽の運転する車に同乗し、左側に大阪城を見ながら谷町筋を南下、日本一のノッポビル『あべのハルカス』が聳えるJR天王寺駅前を過ぎ、阿倍野筋に入り、熊野詣の九十九王子社の一つで『阿倍野王子』と呼ばれた阿倍王子神社前を南に向かって走っていた。その時、浅見のポケットで携帯電話の着メロが鳴った。雑誌『旅と歴史』の編集長である藤田克夫からであった。
「はい、浅見です。」
「『旅と歴史』の藤田です。」
「どうも。何か用事でも?」
「浅見ちゃん、今、大阪にいるんだって。」
「どうして知っているのですか?」
「蛇の道はヘビよ。」
「はあ?編集長は蛇年生まれでしたっけ・・・。」
「そう、私は蛇年・・・。バカ、何を言ってるの浅見ちゃん。冗談ですよ。」
「判ってます。でも、大阪にいるのは誰も知らないはずですが・・・。」
「今さっき、大阪府警の松永とか云う刑事から電話が我が社にあって、浅見ちゃんのことを訊かれたのよ。それで、お手伝いの須美子さんに電話して確認したら、和歌山の田辺市へ行ったって云うじゃない。それも、牛馬童子の首なし事件の取材だって。」
「そうなのですよ。帰ったら面白そうな記事を書いて、編集長から原稿料をもらうつもりで東京を出て来たのですが、とんだ事件に関わってしまいました。」
「また、殺人事件でも?」
「そうです。あっ、松永部長刑事には兄さんのことは言わなかったですよね。」
「大丈夫。いつも、浅見ちゃんからは強く言われているから、警察庁の刑事局長の話はしませんでしたよ。」
「それは、どうも。」
「ところで、殺人事件はどうでもいいのだけれど、浅見ちゃんにお願いがあって電話したのよ。」
「何のお願いですか?」
「秋の行楽シーズンに向けた記事を計画していてね。」
「秋の行楽シーズンですか。まだ夏が始まったばかりですが・・・。」
「だから、夏になればもう秋の記事を作らなくっちゃいけないのよ。浅見ちゃんも雑誌のルポライターなんだから、それくらい判ってるでしょ。」
「それで、僕に何を?」
「鉄道雑誌なら駅弁だけれど、『旅と歴史』にふさわしい歴史のある弁当記事を作りたいのよ。花山天皇とされる牛馬童子像があるのは箸折峠でしょ。平安時代、花山天皇いや、当時は花山上皇だったけれど、その箸折峠でお昼の弁当を食べる時、萱の茎を折って箸として使ったというじゃない。」
「花山天皇が食べた弁当から歴史弁当を発想したのですか・・・。」と考えるように光彦が言った。
「大阪から京都は近いでしょ。それで、松花堂弁当の発祥地である石清水八幡宮に行って写真を撮ってきてほしいのよ。八幡宮の南部には八幡市が管理する松花堂庭園があるからね。もちろん浅見ちゃんに記事も書いてもらいますよ。今週はカメラマンの小山美由紀ちゃんは勝手に休暇を取って留守だから、写真もよろしくね。浅見ちゃん、カメラ持っているよね?」
「もちろん持ってます。いつもの一眼デジカメを携行してますよ。しかし、松花堂弁当の発祥地が石清水八幡宮だったとは、知りませんでした。」
「何、知らなかったの、浅見ちゃん。江戸時代初期の松花堂昭乗と云う八幡宮の社僧が道具箱として作った田の字形をした木製の器を、昭和初期に京都の料亭・吉兆が真似て作った器に茶懐石料理を入れたのが松花堂弁当の始まりよ。松花堂庭園に吉兆のお店があるからね。」
「そうなのですか・・・。」
「それから、平安神宮の近くにある六盛の『手桶弁当』も取材してきて欲しいのよ。それと、箸折峠の近くにある道の駅かドライブインの食堂で箸折弁当の取材もしてきてね。箸折弁当がなかったら、特注で作ってもらって、適当に記事を書いてね。」
「了解しました。ところで、編集長は京都大学の考古学関係の先生をどなたか知りませんか?」
「『旅と歴史』に何回か寄稿してくださった考古学研究室の盛尾教授を知っているがね。」
「その方を紹介して欲しいのですが。」
「いいよ。」
「今すぐに連絡とってもらえませんか?」
「今すぐ?そんなに急いでどうするのよ。殺人事件に関係しているの?」
「僕の推理と云うか、直観では、多分、そうなると思います。」
「えらい自信だね。まあ、浅見ちゃんの直観はよく当たるからね・・・。じゃ、連絡してみるよ。一旦電話切るよ。連絡が着いたら折り返し電話するよ。弁当の取材の件、よろしく頼むよね。」
「判ってます。それでは電話を待ってます。」と言って光彦は電話を切った。
「全く、藤田編集長ときたら強引なんだから。まっ、いつものことだけど。自分の会社の従業員みたいに命令すればすぐに動いてくれると思っているのだから、参るよな。こちとらはフリーのライターだって謂うの。小内美由紀さんだってフリーのカメラマンなのだから、自由に休暇をとっても文句は言えないと思うけどな・・・。」と考えながら光彦は車窓の流れゆく風景を漫然と眺めていた。
松江夫人を海南市の自宅に送った後、光彦と鳥羽は小料理『浜屋』で夕食を取り、田辺市にある大毎新聞田辺通信部の戻ったのが午後九時を過ぎていた。この日は疲れのためか義麿ノートを読む気になれず、また、明日は京都の男山八幡宮へ行く予定にしたので光彦はそのまま就寝した。
石清水八幡宮
石清水八幡宮は平安時代第56代清和天皇の御世859年に九州豊後国(現・大分県)の宇佐八幡神の託宣『吾、都近き男山の峰に移座して国家を鎮護せん』を受けた行教和尚(空海の弟子)が山城国(現・京都府)の男山に社殿を造営したのが創建である。『石清水』の社号は創建以来の由緒がある。祭神は宇佐神宮と同じく応神天皇(八幡大神)と比咩大神(宗像三女神とされる)と神功皇后(応神天皇の母)である。
清和源氏の流れを引く源義家は石清水八幡宮で元服したので自らを八幡太郎義家と称した。八幡太郎義家の父親である源頼義は石清水八幡宮を勧請して『鶴岡八幡宮若宮』を鎌倉由比が浜に創建した。義家が荒れた祠を修復したのち、源頼朝が現在の地に鶴岡八幡宮を遷座させ、現在に至っている。
松江孝雄が遺体で発見された翌日の七月十二日、浅見光彦は松花堂庭園を訪問する前に石清水八幡宮に参拝するために男山ケーブルの山上駅に降り立った。そして、駅近くの展望台に上り、淀川の向こうにある高槻市の山々を眺めて写真に収めた。
その後、展望台を降り、表参道と裏参道の間にある松花堂庵跡地を写真に撮った。そして、表参道を歩き、必勝祈願の勝負石とされる『一ツ石』のある三の鳥居をくぐった。そして手水舎で手と口を清め、南総門を潜り八幡宮の境内に入った。その時、二人の女性と出会った。
「あれ、浅見さん。」と小山美由紀が驚いたように言った。
「美由紀さん。あっ、お祖母さんもごいっしょですか。」と光彦が言った。
「浅見様、ご無沙汰しております。」と杖を手に持っている老人が挨拶した。
「香代子様もお元気そうで、何よりです。」
「お陰様で、病気もせず暮らしております。しかし、足腰がおとろえてきまして、今日は孫の美由紀が付き添いです。」と小内香代子が言った。
「今も熊本にお一人でお住まいですか?」
「はい、歳をとれば慣れた土地に住むのが一番です。ご近所の農家の皆さんにいろいろとご面倒をかけていますがね。」
「そうですね。慣れた土地でんのんびり暮らすのが一番ですね。ところで、今日は八幡様に何の御用ですか?戦時中のお知り合いのことでも・・・?」と光彦が訊いた。
「はい。戦争で亡くなられた方たちの御霊の供養をしておきたいと思いましてね。私も老い先短くなってきましたから、元気なうちにと思いましてね。男山に上るには一人では心もとないので美由紀に同行してもらいました。」
小内美由紀は老人の横でニコニコと笑っている。
「美由紀さんは休暇中だと藤田編集長が言っていました。」
「そうなのよ。一週間ほど撮影の仕事は休みますって電話を入れたら、藤田編集長から文句を言われちゃったわ。」
「何て言われたのですか?」
「仕事が発生したら電話入れるから、すぐに戻って来いって、命令形で。」
「はっはっはっは。編集長は美由紀さんのことを自分の雑誌社の社員だと思っているようですね。」
「そうなのよ。私はフリーのカメラマンってことを忘れているみたいなのよ。撮影料は安いくせにね。ほんと、ケチなんだから。浅見さんは藤田編集長の依頼で石清水八幡宮に来られたのですか?」
「そうなのです。神仏習合の江戸時代、石清水八幡神宮寺の僧侶であった松花堂昭乗という人物の住居跡などを取材することになりましてね。」
「ああ、松花堂弁当の起源となった人ですね。」
「松花堂弁当のことをご存知でしたか。」
「以前、雑誌で読んだことがありましたわ。松花堂と云う人が自作して使っていたたばこ盆を入れる木製容器をまねて、昭和の時代に料亭の人が弁当を作ったのが始まりでしたわね。」
「そう、松花堂弁当の始まりは昭和の時代です。そういえば、あの事件も昭和の傷跡が始まりでしたね。」と光彦が言った。
「長野県の小内八幡神社で私が飯島老人に出会ったのが始まりでしたわね。」と言いながら美由紀は祖母の顔を見た。
「私の戦時中のお友達の方々の悲劇でしたわ。何故、あのようなことになったのか、今でも残念ですわ。」と、思い出すように言った香代子の目に涙が浮かんだ。そして続けた。
「戦争でお亡くなりになった方、戦争に苦しみ、戦後も生き続け、そしてお亡くなりになった方々。その方々の御霊を供養して差し上げるのが生き残っている私の務めと思い、ここ石清水八幡宮に参拝いたしました。」
そして、美由紀が付け加えて言った。
「九州大分県の宇佐八幡大菩薩様は朝廷軍に捕縛され殺された隼人族の人々の怨霊を鎮魂するために『放生会』を行うことを744年にご託宣されました。」
「『ホウジョウエ』・・・ですか?」と光彦が知らないと云った表情を浮かべながら訊いた。
「放生会というのは捕えられた生き物を自由にしてあげるために池や野に放つ仏教の儀式のことです。中国のお坊様が始められたのですが、お釈迦様の前世にその起源があります。隼人族は奈良時代に朝廷の護衛などを行った現在の鹿児島県大隅半島など九州南部を生活圏にしていた人々です。その薩摩隼人たちが720年ころに反乱を起こしました。その後、薩摩隼人は奈良時代以前の飛鳥時代に朝廷の宮中護衛と徴用され、努めを終えた後は畿内、すなわち近畿地方に居住することを許されました。ですから、この石清水八幡の近くには薩摩隼人の名残があり、『放生会』も863年から行われています。本来は旧暦の八月十五日に行うべきなのですが、現在は宇佐八幡では十月十日ころ、石清水八幡では九月十五日に例大祭として実施されています。」
「八月一五日といえば終戦記念日ですね。」
「はい、そうです。でも、戦時中に海軍宇佐航空隊に所属されていた私の知っている方々は、アメリカ軍の爆撃や終戦前に鹿児島の飛行場から飛び立ち、帰らぬ人となりました。命令上は昭和二十年五月五日に宇佐航空隊は解体されましたが、残務整理と基地の引継ぎが終了し航空隊の皆様が解散されたのは七月十五日でした。ですから本日、七月十五日に八幡様に参拝しご供養をお願いすることに致しました。」と香代子が言った。
「そうでしたか。それでもう、放生会の儀式は終えられたのですか?」
「はい、午前中に、男山の麓にある頓宮社殿の横にある航海記念五輪塔で神主様にご供養をしていただき、頓宮社殿の裏手にある放生池に熊本から持参した巻貝を放流致しました。これで安心してあの世へ旅立てますわ。」
「これからはどうなさるのですか?」
「本日は京都市内のホテルで宿泊し、明日に新幹線で祖母を九州熊本まで送って行きます。」と美由紀が言った。
「そうですか。僕も今日の夕方には京都市平安神宮近くの六盛で『手桶弁当』の取材に行く予定です。よろしければ、夕食をご一緒しませんか?」
「それはありがとうございます。夕方の何時頃になります。」
「夕方六時に六盛で待ち合わせ、と云うことで如何でしょう。」
「判りました。それではその時に。浅見さんはこれから何方へ?」
「参拝後、男山麓にある松花堂庭園に行き写真を撮ることにしています。それでは、ここで。」と言って光彦たちは別れた。
京都大学文学部・考古学研究室
松花堂庭園と六盛を取材した十二日の夜、光彦は滋賀県大津市内のビジネスホテルに宿泊した。七月十四日夕刻から十六日夕刻にかけて京都祇園祭宵山があり、七月十七日には山鉾巡行が行われるため、京都市内のホテルは悉く観光客で満室であり、泊まれなかったのである。そのため、東山を越えた琵琶湖の畔にある大津市まで足を延ばさざるを得なかったのであった。翌十三日の午後、光彦は京都大学を訪ねた。大津市街のビジネスホテルを十時前にチェックアウトし、車載ナビの案内に従って車を京都方面に走らせた。国道一号線から三条通りに入り、琵琶湖疎水の東山トンネル出口にあるインクラインの遺跡がある蹴上を過ぎ、東山三条交差点を右折して東大路通りに入り北上をして百万遍交差点に到着した。
京都大学は京都御所の北側を東西に走る今出川通りと、八坂神社の前を南北に走る東大路通りが交差する百万遍と呼ばれる交差点の南東に広大な敷地を有する国立大学である。明治・大正・昭和初期時代は帝国大学であった。文学部・考古学研究室はその敷地内で百万遍に最も近い建物の中にある。百万遍の名称は交差点の北東にある知恩寺という浄土宗本山の通称・百万遍知恩寺に由来する。
光彦は百万遍知恩寺北側にある墓参者用のコインパーキングに乗ってきた愛車・ソアラを駐車させた。そこから徒歩五分くらいで京都大学の敷地に入り、総合博物館内にある考古学研究室にいる盛尾稔教授を訪ね、博物館の応接室に案内された。盛尾教授は五十歳代の活発な壮年研究者といった風情をしている。名刺交換をし、少し雑談をした光彦はこの人物は行動的で切れ者だなと感じていた。そして、盛尾が口火を切った。
「お電話では阿武山古墳について質問があるとのことでしたが。」と盛尾が言った。
「はい。最近、大阪市内で殺人事件があり、その事件が阿武山古墳発見当時の歴史に関係するのではないかと思い、当時のことに関する資料などがあれば拝見させていただきたいのです。インターネットでもある程度は調べたのですが、まだ判らないことがあるので藤田編集長にお願いして、先生を紹介していただいた訳です。」
「浅見さんの名刺にはルポ・ライターと書かれていますが、私立探偵も兼務されているのですか?」
「いいえ、ちがいます。その殺人事件で殺された方のご遺族とちょっとした因縁から知り合いになって、相談を受けたものですから、それに関連した調査をしております。」
「どのような因縁ですか・・。」と盛尾は研究者らしく、疑問点は明確にさせたいと云った風に訊いた。
「説明不足で失礼致しました。実は、最初は熊野古道にある牛馬童子像の首が切り取られた事件を取材するために和歌山県の田辺市に来たのですが、そこで海南市の藤白神社にゆかりのある鈴木屋敷に関係する一族の方と知り合いになりました。その方のご主人が最初に殺され、大阪の天満橋にある八軒家船着場で大川に浮かんでいる遺体が発見されました。続いて、その殺された鈴木社長の経営する不動産会社の経理会計社員の松江氏が大川と淀川の分岐点にある毛馬水門近くで遺体となって発見されました。」
「ああ、その事件なら新聞で読みました。そうですか、歴史ある鈴木家末裔の関係者の方が殺されたのでしたか。阿武山古墳の周辺地域など大阪府北部と兵庫県東部にまたがる摂津地域には戦前まで鈴木家の所有地が多くありましたからね。戦前の軍部による接収や戦後の農地改革での大地主制度解消が推進されて鈴木家の所有地は少なくなりましたからね。鈴木家と阿武山古墳周辺と殺人犯に何か関係があるかどうかを知りたいのですね。それで、浅見さんは具体的に何をお知りになりたいのですかね?」と、盛尾教授は光彦の意図を読み取って言った。
