序章 星の塔
どこか分からない場所。
時空の狭間に存在する世界。
遠い遠い果ての先。
そこに存在していた、星の塔での記憶。
――それはアスウェルにとっては思い出すのも苦痛な過去であり、
――そして同時に胸の内にわずかな温もりをもたらしてくれる、そんな優しい記憶だった。
母と父は殺され、妹は攫われた。
幼かった頃のアスウェルは、その場にいたにもかからわず、碌な抵抗もするこできずに、ただ見ている事しかできなかった。
子供だったとか、そう言う連中を相手にできる様な嗜みは何一つ学んでいなかったからだとか、そんな言い訳で自分を慰められれば良かったが、生憎とアスウェルの性格はそうでなかった。
自分の無力がただひたすら悔しくて。
無力ゆえに奪われてしまった物の大きさに絶望していた。
その頃のアスウェルは、憎悪の炎を胸で燃やすよりも前に、心に空いた穴から湧き出す負の感情に捕らわれて、生きる気力を失っていた。
傷を負って倒れていた通りすがりの魔人アレイスターや、帝国の研究者見習いであったラキリアの力を借りても、未来に希望を見いだせないでいた。
そんな幼かったアスウェルはある時、一人の少女と出会う。
自分より背の低い、おそらく三、四歳は年下である少女に。
それはその時見た不思議な夢の光景の……、
けれど夢であって、夢でないようなリアルな感覚のある世界の話。
家族を殺した恐ろしい人間達……犯人達に追いかけられるという悪夢の中で、アスウェルは栗色の髪の、自分よりいくつか年下であろう少女に出会ったのだ。
「お前は、誰だ……」
見知らぬ場所。
見下ろす夜の空の下、高くそびえる塔の中にいた少女は、アスウェルを塔の中に引き入れ追いかけてくる者達から助けてくれた。
「大丈夫?」
顔色が悪いと、覗き込んでそう声を掛けて来た少女は、心配そうな表情になる。
奇妙な遭遇。
不思議な場所。
アスウェルは、胸に満ちていた絶望と恐怖を、驚きと混乱の感情であっさりと押しとどめられてしまって己の感情の行き場を失っていた。声をかけられた直後、その時はどうしただろうか。おそらく大分みっともない姿を見せたはずだ。
「ここは、一体どこなんだ。何で俺ばっかりこんな目に合わなきゃいけないんだよっ!」
「……」
「俺が何か悪い事したのか! こんな目に遭わなきゃいけないような事を!」
叩きつけるような声。荒々しい調子の言葉を何度も吐き出して、疲れて自然に口が止まるまで少女は静かにその場で聞き続けていた。
自分を助けてくれた人間、それも合って間もない少女にするべき事でなかったと、我に返った瞬間気づいて謝るのだが、けれど少女はそんなアスウェルの行動を笑って許した。
「言葉通りの思いをぶつけられたらさすがに怒ってたかもね。でもそうじゃないんでしょ?」
それに、すごく辛そうだったから、そういう感情はちゃんと吐き出した方がいい。……と、少女はそう続けて。
「思った事を思ったままに吐き出せない事は結構辛い事だよ。我慢するよりぶつけた方がよっぽどいいし、健康」
少女は胸を張って自慢げな様子で、アスウェルに持論を披露してみせる。
年下であると言うのに、ずいぶんと年上ぶった余裕を見せつけてくれる。
「外にいる怖い人がいなくなったら、帰ると良いよ。それまで好きなだけここに居ていいから」
「……あ、ありがとう」
建物の内部、窓の外を見れば、犯人達がうろついているのが見えた。
アスウェルが走ってきた方向は暗闇で見えない。
視線を上に向ければ、星月のない漆黒の空があって、一つだけ血の様に赤い星が瞬いていた。
アスウェルは今まで、家族が殺されてから毎日夢を見ていた。
偶然通りがかった最古の魔人、アレイスターに助けられて一命をとりとめたものの、変わっててしまった日常を前にして生きる気力を取り戻せないでいたのだ。
自分の無力に、絶望して。
自分一人でこれから生きて行かねばならないという日常に、絶望して。
家族のいない未来に、絶望して。
その頃のアスウェルは、常に絶望の気配を纏いながら過ごしていた。
アレイスターや知人のラキリアに心配されながらも、彼らの優しさに気づく余裕すらなくして……。
不思議な事に少女にあった影響か、それらの事を今更ながら、気にかけるだけの余裕が少しだけだがでてきていた。
「俺は、無力だ。何もできない。家族を守れなかった」
「そっか、いなくなっちゃったの? でも、子供だったら何もできないのは当然でしょ? 何でもできたら子供じゃない。そんなの人じゃない」
