07 心の傷
レミィと猫一匹を遠ざけた後に、クレファンは話を続ける。
庭園の噴水あたりではしゃぐ声が消えてくるが意識から遮断。話に集中する。
「貴方はアスウェルと言いましたね。端的に言えばレミィは、アスウェルの追っている組織、禁忌の果実の被害者です」
「そう、か……」
改めて聞かされた事実なのだが、そうではないかとは思っていた。
そう推測できるような話を聞いたのは、つい先程の事だ。
とある組織にレミィの両親を殺害された話と、そしてその後で誰かに捕まったと言う話。
屋敷には現在進行形で禁忌の果実がいるので、まったく関係ないと考えない方がおかしいだろう。そう思いたくはなかったのだが。
禁忌の果実。
だから、か。
もしかしてレミィは捕まった時にクレファンと会った事がある……のか?
「ええ。最も彼女自信は、クレファンの姿を見た事自体は詳しくは覚えていないでしょうけれど。会っていたとしてもその時の彼女にとっては景色の一部だったはずですから」
非常時に人の顔など覚えていられないというわけか。
だが、そうか。
生きていたのか。
少なくともその時までは。
希望が繋がった気がした。
もしかしたら駄目かもしれないと、今までそう思った事もあった。
けれど、生きていたと言うのなら。
アスウェルはクレファンと生きる未来を諦めなくて済む。
胸の内に満ちる物にもうしばらく浸っていた方が、そう足踏みはしてられない。やるべき事は山ほどあるのだから。
「お前はなぜ、そうもレミィの事情を詳しく知っている」
「聖域の主ですので。お見通しということです」
個人的な事情を知り過ぎだろうと相手に尋ねるのだが、向こうに話す意思はないようだった。
それともそのままの意味という事なのか。
「あいつは禁忌の果実の被害者で、狙われた事があった……」
そして、今は聖域での治療とやらが必要な身らしい。
花畑で能天気にネコと遊びまわっている少女を見つめる。
その光景は平和そのものだが、見かけ通りではない事はもう分かって来ていた。
キタリカの浜辺でした先程の会話。
そこでの会話を経てなお気が付かないのであれば、それは愚か者だ。
「……そう、今ああして笑っていられるのは表面上でしか過ぎない事。レミィは捕まっている間に、彼らに成された実験によって治療が必要になりました」
「アレイスターがすぐ助けたんじゃないのか」
「ええ。私が彼に救助を依頼したので、禁忌の果実に新しい実験を行われる事はありませんでした。保証します。私が言っているのはそれよりももっと前の事なのです。貴方が考えているよりもっと前、ずっと前から彼女は彼らの言う実験の被害を受けていたのです」
どういう事だ。
両親が殺されてすぐ、あいつはどうにかして逃げたんじゃないのか?
それで、追って来た奴らに捕まったのでは?
あいつは何度も組織の厄介になった事があると、言っているのか?
「ええ、消したくとも容易には消せない傷を、彼女はたくさん負わされたのです。その傷は、想像以上に深かった。最古の魔人の手によりレミィが聖域へ運ばれてきた時、私は驚きました。一刻も早く治療を行わなければ取り返しのつかない事になる、……とそう思ったくらいで」
「奴らの手にかかって無事だった者など、俺は知らない」
ずっと連中を追いかけてはいるが、奴等が何か非道な事をしているのは知っていて、人間を使っているかもしれない事は把握していた。だが、使われたらしい人間の生存記録はどこにもなかったのだ。ただの一人も見つかっていない。
生き延びたものがいないからからこその手がかりの少なさ、情報の少なさで、あちこち旅をするアスウェルが苦労するという原因になっていたのに……。
クレファンが生きていたのは昔の事とは言え、アスウェルは今まで妹の安否すら知らなかったくらいだ。
「レミィは奴等の実験を乗り越えた……、いや連中に生かされたのか」
何か目的があって、使い潰されることなく生かされているのではないか。
そう思うが、眼の前の女は首を振って否定する。
「いいえ、違います。レミィは乗り越えたのですよ。彼女は彼らの実験、第三計画の唯一の成功体。人間でありながら魔人にされてしまった者なのです」
こいつは計画を知っているのか。いや、それよりも……。
「人為的に魔人に、だと。そんな馬鹿な事が」
人に動揺するところを滅多な事では見せないようにしてきたアスウェルでも、それは衝撃的な事だった。
驚きを隠せない。
人間と魔人は見た目こそ似ているものの、決して越えられない種族の違いがあるというのに。
なろうと思ってなれるわけがないのだ。
だというのに、レミィは魔人になった、らしい。
奴らの目的、禁忌の果実の目指すものとはそう言う事なのだろうか?
第三計画とは、そういう狙いがあるのだろうか?
生きている人間の、その存在の根幹を揺るがす決定的なものを変えてしまう。
人の手が及ばない領域に手を出す禁断の行為。
人でも魔人でもない、三番目の存在を作り出す事。
それが本当なら、連中はそんな事をして一体何がしたいのだ。目的は?
