序章 エマー・シュトレヒムの手記
エマー・シュトレヒムは、禁忌の果実の研究者だ。
鋭い目つき、喜怒哀楽を示さない仮面の様な表情をした、人寄せ付けない雰囲気の二十代半ばの男性。
組織にいる研究者としてはトップの実力を誇る者だった。
彼は、イントディールと対になるもう一つの世界。ニエ=ファンデにある研究所に勤めていて、副大罪の器である実験番号ゼロ番……クロアディールの研究をしていた。
古代、世界を毒で覆いつくしたと言う毒姫。
その毒姫の娘として作られたクロアディール。彼女はどういう理由があってか知らないが、生まれ故郷のニエを離れてイントディールをうろついているようだった。傍にはいつもアスカと名付けられた白い鳥を連れて、風の様にきままに各地を旅していたらしい。
エマー・シュトレヒム……エマがその娘を発見したのは偶然だった。調査に訪れた風のよく通る遺跡で、怪我をした所をクロアディールに介抱にされたという成り行きで。
研究所に知らせて、追い回し、やっとの事で捕縛できたのはそれから何カ月後の事。毒姫の娘だけあって苦労した事を覚えている。
傍にいた白い鳥は、当時別の人間が研究していた、契約システムの生体パーツとして使い。クロアディールは、副大罪の器として実験台に、そして追加として毒の兵器についての研究を行う事になった。
エマは、研究者として実験体と顔を合わせる事は多い。
世界を滅亡に追いやった毒姫の娘だからどんな化物、ある醜悪な生物なのと思ったが、意外に普通の人間であり、実験の日々に追い詰められておかしくなっていく様子を見て、拍子抜けした。
副大罪の器の実験も、毒の兵器の研究も順調に進んだ。
死なない程度にあらゆる薬品を試し、毒を使い、刺激を与え、切り刻んで行く日々はとても有意義で、研究者にとっては金よりも価値のある情報がとれた。
白い鳥を使った契約システムの研究の方が先に進んでいたので、ついでに試験運用もして、洗脳の様な事もしたりした。
だがある時、己の娘が禁忌の果実に捕らえられている事を知った毒姫が、研究所に乗り込んできた。当然、当時洗脳して実験に協力的にしておいたクロアディールによって撃退させたが、研究棟の被害は看過できないほど甚大だった。
研究が滞る事だけでも頭が痛かったのに、別の問題が重ねて発生する。
組織の誰かが、この機に乗じて自分の地位を上げる為に、こちらにやってもいない罪をこちらに擦り付けて来たのだ。
仕方がなかった。
禁忌の果実には、研究者だけではなく、戦闘能力を備えた者達がいる。
居続ければ、遠くない未来に殺されてしまうだろう。
仕方なくクロアディールを連れて、遠くへ逃げる事にした。
だが、一人で逃げるのは孤独だった。
研究に明け暮れる人間でも、生物として孤独は恐怖だ。
それらを紛らわすために、逃げ出したり決してこちらに逆らわない、忠実な人形が必要となる。
それに、自分は研究者だ。
副大罪や、毒薬についての研究はやりかけである。
研究者が途中で研究を放り出す事などでき様もないだろう。
そうして逃げ延びて辿り着いた先は、幸運にも田舎の様な場所で碌に技術も発達していない場所だったから、エマの力は重宝された。
やりかけだった副大罪の研究や、毒の研究を進めて、そして、おそらくクロアディールに付けられているだろう捜索探知のマーカの解除法についても研究を進めていた。
「エマ……いえ、マスター。私は遺跡から見つけだされたんですよね。前にそう聞きました。私には記憶がありません。どうしてそんな所にいたのか分かりますか」
「さあ、それより机の整理をしろ。散らかって来たから作業の邪魔だ」
「はい、私にも親や友達がいたのでしょうか」
叶うなら会ってみたい、とそうたびたび口にするクロアディールに思う所など何もなかった。
便利な道具として、日々身の回りの世話をさせ、実験の続きをこなす。それ以外の役割を望んだことは……、決してない。
母親はお前が殺したんだと、自分達研究者が殺させたのだと、そんな余計な事は伝えずとも良い事だろう。
知らなくてもいい事は話さない。
何より、感情に乱れる道具など、研究者である自分にとっては邪魔でしかないのだから。