そんな事は分かっている。
だけど、少女の励ましの言葉は、素直に受け取れなかった。
何も知らない人間に言われたところで、心はそう簡単に動きはしないのだ。
「後悔してるのに、頑張ろうって思えないんだ。だって家族がいないのに頑張る意味なんてない。だから、皆に励まされてもそんなの応えられない」
「辛いの? なら頑張らなくてもいいよ。今はまだ、そういう時でしょ? 誰だってすぐには頑張れない。それが普通。甘えて休んでてもいいんじゃないかな」
けれど、そんな鬱屈とした感情もすぐに忘れてしまう。
塔の中へと続く長い階段を降りてそこに辿り着いたとき、驚いた。
塔の内部であるはずにもかかわらず、天井が高くて頭上が見えない。
ありえないはずの不可思議な光景に、驚いた。
時間にして数分。そこまでの距離を下って来たわけではないというのに。
森は鬱蒼として薄暗かったが、居心地の悪さや不気味さは感じなかった。
足元を綺麗な石がカラフルに光って照らしていたし、虫の音が賑やかに鳴っていたからだ。
まるで空想の中の世界にでも入り込んだかのように錯覚してしまう。
けれど、そこにある物の存在感は確かに感じられて、地面を踏みしめる感触も、匂いや動作する時の感覚もリアルなもの。
夢の中だと思っていたけれど、ここは本当にどこかに存在する別の世界なのではないかと思ったくらいだ。
「綺麗だな」
「でしょ?」
得意げな少女。
友人であったクルオに、素直じゃないとかよく言われるアスウェルだったが、この時ばかりは意地を張って否定する気も起きなかった。
「一応食べ物もあるし、眺めの綺麗な遊ぶ場所もある。奥には寝床もあるから、怖い人達がいなくなるまでここにいなよ」
出ていく事ができないなら、中にいるしかない。
中々覚めない夢の中、アスウェルは不思議な少女と共に、幾日かの時を過ごす事になった。
外には出られず塔の中に常に缶詰にされたような状況だが、閉そく感などはなく、アスウェルの身の回りは驚くほど不便な事は存在しなかった。
室内とは思えない広大な敷地に、本物としか思えないそれらの存在感。
アスウェルは、そこでの日々を、少女と一緒に過ごして、……むしろ活発な少女の相手をする為に、日々を遊んだり、食べ物を食べたり、眠ったりと、たくさんの時間を費やした。
少女はたまに探し物と言って、アスウェルに時計の材料を探させたりしたが、それ以外はまるで普通の子供みたいな生活だ。
朝起きておはようと言う人がいて、一緒に遊ぶ人がいて、夜眠る時もお休みを言える人がいる。一緒にテーブルについてご飯を食べる人がいて、他愛もないお喋りをする人がいる。
そんな……もう永遠になくなってしまったはずの時間は、絶望に塗りつぶされ、疲弊していたアスウェルの心を癒していき、枯れた心に沁み込み必要なだけの潤いをもたらして行った。
そして幾日か過ぎた後、アスウェルは素直に思った事を口にしていた。
「ここから出たら、俺と一緒に住もう」
言葉を受けた少女は目を丸くする。
少女は一人でその塔にいるらしいので、なら自分と来ても問題はないだろうとそう思って発言したのだ。
後から考えれば、何て事を口走ったのかと思うが、子供だったアスウェルはただ単に一緒に住む以外の意味なんて分からなかったし、気づけなかった。ただ本気でそうしたいと思ったのは確かな事実で、気づいたらよく考える前に口にしていたのだ。
覚えてる。
いずれアスウェルが攫われた妹を取り戻した時に、母と父がいないのは寂しいだろうから、だから少女もそこにいてくれれば賑やかで良いはずだと、そんな風に重ねて言いいもした。
だが、少女は答えない。
「明日になったら、怖い人達居なくなると思う。だから外に出れるよ。良かったね」
その言葉通り、翌日、塔の外にいたそいつらは影もなく、完全にいなくなっていた。
その代わりとでもいうように、塔の内部は蠢く暗闇で満たされていく。
それらは人の手足をした塊で、アスウェル達を捕まえようとしてくるのだ。
アスウェルは少女の手を引いて外へ出るために走った。
「あたしはアスウェルと似てるんだ。でも、お父さんとお母さんを壊しちゃったのはあたしのせい。お姉ちゃんが最初に死んじゃったから。だからあたしはお姉ちゃんの代わりになってたの、ずっと……。心も体もぜんぶ自分のものだとは思えなくなって、絶望して……。だからもうすぐ死んじゃうと思う」
「死ぬとか、そんな事言うな……っ。ここから一緒に出て、また遊ぶんだろ!? ご飯食べたり、話をしたりするんだろ!?」