「質問は何点かあります。まず最初は、当時の調査報告書で山村教授が阿武山古墳のミイラは藤原鎌足ではないと結論した判断は間違っていたのでしょうか?現在は、鎌足のミイラであると考古学界では判断しているようですが。」
「昭和十一年の調査報告書の段階で森高教授から山村先生に提供されたレントゲン写真は頭部のものだけでした。山村先生はミイラの背骨や脚のX線写真が存在することをご存知ではなかったようです。理学部の地震研究者である森高教授が骨格のX線撮影をしたことを隠されていました。古墳から発見された『大織冠』鎌足に贈られたものではないかとされる紅い帽子と玉枕だけからミイラが鎌足と断言するには疑問が残ります。昭和五十七年に地震研究所から骨格部分の古びたX線写真が発見されて初めて阿武山古墳のミイラが骨折していて、鎌足が落馬しケガをしたという記録と照合の結果、ミイラが鎌足である可能性がクローズアップされた訳です。」
「何故、森高教授は骨格部のX線撮影をしたことを隠されたのでしょう。また、山村教授は何故に骨格のX線撮影のことは思い浮かばなかったのでしょうか?」
「難しい質問ですね。昭和九年から十一年ころの森高教授や山村先生の研究日誌でも見つかれば、その疑問に答えられるかもしれませんが・・・。古墳から発見された遺体が布に包まれたミイラではなく、人骨の状態であれば、山村先生には骨折を目視できたのですがね・・・。それに森高教授は副葬されていた唯一の素焼の壺を破損されました。考古学者なら絶対にありえない事です。まあ、当時の学内の力関係では、理学部や森高教授の方が文学部より上であったということでしょうか。」と盛尾教授が残念そうに言った。
「日誌ですか・・・。」と呟いた光彦は、全部読み終えていない鈴木義麿の古びた大学ノートを思い浮かべていた。
「次の質問は?」と盛尾が浅見を促すように言った。
「あっ、はい。次ですが、当時、阿武山古墳に大勢の野次馬が押し寄せて、その警備のため、警察以外に陸軍の憲兵隊が出て来ていたようなのですが、何故に憲兵隊が出て来たのでしょうか?」
「治安維持の観点から警察だけでは不安があった、ということでは理解しがたいということですね。」
「まあ、そう云うことです。」
「実は、先ほどの質問とも関係するのですが、京大の考古学研究室で代々の研究者間で謂われていることがあります。」
「はあ?」
「それは、藤原一族に対する鹿児島県人、すなわち薩摩隼人の怨念です。」
「どういうことですか?」
「当時の陸軍は鹿児島閥と山口閥の人物、すなわち長州と薩摩の人が主導していたのです。元々、明治新政府において薩摩出身の大山巌や長州出身の山縣有朋が陸軍を主導したのですが、情報収集では鹿児島県人の西郷従道が陰で主導した経緯から憲兵隊は薩摩人が力を持っていました。また、警察を管轄する内務省は薩摩藩士であった大久保利通が初代の内務卿を務めています。山村先生が阿武山古墳を鎌足の墓と断定しなかった理由は政府を主導している鹿児島県人、すなわち、薩摩人に対する遠慮があったのではないかということです。政府に睨まれれば、大学に対する圧力が大きくなる心配がありますからね。その一例ですが、明治新政府は、神仏分離を発令した際、神職で藤原一族の者は姓を藤原から他の苗字に改称するか、神職を去るかの踏み絵を強要しています。平安時代の権力者である藤原一族は八世紀に起こった隼人の乱で薩摩隼人の多くを虐殺しましたからね。その恨みが明治まで残っていた訳です。薩摩人は藤原の名前が世間に復活するのを恐れたのです。それは公家の復活に繋がりかねないからです。東京を首都とする明治新政府を樹立する時、まだ公家たちの力は大きかったので東京への遷都は潰される可能性が大きかったのです。そこで薩摩の大久保利通は一計を案じ、明治天皇を東京に行幸させるとして京都から江戸城に遷しました。薩摩人は公家が復活し、新政府の主導権が公家の末裔に握られる恐怖を維新以降も懐いていたのでしょう。藤原家や公家の末裔は日本国中に多くいましたからね。それで、薩摩閥の政府役人から横やりが出るのを山村先生は恐れられたのかものしれません。特に、阿武山古墳の調査は文部省や宮内省の援助を受けた大阪府が主導して提出されたものですからね。」
「『放生会』を催したけれど薩摩隼人の怨念は子孫の中に残っていたというわけですか・・・。」
「浅見さんは放生会をご存知でしたか。これは、御見それいたしました。」
「いえ、ちょっとした偶然で、昨日、そのことを知りました。」
「石清水八幡宮へおいでになったのですか?」
「まあ、そういうことです。」
「石清水八幡のある八幡市や、淀川対岸の長岡京市、向日市、高槻市の地域は朝廷の宮門警護に当たった薩摩隼人が役目を終えた後、住み着いた地域でもあります。薩摩隼人は動きが敏捷なところを朝廷に認められていたようです。まあ、そういう関係から隼人を先祖に持つ陸軍憲兵隊が治安維持の名目で動いたのではないでしょうか。」
「隼人の霊が阿武山古墳のある地域にも浮遊しているのですかね?」と光彦が肩を竦めた。
「はっはっはっは。それはどうですかね・・。むしろ、何かお宝が隠されていたのではないでしょうかね。」
「お宝ですか?」
「実は、森高教授が阿武山古墳に固執した訳はお宝さがしではなかったか、と謂う噂が当時あったように代々の京大考古学研究者から言い伝えられています。代々の考古学研究者の皆さんは、一時的であったとは言え、古墳発見初期の段階で地震学者の森高教授に考古学者の山村教授が古墳調査の主導権を奪われたのが悔しいのでしょうね、こんな話を言い伝えるなんてね。私もそうですが・・・。」と、あっけらかんと盛尾教授が言った。
「お宝さがしですか。そうなのですか。うーん。地震研究者の森高教授がやけに考古学に詳しかったようなので疑問に思っていたのです。」と今城塚古代歴史館の但馬館長が話していた天智天皇のお宝探し騒動のことを思い出しながら光彦が言った。
「森高教授は日本の地震観測所の設置場所調査を政府から依頼されて、九州の阿蘇山や霧島山、桜島などを調査されました。その時に宮門警護の薩摩隼人が何かお宝を持っていたような話を聞くか、文献を目にしたのではないでしょうかね。宮門警護ですから、朝廷の財宝がある蔵などを盗賊から守る役目もあったでしょう。宮門警護の薩摩隼人が地元の大隅半島で反乱する隼人たちに呼応して朝廷の財宝を盗んでどこかに運び去った可能性も考えられます。隼人が盗んだ財宝を探すために森高教授は、考古学の資料を研究されていたのではないでしょうか。また、その当時、森高教授は地震観測所調査を通じて政府の役人との繋がりができていたので古墳発掘を許されたのでしょう。その後、大阪府と文部省が動いて考古学者の山村教授が調査に乗り出すことになり、地震学者の森高教授は発掘調査から外されましたがね。まあ、ご病気であった事も調査から外された理由かも知れませんがね。」
「お宝さがし。それなら合点がいきます。地震学者の森高教授が阿武山古墳に執着した訳が。」と光彦は言った。
「盛尾教授の謂うお宝は朝廷の財宝を盗んだ隼人族が隠したもの。但馬館長の謂うお宝は天智天皇が隠した埋蔵金。財宝の由来が異なるな・・。どちらが正しいのかな?いずれにしても、お宝を探す事か・・・。」と思いながら、光彦は敢えてそれを黙っていた。
「陸軍の憲兵隊も警護の名目でお宝探しをしていたかもしれません。中国で戦争をするための軍資金が必要だったでしょうからね。当時、大正八年から昭和七年にかけて、日本海海戦で対馬沖に沈没したロシアの軍艦ナヒモフ号には大量の金塊とプラチナが搭載されており、その金塊を引き揚げようとする動きが東京や大阪の一般人や政治家の間であり、新聞紙上を賑わしました。海軍が動いたと云う記録は残されていませんが、軍部も大きな興味を持っていたはずです。陸軍も海軍も軍資金は欲しいですからね。昭和初期の日本という国は貧しく、国民も富を求めていた時代だったのです。」
「なるほど、憲兵隊も高貴な人物の古墳に埋められているお宝探しに動いていた可能性があるような時代背景があったのですか・・・。」
「阿武山麓の近くには継体天皇陵もありますからね。摂津阿武山古墳調査報告書に載っている阿武山付近地形図にもはっきり阿武山古墳の南方にある三島村に継体天皇陵と書かれています。現在は茨木市太田三丁目という住所になり、太田茶臼山古墳と呼ばれています。まあ、『延喜式』には摂津国嶋上郡、現在の高槻市郡家新町にあったとされていますがね。太田茶臼山古墳のある場所は嶋下郡に当たるので、今城塚古墳が継体天皇陵であるという説も出ています。太田茶臼山古墳から出土の埴輪の特徴が五世紀半ばのものであり、六世紀前半に死亡した継体天皇とずれがあり、考古学界は今城塚古墳を継体天皇陵としています。いずれにしても阿武山麓近くに継体天皇陵もあったわけですから、この地域は大和・飛鳥時代の朝廷にとっても重要な地域だった訳です。」
「奈良桜井市多武峰の談山神社に鎌足の遺体が遷されたと謂う説もあるようですが、そうしますと阿武山古墳のミイラは別人と云うことになりますが?」と光彦が訊いた。
「中国の唐から帰朝した鎌足の実子・定恵上人が摂津国安威の墓所から多武峰に改葬したという記録が平安時代に書かれた『多武峰略記』に記されています。山村教授の摂津阿武山古墳調査報告書の阿武山付近地形図にも阿武山麓南部に安威村が記されています。しかし、私は、鎌足のミイラ遺体ではなく、毛髪を分霊として談山神社に祀ったと考えています。実は、埼玉県比企郡ときがわ町西平という処に多武峰神社があり、706年、大和国多武峰神社から鎌足の遺髪を遷して祀ったのが始まりとされています。この神社祠の横に鎌足の分霊を祀る石塔があります。埼玉県がこの石塔周辺を調査すると毛髪が出て来たと云うことです。この神社を管理する神職の武藤家は明治時代になるまでは藤原姓でした。多分、明治新政府から改姓を突き付けられたか、暗にプレッシャーを架けられたのでしょう。全国には三か所の多武峰神社があるされています。摂津国安威とは阿武山麓にある安威村のことで、安威川を挟んで三島村の北西にあった村です。」
「もう少し訊いてよろしいですか?」
「どうぞ。」
「山村教授は骨董品などの趣味はおありでしたでしょうか?」
「骨董ですか?」
「はい。例えば壺などを収集されていたとかの記録とか、何か残されていませんか?」
「いえ。そのような話を聞いたことはないですね。」
「そうですか・・・。」
「壺の話の次いでですが、森高教授が破壊された素焼の壺はカノープスの壺だったかもしれません。」
「カノープスの壺?」
「エジプトなどで死体をミイラにするとき、目玉や心臓などの内臓類を遺体から取り出して壺に収め、副葬しました。内臓が腐敗して遺体に細菌などが発生するのを防止するためです。通常、壺は二個になりますが、阿武山古墳では一個しかなかったようですね。」
「森高教授が破損した壺にはミイラの内臓が入っていた可能性があるのですか・・・。ふーん。」
「あとは何かありますか?」
「はい。森高教授と山村教授のフルネームを知りたいのですが。」
「森高先生は露樹です。雨露の露と樹木の樹です。山村先生は確か、泰治でした。天下泰平の泰に明治の治です。」
「森高露樹と山村泰治ですね。」
「そうです。」
その後、光彦は盛尾教授の案内で大学博物館の展示物を見学した。
そして、別れ際に盛尾教授が言った。
「浅見さんは牛馬童子像の頭損壊事件の取材で関西に来られたのでしたね。実は、熊野古道の花山天皇の子供時代とされる牛馬童子像ですが、そのすぐ隣に役行者とされる石像が建っていますよね。しかも、ふたつの石像は同じ台座の上に乗っています。」
「はい。そうですね。それが何か?」と光彦が訊いた。
「花山天皇は雨が降る日は激しい頭痛で苦しんだようです。その頭痛の理由を陰陽師の安倍晴明が解き明かしました。」
「何と?」
「花山天皇の前世は修験道の行者だったようです。そして、熊野の大峯山中で修行中に死んだようです。その死骸の頭蓋骨が谷底の大きな岩の間に落ちて挟まっており、雨が降ると岩に水が浸み込んで膨張するため、岩に挟まった頭骸骨が圧迫され、その影響で激しい頭痛がしたのです。安倍晴明の指定した岩場にあった頭蓋骨を取り去ると頭痛が消えたそうです。牛馬童子像の横の行者像は役行者ではなく花山天皇の前世の姿なのです。だから、牛馬童子像は二度も頭部を切り取られたのではないでしょうかね。行者時代と天皇時代の因縁を取り除くために・・・。また、出家して法皇となってから、摂津国の中山寺で大和国の長谷寺を創建した徳道上人が石塔に埋めたとされる宝印を見つけ出し、西国三十三ケ所霊場を巡り、何らかの法力を会得したとも謂われていますが、真偽のほどは定かではありません。」と盛尾教授が自説を含めて説明した。
「その花山天皇の逸話を知っている人物が頭部切り取りの犯人ということですか・・・?」と光彦が考えるように呟いた。
「まあ、それはどうでしょうかね・・・? 二回の頭部損壊事件のいずれもが同一犯人とは限らないでしょうからね。古代からの歴史の勉強くらいはしているかもしれませんがね・・・。」
盛尾教授の話を聞いた光彦は歴史の勉強のことが頭に残った。
「今回の八軒家船着き場殺人事件や牛馬童子像頭部損壊事件の謎を解くには古代からの歴史の勉強が必要となるのか・・・。」
そして、光彦は京都大学の百万遍側の校門を出てコインパーキーングに向かった。コインパーキングについた光彦は携帯電話を掛けた。
「はい。但馬でございます。」
「もしもし、今城塚古代歴史館の但馬館長さんですか?」
「はい。そうですが。」
「ルポライターの浅見光彦です。先日はいろいろとありがとうございました。」
「いえ。どうも。先日は失礼しました。今日は何か?」
「はい。明日、そちらの古代歴史館の監視カメラの録画映像を見せていただけないかと思いまして、お電話いたしました。」
「明日の何時頃お見えになりますか?」
「海南市にある藤白神社の巫女さんを連れて行きますので、午後二時頃になると思います。よろしいでしょうか?」
「はい。承知しました。ところで何を確認したいのですか?」
「過去の来館者の中に巫女さんが見た人物が居ないかどうかを確認したいのです。」
「牛馬童子の頭首事件に関係する人物が居ないかどうかの確認ですね。」
「はい。それに別件の殺人事件の関係者も顔を見せているかどうかなのです。」
「判りました。お待ちしています。」
「よろしくお願いします。それでは。」
光彦は電話を切った。
そして、続いて鳥羽にも電話を入れた。
「どうしたのですか、浅見先輩。」
「明日、高槻市にある今城塚古代歴史館に竹内三千惠さんをつれて行きたいのだ。鳥羽、竹内さんと大谷宮司に連絡して承諾を取り付けて欲しいんだ。」
「行く目的は何ですか?」
「竹内さんが神社で見た、松江氏と会っていた謎の男が歴史館の監視カメラに映っているかどうか、それを確かめたいのだ。」
「判りました。すぐに連絡を取ります。」と言って、鳥羽は電話を切った。
光彦はソアラをパーキングから出し、和歌山に戻るため、名神高速道路の京都南インターチェンジへ向かった。
田辺市内の『浜屋』で鳥羽と落ち合い、共に夕食を取り、大毎新聞田辺通信部に戻ったのが夜の九時頃であった。京都大学の盛尾教授との話をノートパソコンに記録入力した後、疲れていた光彦はそのまま就寝した。
