16 刻限
1月27日
もうすぐ、アスウェルが屋敷に来て約一か月の時間が経とうとしている。
レミィの具合は日に日に悪くなるばかりだ。良くなる気配はない。
見かねたアスウェルは屋敷を出て、ウンディの町を歩き回っている最中だ。
目的は、情報収集の為ではなく人探しの為。
目当てはいつか、出会った少年……ライトだ。
禁忌の果実を追っているという組織、ネクトの構成員の手を借りられないかと考えたのだ。
今までは人の手を借りるなど考えてこなかったが、そうも言ってられない。
禁忌の果実を追って無事な人間など見たことなかったが、いる以上はそれなりに上手くやれている者達なのだろう。群れるのもつるむのも嫌いだが、個人的感情はともかくこの際置いておく、フィーアがいるのだから当てにはなるはずだ。
会えるかどうか分からないが、そいつらの事を信用してやるしかない。聞いた通りの組織なら、レミィの事を悪くはしないはず。
そもそもの話誘拐犯の下に被害者がいる時点でおかしいのだ。目に見えて分かりやすい害を感じていなかったから、のうのうと過ごしていたがすぐに離れるべきだったのではないnか。あんな場所で長期間いるなど、まずかったのではないのだろうか。
レミィの不調の原因はボードウィンが絡んでいるのかとも考えたが、確証はなかった。
とりあえずは、もう潮時だ。
屋敷を離れるしかなかった。
これ以上過ごせば取り返しのつかない事になるかもしれないし、要らぬ危険を背負い込みかねなかった。
そういうわけで数日前に出会った金髪の姿を探して町の中を歩いてゆくのだが……。
苦労したかいはあった。数えるのも嫌になった行先の建物内で、目当ての人物を発見する。当たりだったようだ。
アスウェルは幸運の女神とやらに祈った事はないが道端で偶然そいつと出会った時は、存在を信じてやっても良いとは思った。
「おや? 君は確かいつかの……」
「顔を貸せ、人間一人の保護を頼みたい」
使用人全部を受け入れろとはさすがに言えないしそこまでする必要はおそらくないだろう。
まさか、問答無用で、脈絡もなく害されるなんてことはあるまい。レミィと彼らは立場や事情がまるで違うのだから。
オリジナルの世界でも、目撃情報はあったのだから。
だが……そう思ったのは、間違いだった。
レミィの保護を頼んだその後は、組織のメンバーに引き合わされてしつこく勧誘され話が長くなった。
ライトはともかく、やたらやかましいフィーアに目を付けられてからは、一言で済む話を二言も三言も膨らまされ、物凄く面倒になった。
他の人間も見たが、みなアスウェルと同じように家族を殺されたり、攫われたりしたものばかりだった。よくそんなに無事だったと思えるような人数がいて、驚いた。今まで活動してきたのに、そんなに同じ目的を持った人間がいたなどとは、かけらも知らなかったのだから。
もしかしたら誰かが情報を意図的に歪めているのかもしれない。誰が、とかそこまでは見当もつかないが。
屋敷へと帰り道にアスウェルは、何故かもうすぐ屋敷に滞在して一か月になるなと、益体もない事を考えていた。
一か月。
すぐ近くに仇がいるというのに、これほどの時間を無為に過ごした事は今までなかった。
自分は何をやっているのか。このままでいいのかと焦りが湧いてくる。
使用人の無実は分かった。守らなければならないものも増えた。約束も交わした。
けれど、肝心の目的は未だ果たせていない。
ボードウィンを始末して、知りたい事を調べるだけだと言うのに。他の厄介事が舞い込んでくるから集中できないのだ。無駄な事だったとは思わないが。
いっそ、あの者達と関わる事がなければ……など、そんなもしもの可能性を思う。
馴れ馴れしい屋敷の使用人達も、最初は距離を置いていたくせに妙にこちらに親し気にしてくる少女などいなければ、アスウェルは復讐の事だけ考えて生きていただろう。
だが、そうだとしたらそれはなんて……。
「寂しい人生……か」
なんて寂しい事なのだろうと、そう思った。
復讐の事だけ考えて生きていた時は気が付かなかったが、そんな生き方は寂しいだけだ。
人と触れ合わず、平穏を拒絶して、自ら進んで不幸でい続けるなど。
クルオはそんなアスウェルの姿を見ていられなかったのだろう。だから行く先々で現れて止めようとしてくる。
アスウェルはもう、知ってしまった。
いや、思い出してしまった。
とうの昔に失った……人と接する時間を、誰かと過ごす時間を、温もりを、平穏を。
もう一度忘れるなど、もう自分にはできそうになかった。
だから、守りたいのだ。
今は消えてしまいそうになっているそれらを。
……クレファン。すまない。
怒るだろうか。
アスウェルは、もう家族の事だけ考えて妹を助けるために生きてはいけない。
けれどだからといって諦めるつもりはなかった。
生きているかどうか分からない。そんな事に甘えて諦めるつもりなんて、絶対にない。
必ず見つけてやるつもりだった。それまでは……。
