05 三つの理由
「ムラネコさん、水が冷たいですよっ」
レミィ・ラビラトリ……お前は何をしているんだ、と思う。
暮れた夜空の下。
人のいない海の水際では、使用人服を着た人影が一つだけあった。
浜辺には光源となるような物体……光る石が点々と置かれている。
あどけない顔の見慣れた少女は何かに向けて喋っているようだったが、彼女以外の人間などアスウェルの目には映らなかった。
視線の先が空宙に向かっているようなのが、理解できない。
まるでそこに何かが浮かんでいるかのような仕草だ。
レミィは空に手を伸ばして光輝いている星を手に掴む仕草をすると、その手の中に光る鉱石を出現させた。
そして、風を起こして、その石を浜辺へと飛ばす。
転がった石は他の石と同じように、光り続けて周囲を照らしていた。
「……」
お前はびっくり箱か。
見たままを言えば、レミィは鉱石を作り、それを光らせた事になる。
なんだ今のは。
今までさんざん色んな人間に出会ってきたが、ここまで訳の分からない人間に出会ったのは初めてかもしれない。
しばらく観察した後に近づいていくと、そのレミィと目が合った。
「はっ……」
「……」
沈黙と静寂。
無言で見つめ合った後、相手はさっと顔を背けて、また戻した。
今度はいつもの表情に戻っている。
「何か?」
御用ですか、とは続かない。
「何に話しかけていた」
「アスウェル様には関係ありません」
「独り言か」
「ちーがーいーまーす!」
頬をふくらませて、怒る少女は本当にすぐに化けの皮が剥がれる。
皮を被っているというよりも、頭に乗せてるだけような気がした。
アスウェルを追い越して、海から上がろうとするレミィ。
声をかける。
内容はそんなに大した事ではない。
そんなにも海が好きなら、着替えでも持ってるのではないかと、ただ思ったからだ。
さっき聞いたのもあるが、海はかなり好きそうだ。
「泳がないのか」
「泳がないわけじゃありません、泳げないんです。……あ」
有能なのは表情だけのようだ。この少女はどうも、根本的な所でおかしなミスをやらかすらしい。
そんな時に、空から一羽の鳥が降りてきて、レミィに手紙を何通か渡していった。
あの鳥は見覚えがあるような気がするが、いや……まさかだろう。
アスウェルは当然、何も言わずにその手紙をしまう少女に尋ねる。
「何だ、それは」
「手紙です、関係ないですっ」
それの物体名称については見れば分かる。
ぷい、と無表情に顔を背ける様子を見れば、少女がアスウェルに対してどう思っているか、分からない方がおかしかった。
ここでこうされなくても、それはすでに分かっていた事だ。
オリジナルの歴史で毎朝起こしに来ていたはずのレミィは、この世界では一度も部屋にやってきていないし、呼ばずとも向こうから寄り付いて来ていた少女は、ここではお客様と使用人という関係から距離を縮めてこようとしない。
「お前は俺の事が嫌いだな」
分からない方がおかしい。
レミィ・ラビラトリはアスウェル・フューザーを嫌っている。
理由はまったく想像できないが。
『アスウェルさんっ。私、海が見てみたいですっ。湖よりもっともっと大きいみたいなんですよっ』
分からない。
オリジナルの世界とこの世界にいるアスウェルに、何の違いがあるというのか。
目の間にいる少女には、もっと本来の……別の姿があるのに、なぜそんな風に他人行儀な態度をアスウェルにだけ見せるのだろう。
「……アスウェルさんは、傷つきましたか?」
「……傷ついたな」
「悲しかったですか?」
「悲しんだな」
そう言う事を人に告げるのは若干抵抗があるのだが、今は恰好を付けたとしても正直良い事がないだろう。嫌われるだけだ。レミィにこれ以上嫌われるのは避けたい。
「……アスウェルさんは、嫌いです。……ごめんなさい」
「なぜ謝る」
好かれる性格だとは思っていないが、初対面から大した事もしない内に嫌われる事は中々ない。