第九章 繰り返された祭祀
七月十四日午前十時頃に海南市の藤白神社をソアラに乗って出発した浅見光彦、鳥羽映佑、竹内三千惠の三人が名神高速道路の茨木インターチェンジを出て西国街道と呼ばれる国道171号線を通って、高槻市の今城塚古代歴史館に到着したのは午後一時半ころであった。途中、三人はJR高槻駅前のデパートに寄り、店内にある和食レストランの松花堂弁当で昼食を済ませていた。
館長の但馬に案内され、三人は地下室にある警備員室に入った。
「何時の録画映像をご覧になりたいんのですか?」と但馬が訊いた。
「牛馬童子像の頭が発見された前日から当日とその翌日の映像をお願いします。」
「頭部が見つかった古墳公園の監視カメラ映像からご覧になりますか?」
「古墳公園にも監視カメラがあるのですか?」と光彦が意外そうに言った。
「ええ。頭部が置かれていた埴輪祭祀場を監視するカメラが祭祀場の長手方向の中央部で堤の通路端に設置してある街灯のポール上方に三台いしょに取り付けてあります。三台で長さ六十五メートル、幅十メートルの祭祀場全域を監視しています。遠くの映像は三十メートルくらい先と云うことになります。」
「そうすると、頭部を放置した人物が写っていますよね。」と鳥羽が言った。
「はい。鳥羽さんや浅見さんが頭部を引き取りにお見えになった翌日の朝、開館前に紀伊田辺署の若い刑事さんがお見えになり、監視カメラの記録映像を確認されました。」
「それで、犯人は映っていたのですか?」と鳥羽が急かす様に言った。
「はい。これからその映像をお見せしますが、人物が特定できそうな映像になっていませんでした。」
「如何いうことですか?」
「夜明け前の薄暗い状態で、映っている人物も帽子深くかぶっていました。それに、カメラから遠くなので、人物が小さく映っており、男性なのか、女性なのか、その区別もできません。ただ、ズボンかスラックスを履いております。」
「とにかく、映像を見せていただけますか。」と光彦が言った。
映像には遠くから古墳堤の通路を歩いて来た人物が立ち止まり、手に持った手提げ袋から何か小さな物を取り出し、祭祀場の置かれた埴輪群の中にそれをそっと投げ込む姿が映っている。そして、その人物は来た方向へ引き返していった。その場所が牛馬童子像の頭部が見つかった場所である。
「確かに、この映像では人物の特定はできないか。画像処理をしても信ぴょう性に欠けるだろうな。」と光彦は思った。
「古墳公園の映像はこれでよろしいですかね。」と念を押すように館長が言った。
「はい、結構です。古代歴史館の映像を見せていただけますか?」
「古代歴史館には全部で五台の監視カメラがあります。物品搬入口に一台。玄関扉前に一台。玄関ホールの天井に二台。展示室の天井に一台の合計五台です。」
「そうですか。それでは玄関ホールにある監視カメラ映像でお願いします。」と光彦が言った。
「では、玄関ホールの映像を出してください。日付は七月八日、九日、十日の三日分です。」と但馬館長がパソコンの前に座っている警備員に言った。
警備員はパソコンを操作して、日付毎に映像データが入っているホルダー群をモニター画面に出した。そして、指示された日付のホルダーをクリックした。
「この映像が七月八日水曜日のものです。何時頃から見始めますか?」と警備員が言った。
「開館してから閉館の三十分前くらいまでお願いします。」と光彦が言った。
「午前十時から午後四時半までですね。映像は一秒に一回、1枚づつの高画質静止画が撮影されています。したがって、一秒間は同じ静止画映像が画面に再生して映されますので、分解写真を見ているように感じられます。」
「なるほど、そうですね。再生スピードを上げられますか?」
「はい。今は一倍速ですが、十倍速まで可変できます。」
「5倍速くらいで再生をお願いできますか?」
「畏まりました。」
「三千恵さん。男の顔を見れば判りますか?」と光彦が訊いた。
「ええ、多分。雰囲気は覚えていますので、映っていれば判ると思います。」
「三千恵ちゃん、年齢は何歳くらいだった?」と鳥羽が訊いた。
「鈴木義弘さんと同じくらいの年恰好だったと思うわ。」
「そうすると、四十八歳前後の人物と云うことになるな。」
しかしながら、七月八日の録画映像には男の姿は見つからなかった。そして、七月九日、十日の映像にも男の姿を発見することはできなかった。
「いなかったですね。」と鳥羽が残念そうに言った。
「すいません。」と三千惠が謝った。
「三千恵さんの所為ではないのですから、謝ることはないですよ。」と光彦が言った。
「でも、わざわざ田辺から高槻まで来て結果が出なかったので申し訳ないわ。」
「僕が三千惠さんにお願いしたのだから、謝るのは僕の方ですよ。」
「そう。浅見先輩の所為です。」と鳥羽が美千惠を守る様に言った。
「まあ、そう怒るなよ、鳥羽。」
「怒ってはいないですけど、美千惠さんが恐縮しているので、ついですね・・・。」
「判ったよ、鳥羽。勘弁してくれよ。」と頭を掻きながら光彦は参った様な顔になった。
「でも、何故に三千惠さんが藤白神社で目撃した男がここの歴史館に来ているのではないかと思ったのですか? 先輩。」と鳥羽が訊いた。
「いや、単なる第六感、第六感よ。まあ、深い理由はないが、強いて云えば、殺された松江氏が義弘社長の遺体が発見される四日前に社長と男が電話で話している内容を横で聞いた内容だね。鈴木社長の八絋昭建が所有する土地の売買に関することであったり、地名の三島のことであったりと云うことから、ここ、三島の地にある古代歴史館に出入りしている男ではないかと思った訳よ。そして、その男が何らかの理由で牛馬童子像の頭を切り取ったのではないかと想像したのだが・・・。」
「何らかの理由とは?」
「鳥羽も執濃いな。まあ、土地を売らせるために鈴木社長を脅かす目的があったとかね。鈴木真代さんと義弘社長がレストランで最後に話していた内容で、『今になって』と義弘社長が嫌がっていたと云うことでもあったのでね。」
「土地を売らないと牛馬童子像の頭みたいに社長の頭を切り落とすぞ、と云う訳ですか・・・。なるほど。」と鳥羽が妙に感心して言った。
「まあ、男が現われておらず残念でしたが、事務所に戻ってお茶でも飲みましょうか。」と但馬館長が言った。
「そうしましょう。」と鳥羽が相槌を打った。
「あっ、ちょっと待ってください。」と光彦が慌てるように言った。
「如何しましたか?」
「七月八日と、牛馬童子像の頭が発見された九日の映像をもう一度見せてください。」
「何か気になることでもありましたか?」
「ええ、同じ人物が、同じ時刻くらいに入館してきていました。何か背中が影を引き摺っているような感じがする老人でした。分解写真風の映像だからそう見えたのかもしれませんが、ちょっと気になるので見ておこうかと思います。」と云いながら光彦は『義麿ノート』に書かれていた『いつか僕は孤獨の道を歩いてゆくことになるのだらうか??そんな気がしてきた。』と云う文面を思い出していた。
「自殺しそうな感じだった?」と鳥羽が訊いた。
「いや。そんな雰囲気ではなく、何か元気がなさそうな雰囲気でね。ふつう、美術館や歴史館などに一人で来る人は研究熱心な雰囲気を漂わせて活気がありそうなものですが、その人は雰囲気が違っていました。」
「何時頃の映像ですか?」
「画面の時刻表示で十時十分か、十時二十分頃だったと思います。」
「判りました。」と言って、警備員はパソコンを操作した。
「取り合えず、開館時刻の十時過ぎから映像を流します。5倍速ですので2分後くらいに十時十分の映像になります。」
「はい、ここです。」と光彦が言った。
警備員は映像をストップさせ、ジョグ操作で映像を少しづつ戻し、老人が移っている映像をズームアップさせてモニター画面に出した。表示時刻は午前十時十二分である。
やや背中を丸めて、俯き加減にゆっくり歩く一人の老人の姿が映っている。エンジ色柄のアロハシャツを着て、灰色のズボンを履き、靴はカジュアルなこげ茶色の革靴である。髪は白髪で、禿げてはいない。メガネも掛けていない。右手に大きめの紙袋を下げている。確認するように監視カメラの方を見上げた老人の表情を見た光彦は『寂しそうで、猜疑心のある眼つきだな。口の左右にある法令線ははっきりと筋が顎まで付いている。一体この老人はどのような人生を送って来たのだろう。』と思った。
「あっ、この人は・・・。」と但馬館長が叫んだ。
「館長さん、ご存知の方ですか?」と光彦が言った。
「先日、京都府警の刑事さんがアリバイ確認に来られた、その対象人物です。」
「刑事が来た?」と鳥羽が呟いた。
「はい、事件の内容は教えてもらえなかったですが、名刺を頂いてます。何かあれば警察に電話をくれと仰って名刺を置いて行かれました。事務所に戻れば机の中にあります。」
「名刺なら私も頂いています。」と警備員が言って、自分の事務机に歩いて行った。そして、机の中から名刺を取り出し、光彦に手渡した。
「京都府警本部・刑事部・捜査第一課の巡査部長・藤田誠ですか・・・。」と名刺を見ながら光彦が言った。
「捜査一課と云うことは殺人事件ですかね。」と鳥羽が言った。
「鳥羽、ここは地下だから外に出て行って携帯で新聞社に電話して、藤田刑事が関係している事件について確認をしてくれないか。」
「表に行かなくても、ここで携帯は掛けられますよ。携帯電話用のアンテナ線をこの部屋の中まで引き込んでありますから。」と警備員が言った。」
鳥羽は大毎新聞・和歌山支局長の島谷に電話して、事件の確認を依頼した。そして、折返しの電話で藤田部長刑事が向日市の『連続毒殺疑惑事件』を担当していることを告げられた。まだ、殺人事件とは断定されていないとの事であった。
「京都府向日市で発生した毒殺疑惑事件を担当しているのか。ふーん。」と考えるように光彦が呟いた。
そして、老人が十一時半過ぎに玄関ホール出ていったのを確認した。
次の日の映像も同様であった。
「ほぼ一時間くらいここに居ましたね。何を観ていたのでしょうかね?」
「監視カメラ映像では判りかねます。」
「藤田刑事が確認したのは何日の映像ですか?」
「六月十七日と十八日だったと思います。USBメモリーにその日の映像データのコピーを入れてお持ち帰りになりました。」
「その日の映像を見せていただけますか?」と光彦が言った。
「はい。お待ちください。」と言って、警備員はパソコンを操作してまず、六月十八日の映像を出した。
時刻は午前十時十六分に老人が玄関エントランスホールに入って来た。そして、老人が午後二時三十八分にエントランスを出て行く時点で警備員は映像を止めた。
「来館してから帰るまで四時間と二十二分ですか・・。約四時間以上も館内に居たことになりますね・・。」と警備員が言った。
「この老人は何の展示を閲覧していたのか判りますか?」と光彦が館長に訊いた。
「残念ながら、展示室内にある監視カメラ以外の場所では、どこで、何をご覧になっていたのかは不明です。監視カメラのある場所ではさらりと展示をご覧になっただけでした。時々、職員が館内を巡回しますが、老人を意識していないので誰がどこで何をご覧になっていたのかは判りません。藤田刑事にもそれはお話しました。しかし、かなり、じっくりと、見学されていたのでしょうね。想像ですが、映像を投影する展示場の隅に椅子が置かれており、そこに座って居眠りをされていた可能性が考えられます。時々、眠っている人が居られます。特に、暇つぶしで来場されている中年以上の方に多いですね。」と但馬が言った。
「藤田刑事は何か言っていましたか?」
「居眠りの件は何もお話にはなりませんでした。ただ、エントランス以外に外部に出て行く通路はあるかどうかをおたずねになりました。非常口がありますが、盗難を避けるために非常時以外は鍵を掛けています。そこから老人が外へ出て行ったとは考えられません。」
「鍵を持っていれば外に出られるのですね。」
「はい、出られます。しかし、警備室の警報ベルが鳴りますから、警備員には非常口が開いたことが判ります。当日はそのようなことはありませんでした。」
「そうですか。この日には期間限定の企画展示などを行っていましたか?」
「六月十七日ですね。はい、『熊野古道と天皇・公家の熊野参詣』というテーマで企画展示を行っていました。展示品は文献写真や熊野古道の要所、熊野本宮大社の神宝などの写真展示が主なものでした。現在は展示していません。」
「時代範囲はどの時代でしたか?」
「ほとんどが平安時代ですが、鎌倉時代から江戸時代の天皇の話もありました。」
「平安時代と云えば、花山天皇の話などもありましたか?」
「もちろんです。花山天皇に関しては、上皇時代の西国三十三ヶ所観音霊場巡りなどの話も展示しました。」
「西国三十三ヶ所の観音霊場ですか。」と呟きながら、光彦は花山天皇の前世が修験道の行者であったと云う盛尾教授の話を思い出していた。
続いて六月十七日の映像を光彦たちは確認した。
その老人は午前十時十八分に来館し、十一時十分に玄関ホールから出て行っていた。滞在時間は一時間足らずであった。
その後、事務所の応接室でお茶とお菓子をご馳走になり、館内展示を簡単に見学して、光彦たち三人が今城塚古代歴史館を後にしたのは午後五時前であった。
光彦と鳥羽と三千惠の3人が乗ったソアラは名神高速道路の茨木インターチェンジに向かって西国街道と呼ばれる国道171号線を西に向かって走っている。
助手席に座っている鳥羽が車載ラジオのスイッチを入れた。
スピーカーから堀内孝雄の歌う『影法師(作詞:荒木とよひさ、作曲:堀内孝雄)』の曲が流れている。
♪・・・・・・・・・・・♪
♪淋しさこらえた、お前の横顔♪
♪・・・・・・・・・・・♪
♪逢いたい人なら・・・・♪
♪この瞳をつぶって♪
♪・・・・・・・・・・・♪
♪淋しい背中が、お前の人生♪
♪過去をひきずる♪
♪そんな 影法師・・・・♪
♪・・・・・・・・・・・♪
名神高速から近畿自動車道、阪和自動車道を通って三千恵の居住する藤白神社まで戻ってきたのは午後八時前であった。そして、そこから田辺市内の小料理『浜屋』に到着したのは午後九時。浜屋で夕食をしてから大毎新聞田辺通信部に戻ってきたのが午後十時を過ぎていた。
第十章 思い出の写真
光彦が宿泊部屋で『義麿ノート』を開いた瞬間、携帯電話の呼び出し音が鳴った。携帯の画面には自宅の文字が浮かんでいる。
「家からか・・・。こんな時間に電話を寄こすのは兄さんしかいないな。」と思い乍ら、光彦は携帯の通話ボタンを押した。
「はい。光彦です。」
「陽一郎だ。」と不機嫌そうな声がした。
「はい。兄さん、何か急用でも?」
「何時、家に帰って来るつもりだ。母さんが心配しているぞ。四日か五日くらいで帰ってくると言って出て行ったそうじゃないか。和歌山の田辺市で牛馬童子像の取材をした後、熊野本宮大社に寄って牛王神符を頂いてくるだけだと言っていたそうだな。」と語気を強めて陽一郎が言った。
「いえ、こちらに来てから頼まれ事が発生したものですから、もう少しかかります。」
「頼まれ事? 殺人事件じゃないだろうな。母さんが謂うには、大阪であった和歌山県海南市の不動産関係の社長と従業員が殺された事件に首を突っ込んでいるのではないだろうか、ということだが。そうじゃないのか?」
「あっ。いえ、違います。兄さん。」と光彦は一瞬戸惑った返事をした。
「何が違うのだ?」
