終章 儚き明日へ
帝国歴1499年 2月1日。
レミィは目覚めない。
だが歴史はオリジナルに戻る事なく、新たな物語として上書きされていった。
ここからもう物語が上書きされる事はないだろう。
なぜなら鍵となる時計は、修理不可能なくらいに粉々になってしまったのだから。
あの後、薬学士であったクルオの方は無事だった。父親が毒姫の毒を研究していたおかげで多少の耐性ができていたのが幸いだっただろう。
ライトの契約の影響の方は、聖域での治療で数日もかければ元に戻ったと言う。そのせいで抜けていた巻き戻りの記憶も徐々に蘇りつつあるようだった。
ラッシュ達の方も無事だったようで、重い後遺症もなく軍人として活動していると聞いた。
フィーアも、アレイスターも無事で、欠けた者はいない。
だがレミィは、力を使い過ぎた影響が残っているらしく、眠りについたまま目覚めないでいた。身体的には後遺症などは無いようだったが、ずっと聖域の世話になり続けている。
「相当な無理をしたようで、レミィは回復するまでしばらく起き上がる事ができないでしょう」
「……」
聖域。温室の中、眠ったままであるレミィを見つめる。
その表情は、過去に見た通り昏々と眠りについている様子だった。
「いつまでかかるんだ」
「分かりません。ですが、すぐにとは言えない状況である事は確かですね……」
「起きてくれるんだよな。こいつは」
「ええ、いつかは」
目覚めてくれる、そう信じる事しかできない。
時計はレミィに持ちだされた後に壊れてしまった。もう、やり直す事は出来ないのだから。
だからアスウェルには、そう願い続ける事しかできない。
柔らかな頬を撫でるるが、記憶にあるよな反応は何一つ返ってこなかった。
くすぐったそうに身をよじる事も、違和感を感じて手を伸ばそうとすることも、ない。
「俺は、本当はお前の事が……」
いや、今伝えても意味のない事だろう。
ふと込み上げて来た感情を押しとどめて、聖域の主へ尋ねる。
「お前がクルオに俺の居場所を教えていたんだろう」
「よく分かりましたね」
何度も何度もこちらの事を補足してくるクルオの事は前からおかしいと思っていた、敵でないとしたら……そう考えて残った選択がこれだったのだ。
前の世界ではクレファンに似た創造主が、この世界では今なお姿を残し続ける先代が。
そして、視線をその後ろに向けると未だに引継ぎを待っている状態であるクレファンに似た方の女の姿がある。
「お前は、一体なんなんだ……」
本物のクレファンは、帝国のラッシュ達の用意したベッドの上で回復を待っている所だ。
だから違うと分かる事なのだが、どうしても引っかかる。
「彼らの元で、自分の命が長くない事を知ったクレファンはあえて、人としての生を終えようとしていたのです。彼らに一矢報いるために」
「自殺……したのか……?」
「それが今までの世界の事情でした」
まさか、奴らの非道な研究に耐えられず、そう思ったのだが。アスウェルのそんな想像は、首を振られ否定される。
「いいえ、彼女は聖域の主を継承したのです、業務に必要な意思を封印して。寿命の尽きそうだった先代の代わりに、心に傷を追った者達を助けるために」
「まさか、レミィを……?」
あの檸檬色の頼りない少女を助ける為に、今までの世界ではクレファンは自ら死を選んでいた。そうなのか。
クレファンその問いに関してだけは何も言わない。静かに微笑むのみだった。おそらくそれはこれからも教えてはくれないという事だろう。
「……一つだけ。おそらくの推測になりますが。クレファン個人には、先代……つまり私に恩がありましたからね。疑似的な聖域を作り上げて、外界……星の塔とコンタクトをとり、マツリと貴方を引き合わせた。兄である貴方を絶望から救ってもらったというそんな恩が。だから聖域の主の座を継承しようと決めたのでしょう」
星の塔での事か……。あれはこいつがやったことだったのか。そしてその事を今までの世界のクレファンは知ったから……。
助けられた事は、全部、繋がっていたのだ。
レインが聖域を作り、先代創造主がアスウェルを助けて、アスウェルは星の塔でマツリに助けられ、クレファンがクルオを動かして、俺がレミィを助けようとして。
全部、過去から今、そして未来へと……。
後悔も、憎悪も、悲劇も、全部無駄なんかじゃなかった。
ただ犠牲になったのではない。
活かされてきた。
全てはこの今を生きる為に、未来へ生きていく為に、積み上げられてきた……。
そんなこちらの内心をくみ取ったかのように、聖域の主は淡く微笑んだ。
「ええ、そう。貴方の歩んだ道に無駄な事など何一つなかったのですよ。それは失敗しながらでも、間違いながらでも、よりよき明日を、幸福を求めて足掻き続けて来た貴方の、その努力が掴み取った未来なのですから」
だから、と彼女はほんのひと時だけ聖域の顔を封印して、アスウェルの妹であった「クレファン」から頼まれた伝言を、こちらへ届けた。
「聖域の管理者となるのなら、自らの感情を封印しなければならない、だから今までの彼女も言わなかったのでしょうけれど、これくらいなら便宜を図ってもいいでしょう。たとえ心がなくとも、貴方がいた世界のクレファンはいつもあなたの事を心配していました」
声が、届く。
夢と現の狭間で眠る少女が、おそらく創造主を継ぐことなくもうじき帰ってくるだろう妹の、一人の復讐者へ伝えたかった思いの声が。
『きっと大丈夫、上手く行くよ、お兄ちゃん。だから私がいなくても幸せになってね。きっと、絶対だよ』
???
――――
……。
「……ぁ」
白くかすみがかった思考が、次第にはっきりとしてくる。
目を覚ますと、眩しい光が目に入って来た。
体を起こすとそよぐ風邪を感じた。
眠っていただけなのに随分と久しぶりに感じる。
どこかで、草花が揺れる音がする。
さわさわとこすれ合う音が、今も昔も好きだった。
今まで身を横たえていたベッドに目を向けると、脇に檸檬色の髪の人形が置いてあった。そして寄り添うように隣にあるのは焦げ茶の髪の人形だ。
ここは聖域。
だから置かれた人形は本物ではないのだけれど、けれどそれが今まで自分の傍にずっといてくれた事が嬉しかった。
遠くから足音が響いてくる。
と、同時に猫の鳴き声も。
近くにいたらしい羽のついたネコがこちらの足にすり寄って来て、顔をこすりつけた後、膝の上へと登って来た。
頭を撫でれば気持ちよさそうに目を細めて丸くなる。
足音が止まった。
地面に影が差す。
視線を上げればその人の紫の瞳と目が合った。
様々な色をたたえた輝きは目まぐるしくその様相を変化ささせていくが、やがて一つの感情に染め上げられる。
私はその人に名前を呼んでもらうのが好きだ。
優しくない口調で、不愛想な顔で、けれど思いのこもった声で名前を呼んでくれるのが。
でもまずは、私から読んであげよう。
だってその人はきっと、短くはない時を待ち続けてくれたのだから。
笑顔と共に、私はその名前を呼ぶ。
「おはようございます。今日も良い天気ですね、アスウェルさん」