「今ここにいる貴方を嫌いになるのは筋違いだって分かってるんです。これは私の我が儘なんです。普通に接するなんて我慢できなかったから……」
「そうか」
つまりアスウェルは、レミィに嫌われた人間と相当似ている、そういうことなのだろうか。
そうだとしたらそいつに文句を言ってやりたいところだ。
「でも、人間なんですから。そうですよね。皆、綺麗な心ばかりじゃない」
付け足す様に言われた、レミィ自身が自分で納得する為の言葉。
その意味は分からない。
本人にも説明する気はないようだった。
嫌な目に遭わされたと言うのなら、こちらから掘り返さないほうがいいだろうか。
思考の海から戻って来たレミィは、こちらを見て話を続ける。
「たぶん、ここにいる貴方は近い将来私の事を疑います。そんな事になるのは私の本意ではありませんのでこの場で弁明させてください」
前にこっそり後をつけてくるくらいですし、と小さく呟くがそれについては分からない。
その前に、まず海から上がれ。風邪をひいて寝込んだりしたら面倒くさい。
「あ、ごめんなさい。ありがとうございます。……ふふ、やっぱりアスウェルさんは優しいです」
水中から引っ張り出してやればそんな風に、反応される。
どこが良かったのかまったく分からないが、今のやり取りはレミィの心情的にはかなりポイントが高かったらしい。
何のポイントかは知らないが。
「アスウェルさんが私を疑う主な理由は、推測できる限り三つ。私に聖域への立ち入り許可がある事、そして新参者の使用人なのにも関わらず個室を与えられている事、後は……お菓子、じゃなくて特別な報酬をもらっている事ですよね。色々考えてみたら、この事だろうなって」
「……」
アスウェルは答えられない、懇親会の時に不審に思ったのは事実だからだ。それをこの状況に平気で口に出せるほど自分の血は冷たくなってはいない。
距離を置かれてよそよそしく感じる事が日々の生活の中であったが、見かけによらずレミィはこちらの内心にしっかり気が付いていた様だ。
他の物達に無邪気に笑いながら、心の底が透けて見える様な、そんな平和そうな様子を見せながらも……。
あれは、演技だったのだろうか。
目の前、海の中に立つレミィは悲しそうな表情で言葉を続けていく。
「一つ目は話の都合を考えて後に回すので待ってください。二つ目は、そうですね……どこから話せばいいでしょう。私には過去の記憶がない、というところからでしょうか?」
「お前は海辺で倒れていた所を、屋敷の主人に拾われたらしいな」
それは最初の一日、採用の話をした時にボードウィンから聞いた内容だ。
どこの海辺かはそんな詳しいところまでは聞かなかったが。
レミィは拾われた人間で、屋敷の主人の好意の下で働いていると。
「はい、でもそれは今の主人ではなく前の主人です。半年ほど前に亡くなってしまいましたが最古の魔人アレイスター・クローリー様が私を拾ってくださったんです。海辺で倒れていた私は一度、とある良くない組織に捕まってしまったみたいなんですけど、そこでアレイス君……アレイスター様に助けていただいたんです」
「アレイスターか……」
「ご存知なんですか?」
レミィが記憶を失くした直後からとある組織とかいうのに捕まっていたのは驚きだが他に気になるのはその主人の事だ。アスウェルの命の恩人でもある魔人の事。
しかし、死んでいたのか。
聞かされた内容にアスウェルは驚くしかなかった。大昔から生き残っている最古の魔人だと名乗っていたから、殺しても死にそうにない奴だと思っていたのに。
あいつが生きていれば、レミィはオリジナルの歴史で死神になる事もなかっただろうに。
「奴には一度助けてもらった恩がある。見た目は生意気な子供だった」
「ああやっぱり、それはアレイスく……アレイスター様ですね。そんな事があったんですか」
思わぬ知人の接点で表情が緩みかけるレミィだが、すぐに引き締められる。
そういえば、ここにいるレミィはボードウィンの事をどう思っているのだろう。