「『旅と歴史』の藤田編集長から電話で依頼があり、石清水八幡宮と京都の料亭で取材することになったのです。」
「京都に寄るくらいなら一日あれば充分だろ。六日で帰って来られるじゃないか。お前が東京を出て行ってから今日で八日目が過ぎた。いま、何処にいるのだ?」
「今回の旅行では、田辺市の大毎新聞通信部に宿泊しています。」
「まだ、牛馬童子像の頭部損壊事件尾取材をしているのではあるまいな。」
「あっ、いえ、そうです。その切り取られた頭部が高槻市の今城塚古墳公園に放置されていたのが発見されたのです。それに関係して色々と取材調査しているものですから。」
「何を調査するというのだ。頭部が見つかっただけで、調べる対象がハッキリするとは思えないがな。警察の殺人事件でも、関係者以外、なかなか調査対象は見つからないものだ。ましてや、素人のお前が動くべき対象などあるはずがない。嘘をつくのも程々にしろ。本当のことを白状したら如何なんだ。」
流石、警察庁刑事局長の浅見陽一郎である。相手の話具合から嘘を見抜く嗅覚には鋭いものがある。
「すいません。兄さんを騙すつもりはなかったのですが、母さんに心配かけてはと思ったもので・・。」と悪びれた様子もなく光彦が言った。
「やはり、大阪の天満橋署の事件か?」
「はい、そうです。殺された鈴木義弘社長の奥様から犯人を見つけてほしいと相談されたものですから。」
「お前はもう犠牲者の親族と関係しているのか。」と呆れたように陽一郎が言った。
「いえ、牛馬童子像のある田辺市の市役所に勤めておられる方で、僕の学校の後輩である大毎新聞田辺通信部にいる鳥羽と云う男の知合いでして、それで紹介されたものですから。鈴木真代と云う方です。」
「大阪府警に迷惑を懸けていないだろうな。」
「もちろんです。常々、兄さんから言われていることには注意を払っていますから。」
「迷惑を懸けないために、すぐに帰ってきたら如何なんだ。」
「被害者の親族のお願いを無視しろと言うのですか、兄さんは。」
「無視じゃなくて、丁重にお断りをしたら、と言っているのだ、丁重にな。」
「それでは、警察人として恥ずかしくないですか、兄さん。」
「何が恥ずかしいのだ。」
「そうじゃないですか、犠牲者の親族の気持ちを汲まない警察、と世間では悪評が飛んでいますよ。」
「そんなことはない。親族には丁寧に対応するように警察署の現場には通達を出している。」
「それなら、警察人である兄を持つ僕も被害者には丁重に接しなくては、警察庁刑事局長に申し訳がたちません。」
「理屈を言うな。もう、困った奴だな、全く。大阪府警には迷惑を懸けるなよ。まあ、今までにも事件解決の糸口を見つけた実績がお前にはあるから、大目に見るしかないか・・・。」と諦めたように陽一郎が言った。
「兄さん、その大阪府警に迷惑を懸けないために、一つ教えてほしいことがあるのですが。僕が調査で動き回って犯人に逃亡されると困るでしょうから。」
「また、それか。事件を引っ掻き回すなよ。それで訊きたい事とは何だ。」
「死んだ鈴木義弘さんのご遺体か、あるいは関係先で熊野古道に関係する写真とか、手紙とかが発見されていませんか?」
「何故にそう思うのだ?」
「大阪府警の岩永部長刑事が鈴木真代さんが言った『熊野古道』の言葉を聞いた時にビクッとされたそうです。そして、牛馬童子像の頭部損壊事件にも興味を示されていたそうです。そのことを考えると、写真か何かが捜査線上に浮かんでいると推理したのですが・・。」
「お前は、普段はボケっとしているが、殺人事件になると感が鋭くなるな。」
「お父さんからの遺伝ですかね・・・。」
「まあ、それはどうでも良い。遺体のポケットにあった札入れから写真が出て来た。」
「どの様な写真ですか?」
「戦前に撮られた古い写真で、牛馬童子像の横で男の親子二人が立っている写真だ。写真の裏に『昭和二十年四月十日、竹さん親子と熊野古街道にて』と万年筆で書かれていたそうだ。万年筆の文字はインクが滲み、読み難くなっていたが、文字の凹み具合を検出して、書かれた文字が判明したらしい。竹さんの竹は、松竹梅の竹の字だ。」
「竹さん親子と牛馬童子像が写った写真ですか。親子の年齢はどのくらいですか?」
「大阪府警からメール添付データで送られてきた写真から判断すると父親は五十歳代、子供は十歳前後かな。わたしの見立てだがな。」
「そうですか。」
「それじゃあな。くれぐれも大阪府警には迷惑を懸けないようにな。」
「あっ、兄さん。もう一つ質問があるのです。」
「まだあるのか。何だ。」
「今度は京都府警に迷惑を懸けないための質問です。」
「京都府警の何だ。」と怒ったように陽一郎が言った。
「向日市で発生した『連続毒殺疑惑事件』の参考人に老人が浮かんでいると思いますが、その人のなまえと住所を知りたいのですが。」
「毒殺事件にも首を突っ込んでいるのか。困った奴だな。」
「いえ、毒殺疑惑事件ではなく、こちらは牛馬童子像の頭部損壊事件の調査に関係しているのです。」
「そうか。名前は、竹島伸一。竹は先ほどの竹さんの竹。島は英語のアイランドの島。伸一の伸は、人編に申すと書く伸。一は数字の一だ。」
「竹島伸一ですか。竹さんの竹ね。」
「そうか、写真の竹さんは竹島と云うことか?」と陽一郎は呟いた。
「それは、これからの警察の捜査で判明するのではないですか?竹下とか竹中だとか竹岡とか、竹さんは色々いますからね・・・。」と云いながら、「竹さん親子が竹島伸吾郎の親子であれば、話は如何いうことになるのだろうか?」と光彦は考えを巡らしていた。
「それじゃあな。くれぐれも警察署には迷惑を懸けないようにな。切るぞ。」と言って陽一郎は受話器を置いた。
翌日の朝、京都府警本部刑事部捜査第一課に出勤した藤田誠部長刑事が廊下にある自動販売機で缶コーヒーを買って自分の席に戻ってきた。
「藤やん、ちょっとこっちへ来てんか。」と言って遠藤達雄課長が藤田を手招きしながら呼んだ。
「何でんねん、課長。」と言いながら席を立って課長の事務机のほうへ藤田が歩いていく。
「向日市の毒殺疑惑やが、あれ、事故死の方向にならんか。」
「課長、そらあきまへんわ。まだ、白黒ついてまへんから。もうちょっとかかりますで。また、経費節減を考えてまんのやろ。」
「捜査はどこまで行っとるねん。今日で何日目や。六月十九日が遺体発見で、今日が七月十五日やから・・。ほぼ一か月過ぎてるがな。」
「捜査はそう簡単に進まん事ぐらい課長も知ってますやろ。今は害者の周辺調査を進めてるとこですわ。そこに座っとる中村と私の二人しか捜査に関わってないんでっさかい、こんなもんでっせ。」
「そいで、その周辺調査は如何なっとるねん。」
「遺体の知合いの竹島伸一のアリバイらしきものは確認しましたが、田中健吾のアリバイが確定しませんのや。本人の記憶が曖昧でしてな。新京極にあるどこかの居酒屋で飲んでたとか言うてますが、店の名前を覚えてまへんから、新京極の居酒屋をいろいろ当っても、店の者は判らん言いよるし、さっぱりですわ。」
「他に参考人はおらんのか?」
「田島兼人という不動産業者がおりますが、事件発覚の二日後から海外旅行中ということですわ。旅行業者の話では、とっくに帰国しとるらしいが、自宅には帰っとりません。」
「そら、怪しいな。」
「怪しいけど、所在が掴めんので動き様がありませんわ。」
「そら困ったな。ところでな、藤やん。」
「何でんねん。」
「さっき、刑事局長から電子メールが来よったんや。」
「刑事局長云うて、警察庁の浅見はんでっか?」
「そや、その浅見さんからや。この前、連続毒殺事件発生の簡単な報告を電子メールでしたんやが、その件で調べて観ろとの指示や。」
「浅見はんがこの府警で組織犯罪対策課の課長してはったんは何時頃でしたっけ?」
「そやな、あれは1994年か1995年頃の年末やったかな・・・。その年の秋にヨーロッパのオーストリアの出張から帰って来たばっかりで、直ぐに警察庁から京都府警に新設した組織犯罪対策国際課の課長に就任しはったんや。」
「何か、戦後の事件をよう調べてはったな。刑事になったばかりの私も時々、祇園なんかに同行させられましたな。」
「その話は禁句やで、藤やん。」
「判ってまんがな。それで課長、何を調べまんねん。」
「竹島伸一の戸籍と経歴や。それと、大阪の天満であった殺人事件の捜査本部へ行って、事件の詳細を確認して来いと云うこっちゃ。」
「天満の事件云うて、海南市の不動産業者と従業員が殺された事件でっか?」
「そや。何でも、『竹さん親子』とかが写った写真を遺体が持ってたらしい。浅見さん曰くやな、その竹さんが竹島ではないか、と云うこちゃ。」
「竹さんが竹島かどうかを調べろということでっか・・・。それやったら、大阪府警がこっちに来るのんが筋とちゃいまっか?」
「まあ、そうかもしれんが、刑事局長の言うこっちゃから、言うこと聞いとかなあかんわな。藤やんが、事件性は無いと言うてくれたら、調査せんで終わりになるんやがな・・・。」
「そらあきまへん。警察は事実をはっきりさせんと市民から信頼を失いまっせ。課長かて、判ってますやろ。」
「判ってるから困ってんのやがな。予算の乏しい中で捜査の経費を捻出する課長の苦労を判ってや、藤やん。頼むで。」
「判ってまんがな、課長とは長い仲やよって、経費は抑えまっさかい、任しとくなはれ。」
「ほんまやで。頼むで。そいで、捜査本部は天満橋署にあるらしいで。」
「ほな、さっそく大阪府警の天満橋署へ行ってきますわ。課長、相手の課長に電話を入れとってくださいね。」
「ああ、判っとるわ。ほな、あんじょう頼むで。」
藤田部長刑事は、缶コーヒーを一気に飲んで、若手の中村刑事と出かける準備を始めた。
第十一章 向日市の連続毒殺疑惑事件
京都府向日市は大阪市内や京都市内に勤める人々のベッドタウンとして人口増加に伴い一九七二年(昭和四十七年)十月に町制から市制に移行した。それ以前は京都府乙訓郡向日町として大阪府三島郡島本町に隣接している長岡京市の北側に隣接する小さな町であった。関西圏では一九五〇年に開設された向日町競輪場が有名であったため、『むこうまち』の名前が残されている施設が多い。例えば、JR向日町駅、向日町警察署、向日町郵便局、そして向日町競輪場などがある。関西人の間では向日町の方がなじみのある呼称である。また、古には山城の国乙訓郡があった地域であり、長岡京の一部でもあった。町制時代は京都府乙訓郡向日町が住居表示に使われていた。市内にある元稲荷古墳は卑弥呼の墓とされる箸墓古墳と同時代の三世紀後半の前方後方墳で墳丘長さが94メートルある。後方丘部に稲荷社があったことからこの名が着いた。
向日市の連続毒殺疑惑事件は牛馬童子像の頭部が切り取られて無くなっているのが発見された六月十九日と同じ日に二つの遺体が別々の場所で発見されていた。
一件目は、阪急電車京都線の東向日駅前にある不動産業者の事務所内で店主が石川県特産の『フグ卵巣の糠漬』を食べて中毒死していたのを午前九時過ぎに出勤してきたアルバイト従業員が発見した。事務所内の応接テーブルの上には日本酒とフグ卵巣の粕漬が残されていた。また、棚の中には錠剤睡眠薬が入った瓶が置いてあった。店主の名前は谷下満男五十二歳。自宅は高槻市内にあり、妻子があった。検死解剖の結果、死亡推定時刻は六月一八日の午後七時から午後九時の間とされた。アルバイト従業員は金曜日から日曜日までの三日間が出勤日であり、十八日木曜日にあったことは判らないと云う証言であった。
二件目は、東向日駅から五百メートル離れたところにある向日町競輪場近くで、物集女街道沿いにある寿司屋『いしかわ』の主人が『フグ卵巣の糠漬』を食べて死んでいた。午前十時前に出勤した板前従業員が店内の床に転がっている主人を発見した。店内の四人掛テーブル上には白ワインとフグ卵巣の粕漬と錠剤睡眠薬の瓶が残されていた。主人の名前は高山史郎五十四歳、独身で店の二階が住居であり、遺体発見の前日の十八日は木曜日で定休日であった。死亡推定時刻は六月一八日の午後五時から午後七時の間とされた。
そして、フグ毒の性質から考えて、いずれの遺体もフグ毒が体内に入った時刻は六月十八日午前九時から午後二時の間と予想された。
また、死んでいた二人は店舗を閉めて競輪場へ通うことがたびたびあり、昼間に店が閉まっていることも多かったという近隣住民の証言であった。
本来、『フグ卵巣の糠漬』は2年以上に亘って塩漬け及び糠漬けにされたフグの卵巣であり、フグ毒は消滅している食品である。しかしながら、現場に残されていた『フグ卵巣の糠漬』からは濃度の高いテトロドトキシンが検出されていたが、製造した会社からは有り得ないとの返事が返ってきていた。それでは糠漬けへの毒物混入経路はどのように考えるのかと云う点が殺人事件と中毒事故の分かれ目であり、疑問点として残った。いずれの現場でも、販売時の透明のビニール袋は開封され、取り出された糠漬の切り身が皿に盛られており、ビニール袋には注射針などの穴は見受けられなかった。
いずれの遺体からもフグの毒であるテトロドトキシンと非ベンゾジアゼピン系の睡眠薬の成分が発見された。マイスリー錠剤などの非ベンゾジアゼピン系の睡眠薬は常用していなくても睡眠効果が現れる睡眠薬である。死亡した人物が何故に睡眠薬を飲んだのか、常用していたのか如何かが疑問点であった。
京都府警の遺体解剖による検視結果は毒物による循環器系の痙攣が発生し、呼吸不全による窒息死であった。いわゆるフグ中毒死である。検視による死亡推定時刻は六月一九日の午前1時から午前3時の間とされた。
フグ中毒では食してから三十分から三時間後くらいから中毒症状が現れるが、すぐに死亡することはない。症状が現れてから救急車を呼び、人工呼吸器による治療を行えば助かるが、放置されると死に至る。毒が強くて死亡する場合は食後四時間から八時間以内と謂われている。フグ毒は八時間を過ぎると毒性がなくなるとされている。昭和五十年ころ歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎が好物のフグの肝をたらふく食べて中毒死した事件が有名である。また、昭和六十一年にあったトリカブト保険金殺人事件ではトリカブトの毒とフグの毒を混ぜ合わせ、二つの毒の拮抗作用を利用して、トリカブトの毒が効果を現す時間を遅らせてアリバイ工作を行ったとされる。
中毒症状を起こしている間に体を束縛されていた形跡がない点を考慮した鑑識課からは殺人事件との断定は不明との報告書が上がっていた。また、藤田部長刑事、中村刑事による聞き込み調査で判明したのは次のような事であった。
死亡した不動産業者の谷下満男は向日町競輪場近くのパチンコホール『ジャン』によく出入りしており、竹島老人とホールの休憩場で話しているところをたびたび目撃されていた。
また、死亡した高山史郎は競輪ファンで向日町競輪場にはよく通っていたという。競輪場内の観覧席や投票所等には監視カメラが合計で十数台あるが、高山の映っている録画映像には友人と思われるような人物と一緒にいる姿は見つからなかった。寿司屋『いしかわ』の近隣住民による目撃証言では行方不明の不動産業者・田島兼人五十三歳と谷下満男がしばしば寿司屋『いしかわ』で食事をしていたと云う。田島兼人の不動産店舗はJR向日町駅と東向日駅に通じる道路に面しており、谷下満男とは業務上の競合関係にあるが情報交換なども行っていたようである。
