10 契約の相手
どこかで誰かの悲鳴が上がった気がする。
眠りについたアスウェルが訪れたのはレミィの心の中だった。
正式な手順はもちろん踏んでいない。
だから場所の選択はできなかったようだ。
アスウェルは水晶屋敷の地下に向かう階段の途中に立っていた。
おかしな所で律儀だろう。夢の中の屋敷にもこんな場所があったのか、とそう思いながら下っていく。
嫌な予感がずっと続いてる。不穏な気配が途絶えてくれない。
それは前の世界から、レミィが倒れた後からずっと続いている者だった。
そこまでもこちらを追いかけ、苦しめようとする不幸の気配が。
遠くから声が聞こえた。
それが何かも分からないまま、胸の内でくすぶる嫌な気配から逃れる様にアスウェルは走った。
ややあって、はっきりと聞こえてきたのはレミィの悲鳴だった。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「……、めて、……なさい。ごめんなさい。もうしません。だから……、許して。ごめんなさい……」
「いやっ。やめて……ください。あ、アスウェル……さん」
アスウェルは足を止めてしまった。
聞こえて来た名前は聞き間違いではない。
奴隷契約を結ぶと、相手に悪い影響を及ぼす事ができる。
契約主は優位に立ち、奴隷にされた者は逆らう事などできなくなる。
そんな状態に置いてレミィを弱らせているのは、自分?
そんなはずはない。
そんな契約を結んだ覚えはないはずなのに。
悪影響を及ぼそうと、害を成そうと思った事など一度もないのに。
そこに、もう一つ声が発生する。
「いつも威勢よく敵に逆らってるくせに、内心ではこんなに怯えちゃって可愛いよねぇ、君って。そうだよ、レミィ。彼の名前はアスウェルさんだ。ほら、そっくり。いつもみたいに名前をもっと呼んであげなよ。それで君にしている事を止めるように懇願してごらん」
「や……やめてください、アス……ウェルさん。う……ひっく、ぁう……」
「えらいえらい、君を虐めるアスウェルはひどい奴だね。許せないよね。良いかい? 君を酷い目に合わせるのはアスウェルだ、君をこんな風に痛めつけるのもアスウェルだよ。だからちゃんと間違えないように覚えなきゃいけないね。ほら僕が言った通りに続けてごらん」
声が小さくなる、ささやくような声の後に潰れてしまいそうなレミィの声。
「ごめんなさい、アスウェルさん、許して。ぶたないで、ごめんなさい、痛い事しないでください。ひっく、うぅ……っ、ごめんな、さい。ごめんな……さい」
「良くできました」
ライト。あいつだ。
「こんなに辛いなら、あいつの事なんて忘れちゃった方がいいかもね。旅の約束なんてものも。君は屋敷で大人しくしていた方がお似合いだよ。でも、元から必要とされてたのかな、約束はなかった事になるんだから。君はアスウェルに要らないって言われたわけで、じゃあ、まあ……レン達も要らないって思ってるかもね。うん、そうだ。そうに違いない」
レミィに話しかけているのは。あのライトの声だ。
殺してやる。
レミィの奴隷契約の相手はライトだったのだ。
あいつが、あいつのせいで、レミィは……。
その牢屋の前へ。
レミィは何を見ているのか、視線の先にはアスウェルと似た人間。白衣を着て、研究者然とした、自分の幻。その手にあるのは何だ。実験道具か。
空間を隔てる鉄格子を殴りつける。
「ライト……っっ!」
中にいるのは鎖につながれたレミィと、レミィに顔を寄せてささやいているライト。
お前はこうしてレミィの心をいたぶって来たのか……っ!
