06 風の町ウンディ
夢の世界へのいざないは淡白だ。
他の者がどうなのかは知らないが、違いが個人個人であると言うのなら、アスウェルのそれは一際味気ない導入なのだろう。
疲労と共に眠りに落ちれば、証明のスイッチを入れ替えた様に現実が途切れてノイズが走る。
そして、簡素な砂嵐の景色の後に、再び唐突に光景が現れる。
……それがアスウェルにとっての夢だった。
現実ではない世界。
ただそれだけのもの。
夢は、今日も唐突に目の前に現れる。
切り替わった景色。
その光景を見た時は、またかと思った。
最初はその光景を見る度に大変だったのだが、何回も繰り返したせいでもう慣れてしまった。
それは、何か慣れない事をやった日は必ず見るもの。悪夢と言ってもいいものだ。
取り返しがつかない、全てが変わってしまった過去の光景が再開される。
そうしてアスウェルは今日も、子供に起きたその決定的な場面に、もう何度目かも分からない悪夢の中で居合わせるのだった。
「じゃあな、クルオ」
「ああ、また明日」
見慣れた景色、なつかしい映像が周囲に展開される。
感じているはずがないというのに、つられるようにアスウェルは思い出していく。
その時の気温を、かいでいた匂いを、地面を踏みしめた足の間隔を。様々な事を。
時刻は夕方、血をこぼしたかの様な夕日が赤く空を染めていた。
見える光景の中で、中心にあるのは小さな人影が二つ。
その頃よくつるんでいた、少女と見まがうような友人……女顔の幼なじみと、そしてアスウェルだ。
二つの影は親しげに」隣り合って、時にこづきあい、時に喋りながら学校からの帰り道を歩いていく。
アスウェルの住んでいた所は小さな村だったが、勉強を学ぶ為の学校があったので、親友と共に授業がある日は毎日訪れていたのだ。
やがて、道を進んで行けば、それぞれの家へ向かう分岐点へと差し掛かる。
親友に手を振って別れたアスウェルは、何も知らずに己の家へと歩みを再開するのだ。
その先にあるものが、悪夢になる物だと想像することなく。
その時考えていた事は、わざわざ思い出そうとしなくとも容易に思い起こせる。
……今日の夕飯は何だろう。父さんはもう帰っているかな。学校から一足早く帰っただろう妹は何をやっているだろう。ちゃんと宿題やってるといいけど。
と、そんな普通のどこにでもいるような少年が考える内容だったに違いない。
失ってから初めて築く、かけがえのない、唯一無二の世界に住む少年の幸せな思考の内容。
やがて少年は、いつもの道を歩き、いつものように家の前まで辿り着く。
だが、扉に触れる瞬間に、アスウェルは違和感を感じていたのだ。
ノブにかけた手が動きをとめる。
子供ながらにおかしいと思い、いつもと何かが違うと、その先の未来を知る事に大して不安を抱いていた。
この先には何か良くない事があるかもしれない。そんな風に思いつつも、いつまでもそうしていては埒が明かないと言うのも分かっており、結局は数秒の逡巡の時間を経てアスウェルは家の扉を開ける。
闇へと、踏み出したのだ。
「ただいまー。母さん」
家の中には、アスウェルと違って学校から真っすぐに帰った妹がいるはずだった。父は分からないがもう仕事は終わっていてもいい頃だ。
しかし、幼い少年が予想していた光景はそこにはなくて、待っていたのは血だまりの景色だった。
赤い血の中に沈む、見慣れた二人の死体を見て、少年は立ち尽くす。母と父だ。
「な……あ……」
かすれた声を出した瞬間、部屋の中の気配が蠢いて、少年の方へと意識を向けた。
内部には動く存在が……人が、いた。
わが家への招かれざる客。侵入者だ。だ。警戒すべき存在。冷たい目の人間達。
彼らの手には凶器が握られている。
凶器からは真っ赤な血が滴っていて……。
そうして幼い頃のアスウェルは気づいたのだ。
こいつらが両親を、殺ったのだ。
「ぅ……」