また、藤田刑事たちは廃品回収業者で東向日駅前にある総合病院でアルバイト清掃員をしている田中健吾も向日町競輪場や淀競馬場、そしてパチンコホール『ジャン』によく通っており、死亡した不動産業者・谷下満男とホールの休憩場でよく話していたとホール従業員の証言を得ていた。
京都府警本部庁舎は京都御所(御苑)の西側を南北に走る烏丸通りから二筋西側の新町通りと東西に走る下立売通りの交差点北西角にある。藤田と中村は本部庁舎からパトカーで京阪電鉄鴨東線の出町柳駅まで送ってもらい、淀屋橋行き快速特急電車に飛び乗り、大阪市内の京阪本線天満橋駅まで五十分くらいで到着した。時刻は午前十時半ころであった。二人は鈴木義弘の遺体が浮かんでいた八軒家船着場を確認した後、大川に架かる天満橋を渡り天満橋署に歩いて向かった。
そして、捜査一課の応接室で松永部長刑事から事件の捜査状況の説明を受けた。
「京都からわざわざ出て来てもろて、ご苦労さんでんな。」と松永が言った。
「まあ、お互い様ですわ。今日はよろしゅう頼んます。」と藤田が言った。
「そいで、どっからはじめましょか?」
「最初に『竹さん親子』の写っている写真を見せてもらえますか?」
「これがそうです。」と言って松永が白手袋をはめてから証拠物件の入った段ボール箱から五センチ四方の小さな写真を取り出して応接テーブルの上に置いた。
「また、古そうな写真でんな。」
「裏に万年筆で昭和二十年四月十日、竹さん親子と熊野古街道にて、と書かれてたようです。水に濡れてインキが滲んどりましたが鑑識課が文字の凹み検査して判明しました。」
「昭和二十年云うたら終戦の年でんな。」と写真の裏を中村に見せながら白手袋をはめている藤田が言った。
「そうです。三月と五月には大阪と神戸にB29の焼夷弾爆撃があった年ですわ。」
「このボン、うれしそうに笑ろてまんな。よっぽど楽しかったんやな。」と藤田は写真に写っている子供の気持ちに思いが向いた。
「そのようですね。」と中村刑事が相槌を打った。
「この横に立っている小さな石像は何でっか?」と藤田が訊いた。
「牛馬童子像と云うて、明治時代に建てられたものやそうです。まあ、平安時代の花山天皇の子供時代の姿とも謂われているようです。横の石像は役行者だと謂われています。同じく明治時代に建てられたそうですが、牛馬童子像の方が後で建てられたそうです。」
「先だって、頭部が切り取られて持ち去られたと云う、あれでんな。」
「そうです。つい先日、その頭部が高槻市にある今城塚古墳公園で発見されたそうです。埴輪の群の間に置き去りにされていたのを新聞配達員が発見したそうです。」
「犯人が処遇に困って置いて行ったんでしょうかな?」
「まあ、そんなとこですかな。」
「それで、竹さん親子の素性は判明しましたんか?」
「それは、まだですわ。事件に関係するかどうかも不明です。」
「鈴木義弘の遺族に見せましたんか?」
「いや、見せてまへん。」
「何んででっか?」
「じつは、大毎新聞の記者が遺族の付き添いで来とりましてな、変に情報を流して記事にでもなったら、他社からクレームが来ますよって、鈴木夫人への事情聴取の時点では伏せました。また、夫人と記者が知り合いと云うことなんで、今後もタイミングを見はからって質問せなあかんと思うとります。」
「新聞記者でっか。ほんま、スクープ合戦には参りますな。」
「そうでんがな。警察を差し置いて、自分らで情報集めをしよりまっさかい、邪魔でしょうがありませんわ。害者の奥さんが熊野古道の名前を出したおりにはギクッとしましたわ。」
「何でそんな名前が出てきよったんでっか?」
「害者が殺される二日前に奥さんと食事をしとったらしいんです。その時に熊野古道について話していた男がいると害者が話したそうですわ。」
「鈴木義弘は熊野古道のどんな話をその男としてたんでっか?」
「それが、奥さんもはっきりした内容は聞いてないと云うことでした。ただ『今頃になっておかしなことを・・・』と発言したそうですわ。」
「その男が、今頃になってどんな話を蒸し返しよったんかですな?」
「まあ、そんなとこですわ。」
「この写真のこと、鈴木義弘が持っていたとは言わずに、鈴木未亡人に私らが見せてもよろしいですかな?」と藤田が訊いた。
「こっちの事件に関係ないということでなら構いません。私らも知りたいとこでっさかい。渡りに船ですわ。うまいことやってもらえますか。後で写真のコピーをお渡ししますわ。」
「おおきに。」
「死亡した義弘と妻の真代は海南市と田辺市で別居中との情報が海南署からありました。それで二人は仲が悪いのかと思いまして、一応、真代が犯人である可能性を考え、参考人事情聴取をしましたが、怪しいところはありませんでした。」
「別居の理由は何でっか?」
「義弘の父親が死亡して、その父親が経営していた八紘昭建と云う海南市にある不動産管理会社を義弘氏が引き継いだんですわ。それで、義弘が田辺市から海南市の実家に戻っていたようです。」
「そうでっか。」
「あと、我々が追いかけている不審人物がおりますが、正体が全く分かっておりません。」
「どんな人物でっか?」
「死んだ鈴木義弘の家がある場所は海南市の藤白神社の横なんですが、その神社の巫女が五十歳くらいの不審な男を目撃しとります。」
「中年男でんな。」
「戦前は摂津地域の大地主であった鈴木家の旧屋敷が神社の境内にありましてな、その家を見学た時に鈴木家のことも訊いて行ったそうです。」
「鈴木家に興味がある男ですな。」
「また別の日に、その男と毛馬水門で遺体が発見された松江孝雄が神社の鳥居のとこで会うてるのをその巫女が目撃しよりました。そしてその後、鈴木義弘の葬儀があった日に鈴木家に空き巣が入りよったんですわ。」
「何か盗まれましたか?」
「それが、金銭関係は無事でしたが、床の間に飾ってあった信楽焼の壺が違うものとすり替えられてましたんや。」
「壺を取り換えて行ったコソ泥でっか・・・。」
「そうですねん。何が狙いやったんか、さっぱりわかりまへんわ。」
「壺に何か知りたい事でも書いてあったんと違いまっか。」
「まあ、鈴木夫人やその壺のことを知っている人は、それらしいことが書いてあった記憶はないと言っているようです。」
「高価な骨董品の古設楽やったとかは?」
「それもないそうです。何でも、義弘氏の祖父さんが京都大学の先生から戦前にもろた物やそうですわ。」
「大学の先生からやったら、安物に決まっとるな。そのコソ泥には何がよかったんやろな・・・?」
「ほんま、よう解らん泥棒ですわ。そうそう、松江未亡人から事情聴取する時もその大毎の記者が付き添いで来とりましたな。新聞記者は同席したら困るというたら、同じく付き添いで東京から来とった雑誌のルポライターが同席しよりましたんや。こんどの事件はやり難うてしょうがありませんわ。」
「雑誌社のルポライターで、わざわざ東京から来たんでっか。」
「フリーのルポライターや言うとりました。確か、牛馬童子像の頭部損壊事件について旅行関係の雑誌社に記事を書く予定だとか言うとりましたな。一応、その雑誌社に電話してそのライターの身元確認をしましたわ。」
「その男の名前は何と?」
「浅見とか言うとりましたが、怪しいとこはないので同席させましたが、ほんま、邪魔でしたな。」
「浅見はんでっか・・・。」と藤田は呟きながら「確か、刑事局長の浅見はんの弟さんもルポライターやったな。名探偵と謂うこっちゃが、弟さんは歴史関係の雑誌のルポライターとかやったから、この人間とは違うか・・・。まあ、似た名前はあるからな。」と思った。
「そいで、そっちの事件と云うのは毒殺疑惑事件と云うことですが、どんな事件ですねん?」と松永が訊いた。
「向日町競輪場の近くの不動産屋と寿司屋の主人が同じ日に自分の店で『フグの卵巣糠漬け』を食べてフグ中毒で死んだんですが、本来、糠漬けの中には毒素は消滅しているはずなんですわ。それが、それぞれ、どちらの遺体からも毒素のテトロドトキシンと睡眠薬の成分が発見されたんですわ。もちろん糠漬けからも毒素は検出されておます。」
「睡眠薬を飲んでたから救急車も呼ばれへんかった云う訳かいな。」
「まあ、そうやけど、害者が睡眠薬を常用してたかどうかがハッキリせんし、それがハッキリせんと事件か事故かを決められん訳ですわ。」
「遺体には縄とか紐とかで拘束されていたような痕跡はなかったんかいな。」
「なかったんですわ。遺体があった現場の状況も縛られたような痕跡はなかったんですわ。」
「それで、『竹さん親子』との関係は何ですねん。」
「参考人が三人浮かんでますのや。そのうちの一人が竹島伸一いうんですが、この写真の子供が竹島伸一かどうか、警察庁刑事局長の浅見はんが調べて観ろ、と言うてはりまんのや。」
浅見の名を聞いて松永刑事がギクッとした。
「刑事局長云うて浅見と云いまんすのか?」
「そうですわ。」
「浅見、浅見、確か浅見光彦とか言いよったな、あのルポライター。」と松永が呟いた。
「何、浅見光彦でっか!」と藤田が思わず声を上げた。
「如何かしましたか?」
「あかん。それ刑事局長の弟さんや。名探偵と謂う噂や。」
「なんやて。弟。刑事局長の・・・。」と松永が絶句した。
「なんか、失礼なことせんかったやろな、松永はん。」
「まあ、それなりに対応しよったから問題ないと思うけど・・・。」
「まあ、済んでしもた事はしゃあないわな。それで解ったわ。刑事局長が竹島伸一を調べろと言いはった訳がな。」と藤田が納得したように言った。
「浅見光彦さんに謝りに行かなあかんかな。」
「謝りに行く言うて、どこへ行きますねん。」
「和歌山の田辺市へ。」
「弟さん、田辺市におるんかいな?」
「そう。大毎新聞の田辺通信部に宿泊中とのことやったわ。」
「まあ、わざわざ謝りに行くこともありませんやろ。そのうち、どっかでまた出くわしますよ。探偵さんやから、いろいろ調べてんのとチャイますか。被害者の遺族と行動を共にしてるのやからね。」
「そうですかな・・。」と松永が力なく言った。
その時、出前を持った蕎麦屋の若い店員が入ってきた。
「岩永さん、お待ちどう様です。」
「おお、来たかいな。」
「天丼三つでしたね。」と店員は言いながら、どんぶりとお新香の小皿を三つづつ出前箱から取り出して応接テーブルに置いた。
「何んぼや?」
「警察割引ですから、千八百円ですね。」
「ほな、これ。」と云って岩永は財布から千円札二枚を取り出し店員に渡し、二百円の釣銭を受け取った。
「わざわざ大阪まで出て来てもろておおきに。お昼、これからでっしゃろ。食べて行っとくなはれ。」
「あっ、それは困りまんがな。」と手を横に振りながら藤田が遠慮して言った。
「まあ、よろしいがな。私の捜査経費から落としますよって、遠慮のう食べとくなはれ。」
「そうでっか。助かりますわ。この後、向日市役所に行かなあきまへんから、時間が節約できて助かりますわ。ほな中村、遠慮のう頂こか。」
「ありがとうございます。」と中村が松永に向かって言った。
「今、お茶を持って来させますわ。」と云って松永は応接を出て行った。
三人で食事をした後、藤田と中村は松永の見送りを受け、天満橋署を辞して地下鉄堺筋線・南森町駅まで歩き、地下鉄で阪急電車京都線・淡路駅で乗り換えて東向日駅に向かった。
向日市役所は向日町競輪場の近くにあり、東向日駅から徒歩十五分くらいで二人は市役所に到着した。
「刑事さん、竹島伸一さんの住民登録は有りませんね。」と市役所の住民課職員がパソコンを操作しながら言った。
「無い?」
「はい。竹島姓の世帯は全部で十五戸ありますが、そのいずれにも伸一さんは見当たりません。ご指定の久世殿城町の住所地には竹島姓の世帯は有りませんが。年齢はおいくつの方ですか?」
「本人は八十一歳とか言うとったけどな。」
「八十一にしては老けて見えましたね。私には九十歳くらいにしか見えませんでしたが。」と中村が言った。
「八十一歳ですか・・。」と言いながら職員はパソコンを再操作した。
「竹島姓で八十歳前後の方はおられませんね。」
「どちらの自治体の出身の方か知りませんが、そちらで調べられた方がよろしいかと思いますが。」
「そうでっか。いや、お世話様でした。おおきに。」と藤田が職員に礼を言った。
「中村。これから竹島伸一のマンションへもう一度行くぞ。」
「タクシー呼びますか?」
「いや、ここから歩いても三十分くらいやろ。歩くで。」
藤田と中村はJR向日町駅の東側の久世殿城町にある六階建てのマンションまで歩いた。南側に五十台収容可能な駐車場があり、各階八室、合計四十八室の鉄筋コンクリートの建物である。部屋の大きさは2LDKである。マンションの玄関扉はオートロックの左右開閉式である。玄関の横壁にテンキー押し釦式の呼び出しホンがある。
中村刑事が3、0、1とボタンを押して呼び鈴を鳴らしたが、部屋から返事はなかった。
「留守のようですね。」と中村が言った。
その時、買い物から主婦らしき若い女性が帰って来た。そして、ポケットから鍵を出して玄関扉を開けた。
「すいません。京都府警の者ですが。」と言って、藤田が身分分証の警察手帳を見せた。
「はい?」
「301号室に行きたいので、入らせてもらいます。」
「あっ、はい。どうぞ。」
二人と主婦はエレベータに乗り込んだ。
「3階ですね。」と言って主婦はエレベータの降階ボタンの3番と5番を押した。
3階で降りた藤田と中村は301号室の入口扉横にある呼び鈴を押す前に中で音がするかどうか、聞き耳を立てた。しかし、何も聞こえ無いので、扉横にある呼び鈴を押した。
『ピン、ポーン。』と音はするが返事がない。
「矢張り、居らんか。」
「そのようですね。」
藤田が扉横にあるパイプスペースの鉄扉を開けて電気メーターを観た。
「メーターの回りが遅いな。電気が消えてるようやな。」
「そうですね。留守ですね。」
「確か、京都市内の二条寺町上ル要法寺前町で骨董品の店をやってるとか言うとったな。」
「はい。そうです。屋号は信楽堂とか云う名前でした。」
「信楽堂か。電話番号は判るか?」
「待ってください。」と言って中村は手帳を取り出してメモを見た。
「この番号ですね。電話してみます。」といって中村は携帯電話を取り出し、呼び出してみた。
「出ませんね。」
「会社へ帰る途中やから行ってみるか、その信楽堂へ。」
「はい。」
「帰る前に、このマンションの管理会社の名前をメモしとけ。玄関に無人の管理人室があったやろ。あそこに書いてあるはずや。明日、そこに行って竹島伸一のことを調べなあかん様に成るかも知れんよってな。」
第十二章 信楽の古美術
阪急電車京都線の東向日駅から普通列車に乗車して終点の四条河原町駅で二人の刑事は降車し、歩き始めた。四条寺町から新京極の商店街を抜け、本能寺前を通り、御池通りを渡って、京都市役所横を通り抜けて二条寺町交差点の西北に位置する要法寺前町の寺町通りに面した信楽堂に二十分足らずで到着した。時刻は夕方の四時ころであった。
「小さな店ですね。」と中村が言った。
和風の二階建て建築で間口は三メートル程度、奥行きも七メートル程度であった。隣の家が店の裏側に広がっており、もともとは隣の家の庭であった場所に建てたのではないかと思われる雰囲気がある。隣の家との間には幅七〇センチ程度の細い路地が設けられている。
高さ一メートル・幅一メートル足らずのガラス窓の内側に直径五十センチくらいの丸い壺が一個飾られている。入口の扉は幅一メートル程度の木製の格子が入ったガラス窓のついた引き戸で出来ている。
引き戸と庇の間に『古美術 信楽堂』と横書きされた木製の扁額看板が取り付けられている。
入口扉のガラス越しに中を見ると電気が消えている。