ライトはアスウェルの方を見向きもしない。
あいつは幻を使ってレミィを痛めつけ、その恐怖心を本物のアスウェルへの感情であると錯覚させていたのだ。
その悪影響でレミィは、おそらく無意識だろうが現実でもアスウェルに恐怖を抱くようになってしまった。
アスウェル達の記憶には、ライトがレミィの真名を知っているという情報はない。
だが、おそらくどこかの巻き戻りで、アスウェル達の知らない間に情報を得ていたのだろう。
たとえば、こちらが一年しか戻れなくても、奴は知る限りは二年は巻き戻れる
その世界の二年前のレミィに真名を聞き出したとしても、新しく別の世界から巻き戻てこればその記憶は残らないのだから。
「ほら、怖い人が来たよ。レミィ」
「ひっ……あ、ぁう……」
ライトは怯えて縮こまるレミィを抱きしめて、態度だけは優しく接して惑わしている。
「ああ、可哀想にこんなになって。可哀想、可哀想……。本当に可愛いくらい可哀想で、そして滑稽だね? レミィ」
煩い。口を閉じろ。
「ライトっ、お前は……っ、殺してやる。お前だけは、絶対に殺してやるっっ!」
牢屋は開かない。アスウェルは中へ入れない、近づけない。
鉄格子の隙間から銃で狙いをつける。だめだ、レミィと近すぎた。ライトはうまく位置を調整して、覚える少女を盾にしていた。
「もうそろそろこの周回も終わりだし、幻なんかに痛めつけさせるのもまどろっこしいかな」
ライトがわずかに身を離した後、何かを打つ音が響いた。
「……ぁっ」
抱きしめていたライトが唐突にレミィの頬を張ったのだ。
「もうちょっと頑張らないとね、大切なあの人に伝えなきゃいけない事があるんだろう」
「……ぅっ」
もう一度、今度は反対側から。
「忘れちゃったんだから、もう一度教えてもらうために頑張らないとさ、ほら」
「……ぁうっ」
さらにまた一度。
「頑張れ、アスウェルの為にね。おっと、アスウェルは君を傷つけるおっかない人だったか。じゃあ誰の為に頑張ってるんだっけ。まあいいや、とりあえず、頑張れよ」
「ぃ……っ、うぁぁ……っ、ゃぁ…………」
「ライトぉぉっ! やめろっ、殺す! 殺すぞっ! 殺してやるっ、離れろ! そいつから今すぐ離れろ……っ!」
こいつはどこまで人の心を踏みにじれば気が済むんだ。
だが、ライトはこちらの言葉などまるで聞かない。
「滑稽だよね、ここで聞いても現実で覚えていられるわけがないのに、あいつへの助けになるようなヒントを教えてやるって言ったら、馬鹿みたいに騙されちゃってさ。嘘なのに」
「……ぁぐっ!」
そして何度目になるか分からないそれで、レミィを腕の中から突き飛ばした。。
「うああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
何故アスウェルははこんなにも無力なのか。
こんなに近くにいるのに、どうして守りたい少女を助けてやる事が出来ないのか。
家族も、妹も、そしてレミィも。
全てが傷つけられていく。
アスウェルは何の為にここにいるというのだ。
『……ウェルさん。アスウェルさん……』
目を覚ます。
アスウェルは座った姿勢のままで寝ていたというのに、今は少女の膝に頭を乗せた態勢で横になっていた。
「大丈夫、ですか……。すごく、うなされてました」
普段なら色々言いたいことはあっただろうが、今はそんな事を言う様な気にはなれなかった。
手を伸ばす。
レミィの、柔らかくて温かな頬に触れた。
優しい熱が、じわりと指先から伝わって来た。
アスウェルからは決してそれは伝わらない。奪うだけなのだ。
いつだってそうだった。
与えられるばかりで。
「すまない。俺は……、俺……は……」
「どうして? ……泣かないで、ください」
小さな手で頭をゆっくりと撫でられる。
守らなければならない存在に慰められるなど情けないにも程がある。
だが、我慢などできなかった。
全てが足りなくて、全てが理不尽で、それを思い知らされて、今だけはいつも通りにふるまう事などできなかったからだ。
涙など、久しぶりに流した気がする。