待っていてほしい。
帰って来た。
足を止める。
たどりついた屋敷は、日が暮れている状況もあり、薄気味悪く見えた。
そういえば、あまり遅くなるようならその旨を使用人に先に伝えて置いておかなければならないのだった。言ってない。
連中に門限がどうのとか騒がしく小言を言われるかもしれない、そう思いながら屋敷の玄関に向かうアスウェルだが……。
妙だった。
屋敷は不気味な程に静まり返っていて、明かりも灯っていない、人の気配もしない。
扉を押すと扉はあっけなく開く。
中へと入るが、帰って来たという気はしなかった。
帰る、か……。
いつからそんな風に思うようになったのだろう、敵の一人がいる場所で、家でもないのに。
静まり返った屋敷を、を、警戒しながら歩を進めていく。
「……」
「……」
「……」
建物内に満ちるのは無言の空気のみ。
響くのは自分の足音だけ、それ以外には何も聞こえない。
「おい、誰かいないのか」
答える声はない。
明らかに異常事態だった。
アスウェルは、レミィの私室へと走る。
「入るぞ」
たどり着いた先に人の気配はなかった。
だが、他の部屋と違って、レミィの部屋のドアは開け放たれていた。まるで何かがあって慌てて飛び出したかのようだ。
屋敷内部には誰もいない。
いや、そんなはずはないだろう。
なら、奴らはどこへ向かったというのか。
次は……ボードウィンの私室へと向かった。
そろそろ日が落ちて夜がやってくる。そうなれば明かりのない建物は暗闇の中だ。
徐々に闇に染まっていく景色。音のない空間にいれば、時が止まったかのような錯覚に陥った。
外からの虫の音や風の音もそよぐ木の葉の音なども、一切耳には届いてこない。
まるで、別の世界にでも来てしまったかのような感覚だ。
「ぅ……ぅ…ぉ……」
その中で、人のうめき声のような声を聞いた。
「誰かいるのか」
「……ぉ……ぅ」
苦しげにも聞こえる声、怪我でもしていて満足に喋れないのだろうか。
しかし……。
アスウェルは己の目を疑った。
暗闇の中から、ひきずるような音を響かせてこちらに向かってくる存在がいたからだ。
それは肌色のぶよぶよとした肉塊だった。
人の肌を粘土のように丸めて、柔らかい塊にしたらあんな感じになるだろうと、そんなように思える、物体。
肉塊からは、手足が出鱈目に生えていて、よく見れば、他に口らしきものなど顔のパーツらしきものが表面にくっついている。
「……っ」
これまでさんざん厳しい光景を見てきたアスウェルだ。
人の死体や、怪我を負った人間も見てきた。
だが、そんな自分でもそれに対してだけは、平静ではいられなかった。
「何だ……何なんだ、これは」
人間の形に似た何か、得体のしれない物体。
それが、目の前で不気味に蠢いている。
禁忌だ、とアスウェルはそう思う。
禁忌がそこにある。
決して人が触れてはいけない禁忌が、その象徴がそこに。
超えてはいけない領域を踏み越えてしまった、その先にある地獄に、アスウェルは迷い込んでしまっているのかもしれない。
屋敷の牢かで蠢いている肌色の物体。
それは手で足で、時には表面にある何かしらのパーツを使いながらこちらへ向かって来ようとしていた。
「ぉ…ぉ…」
「……っ!」
込み上げる嫌悪感をこらえる。
目の間に存在する冒涜的な何かに向けて、瞬時に標準を会わせて、引き金を引く。一度、二度。
鉛の銃弾が肌色の肉塊を貫き血しぶきが舞った。
一発二発では動きを止められなかったから、何発も撃った。
ようやく動きを止めたそれに注意深く近づき確認する。
気持ちの悪い物体、その手足に何か糸のようなものが絡まるのが見えた。
それは……よく見たものだった。
「レン……?」
使用人の中でもまとめ役のような存在であった女性の、髪色によく似ている……様な気がする。
そんなまさか。
あり得ない。
そう思っていると、背後から物音がして、同じような肉塊が現れてきた。
アスウェル考えるのをやめて、勘に従っておそらく一番この屋敷で重要である場所、ボードウィンの私室へと急いだ。
部屋の前にたどり着く。
だが、扉は固く閉ざされていて開けられなかった。
中からは人の声が聞こえて来た。
耳慣れた声。
守りたいと思った少女の、約束を交わした少女の声が。
「いや……っ、やめてください……っ」
「レミィ!」
「あ、アスウェルさん! きゃ……っ!」
「待ってろ!」
銃で狙いをつけて、ノブを破壊する。
扉を開け踏み入るが、中に人影はない。気配すら消えている。
そんなはずはないのに、だ。
「レミィ! どこにいる!」
声は聞こえない。
だが、風が一筋吹き込んできた。
窓が己の存在を主張するように開け放たれている。
飛び降りたのか……。
下にはちょうどよく足場になりそうな、木が生えている。
アスウェルは急くままに、窓から外へ。
だが、それは失敗だ。
アスウェルは屋敷の外へと駆けていく。
その時の判断を後悔する事になるとは、まったく思わずに。