「留守かいな。」と藤田は引き戸越しに中をのぞいた。
「もう一遍、電話鳴らしてみてくれるか。」と藤田が中村に言った。
室内から電話の呼び出し音が聞こえるが、鳴りっぱなしで誰も出ない。
「やっぱり留守か。会社に戻って古物商の登録を調べて見るしかないか。」
「隣の店に状況を聞いてみます。」と言って中村は隣にある絵画商の店舗に入って行った。
そして、絵画店から出て来た中村が言った。
「やはり、七月の初め頃から店は開いていないそうです。それに、店を長期に休んだりすることも度々あるそうです。商売をやる気があるのか如何かと、隣りの主人は訝ってました。」
「そうか。休みがちなんか。まあええわ。ほな、会社に戻ろか。」
「はい。」
藤田と中村は二条通りを西に歩き。烏丸通りに出て北へ歩き、烏丸下立売のT字路交差点を西に入り、新町下立売の京都府庁敷地内にある京都府警本部に帰ったのは午後四時半頃であった。
「藤田さん、信楽堂の古物商免許は橘幸三と云う人物が代表者で登録されてます。竹島伸一じゃありません。免許申請者も橘幸三です。変更届が出された経歴は無しですね。」とパソコンを操作しながら中村が言った。
「ほんまかいな。」
「この通りです。」と云ってノートパソコンの画面を藤田に見せた。
「橘幸三の住所はどこになってる?」
「滋賀県甲賀郡信楽町ですね。」
「あほ言え。甲賀郡やのうて、今は甲賀市信楽町やろ。何年の許可申請や。」
「許可年月は昭和二十六年四月となってますな。」
「如何云うこっちゃ?」
「さあ・・・?」
「橘幸三云うて、今でも生きとるんかいな・・・。」
「あした、甲賀市で調べますか?」
「そやな。今日はここまでや。お疲れさん。」と藤田が言った。
「お疲れさんです。」
「それで、中村。」
「何ですか?」
「明日、四条にあるマンションの管理会社へ行った後、信楽町へ行くから、総務部へ行って公用車の使用申請しといてくれるか。」
「判りました。サニーでいいですか。」
「車種は何でもええけど、ナビが付いとる奴にしとけよ。」
「了解です。」
そこに、遠藤課長が管理職会議から自分の席に戻って来た。
「おう、藤やん。戻っとるんかいな。如何やった?」
藤田部長刑事が課長の席まで歩いた。
「写真ですが、昭和二十年に撮った映像ですわ。」
「えらい古いな。」
「父親と子供が並んで写っとりますが、子供の年齢が八、九歳云うとこでっかな。」と云いながら天満橋署でもらった写真のコピーを課長に見せた。
「えろう楽しそうに笑うとるがな、このボン。」
「この子が現在に生きているとしたら八十歳くらいですかな。」
「老人やな。」
「竹島伸一曰く、本人の歳は八十一ですわ。」
「そしたら、この子が竹島伸一かいな。」
「それで、竹島伸一の住民登録を調べて年齢を確かめようと思いましてな、向日市役所へ行ったんですが、住民票は有りませんでした。」
「住居の移転登録しとれへんのかい。」
「それで、古物商をやってるとか言うとったんで古物商許可を調べたんですが、これも名前が出とりまへんねん。」
「行方不明かいな。竹島伸一幽霊でござい、てっか。」
「まあ、生きとりまっさかい、幽霊とはちゃいますがね。」
「そいで、如何するねん。」
「明日、竹島の住んでるマンションの管理会社と甲賀市へ行って調べますわ。」
「何で甲賀市やねん?」
「古物商の信楽堂名義の代表者が橘幸三云うって信楽町が住所になっとりますねん。」
「そうか。まあ、あんじょう頼むで。早いとこ、事故で処理したいなあ、藤やん。」
「課長、これは長引きまっせ。」
「おいおい、今も会議で刑事部長から経費節減を言われたとこやがな。頼むで。」
「まあ、真実一路でんな。課長、あきらめが肝心でっせ。」
「あほぬかすな。俺はあきらめが悪いのが取り得や。執念深いで。」
「わてかて、執念では負けまへんで。」
「ん、もう。頼むで、藤やん。」
「判っとりますがな、課長。経費節減でっしゃろ。」
「それから、行方不明の不動産屋の田島兼人やが、所轄の西向日町署からの連絡では、石川県の出身らしいで。つい最近、所轄の刑事が高岡市の実家に帰省したそうや。その時、事件のことが気になって役所で行方知れずの田島兼人の昔の住民票を調べたり、住所地へ行って聞き込みをしたそうや。それで判ったらしい。」
「えっ。住民票の本籍地は富山県高岡市やったんと違いますのんか?」
「それがやな、ややこしいんや。両親と高岡市に住んでる時に父親が病気で亡くなったそうや。それで小さい子供であった田島兼人は母親と一緒に母方の実家がある石川県金沢市に引っ越したんやが、住所変更を届け出たが本籍地は高岡市のままにしとったそうや。そいで、就職で京都に出て来た田島は本籍地を高岡市のまま住民登録した訳や。そやから、石川県金沢市がほんまの出身地というこっちゃ。死んだ寿司屋の高山史郎も石川県出身。不動産屋の谷下満男の出生地は京都市右京区大原野村、現在の京都市西京区大原野やが本籍地は石川県になっとるらしいで。年齢と云い、出身地と云い、似とるがな。え、藤やん。」
「石川県云うたら、『フグ卵巣の糠漬』の産地でんな。」
「そう云うこっちゃ。何かあるで、こいつは。」
義麿ノート続き
今城塚古代歴史館から大毎新聞田辺通信部に戻り、兄の浅見陽一郎からの電話を切ってから、光彦が義麿ノートを読み始めたのは午後十時半を回っていた。光彦には気になっていることがあった。
「森高教授宅を訪れた義麿と竹さんのうち、竹さんにだけ教授は頼み事をしている。その間、義麿には西瓜を買いに行かせて、席を外させた。義麿には聞かせたくない何かがあったのだろう。それは何だろう。義麿ノートからそれは見つかるだろうか?義麿の通う中学は京都大学の南側にあった京都一中だから下宿も吉田近衛町の近くにあったのだろう。山村教授の自宅は東山の泉涌寺は皇室の菩提所である御寺だったな。たしか、京都駅の南東にある東福寺の東にあったな。京都大学近くにある吉田山からはちょっと距離があるな。歩くと40分から一時間位か・・・。エジプトのミイラの墓を暴いた人間は原因不明に死を遂げると謂うが、阿武山古墳のミイラもそうなのかな?一連の事件の謎を解く鍵はきっとこのノートにある。」と雑多な思いを浮かべながら光彦は義麿ノートの昭和九年の続きのページを捲った。
ミイラの再埋葬後、阿武山地震観測所の地震計測用トンネル建設が再開され、竹さんの生活も従来通りに戻り、地震研究に興味がなくなった義麿も阿武山から遠ざかり、京都市内の下宿での平穏な中学生活に戻っている。その後、昭和十年にトンネル工事が完成し、外国から輸入された地震の測定器が設置されたらしいことが義麿ノートに書かれている。
昭和十年四月に京都三高に入学した義麿は学校生活のこと等をノートに記述していた。一方、父親が京都に来たと云う記述もあった。
「五月十三日から父が車を自分で運転して京都に来ると謂ふ。河原町二条の『御苑閣』と云ふ旅館に宿泊するとの事である。京都と奈良の観光を兼ねて森高先生に僕がお世話になっていることへのお礼を申し上げたいらしい。竹さんにお願して十五日にお宅を訪問する約束を取ってもらうた。竹さんの話では、先生の病状は少し回復しているとのことである。
五月十五日、竹さんの案内で森高先生宅を訪問して来た。最近は病状も回復気味でお元気そうであった。先生のご希望で明日、父の車で奈良にある聖武天皇の佐保山南陵墓に参拝することになった。
二十六日、日帰りで森高先生、千尋さん、竹さんたちと聖武天皇の御陵に参拝した。この調子だと近いうちに先生も大学の講義に復帰されるのではないかと思われる。」
佐保山南陵は奈良東大寺大仏殿から西北西へ約千二百メートル離れた奈良市法連町と云う処にある。陵墓の入口から幅四メートルくらいの砂利道を進んで行くと、道が二股に分かれる。斜め右に進むと光明皇后の陵墓へ到達する。まっすぐ進むと聖武天皇の陵墓に突き当たる。
しかしその後、森高教授の病状が再び悪化したとの記述がノートにある。
森高教授は京都大学の理学部地球物理学講座教室には現れずに自宅での療養に努めていたが病状は回復しない模様であった。地震研究の教室に森高教授が居ないことや山村教授の勧めもあって、義麿は文学部考古学講座の山村教室にも顔を出しながら考古学の勉強を自学していることを淡々とノートに記述していた。この部分には八軒家殺人事件の謎に迫るような記述はない。
昭和九年四月二十二日に森高教授が石室を発見したことで始まった阿武山古墳発掘騒動は同年八月九日の大阪府主導の調査開始により山村教授をはじめとする考古学者、医学博士などが発掘調査を引き継いだ。そして、その二日後の十一日に新しく作られた棺もろとも遺骸のミイラは石室に再埋葬された。関係者と事前打ち合わせを充分したとはいえ、三日間という短期間の調査後直ぐに再埋葬された理由は、遺骸を冒涜することは許されないと云う宮内省や内務省等の考えが優先されたものとされた。また、関係者の会議に病をおして出席した森高教授から『余りに科学的な調査は貴人にたいする冒涜。再埋葬を希望する。』との意見が述べられ、可及的速やかな再埋葬が決議された。そして、昭和十一年三月に山村教授たちの阿武山古墳調査報告書はまとめられ、その報告書印刷中の同年七月二十日の新聞紙上に森高教授の訃報が伝えられていた。
その山村教授による報告書には森高教授の指示で関本信造レントゲン技師が撮影した棺全面と頭部のレントゲン写真のことや玉枕のことが書かれていたが、当時、新聞紙上などで噂されていた藤原鎌足の墓との説を否定した。従来通り、京都の山城宇治郡山科に鎌足は埋葬されている説を挙げている。そして、一九八二年に京都大学阿武山地震観測所の物置から発見される一九枚のミイラ骨格などのレントゲン写真原板のことは記載されていなかった。この発見されたレントゲン写真には骨折や脊椎損傷などの痕が見られ、藤原鎌足が落馬して大怪我をしたという古文献の記述に一致することから、一九八七年以降、阿武山古墳は鎌足の墓というのが現在の考古学界の通説になっている。
「七月十九日に森高教授がお亡くなりになられたと謂ふ訃報が京都大学構内の掲示板に掲げられていた。大学関係者による葬儀が烏丸今出川東入ルの相国寺で行はれるとのことである。高等学校は夏休みなので、明日から実家に帰省する心算であったが、僕も葬儀に参列することにするので帰省は延期である。
七月二十九日、森高教授の葬儀に参列した。喪服は持っていないので、学生服で参列した。喪主は奥様でお嬢様の千尋さんは奥様の横に座っていらっしゃった。受付は森高先生の教え子の皆さんが担当されていた。遺体は近親者や一部の大学関係者によって二十一日に密葬が行はれ、火葬されたとのことであったので、お見送りの儀式は行われなかった。宇宙物理や地球物理の研究をされている学者の皆さんが大勢来ておられたようである。そこで、久しぶりに竹さんと会った。立派な喪服を着ていて、元気そうであった。阿武山で木乃伊が埋め戻された後、トンネルの工事は再開され翌年に無事完成したといふことであった。工事が終わった後、人夫頭を辞めて京都市内にある骨董品を売る店の店員をしていると云うことだった。今でも高槻町に住んでいるとのことである。その家は昨年亡くなったお父様と住んでいた省線の高槻駅から五分ほど歩いたところにある借家であるらしい。竹さんのお父さんの仕事も現場監督だったそうである。竹さんは今四十六歳で自分が五十歳を越えると仕事に対する体力低下の問題や、お子さんのことを考えると、雨で仕事の有無が左右される土木工事の日給仕事よりも商売人の店で働く方が健康に良く、給料も安定しているので善いと考えたようである。案外、子煩悩であるらしい。今務めている骨董品の店は山村先生の紹介だったそふである。店の場所を聞いたので、そのうちに行ってみようと思ふ。ああ、それから山村先生も告別に来られ、ご焼香されていたのが印象的であった。焼香後はすぐに帰られたが、竹さんと何か立ち話をされていたが、ひそひそと話されていたので内容は聞こえなかった。僕は先生に会釈をしただけだったが、先生はご苦労さんと言はれてお帰りになられた。山村先生と何を話していたのかを竹さんに訊いたが、別に何も、と云った返事であった。僕はそれ以上は聞かない方がよいのかなと思ひ、それ以上は何も言はなかった。竹さんと僕は喪主である奥様の参列者へのご挨拶を聞いてから帰路に就いた。竹さんもこの後に用事があるとの事で、相国寺の門前で判れた。僕は今出川通りを百万遍の方に向かって歩いて下宿に帰って来た。」
ここまで読んで、眠たくなった光彦はノートを閉じた。
真夏の夜とはいえ南紀田辺は海沿いであるためか、比較的過ごし易い。光彦は疲れから、夏布団に入るとすぐに眠りについた。鳥羽はすでに別の部屋で眠っている。
翌日、朝の九時に光彦が目を醒ました時、鳥羽はすでに通信部の事務机にあるパソコンに向かって昨日の報告書を作成していた。
「お早うございます、先輩。」と、光彦の気配を感じた鳥羽が言った。
「お早うさん。早いね。」
「もう九時を回ってますよ。どこの会社でも仕事を始めている時間です。昨日の報告書を十時までに和歌山支局の岩永デスクに送らないといけませんからね。朝飯は自分で作ってくださいね。トーストかインスタントのカップ麺しか作れませんけどね。食パンはダイニングのテーブルの上に置いておきました。バターと生卵とハム、それとミルクは台所の冷蔵庫にあります。目玉焼をつくるのなら、電子調理器とフライパンがありますので、よろしく。」
「判ってるよ。それで、報告書に何を書いているのだ?」
「今城塚古代歴史館でのことですよ。」とパソコンのキーボードを叩きながら鳥羽が答えた。
「それだけか?」と言いながら光彦はパソコンの画面をのぞき込んだ。
「それだけですよ。ほらね。」
「昨日の夜、兄さんと電話で話していた内容はまだ報告しないでくれよな。話は聞こえていたんだろ。」
「まあね。判ってますよ。内容が確定するまでは僕の胸に収めておきますから、安心してください、先輩。」
「警察庁の兄さんに迷惑がかかるからね、頼むよ、鳥羽。」と光彦が念を押した。
そして、光彦は朝食を作るために台所に向かった。
光彦がトーストを食べていると、報告書を送り終えた鳥羽がダイニングに入ってきた。
「それで、先輩。」
「何だよ。」
「鈴木義弘と松江孝雄殺しの犯人をどうやって見つけ出すのですか?」
「単刀直入に聞いてくるね。」
「新聞記者ですから。」
「まあ、そうか。」
「そうです。」
「巫女の三千惠さんが鈴木屋敷の前と藤白神社の鳥居のところで目撃した松江孝雄と会っていた人物。この人物が不動産関係の人間と仮定してみると、鈴木義弘氏が電話で話していた人物と重なる可能性があるね。」
「それと真代さんとの食事の時に義弘氏が言った『今頃になっておかしなことを・・・』と言った人物が、その不動産関係者かどうかですね。」
「まあ、八紘昭建の取引先の不動産関係者に関しては警察が調べているだろう。我々は別の視点からアプローチしたいね。」
「別の視点と云うと?」
「八紘昭建の持っている土地を購入したいのなら『今頃になって買いたいとは・・・』とか、『買いたくない・・』とかしゃべるはずだよね。『おかしなことを』言うとなれば、土地のことではなく、熊野古道に関係する何かおかしなこと、と云うことになるよね。真代さんは義弘さんが熊野古道の話を出した、といっているのだからね。」
「熊野古道の何がおかしいんでしょうね?」
「さあ、それだよね。牛馬童子の頭部損壊事件を起こした犯人の動機は何か。あるいは、頭部損壊事件を知って何を思ったのか。」