家族を殺されたアスウェルに治療を施して銃の使い方を教えたくらいだ、戦闘能力が皆無なはずはなかった。最古の魔人とかいう物騒な称号を持っている事もレミィは知っているようだし、そんな奴が死んだという事を不審に思ったりはしないのだろうか。
そもそも、ボードウィンが禁忌の果実の人間だと言う事はレミィは知っているのだろうか。いや、さすがにそこまでは知らないだろう。知っていたなら、記憶がなくて寄る辺が無いと言っても屋敷から逃げ出さないわけがない。
「それで、二つ目の話に繋がるんですが……、アレイス君に拾われた時の私には、それまでの記憶がありませんでした。覚えていたのは自分の名前のような言葉と、両親の最後だけです。研究者だったらしいお父さんとお母さんが何者かに襲われて殺されてしまう最後……、それだけです。そこからどうやって逃げて来たのか分かりませんが」
結局倒れていた所を、良くない人たちに捕まってしまったんですが、と続けるレミィだが。
ひょっとしたら、と思う。
レミィの両親を殺した人間と、再び捕まえた人間は同じなのではないか
殺しの犯人から逃げて別の組織に捕まったわけではなく、最初から同じ人間に狙われたと考えた方が可能性が高い気がしてきた。
仮定の話だが、そうだとすればそいつらは何故レミィに固執しているのだろうか。
両親が研究者だったと言う事は、記憶をなくす前は普通の環境ではなく特殊な環境にいたのかもしれない。
記憶が戻りさえすれば、色々分かるのだろうが……。
しかし、何も覚えていないと思ていたのに、レミィにそんな記憶があったのか。アスウェルと同じで目の前で家族を亡くしているという悲劇の記憶が。
「……っ」
そう、考えた時、記憶の中の何かが刺激された気がした。
星の塔。追いかけてくる者達。年下の少女……。
そう、レミィとはもっと前に一度、どこかで会っていたような……。
「今でもその時の事を夢に見るんですよ。覚えてないはずのに、夢の中での私は全部覚えていて、それが辛くて……、ですから眠るのが少し怖いんです。それは二つ目の答えですよ」
続けられる言葉に意識を戻す。
レミィの言う言葉を信じるならば、一人部屋の答えは悪夢を見るレミィの、ただの個人の事情だった。
うなされるから人に迷惑をかけないようにしたのだろう。
「それ、奴がいた頃は逆だったんじゃないのか」
「よく分かりましたね。そうです。一人で寝るなって言われて、アレイス君と一緒に寝てました」
「………………」
そう言えばあいつ、アレイスターは最古の魔人何て仰々しい呼び方をされているが、見た目がアレなのだ。
幼いといえばいいのか、実年齢より低く見えるとでも言えばいいのか、アレはもはや魔法と言い表しても良いものだろう。いい年して何やっている。死にたいのか。いや、死んでいるか。
「それで三つ目ですが、本当に何でもない事ですよ? 頑張ったご褒美にお菓子をもらっているだけなんですから。たまに果物を分けてくださる時もありますね。美味いしかったなぁ」
その情報は最初に口を滑らせたときに想像できた。
「それで、最初の一つ目ですけど……そろそろですね。ついてきてください」
再び夜の海の中に入って、沖に向かって進み続ける小さな少女。
どうするつもりか知らないが、その光景はひどく危なっかしい。一人で来て足を滑らせたり、波に攫われたりするのは考えなかったのだろうか。考えなかったのだろう。だからいるのだ。泳げないくせに。
「もうちょっと深い所で潜った方が良いかな。でも、……あっ」
内心の不安が現実になったかのようだった。
その瞬間、盛大な波しぶきの音を立ててレミィが足を滑らせた。
「ひゃあっ、あわわ……助けてくださいアスウェルさん、私泳げないですーっ」
「足がつくだろう」
どうやらそんな簡単な事も頭から吹き飛んでいるようで、間抜けにも水面で暴れている。
ため息をついて手を貸そうとしたら勢いよくしがみつかれて、……アスウェルは巻き添えをくってしまった。