そして、そいつらはまだ無事な最後の一人……少年の大事な家族である妹を、男が担いでいた。
気絶しているようで身動きはしていない。
奴らは、大事な両親を手に駆けただけではなく、妹を攫おうとしている。
「……っ!」
その事に気が付いた少年は恐怖をおさえつけてそいつらに飛びかかるのだが、結果は無様なものだった。
「あぐっ、っ……!」
あっけなく反撃されて、殺されかけてしまう。
反撃されて、切り裂かれた。
体に深々と傷が刻まれる凶器の感触。思い出せる。一瞬後に焼ける様な痛みに思考が掻き乱された事も。
無力な少年はそれ以上何かをする事も出来ず、床で虫の様に悶える事しかできなかった。
凶器で切り裂かれた体から勢いよく血が流れだしていく。
両親の作った血だまりに自分のそれが交ざる。
命が零れていく感覚はこういう物なのだと、幼いながらに分かってしまっていた。
霞む視界の中で、妹が攫われていくのが見えるがどうしようもできなかった。
そいつらの肩に担がれて、力なく四肢を揺らしている妹のその姿が見えるのに、アスウェルにとってその現実はあまりにも強固で強大すぎた。
「……て……」
待て。やめろ。
そう思っても何もできない。
何一つできやしなかった
日常が奪われていくのに。大切な家族が奪われようとしているのに。
アスウェルの何でもない、これまで大して気にも留めなかった、確かに幸せだった日常が。
大切な日々が……。
そこにいる人が……。
終わってしまった出来事なのに、覆せない悲劇なのに、悔恨はとめどなく溢れ、憎悪は終わりなく生み出され続ける。
「……」
けれど、いくら思ったところで歴史に刻まれた結果変わらず。
願いは時空を超えて届きはしないし、過去は変えられないまま。
アスウェルの幸せな日々の結末はすでに悲劇で締めくくられてしまっているのだから。
1月2日
屋敷で雇われることになった翌日。
アスウェルはウンディの町を巡っていた。
一年前町に滞在した期間はわずか一週間ばかり。
記憶の彼方に忘れられて久しい情報を当てにするよりは、新たに覚えた方がはるかに良いだろう。そう思ったので、本日は町の様子を把握する事にしたのだ。
本当なら、この日に屋敷の案内を頼む予定だったのだが、せっかちな使用人のおかげかせいか予定が前倒しになった。
しかし、とアスウェルは自らの真横……よりも低めの位置にいる人物を見る。
「ふんふんふーん……。あれ、どうしたんですかアスウェルさん。ため息なんかついたりして」
一人で周るはずでいたというのに。なぜ同行者がいるのか。
事の始まりは割り当てられたアスウェルの部屋に朝食を運んでやってきたレミィが突撃してきて、騒がしくなった朝の時間の中で口を滑らせてしまった事だ。
アスウェルの本日の予定を聞いたレミィは至極真面目そうに考えた。
そして、良く知らない土地で動き回るのは大変だ、と返事も聞かず部屋を飛び出して、誰かついて行く人はいないかと探しまわったあげく数分後に、ウンディ案内係となってアスウェルの下へ帰って来たのだった。暴走兎め。
「……わひゃん。何するんですかっ」
人の気も知らず能天気に歩いている使用人が無性に腹立たしくなたので、小さな頭をこづいた。
「アスウェルさんはイジワルです。イジワルなアスウェルさんです」
観光地を案内するような気分で、町を紹介されてもイラっととするだけだ。
こっちはやる事があるのだ。
必要な情報だけ寄越して、大人しくしてほしい。
無言で見下ろしてやれば、レミィは不満げに口を尖らせて黙り込んだ。
「うぅ……」
しかし、いくらアスウェルが内心でそう思ったところで、レミィが意を汲んで大人しくなってくれるわけもない。
知っていた。そいつはそう言う奴だ。
「気難しげな顔して一匹の狼さんになってても、良い事なんてないんですよ? ゴーです。次に行きましょう。案内ですっ」
その後もしなくてもいい解説を色々と喋られて、アスウェルはあちこち連れまわされてしまう。