「計画の事は……」
「詳しくは知りません、レミィの記憶を知っているだけですので」
「そうか」
そう簡単にはやはりいかないようだ。
遠く、噴水ら辺で遊んでいるレミィの声が耳に入って来る。
「ムラネコさんにはどうして羽が生えてるんでしょうねー。普通の猫さんには生えていないのに」
「にゃっ」
「でも、羽の生えた猫さんと遊ぶのは楽しいだろうなって昔思った気がします」
「にゃにゃっ」
「私はとっても楽しいですっ」
「うにゃあっ」
不覚だが、少し癒された。
やはりあれは演技じゃない。
レミィの元の素が、境遇で隠しきれるような代物ではないのだろう。
「ここでようやく話が戻りますね。レミィがここで受けている治療の理由です」
「それは……」
禁忌の果実で受けた実験の、その治療ではないのか。
「そちらの後遺症もあるにはあるのですが、完治するものですよ。安心してください。けれど、身体的な怪我は自然に治りますが、精神的な傷の方はそう簡単には生きません」
「心の傷、か……」
「はい、それでこの場所です。この聖域は貴族が訪れるような不可侵の神聖な場所なのではなく。傷つけられた人の心を治療する場所なのですから」
大きく頷いたクレファン。
今まで聞いていた常識の話とは、百八十度方向性が違うものだが、ここでの景色を見ていれば新たに聞かされる話の方がしっくりくるような気がした。
「魔人となる前、レミィはおそらく禁忌の果実の者達に奴隷契約をさせられていました。それがどういう物か、どういう事だったのかは私が詳しく説明しなくとも、帝国にいた貴方ならばご存知でしょう?」
そうだ。それに関してはもう分かりすぎるくらいに、分かり切っている。
意思を奪われ、命令を強制させられて、物の様に扱われる。
奴隷となった物に、人間としての生はありえないのだ。
「彼女は元々は人間でしたが、魔人になる過程で無理やり魔人に行う契約を結ばされ、その時の後遺症で記憶を破損させてしまったのです。喪失ではなく……」
「なら、あいつの記憶は戻らないのか……?」
奴隷契約を結んだ者は、記憶を奪われ。全てを契約主に明け渡す事になってしまう。その際奪われた記憶は、記憶結晶と言われるこぶし大の水晶の形に物質化されるのだが、それを破損させてしまえば、その行為は文字通りそのまま記憶を破壊する事に繋がってしまう。
「いいえ、壊された記憶はかろうじて回収できましたので、どうにか最悪の事にはならずに済んでいます……。今は、その記憶を修復している最中なのですよ」
「レミィが時々ここに来ているというのは」
「ええ、その為です」
「生活に支障が出てしまうので、ボードウィンもそれに関しては許可を出しているようですね」
そうだったのか。
逆に言えば、ここで治療をしなければレミィの状態は、それ程まずかったという事になるのだろう。
「あの貴族は……ボードウィンは、ここに来たのか?」
「これませんよ。まったく治療が必要ではないので」
「……」
だろうな。
立場故にストレスとかは抱えてそうだが、トラウマになるような事態に直面したり、命が危険に晒される様な危機的状況に陥ったと言うような事はなさそうだ。見た目からの推測だが。
「レインもきっと喜びます。ここは彼女の研究によって、辛い記憶に苦しんでいる人たちを助ける為に作られた場所なのですから」
レインか。
想像主に語られる様な人間なのだから、アスウェルの手の届かないような大昔の人間なのだろう。
どんな人間だったかは知らないが、そいつがいたおかげでレミィは今ここにこれている。
顔も知れないそいつに取りあえず感謝しておいた。
だが、聖域の事実にレミィをとりまく事情、クレファンの事に禁忌の果実……。
今日一日で、色々と常識が変わり過ぎだった。
レミィ自身もびっくり箱のようなとんでもない奴だが、この場所も色々な意味でとんでもない所だ。
一つ息をつき頭の中を整理する。
一度に衝撃的な事実を取り込み過ぎて混乱しそうだったが、冷静でいなければ。
事態は思った以上に複雑で、難解らしいのだから。
唐突に、そんな風に考え込むアスウェルの前、クレファンは手を差し出した。
その上に、小さな透明な石が出現する。
「想界のリンクを確認、共有領域/暮れの空から固有領域/明けの空へ動力を運用します。個体先を相互指定……」
そして何事かを呟いた。
理解できない単語ばかりだ。
「想命石と言います。これを使えば、ここへ来ずとも貴方がレミィを治療する事が出来ますよ。設定は済ませておきました」
そんな品物まであるのかここは……。
躊躇するが
しかし、クレファンは石を差し出したまま引かない。
「貴方でなければならないのです。一度レミィが信じていた貴方でなければ。受け取るだけでもしてはもらえませんか?」
そこまで信用される様な事をした覚えはないのだが、なぜにそんなにも過剰に期待を寄せるのだろうか。
分からない。
アスウェルはレミィに嫌われこそすれ、好かれているはずはないというのに。
しかし、クレファンが梃子でも動かなそうなので、アスウェルの方が動くしかなかった。
「ありがとうございます。レミィをお願いしますね」
一番大変だった時に自分が助けてもらった、そんな大切な思い出を忘れていたような男に、誰かを助けて支えられるような行動を期待しないでくれ、とそう思う。