序章 見捨てられなくて
帝国歴1500年1月1日
その世界は過去ではない。
オリジナルの世界だ。
アスウェルは元の時間へと戻って来ていた。
やはり……廃墟の水晶屋敷に立っている。
軌道列車の事故で死んだわけではなかったのだ。
周囲を見回すが、屋敷内部には当然人の気配がない。
朽ちて廃墟となり、埃の積もった景色があるだけ。
だがやらねばならない事があった。
急いで玄関ホールへ向かう。
壁際に、背に持たれるようにして人が座っている。
そこにいたのはクルオだ。
奴は銃弾で体に風穴を何か所も開けられて、瀕死の状態だった。
皮肉な事だがこれで、巻き戻ったアスウェルが過去の世界で起こした行動が、オリジナルの歴史には何の影響もない事が分かった。
『一定の行動を起こしても、基準点に満たない過去の改変だと、アスウェルの『廃墟の水晶屋敷に立っている』という現在は覆らない。結局オリジナルの過去のまま歴史は動いていって、改変した過去は採用されることなく歴史から切り離されてしまう。アスウェルの頭にストックされるだけ。失敗した小説の書き直しみたいなものだね。それを覆す為には、そいつらを黙らせるほど魅力的なシナリオを書くしかないだろう』
詳しくは思い出せないが、それはどこかの世界のラキリアが言った言葉のはずだ。
基準点を満たす行為とは何なのか。
復讐を果たす事、レミィを守る事だろうか。
情報が少ない、今考えても分からない事か。
友人の華奢な体を起こして、背中に担ぎ上げる。
「アス……ウェル……」
「喋るな」
クルオは生きていたようだ。そうでなければ、巻き戻りのループの輪から外れた意味がない。やれと思ってできた事に大しては正直驚いたが。
ここで時間をロスした分だけ巻き戻る時間は少なくなるのか、そこの所は分からないが、いずれにしたとしても見捨てる選択肢はなかった。
「き、みは……」
余計な事で体力を使うなと言いたい。
いくら致命傷を避けていたとしても、放っておいたら自然に死ねる傷には変わりないのだから。
「だいじょうぶ、だ。知り合いに……教えてもらった暗示を、かけて……痛みを制御してるから、それほど……辛いわけじゃない」
知らない間にただの薬学士が何を覚えている。馬鹿か。いや、馬鹿だったからここにいるのだろう。
それは十中八九、アスウェルを追いかけ続けるために覚えたものだろう。
まったくアスウェルはどうかしていた。
何故、こいつを撃った。
クルオは荒事など一切したことがない、軟弱な人間だどいうのに。
どうして、そんな事をしたのか分からない。
自分の行動なのに、理解できない。
その動揺がクルオに伝わったのだろう。
幼なじみと言うのは、だから厄介だ。
「君のそれ、は……副大罪の器の……影響、狂気だろう。クレ……聖域の主に会う前に……レミィちゃんと会ったから、そのせいで……」
「ラキリアに会ったのか?」
「いや……」
弱く首を振られる。違うようだ。帝国軍の彼女が知っていたのだから、他の人間でも大罪の事は知っているのかもしれない。クルオに軍の知り合いがいたのは驚きだが。しかし、レミィと会った事を何で知っている? クレファンの事も。
「言わ、ない……」
頑固者が。
だが、クルオが言った事が本当なら、アスウェルが聖域に訪れる事が出来たのは、その凶器とかいうもののいきょうなのだろうか。
「はは……、ここにいる君とこんな会話ができるなんて、嘘みたいだ」
呟かれる弱々しい声に、思考が乱れる。
だから余計な事を喋るなと、言わなければ分からないのだろうか、こいつは。
いや、言ったとしても聞きはしない、か。
自分の体力を考えて行動して欲しかった、本当に。
「やっぱりレミィちゃんの、おかげ……かな。何度も屋敷で、過ごした……時間、は無駄じゃなかったみた……いだ」
「お前は、覚えているのか……」
アスェルが体験した巻き戻りを、記憶しているのか。
そうでなければそんな言葉は出てこないはずだ。
こいつは覚えていたのに。アスウェルに撃たれて、こんな目に合わされたのに、わざわざまた俺の前に現れたのか?