本気で苦情を言えば、レミィだって分かって自重するだろうに、結局そうしなかったのだからアスウェルはずいぶんと駄目な人間だ。
だが、一応案内の役を買って出ただけはあったようだ。
教科書を読み上げる様な口調でところどころつっかえていたものの、教えられた町の歴史は、知らないものばかりだった。
ウンディの町は、湖に突き出ている巨大な岩々にこびりつくようにできている。
人々は遥か昔からそれらの岩の上部に、側面に、または内部に精力的に居住区域を作って拡大していき、歴史から見ておよそ500年ほど前に、この場所は町と完成したらしい。
そんな場所にあるだけはあり、湖に生える岩の横やら(文字通り)上にあるウンディの町は非常に風通しが良く、風車が岩々のあちこちに設置されていて、町の外からくる人間の目を楽しませる景観を作り出している。
ちなみに屋敷は、その岩々の中でも目立たない小さな岩の一つ、その上部の鬱蒼とした森の中に建っているらしい。当然ながら人目に全くつかない場所だ。
それで、海から突き出す様に存在しているそれぞれの岩への移動は、張り巡らされたロープを滑る乗り物で行われ、それも外部から訪れる人間の中では人気になっているらしい。
そういうわけなので、やかましい使用人が案内の典型の様な行動をとらないわけがなかった。
「乗ってみなきゃ分からない事ってあると思うんです、だから一緒に乗ってください! そうでもしなきゃロープウェイなんて乗る機会ないんです」
いや、それはもはや自分の為の主張にしか聞こえない。
「ふんふんふーん、ふふふーん」
自分の欲に正直にも程があるだろう。
箱に詰められてメイドと二人で空の旅。所要時間は十数分ほど。
窓から顔を出して景色を眺める少女は機嫌良さそうに鼻歌なんかを歌っている。
外から吹き込む風が時折吹き込んで、海の匂いを運んできた。
移動に従って動いていく景色に視線を向ければ確かに、良い眺めとも言えなくもない光景だが……。
何をしているのかと言いたくもなる。
こんな時間は、ついこの間まで復讐の為に、組織の拠点を潰し歩いて軍の情報目当てに、狂った人間を狩りまわってた人間が過ごすような時間ではないはずだ。
「アスウェルさんもこっちに来て一緒に見てください、風が気持ちいいですよ」
楽しげにはしゃぐ少女の声が不快には思えなくて、気が付けばその隣へと並んでしまう。
吹き込む風に髪をなびかせてはしゃぐレミィの横顔は、本当に楽しそうだった。
「もう二週間ほどしたら、一月の半ばに行われる風調べ祭りの時期に、風に乗って遠くから来た花がこの町に降り注ぐんです。銀色の光で淡く光ってて……夜に見るととっても綺麗らしいんですよ。いいなあ……」
拾われてからもうすぐ一年経つと言う少女は一年前にはそんな祭りの光景を見ていないようだった。
「私、風が好きです。自由でどこにでも行けて、とっても気持ちいいですから。風に揺れる木の葉の音とか好きですし、ふわふわ揺れる花とか草を見るのも好きです。そよそよ風をゆっくり感じるのも好きですし、強い風を体全体で受け止めるのも好きです」
だからなんだ。
窓の外から視線を移動させてきた少女の、星の様な煌めきをたたえた翡翠の瞳と合う。
「アスウェルさん、好きが増えるのはとっても楽しい事ですね。我慢せずに何かを好きって言える事が私はとっても幸せです」
そして主張の締めくくりに、真冬に降り積もった雪が春の日差しを受けてとけるような、そんな控えめで優しい笑みをこちらに返してきた。
大事な事を言われているらしいと言う実感はあったが、その言葉の意味はよく分からなかった。
何も言わないでいるアスウェルに少しだけ寂しそうな表情をして、レミィはまた視線を窓の外へと戻してしまう。
そういえばロープウェイに乗った事も、こんな会話も一年前にはしたことがなかったと、後になって気が付いた。