ここはきっと絶望した者が来る世界なのだ。
心に傷を負った者が、その傷を癒す為の世界。
アスウェルは立ち直れた。
けれど、明るそうに見えた少女は、元気そうに振舞いながらもずっと絶望していたのだ。
だから回復できなくて心が死んでしまいそうになっている。
「どうすれば俺はお前を助けてやれるんだ。何をすればお前は生きてくれるんだよ……っ」
一緒に過ごしてきてたのに、アスウェルは何も気が付けなかった。
見た目しか見れていなかった。
握りしめた手は、今までずっと温かかったのに、冷たくなってしまって氷の様だった。
下へ降りるために階段へ向かう。けれど、そこからも闇は蠢いてきていて、アスウェル達は袋小路に行きあたると分かっていても、上へと進まなければならなかった。
「アスウェル、あたしは生きてても良いのかな。お姉ちゃんと最後に会った時、あたし……我が儘言って困らせちゃったんだ。それが本当に最後だったのに。お母さんとお父さんも、あたしがもっとちゃんと逃げないで励ませていたら、壊れずにすんだかもしれない。あたしが駄目だったからみんな不幸になっちゃったんだよ」
「そんなのお前のせいじゃない、子供だったんだから仕方ないだろ。生きてていいに決まってる。俺はずっと生きてて欲しい。だって……」
絶望した俺を救って、助けてくれたのはお前じゃないか……。
けれどその言葉は少女に届く事がなかった。
たどり着いた塔の屋上。一度も来た事が無いその場所から、アスウェル達は世界を見下ろしてみる。
闇の中には、きっと元は美しかっただろう緑生い茂る大地が浮かんでいたが、その大地は、悲惨な惨状になって枯れ果てていきながら、闇の底へと落下しているようだった。
アスウェルは一つの世界の終わりを、見せつけられていた。
もうここも持たない、そう直観する。
そこはおそらく少女の為に存在する世界で、住人である少女の心が壊れてしまってはもたない場所なのだ。
滅びを加速させるように、闇の底から亡者のような不気味な腕が伸びて、大地を地の底へ引きずり込もうとしている。見覚えがあった。アスウェルの見ていた悪夢。そこに出て来た人殺し達の手とそっくりだ。毒々しい肌の色合いで、人のものとは思えない。温もりの一切ない、冷たいだろう手。
「もうすぐ滅んじゃうね。その前に……」
少女は、ある物を差し出す。それは、探し物として彼女がずっと部品を集めていたものだった。
「持ってて、多分あたしがここにいる理由は、ここでアスウェルと会えた理由は……、この時計を渡さなきゃいけなかったからだと思う。どこかにいる誰かの、悲劇を紡いでしまったたくさんの人の、やりなおしたいっていう悲しい思いが詰まった時計だよ。きっと役に立つと思う」
少女は空に手を伸ばす。
空には、血の様に赤い星が大きくなっていて、闇夜を塗りつぶす様に輝いていた。
その周辺には監視するような無数の目。
輝きのない多くの瞳がこちらへ向けられている。
だが、一瞬だけその空に他の光が灯った。
星の光は少女の元へ落下してきて、少女が指し示せば、そこにまばゆい光を放つ。目の前に虹の橋ができた。
屋上から続く虹は、この世界の果て、遥か彼方へと続いている。
「お別れだね。たぶん今の元気なアスウェルなら、きっとここから出られるよ」
アスウェルは当然少女の手を引いて虹の橋を渡ろうとするが、少女だけは塔から出られなかった。
「時間が無いよ。アスウェルはこんな所で終わっちゃダメ、やる事たくさんあるでしょ?」
握りしめた手を少女はほどく。氷の様な冷たい手で。
「頑張って。家族の仇を打つんでしょ? 妹を助けるんでしょ。強くならなくちゃいけないんでしょう? ここから生きて帰らなくちゃ」
激励の言葉と、厳しい言葉と、そして最後に悲しげな笑み。
少女は塔の中からあふれ出す闇に呑まれていく。
戻ろうとするアスウェルを少女は押しとどめて、言った。
体を押されて一歩進めば、その分だけ橋は消え始める。
数歩も歩いたらもう、塔には戻れなくなってしまうだろう。
「お別れだね。さようなら。でもせめて覚えていて欲しい、あたしの名前はね……」
強く、背中を押される。
それからアスウェルはどうしただろうか、少女を残して逃げたのか、それともその場に留まっていたのか。
いずれにしても記憶はそこで途切れている。
「あたしの名前はマツリ。いつかどこかで、また会えたらいいね。ミライ……」
アスウェルの真名を呼んだ、少女の声を最後にして……。