馬鹿だろう。正真正銘の馬鹿だ。何でお前がアスウェルなどの友人なのだ。
「と……」
かすれ声だったが聞こえた。
友達、だからな、と。
こんな奴を友人に持つんじゃ無かった。
アスウェルには、もったいなすぎる。
「もど……れ」
足が止まる。担がれていたクルオが、抵抗したからだ。自分の足で立とうとして一度よろめいた。
けれど、支えなしでその場に立ち、こちらに強いまなざしを向けてきた。
射貫くような、硬い意思を込もった視線が正面から交差する。
クルオは今までのぐったりとした様子が信じられないくらいの強い声を出して続けた。
「アスウェル、君は過去に戻れ」
顔面蒼白で、その体からは今も血が流れ続けていると言うのに。
「馬鹿を言うな」
何の為にこんな、望みとかけ離れた世界に戻って来たと思ってるんだ。お前を助ける為だろう。
書き換えられれば無かった歴史になるはずのこの時間に戻って来たのは、一人で倒れているお前の事が放っておけなかったからだというのに。
「馬鹿は、君だ。僕は、大丈夫だ。……巻き戻りの仕組み、正確な事は分かっていないんだろう」
そうだ。
列車事故に遭って巻き戻ったと思っていた事実は間違いで、間違いで記憶を取り戻した今なら分かる。アスウェルは、それから1日後の帝国歴1500年1月1日にウンディの町にある水晶屋敷でレミィに殺され、巻き戻ったのだ。
だが、必ずそれが原因であると言う確証はない。
「早く、それを探せ。間に合わなくなる前に」
時間があるうちに、目に見えないあるかないかも分からない刻限が過ぎる前にと。
そこに、白い鳥が舞い降りる。ラキリアの鳥だ。
鳥はけれど、次の瞬間に光の塊となって、白い髪の少女となり、その場に現れたのだった。
レミィと同じくらいの十三、四くらいの歳の少女だ。
その体は薄く透けている。
「アスウェル、レミィを助けて。私の友達を助けて。早く、時計を探すの。レミィが持っていた時計よ。毒姫の形見、それが巻き戻りの鍵だから」
必死の様子で言葉を紡ぐ少女は、姿を揺らめかせ消えそうになりながらも、そんな言葉をアスウェルに伝えて来た。
「時計……」
そうだ、見た事がある。
魔人排斥派の人間がウンディのホールにやって来た時、レミィが修理に出していたらしい時計。妹がアスウェルにくれた物とそっくりだった、あの時計だ……。
あれが巻き戻りの鍵なのか。レミィに殺された事ではなく?
「急いで、イクストラに回収されてしまう。この歴史の今のレミィはもう、奴隷契約の状態でもないの。彼女に……死神に乗っ取られてしまってるの。もう、どんなに呼びかけても……帰ってこないの!」
素性の知れない相手からの言葉だ。
きっと、昔のアスウェルだったら信用などしなかっただろう。
ライトの事もある。簡単に人の言葉を鵜呑みにできるはずもなかった。
だからアスウェルは、理屈ではなく感覚で考える事にした。
どこかの世界でこいつと出会っていると言うのなら、その俺に教えてもらおう。
未だ記憶は全て戻ってはいないが、戦い方も信用も思いも、この身には刻まれて残っていたのだから。
「……信じてやる、お前の言葉を」
己の内に問いかけた答えは、そうだった。
ほっとした様子の少女はすぐに白い鳥へと姿を戻してしまう。
「クルオ、待ってろ。必ず過去を変えてくる」
「ああ、行ってこい。でも大人しく待ってはいないぞ。すぐに追いかけるから」
相変わらずしつこい奴だ。
アスウェルは踵を返して、屋敷の奥へと再び戻った。
レミィの部屋、一番有力だろう場所を目指して走る。
時間が無い、急がなければ。
急くままに廊下を駆けるのだが、ふいに屋敷の床を壁を、雷光が走り始めた。
火花が散るような音を立てて、断続的に光が明滅する。
「……っ!」
体が熱せられたように熱い、外側ではなく内側を直接温められているような感覚だ。
ふらついて壁に手をつけば、火傷のような傷を追った。
そして、追い打ちをかけるようにかけるように、体の中で無数の針で刺されている様な刺激が発生する。
「が……っっ……」
どこからか漂てくる刺激臭。毒物の匂いが鼻に突いた。子供の頃、クルオの父親が扱う薬品の、その匂いを誤って嗅いでしまった時の感覚に似ている。忘れたくても忘れられない、アスウェルは解毒薬を呑んで三日寝込んだのだから。
あれは、確か大昔に満ちた毒姫の毒のサンプルだった。
狂想化の原因となる毒。そんな物が、禁忌の果実の人間がいた屋敷に満ちている。
このままここにい続けてたら、境人と同じように理性を失くした化け物となってしまうだろう。急がなければ。
たびたび起こるその悲劇にも奴らは関係しているのか。
「う、ぐ、あ……、があっ」
だが、こらえきれない痛みに襲われ膝をつく、灼熱の頬で焼かれるような痛みの発生源、右腕を見れば、腕が……溶けているのが分かった。
身を焦がすような痛みすら忘れて、湧き上がる忌避感に視線を逸らしたくなった。
先程雷光が這う壁に触れた肌が最もひどい。
溶けて、肌色の塊となって、己の意思とは関係なく蠢く肉塊。見た事がある。
屋敷で変わり果てた姿となった使用人達と同じだ。
屋敷内部で断続的に発生している、謎の雷光が原因……?
「毒姫の形見、見つけた。時計は回収したわね。一体どんな力があるのかしら。あら……? 貴方、生きてたの?」
慢心創意の状態でたどり着いたレミィの部屋では、死神……ではないイクストラが時計を手にして立っていた。
そいつを取り戻したいが、アスウェルの体はもう限界だった。
部屋の入り口で崩れ落ちる。
「その体はお前の物じゃない」
「そうかしら。レミィが使わなくなったらこれは私の物なのよ」
戯言をいうな。
「もう虫の息だけれど、とりあえず死になおしておいてね」
体を動かす事が出来ない。
銃を握るどころか、指一本すら。
息を吸う事すら、満足にできない。
そいつは虚空から出現させた長槍を手に持って振り上げる。
「あら、抵抗しないの? お利口さんね。不気味なくらい」
アスウェルに突き刺さる瞬間、イクストラの持つ時計が光ったような気がした。