「その、おかしなことを言った人物がですか?」
「そう。鳥羽は牛馬童子の頭部損壊事件を知ってどう思った。」
「これは記事にしなくっちゃ、ですね。」
「それは新聞記者としての発想だろ。一般人としての、牛馬童子に愛着を感じている人間としてなら、どう思う?」
「う―ん。何をしやがったんだバカヤロー、ですかね。」
「そう。怒りの感情だね。他に何か思わないか?」
「他にですか?」
「そう。」
「そんな物を取ってどうする気だよ、ですかね。」
「そう。それだよ。頭部を切り取って、持って帰って何をするのが目的だったのか。」
「結局、今城塚の埴輪群の中に捨ててしまった訳ですよね。」
「捨てることが目的で取った訳かい。」
「違いますよね。」
「さあ、それは如何か。僕にも解らない。」
「ちょっと先輩、頼みますよ。」
「あっ、ごめん、ごめん。それをどう推理するかによって、これからの行動が決まると云うことだよ、鳥羽。」
「それで、先輩はどう行動するのですか?」
「それを、食事しながら考えているところだよ。慌てなさんな。」
「じゃ、先輩。僕は田辺署と市役所を回ってきますから。午後にでも、結論を聞かせてください。」と言って鳥羽は通信部を出て行った。
朝食を終えて、光彦は再び義麿ノートを開いた。
森高教授の葬儀のことが書かれていた後に、竹さんが勤めている骨董品店を訪問した時の話が書いてあった。
「竹さんが働いているその店は四条川端から一筋東に入り縄手通りを北に上り白川を越えた処にあった。祇園骨董街と呼ばれている場所である。店の屋号は『淡海甲賀堂』と謂ふ。店のご主人が琵琶湖の南側の甲賀郡ご出身でこの名を付けたと謂ふことである。店内には信楽焼などの壺や掛け軸、茶器などが置かれていた。竹さんも務め始めてから半年が経ち、店の内情が判ってきてをり、展示品の説明をしてくれたが、僕には何が高級なのか、さっぱり判らなかった。目の肥えた人が見れば素晴らしい物かどうかすぐに判るらしい。まあ、趣味の世界とはそのようなものなのだろう。竹さんはまだ顧客との応対は許されておらず、もっぱら店の掃除や展示品が盗まれたり、汚されたりしないようにする見張り番らしい。商売の邪魔をしてはいけないので、竹さんと少し話しただけですぐに店を出た。帰りは寺町通りの古本屋に立ち寄って考古学関係の本を物色したが、欲しい本は見つからなかった。」
その後のページには三高時代の生活や経験談などが綴られていた。
昭和十三年に地震研究を目指して地球物理学教室のある京都大学理学部に入学したが森高教授がすでに亡くなっていることもあり勉学に気が入らないと述懐している。そこで、大学二年時から文学部史学科に転入し、山村教授の考古学研究室に出入りを始めている。山村教授も自身の研究に忙しく、義麿と会うことは少ないようである。
光彦はページを読み飛ばして、昭和十六年十二月八日の太平洋戦争開戦のころのことが書かれたページに目を止めた。鈴木義麿は昭和十六年四月からは京都帝国大学文学部の四年生になっている。
「昭和十六年二月二十八日、竹さんが突然下宿に来た。竹さんとは祇園の骨董品店で会って以来、ご無沙汰であった。息子の伸一君のことでお願いがあると謂ふ。竹さんに子供さんがいることをこの時初めて知った。その伸一君に勉強を教えて欲しいと頼まれた。理由を聞くと、どうも小学校へは入学させたくないらしい。最近、支那との戦局が激しくなり、小学校でも軍事教練が実施されるようになるのではないかとの噂が巷間に伝えられていることが原因であるようだ。伸一君が軍事教練で教官にどつかれるのが可哀そうで、小学校に行かせたくないと言ふのが竹さんの考の方である。そこで、僕に文字の書き方、読み方や漢字などの国語と足算、引算、掛算を教えてやって欲しいと言ふのである。どうも、二年前に大阪市内から京都市内に引っ越してきて、今は円町の近くに住んでいるらしい。大阪に住んでいたこともこの時に知った。返事は三月初めにすることにした。どうしたものかと思ふ。いくら小学校に通わせた方がええと言ふても、竹さんは聞く耳を持ってないようで、何とか教えて欲しいの一点張りであった。竹さんと話していた時に感じたのだが、引っ越しを重ねているうちに住民票を移動するのを忘れたのではないかと思える雰囲気がる。もしかすると伸一君の出生届もしていないのかもしれない、と勘繰りたくなる。まあ、それは良いとして、どうするかを考えなくてはならない。大学の授業の卒業単位はほとんど取ってしまっているから問題はないが、考古学講座の卒業論文を書くための調査や研究に支障が出ないように考えねばならない。」
ここまで読んだところで携帯電話が鳴った。鳥羽からの電話である。
「はい、浅見です。」
「先輩、まだ通信部ですか?」
「そうだけど。」
「お昼ご飯は如何しますか?」
「何も考えていないよ。」
「僕、これから戻りますけど、コンビニで弁当でも買っていきましょうか?」
「コンビニ弁当よりも駅弁の幕の内が良いな。」
「駅弁ですか・・・。源平合戦の平安時代に弁慶の父親である熊野別当が平家に加担するか源氏に加担するかを紅白の闘鶏で決めたと云う伝説から、紀伊田辺の名物駅弁に弁鶏という鶏肉満載の弁当があります。それでどうですか?」
「昼間から鶏肉はいいよ。箸折弁当とかは無いのかな?」
「箸折弁当ですか?聞いたことないですね。どんな弁当ですか?」
「いや。ちょっと思いついただけだよ。無ければいいよ。」
「紀州てまり弁当と云うのもありますよ。鶏肉は少なめで、鶏の炊き込みご飯にうなぎ、蓮根、筍、蒲鉾、厚焼き玉子などが入ってますが、どうですか?」
「うーん。魅力的だね。でも、やっぱり幕の内かな。」
「先輩はあっさり目がお好きなようですね。わかりました。花暦を買っていきます。」
「何が入っているのかな?」
「マグロの角煮、靭の煮つけ、クジラの旨味、鯖の味噌漬け焼、鶏の備長炭照り焼、などが入ってます。」
「それ、それ。それを頼むよ。」
田辺通信部のダイニングで光彦と鳥羽が弁当を食べながら話をしている。
「それで、これからどうしますか、先輩。」
「うん。この弁当を食べたら、田辺市役所へ行きたいのだが。」
「市役所で何をするのですか?」
「昔の住民登録を調べたい。竹島伸吾郎と云う人物とその父親のものだが、個人情報保護で教えてもらえないかもしれない。鳥羽、何とかならないかな。」
「警察の捜査なら何とかなると思いますよ。田辺署の馬島さんに頼んでみます。」
「ああ、牛馬童子像の首を市役所で返却した時にお会いした刑事さんだね。」
「そうです。頼りなさそうな人ですが、こう云う時には助けてもらえるように付き合っています。でも、調査の目的は牛馬童子像の犯人探しということで話を合わせてくださいね。」
「勿論さ。そのものズバリだからね。」
「如何謂うことですか?」
「まだ推理段階で想像の域を出ていないから、それは言えない。ただ、義麿ノートには、明治三十七年、竹島伸吾郎の父親が大阪の淀川大改修工事の時に紀伊田辺から高槻に住所を移転したと書かれている。尋常小学校を卒業したばかりの竹島伸吾郎も一緒に引っ越している。しかし、住民票の移転登録をしていない可能性がある。それを確認したい。」
「竹島伸吾郎と云うのは、誰ですか?」
「阿武山古墳発見の時に鈴木義麿が付き合っていた地震観測所トンネル工事の人夫頭をしていた人物だ。そして、その父親は淀川大改修工事の現場監督をしていたようだ。」
「それが、牛馬童子像事件と如何結びつくのですか?」
「だから、推理段階で話せないと言ってるだろ。」と光彦が語気を強めて言った。
「ああ、そうでしたね。判りました。」
昼食を済ませた浅見と鳥羽は大毎新聞田辺通信部と車体に書かれている軽自動車のワンボックス車で田辺警察署に向かった。
田辺警察署の一階受付に馬島刑事が降りてきた。
「よう、鳥羽君。それに名探偵さんも一緒ですか。お前さん、午前中も来てたんじゃなかったか。お願いがあるとは、何用や。」
「牛馬童子像事件の件で、市役所で調べたいことがありますので、一緒に行ってもらえませんか?」
「特ダネか?」
「ええ、まあ。」
「何を調べるのや?」
「明治時代に田辺に住んでいた竹島伸吾郎とその父親の住民登録簿を調べたいのです。」
「えらい古い話やな。それが牛馬童子像とどう関係あるのや?」
「先輩。」と言って鳥羽が光彦を見た。
「牛馬童子像の横に並んでいる行者像の基台石に建造年月日が彫られています。インターネットの写真で確認すると、明治廿四年八月一日、尾中勝治、と彫られているようです。竹島伸吾郎の父親は土建工事の現場監督を務めていた人物で、明治時代に熊野古道の整備工事にも従事していたようです。行者像や牛馬童子像の建立にも関係していたかどうかを竹島伸吾郎の親戚筋の人に訊いてみたいのです。それで戸籍の繋がりから親戚筋の人を見つけ、その方から話を聞いてみたいのです。そこから、頭部損壊事件の動機などが見えて来るかもしれません。」と光彦が言った。
「その竹島伸吾郎とは何者や?」
「竹島伸吾郎さんは大阪の淀川改修工事の現場監督などをした土建業の人物です。話せば長くなりますが、手短に言いますと、尾中勝治さんから牛馬童子像を熊野古道に設置する依頼を受けた土建業者が竹島伸吾郎さんの父親ではないかと僕は推理しています。」
「なるほど。名探偵さんらしい、おもしろい推理ですな。父親の名前を知り、設置工事をしたか如何かを調べたい訳ですな。TV番組の『家族の歴史を求めて』と謂うやつですな。まあ、無駄になるかも知れんが、行ってみますか。ちょっと待っといてくれるか。名札を外出にしてくるから。」と言って、馬島刑事が階段を昇って行った。
大毎新聞のワンボックス車に乗って田辺市役所の市民課を訪れた浅見光彦、鳥羽、馬島刑事の三人は会議室に案内され、少し待たされた。
「お待たせいたしました。市民課長の上杉でございます。こっちのものは戸籍係長の谷口です。」
「田辺署の馬島です。あとの二人は事件の協力者です。」と言って警察手帳を見せた。
「浅見光彦と申します。」
「何時もお世話になってます。大毎新聞社の鳥羽映佑です。」
「こんにちわ、鳥羽さん。窓口の者から聞きましたが、明治時代の戸籍をお探しとの事でしたね。」鳥羽の顔を知っている上杉が言った。
「そうです。牛馬童子像の頭部損壊事件の捜査に関連して、竹島伸吾郎とその父親のことを調べています。」と馬島が言った。
「ご承知とは思いますが、戦後の昭和二十二年から現行の戸籍法になりましたが、戦前は明治三十一年に定められた家制度の戸籍になっています。戸主を中心とした家族が戸籍簿に記載されています。現行戸籍簿では三代以上の親族は同じ戸籍には記載されません。俗に三代戸籍禁止と称されています。」
「そう云う話は知りませんが、兎に角、竹島伸吾郎の消息がどうなっているかを知りたいのやが。」と急がす様に馬島が言った。
「判りました。個人情報に関わることですが、警察の捜査に協力するということで戸籍を調べて参ります。私はこれで失礼しますが、あとは谷口係長がお手伝いいたします。」
「よろしく。」
「それでは、私も席に戻って、パソコンからデータを調べて来ますので、もうしばらくお待ちください。」と言って谷口が上杉と一緒に会議室を出て行った。
十五分くらいして谷口係長が資料を手にして会議室に戻ってきた。
「戸籍簿によりますと、竹島伸吾郎さんの父親のお名前は竹島伸兵衛です。昭和五年の九月四日に死亡されています。伸吾郎さんは明治二十五年七月八日のお生まれです。長男となっています。死亡されたのは昭和二十年六月八日になっています。伸兵衛さんの死後、伸吾郎さんが戸主になられていました。」
「伸吾郎さんはご結婚されていましたよね。」と光彦が訊いた。
「いいえ。婚姻されたと云う記述はありませんね。」と谷口が言った。
「大阪の高槻市へ転居したという記録は残っていますか?」
「住民登録簿では誕生から死亡までここ田辺市に居住していたことになっています。まあ、当時は田辺村でしたがね。昭和十七年に田辺市になりました。」
「伸一と云う息子さんは記録されていますか?」
「養子をもらったという記録は有りませんね。」
「養子ではなく実子はいないのですか?」
「はい。子供さんはないですね。伸吾郎さんの死後、戸主は伸兵衛さんの次男である由伸さんがなられていますが、昭和二十二年の家制度の廃止の時に戸籍は分離されています。」
「その由伸と云う人物は現在どこに住んでいるのだ?」と馬島刑事が訊いた。
「住民票によりますと、田辺市芳養町ですが、戸籍簿では昭和四十四年に死亡されています。」
「伸兵衛さんか、伸吾郎さんのことが判りそうな親戚の方はおられますかね。」
「伸兵衛さんの子供さんは四人おられましたが、すべて死亡されています。由伸さんのご子息が芳養町の家に引き続き住んでおられます。由和と云うお名前の方です。昭和二十六年のお生まれですから、年齢は六十四歳ですね。」
「芳養町の竹島由和だね。」と馬島刑事が確認するように言った。
「はい、そうです。この住所です。熊野街道沿いにある住吉神社前の三差路を入った所に竹島土建の看板が出てますからすぐに判ると思います。」と云いながら谷口係長が手書きのメモを渡した。
有限会社・竹島土建と書かれた大きな看板が出ている会社の敷地内にある駐車場に大毎新聞田辺通信部のワンボックス軽乗用車が入った。
事前に携帯電話で訪問を告げておいたので、3階建ての小さなビルに入ると社長の竹島由和が受付で待っていた。
一階事務所の北壁には注連縄を誂えた少し大きめの神棚が祀られている。
「お待ちしていました。こちらへどうぞ。」と云って由和は光彦たち三人を応接室に案内した。そして、簡単な自己紹介をお互いに行った後、馬島刑事が訊いた。
「早速ですが、あなたのお爺さんのことを知りたいのです。竹島伸兵衛さんの名前は知ってますよね。」
「はい。父から祖父の話は聞いています。我が社の創業の頃の話など、いろいろと父から聞きました。そこの壁に掛かっている右手の写真が伸兵衛です。竹島土建の創業者です。左が私の父の由伸です、竹島土建の2代目です。」と言って、応接室内の壁に掛かっている二つの額に入った白黒の顔写真を指さした。顔写真の大きさは縦四〇センチ。横三十センチくらいである。
「なるほど。威厳のある立派なお顔ですな。」と馬島がお世辞を言った。
「それで祖父の何をお知りになりたいのですか?」
「熊野古道の箸折峠にある牛馬童子像とその横にある行者像の設置工事をあなたのお爺さんが請け負ったかどうかを知りたいのですが。」
「さ、どうですかね。父からは、熊野古道の一部の整備工事を役所から依頼され、祖父が人夫の手配から現場工事の監督までしたという話は聞いています。また、時々、古道沿いに石像や石塔・石板の設置の依頼を請けていたという話は聞きましたが、具体的な像の名前を聞いたことはありませんから、何とも申し上げられません。」
「設置工事をしたか如何かは不明ということですな。」と馬島刑事が言った。
「申し訳ありませんが、そう云うことになりますね。」
「尾中という苗字の方をご存知ですか? 尻尾の尾という文字に真ん中の中と書く尾中さんですが。」と光彦が訊いた。
「さあ、聞いたことがありません。その方が何か?」
「明治廿四年に牛馬童子像と行者像を建立されたのが尾中勝治さんと思われます。その方の依頼であなたの曾祖父さんか、祖父さんが設置工事をしていないかを知りたかったのですが、ご存じないですか。」
