06 聖域
巻き添えをくらったと思ったら、次の瞬間。
長い間忘れていた記憶を思い出した。
星の塔の記憶。
そこで出会った人間の事、交わした会話の事、過ごした時間の事。
なぜこんな大事な事を立忘れていたのか。
そこでの出来事があったおかげで、アスウェルは家族を殺されたと言う絶望から、立ち直る事が出来たと言うのに。
今なら分かる。
アスウェルはその記憶があったから、最初に出会った時からずっとレミィの事が気になっていたのだ。
あの少女、星の塔にいたマツリとそっくりな顔をしたレミィの事が。
気が付いたら、アスウェルはキタリカの海辺ではない……まったく別の場所に立っていた。
最近も同じような事があったと思い出す。
意識を失ったら別の場所に移動してしまう呪いでもかけられているのだろうか。
周囲を見回す。
そこは、以前歩いた場所と同じで白い柱が並んだ通路があった。
前と、そして背後を見るが、通路は果てしなく続いていて終わりが見えない。
あの時舞い降りた白い鳥は今回は現れないようだ。
こうしていても無駄に時間が過ぎるばかりだろう。仕方なく前へ……立っていた時に向いていた方へと、歩き出す。
やがて辿り着いた先、通路が途切れた場所は空の中だった。
正確に言えば空に浮かんだ花畑の中。
花が咲き乱れ、水が流れる水路が張り巡らされている。
噴水や、ちょっとした日よけの屋根の下にはベンチも置いてある。
気のせいではない、前より物が増えている。
相変わらず平和そのものの景色。美に疎い方だと自称しているアスウェルでさえも、美しい場所だと間違いなく言える庭だった。
「にゃーっ」
その水路を、何故か浮き輪をつけ背に羽を生やした猫が流れてきたので、回収してやる。
レミィが海でネコと喋っていたみたいな事を言っていたような気がするが、これだろうか。
アスウェルには見えなかった生物。
あの場所に生物がいる事すら信じてはいなかったのだが、何となくこれがいたと思っていいような気がした。
レミィとよく似た、呑気そうな顔の猫だ。
そして、虎模様をしている。
「にゃっ!」
ネコはアスウェルの手から逃れた後、宙に浮かんでどこかへと進んで行く。
空に浮かぶ美しい庭で浮き輪と羽をつけた猫が空中に浮かんでいる。
現実とは思えない光景だ。
思わず正気を疑ってしまったが、それでアスウェルが目覚めてベッドの上で夢を見ていたと言うオチにはならなかった。
ネコを追って行くと、その先にはガラス張りの温室があり、内部にある寝台でレミィが眠っていた。以前は内部が見えなかった場所だ。
そこにあるのは、いつもみたいな能天気そうな顔でも無表情に努めている顔で顔もない。
ただこんこんと深く眠りについている、そんな様子だ。
――起こさないであげて、レミィは今治療を受けている最中なのだから。
声が聞こえて来て、前と同じように奥へ向かう。
水槽があって、底に女が一人浮かんでいた。
前と違うのは顔を覆っていた布がなくなっていることだろうか。そこにいたのは、妹にそっくりの顔をした女だった。
正確には、おそらく生きて成長していたらそうだったろう姿、だが。
「お前は……」
禁忌の果実に攫われ、未だ行方の掴めないはずの妹の姿を前にして言葉をなくす。
そうだ、声が少し似ている。遅まきながらそんな事に気が付いた。
どうりで聞き覚えのある声だと思ったら。
似ている。
けれど、似ているだけだとアスウェルには分かった。
目の前にいる者は姿こそそうであっても、決定的にアスウェルの妹とは違う存在なのだと。
「……一体、何者だ」
様々な思いを胸に、やっとの事で声を絞り出す。
しかし、女性は問いには答えない。
レミィのいる方を心配そうに見つめていた。
「彼女は今までとても辛い目にあってきて、心を砕かれてしまいました。そこでこの聖域で砕かれた心を修復する為、治療を行っているのです」
「聖域で治療?」
ここが聖域だと言われたことについても驚いているというのに、更にそこが治療を行う場所だとは。
そもそも聖域は限られた者……貴族しか入れない神聖な場所ではなかったのか。
全面的に信じていたわけではないが、本当に存在するなら、そう思うのが普通だろう。
こんな場所は、間違っても一使用人が入れるような場所ではないはずなのだ。
「選ばれた者だけが入る事ができるなどというのはまやかしです。ここは、気づいたものなら誰でも入る事のできる開かれた場所ですよ」
女の声に嘘の気配はない。
本当なのだろうか。
「無論、ここに来るのに、クリアしなければならない条件がいくつかありますが」
人にあまり触れられてない汚れや穢れの少ない水、そして夜の時間帯である事。
それに加えて、理由はもう一つ。
心に傷を負っているもの、だ。
「……聖域にいる創造主はお前か」
完全に聖域だと信じたわけではないが、そうでもしなければ話が進まないだろう。
アスウェルは目の前の女へと問う。
この世界の創造主たる神。
聖域とはその神が作る神聖な場所のはず、ならば必然的にもとからここにいた人間が神となるのではないか。
「いいえ、私はただ力が強いだけの生き物です。神であるなどとは、そのような事は勝手に人々が述べているにすぎません……。そろそろ終わりますね」
ゆるゆると首を振ってこちらの問いかけを否定した女は、言葉の最後でアスウェルの背後へと視線を移した。
「ふぁぁ、ん……」
しばらくして、寝ぼけまなこで歩いてきたらしいレミィは目をこすって、周囲をゆっくりと見回した後、アスウェルの姿に気づいた。
「クレファンさんおはようございます。あれ? どうしてアスウェルさんがここにいるんですか?」
お前に巻き込まれたせいだ。
それと寝ぼけるな。もう日は暮れている。
「驚きましたよ、レミィ。久しぶりの訪問かと思ったら溺れていたんですから」
「う……、すみません。つい海が楽しくて。はっ、ムラネコさんはっ」
「にゃー」
「無事で良かったですーっ」
思い出したかのようにレミィが猫の名前を出すという事は、アスウェルと話す前に遊んでいた猫がずっとあの場にいたということになる。信じられないが。レミィ意外に見えない猫なんて何で存在しているんだ、と本当にそう思う。生き物か、それ。
感動の対面を果たしているらしい少女と猫は置いといて、アスウェルには眼の前にいる女に尋ねなければならないことがあった。
「俺の妹の名前はクレファンだ。そしてお前は俺の妹の姿と似ている、名前も同じだ。どういう事だ」
「その方は、仮に使用させてもらっている者です。貴方達に縁のある人間の姿を仮の姿として代用しているだけですよ。神様ではありませんが、私の立場ゆえ、人の前にそのまま姿を見せるのは問題がありますので」
アスウェルは、レミィを見る。
レミィはその視線の意味が分からず首を傾げた。使えない。
無駄だったので、視線を女に戻して会話の中身について詳しく尋ねる事にした。
「レミィにも縁があるのか?」
「ええ。……レミィ、少しこの方とお話があるので、どこかで遊んできてくださいませんか」
「お話ですか。分かりました」
体のいい厄介払いだった。
気づいているのかいないのか、レミィは猫を抱え、兎の様に元気よく跳ねながら駆けていく。
本当にお子様な少女だ。