「祖父や父からそのような話を聞いた記憶はないですね。」
「他の土建業者さんからそのような話を聞いたことはありませんか?」と光彦が訊いた。
「いえ、最近の話なら同業者とすることはありますが、明治時代の事となると、ちょっとありませんね。」
「そうですか。ところで、由伸さんのお兄さんである伸吾郎さんが昭和二十年の六月にお亡くなりになっていますが、死亡の原因は何だったかご存じですか?」と光彦が訊いた。
「父から聞いた話では、アメリカ軍による大阪大空襲の時、機銃掃射を受けて倒れ、翌日に収容された病院で死亡したようです。何でも、大阪の淀川近くにある柴島浄水場の修繕工事をしていた時に空襲に遭い、浄水場の傍にある長柄橋の下に避難していて機銃掃射を受けたと云うことです。大阪の警察から連絡を受けて私の父が遺体を引き取りに行ったそうです。お墓はこの近くのお寺にあります。意識不明で病院で寝ている時、誰かに『頼むぞ。頼んだぞ。』とうわ言を繰り返していたそうです。何か心残りがあったようですね。意識が戻らぬまま死んだと云う話です。」
「伸吾郎さんが死亡された当時は、京都市内にお住まいだったと思われますが、違いますか?」
「さあ、それは知りません。ただ、警察は伸吾郎おじさんの作業服の胸に縫い付けられていた氏名、住所、血液型、職場名が書かれた布をみて連絡先を知ったようだ、と父は申しておりました。書かれていた住所は田辺市になっていたのだと思いますが。当時の伸吾郎さんが実際に住んでいた住所は父からは聞いていません。ただ、祖父の伸兵衛が長男の伸吾郎さんを連れて明治時代に淀川の大改修工事のために大阪に出て行くときは戸主だったので本籍地の移動や住民票の移転は行わなかったと、父は話していました。淀川大改修工事を終えて後、祖父は田辺に戻ってきましたが、伸吾郎さんは大阪で土木工事の仕事を祖父から受け継いだようです。そのまま大阪に住み続けたと聞いています。大阪と田辺はそれほど遠くないのでちょくちょく家に帰ってきたらええと祖父は考えていたようです。それで、祖父は家族を田辺に残して単身で大阪に出ようとしていたのですが、尋常小学校を卒業したばかりの伸吾郎おじさんが『僕もお父ちゃんと一緒に行く。』と言って、『まだ子供だからいかん。』と諭しても聴かなかったそうです。当時、日露戦争が始まり、日本の常陸丸など3隻の陸軍物資運搬船が日本海でロシア艦隊によって撃沈され、日本国内では打倒ロシアの声が高まっていたそうです。田辺の町中も高揚していたそうです。平安時代の田辺は熊野水軍と関係が深い土地柄でしたから、日本海軍の勝利を願う人たちが多くいたようです。少年の伸吾郎さんもそういう雰囲気に染まっていたらしいです。まあ、そのように父が話していました。海南市の藤白神社と関係が深い藤白鈴木氏は源氏の将軍として熊野田辺別当家の湛増が率いる熊野水軍と連携して瀬戸内海で平氏を打ち破りました。」
ここまで聞いた時、光彦は義麿ノートをもっと読み進んでおくべきだったと後悔の思いに捉われた。
「戦争中、伸吾郎氏は祇園の古美術商に努めるのを辞めていたのかな? 土木工事の仕事を戻っていたのだろうか? 伸一君はどうなったのだろう? 胸に付けた身元を書いた布の住所を何故に田辺市の実家にしていたのだろう? それに伸一君を産んだお母さんは誰なのだろう?」と、いろいろな考えが光彦の頭の中を駆け巡った。
「大阪に出た伸兵衛さんと伸吾郎さんは高槻に住んだらしいのですが、その辺のことは何かご存知ですか?」と光彦が訊いた。
「淀川の大改修工事は広範囲に亘っていたそうです。上流は滋賀県の瀬田川堰や京都の桂川と宇治川の合流地点から、下流は大阪の天満あたりの大川や神崎川、大阪湾に注ぎ込む河口付近までに及んでいました。高槻はその中間点なので、いろいろな工事現場に向かうには適した場所だったようです。当時の高槻はまだ田舎だったようです。借家の大家さんが母屋に住んでおり、祖父とおじさんが離れ家を借りて住んだそうです。食事や洗濯などは大家の奥様がしてくださり、まだ少年だった伸吾郎おじさんの面倒も見ていただいたそうです。」
「そうですか。ところで、伸吾郎さんに息子さんがいることをお聞きになったことがありますか?」と光彦が訊いた。
「ええ。父から聞いています。昭和二十年の大阪空襲が始まったころ、伸吾郎さんとその子供さんが二、三日くらい帰省して来たそうです。ああ、それからもう一人、子供の家庭教師をしていた方が同行されていたそうです。名前は知りません。私はまだ生まれていませんでした。伸吾郎さんが亡くなったのは帰省から大阪に戻って二か月後くらいだったようです。」
「伸吾郎さんのご結婚相手の女性は同行されていなかったのですか?」
「多分。父から聞いたのはその三人が帰省して来たと云うことだけです。ただ、正式に結婚はしていなかったと聞いています。お相手の女性は大阪市内の食堂で働いていたらしいです。確か、石川県から大阪に出てきて一人住まいだったらしいです。そこで、伸吾郎さんが何時もその食堂で食事をしているうちに理無い仲になったようです。子供が生まれて、同居するようになったとか、同居しなかったとか。はっきりした話は判っていません。」
「女性の名前は聞いていますか?」
「いいえ、聞いていません。」
「そうですか・・・。」
「この話を父から聞いたのは私が多感な高校生の時でした。当時の私は詩に興味がありましてね。石川県金沢市出身の詩人・室生犀星の詩が思い出されました。『故郷は遠きにありて思ふもの そして悲しく詠ふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところあるまじや ひとり都の夕暮れに 故郷思ひ涙ぐむ その心もて 遠き京都にかえらばや 遠き京都にかえらばや』という詩を読んで、実際の父母の顔知らず戸籍上の私生児として育てられた犀星の切なさを感じたものです。」としみじみとした口調で由和が言った。
「石川県出身の女性との子が義麿ノートに出てくる伸一君か・・・。」と光彦は思った。
「あっ、いや。失礼しました。ちょっと昔を思い出しました。」と由和が謝った。そして、
「ところで、これは牛馬童子像の頭部が切り落とされた事件の捜査ですか?」と由和が訊いた。
「まあ、そういうことです。」と馬島が言った。
「あれは、折り畳み式の石切り鋸で切ったのでしょうね。最近の鋸歯はよく切れますからね。」
「お宅にその鋸がありますか?」
「ええ。私の工具箱に入っていますが。」
「それ見せてもらえるかな。」
「ちょっと待っといてください。取ってきますから。」と言って由和は応接室を出て行った。
しばらくして由和が持ってきた折り畳み式の石切り鋸は握り部に鋸刃部を回転させて収納するタイプのものであった。握り部の長さは約二十センチ、鋸刃の長さ二十センチくらいで、鋸刃を開けると握り部と合わせて四十センチくらいの長さになる。
「鋸刃の材質はタングステンカーバイドです。これで石像の首部に切り溝を入れ、このレンガ割り用タガネの歯をその溝に当て、ハンマーでタガネの背部を叩けば簡単に頭部は切り落とせます。まあ、上手に切り落とすには少し経験は必要ですがね。」と由和が説明した。
竹島由和氏に礼を言っての帰り際、有限会社竹島土建の大きな看板が目に入った光彦が何気なく訊いた。
「竹島家と云うのは先祖代々この紀伊田辺で土木工事の仕事をされていたのですか?」
「はい。戦国時代から先祖代々、お城の城壁を造るのが仕事だったと聞いています。ただ、紀伊田辺に来たのは江戸時代末期だそうです。曾祖父の時代かその前の代かのどちらかですがはっきり知りません。ペリーが来航して黒船からの砲撃に備えるために田辺城を会津川河口から少し内地の下万呂地区に移築する工事が始まりました。その時に滋賀県の彦根から彦根藩の命令で田辺に移住してきました。しかし、明治維新になって移築は中止になりました。しかし、ご先祖は彦根には帰らずにそのまま田辺に住み着いたようです。明治時代になって苗字を持つことが許されますが、その時に竹島姓を名乗ったと聞いています。」
「何故に竹島姓になったのですか?」
「はい。琵琶湖にある竹生島の生を抜いて竹島にしたと聞いています。ご先祖は竹生島の弁才天に仕事がある毎に無事仕事が終えられるようにとご祈祷をお願していたと聞いています。そこから竹島姓が生まれた訳です。事務所の神棚にお祀りしてある神様は真ん中に天照大御神様、向かって右に熊野大神、そして向かって左側に竹生島の弁財天様です。毎年お正月に竹生島にお参りして御札を頂いて来ています。」
「滋賀県の竹生島ですか。」と光彦が呟いた。
竹生島は琵琶湖の北端に浮かぶ小さな島である。海岸線長が二キロメートルのサツマイモの形をした島である。弁才天を祀る都久夫須麻神社と千手観音を祀る宝厳寺がある。奈良時代に聖武天皇の勅命を受けた僧の行其が四天王像を安置した堂宇を建てたのが竹生島信仰の始まりとされる。四天王とは仏教を守護する東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天のことである。また、宝厳寺は西国三十三所観音霊場の第三十番札所でもある。
馬島刑事を田辺署に送った後、鳥羽と光彦は田辺通信部に戻ってきたのは夕方の五時頃であった。鳥羽は本日の取材報告を事務所に置かれたパソコンに入力している。明日の朝、和歌山支局の岩永デスクへメールする内容を書いている。
光彦は、事務所の応接ソファーに座って義麿ノートの昭和十六年のページの続きを読み始めた。
「伸一君に勉強を教えることに決めた。伸一君はまだ小さいので僕の下宿に来るのは難しいので、僕が円町まで出かけることにした。竹さんの住居は市電の西ノ京円町で降りてから歩いて五分くらいの処にある。京都独特の造りの家、俗にいう処の京町家の二間続きの離れ部屋に間借りしている。部屋の片隅に小さなちゃぶ台を置いて伸一君と並んで指導することにした。竹さんは大家の奥様に食事や洗濯をお願しているらしい。竹さんの話では、伸一君のお母さんは梅田駅前の百貨店の食堂で働いていて大阪に住んでいるといふ。竹さんの働いている骨董屋さんが休みである月曜日に伸一君を連れて大阪の百貨店まで会いに行っているらしい。伸一君は食堂で好物のカレーライスをいつも食べているという。伸一君はまだ六歳と云ふことで、勉強に対する集中力が続かない。何か思いつくとすぐに席を立ち、また外から聞こえてくる音に気が散り、算数の足し算や漢字を教えるのに一苦労する。まだ僕が教え方に慣れていない所為もあるのだろふ。しかし、記憶力は良い方である。僕は教えたことを忘れていたが、伸一君は覚えていたことがあふた。教えたことは確実に覚えている。根が素直なのであらふ。教材として尋常小学校の教科書を参考にしている。竹さんが朝から夕方までは仕事で出ている間、伸一君は嵐山や金閣寺、竜安寺、仁和寺の方面まで歩いて出かけているよふである。近所の子供たちとはあまり遊んでいないといふ。ほとんど一人で遊んでいると伸一君は言ふていた。この数年間で住居を何回か移転したので友達が作れていないよふである。竹さんは尋常小学校を卒業した十二歳の時にお父さんに連れられて高槻に住んだと話していたが、その後、淀川の改修工事が終了してお父さんは田辺に帰った。竹さんは大阪に残り、市内にある土建屋の人夫として働いていたと云ふ。その時は三十歳になっていて大阪市に住んでいたらしい。渡川改修工事が行われている間に土木建築の仕事のやり方をお父さんから習って十六歳になった時に工事人夫になってお父さんを手伝っていたようである。そして、阿武山での地震観測トンネル工事の時は工事現場の宿泊施設で寝泊まりをしていたと僕は思っていたが、時々大阪に帰っていたよふである。その時に伸一君が生まれらしい。当時、大阪市内の三軒長屋の借家に住んでいたのを僕は最近になって竹さんから聞いた。阿武山の頃はそのような素振りを竹さんから感じなかったのは僕には注意力が不足している証左なのだろふか。反省しなければならないと思ふ。しかし、大阪から京都に引っ越してきた伸一君は一人で遊ぶことに慣れてしまったよふで、それがちょっと心配ではある。しかし、お母さんはどうしたのであろうか?何故一緒に京都に来なかったのだろう。大阪の百貨店に通ふには少し遠いからだろうか。それとも、竹さんと離縁したのだろうか。竹さん曰く、ちょっと訳ありだそうで、笑って真実を話してくれない。そういえば、高森先生の葬儀の際、山村先生とひそひそ話していたことも認めなかった。竹さんには何か秘密があるらしい。伸一君はお母さんの事は良く判らないと言っているのだが、竹さんに口止めされている雰囲気がある。」
その後のページには伸一君の話は時々書かれているが、勉強にはあまり熱が入っていない状況が繰り返されている。そして、義麿自身の学生生活については、考古学の勉強を続けるために大学に残るか、それとも就職をするかの狭間で揺れる心境を綴っているが結論は出ていない。
「円町は確か西大路通りと丸太町通りの交差点だったな。そのまま西へ行けば嵐山。北へ向かっていけば金閣寺に至る。そこから西に向かって歩くと竜安寺から仁和寺に行ける。しかし、子供の脚で一時間から2時間くらいはかかるはずだな。まあ、一日遊んでいるのだから、時間の問題は関係ないか。」と思いながら光彦は先を読み進んだ。
そして、昭和十六年のページの最後には十二月八日の太平洋戦争開戦に対する自身の考え方を述懐している。
「日本は負け戦を始めてしまった。米国を自分の目で見てきた先生たちの誰もが、裕福な生活をし、工業生産力に優れているメリケン人社会には底力があると仰っている。貧乏国日本が勝てる相手ではないことは世の識者なら良く判っている。軍部の先走りを許してしまったことは悔やまれるが、それを引き留められなったのは世論の風潮であろふか?僕にはわからない。考古学を通じて学んだ歴史は権力者の支配欲、物欲だけではない。人間は文化と云ふ高尚な形而上の理念を持っている。それは清浄な心魂の発達と大いに関係があると思ふ。多くの人々が戦争によって亡くなるのは歴史が示している。大和魂をはき違えてはいけない。大いなる平和を築くことが大和人の務めであり、他国と戦争することではない。大東亜共栄圏を築くと云ふ大義はどこに行ったのか。亜細亜の繁栄を口実に日本人の私利私欲を求めて始まった戦争としか、僕には思えないのだが。そういえば山村先生が講義の時に『今の政府の軍隊は薩摩隼人の気質を受け継いでいる。西南戦争のように相手が自分たちよりも大きな国の政府であっても、自分たちの意志を貫く姿勢を崩さない面がある。翻って、八世紀初頭にあった薩摩隼人の朝廷に対する反乱も同様である。』と仰っていたのが思い出される。勇猛敏捷さで他に勝る古代の薩摩隼人が宮門警護兵として採用された所以でもあろうか。」と綴られている。
「先輩、夕食に行きましょうか。」と鳥羽が光彦に言った。
「もう七時か。報告書はできたのか?」
「ええ、まあ。明日、朝一でデスクにメール添付で送るだけです。」
「今のうちに送ったら?」
「今メールしたら、何か用事を命じられるかもしれないので、明日にします。」
「そうか。それじゃ行こうか。今日は腹が減った。」
「今日も浜屋にしますか?」
「他にないのなら、そこでいいけれど。」
「たまには洋食にしませんか。」
「俺は、良いけど。」
「じゃあ、決まり。ステーキの『ミカタ』へ行きましょう。」
「偶にはスタミナをつけるか。」
〜天皇からの贈り物を運んだ人生(上巻)〜
完 中巻に続く