受付嬢二年目・海の国編8
はっきり言って、魚は好きでも嫌いでもない。もとよりドーランは海なし国なので魚が豊富に捕れるということでもない。
けれど町中に流れている川では魚をよく見かけていたし、市場でも仕入れられた魚が売られていた。肉の気分でないときは魚にしようと手ずから料理をしたこともある。あれば食べるし、なければ食べない。可もなく不可もない。
しかし今日から魚料理を食べることはできなくなっただろうと、丸見えになっているお腹を擦る。そのくらい今の状況に、私は参っている。
そういえば海を見てはしゃぎ過ぎていたせいか、まだ何も食べていなかった。私の腹に住んでいる虫が細く小さく慎ましやかに鳴いたことで、今さらながらお腹が空いていることに気がつく。
実は、これは最近気づいたことなのだが、私はけっこう食欲が旺盛らしい。働き始めてからよく食べるようになったとニケにも言われていた。
理由としてはよく動くようになったからだとか周りからは言われるのだけれども、いいや正直、お財布の紐を絞めすぎて食事も満腹に食べることが少なくなったせいだからと思っている。
それによって逆に少食になれば万々歳なのだが、むしろその逆でお腹が空くうえに食べる量も増えていくという狂気を抱える、乙女には少々苦い体質となっていた。太ったと言われたことはないが、というか身体もまぁまぁ鍛えているし、動いていれば大丈夫だろう。
「わが息子ながら、懲りないやつだ」
お腹に響くような低い声に、首を後ろに引いて上を見る。
渋くて眉毛の濃い、口ひげが腰辺りまで生えている、人間顔の魚人間。
いや、あれはもうれっきとした、今度こそ「人魚」と呼べるやつなのだろう。絵本や海についての資料に描かれていた姿と似ている。
その人? 人魚? は王座のようなものに腰をかけていて、私をそこから見下ろしていた。その人魚は人間の私より三倍も大きさがある。
ただでさえ大きいのに、何故あんな高い所から。
私をこのお城のような場所に連れて来た魚人間とは比べ物にならない。
というか連れ去れたものの完全に人違いなので、早く私を海辺でもどこでもいいからこの水の中から出してはくれないだろうか。と、祈る気持ちで上にいる大きい人魚を見つめる。
魔法が使えないのなら、この海の中で魔法が使えるこの人魚達に頼る他ないので選択肢はかなり絞られている。頼るなんて出来ればしたくはないが、いたしかたあるまい。
「マイティア、お前はまだ諦めていなかったのか」
「僕はそんなこと一言も言っておりません」
マイティアとは、私を拐ってきた魚人間の名前らしい。
救いにもならない情報を聞き取る。
言うなればお城の中の王座の前にいる私。この奇妙な状況に異を唱えることも許されないような雰囲気がひしひしと肌に突き刺さっていた。
ここに来て初めて目にした、濡れて艶めく青い髪や緋色の髪をした美しい女の人魚たち。そこに混ざって男の人魚と、魚人間と同じ容姿をした人魚が、王座の周りにズラッと並んでいる。そのうえ背筋を伸ばして直立なものの全員目を閉じていて、今この場で目を開けているのは魚人間と私と王様っぽい人だけだった。
それにしても今更だが、いつもの服じゃなくてよかったと胸を少しばかり撫で下ろす。二股に分かれた下衣でなければ、布が浮いて下着が丸見えになっているところだった。見られて困るほどではないが、なるべくなら見られないほうが良いに決まっている。
とはいえこの人魚達の露出度を考えたら、そんな恥なんて砂粒程のものなのだろうけれど。
「ネフェルティアはどんなことをしても、もうここに戻ることはない。似通った者を連れてきても同じことだ」
いつもの私だったらあれは何、これは、それは何なんだと興味津々に歩いて回るのだろうが、流石にこの状況でそんなアホなことは出来なかった。
ニケやベンジャミン達にも心配させているだろうし、さっさと帰らせてはくれないだろうかと、横で必死になって私を連れてきたことを肯定化させようとしている魚人間を冷めた視線で突き刺す。
「けれど父上! ナンニョクが連れて来たということは、姉上に近しい性質をしているかもしくは」
「やめよ、見苦しい。だからお前はいつまでも稚魚のままなのだ」
稚魚?
この人稚魚だったのか。
史実によれば人魚の男は番を見つけて初めて大人になるらしい。
だが稚魚の状態は詳しく書かれていなかったので、何をもって稚魚と言うのかはわからない。見る限り魚面をした男の魚人間と綺麗な容姿をした男人魚がいるので、人間により近い容姿をした人魚が大人の男なのかなと予想する。
「人間の娘。ここはどこだか分かるか?」
「あ、えっ? わ、わわわ私?」
突然話をふられて身体がぴょんと浮く。
ここはどこだか分かるかと言われても、ドーランから出たのが初めての私には想像でしか分からない。
さっきから、ああたぶんあそこなんだろうな、人魚らしき人達がいっぱいいるしそうなんだろうな、とは考えてはいるがそう聞かれると本当にここはどこなんだと考えが一周する。
「海の、王国ですか?」
「正しくは深海の王国だ」
同じじゃないか。
そう出かかった言葉を飲み込んで、この大きな人魚を眺めた。
「わしはこの世の海を支配する海王、セレスティアルである」
大きな人魚――海王様はそう言うと、王座から降りて私と魚人間がいる所にやってくる。またもや水の流れに押されて後ろに下がりそうになったが、その前に海王様自らが私の背に腕を回してくれたので飛ばされることはなかった。
とにかくこの人は大きい。手の大きさが私の背中を覆うほどである。
うっすらとこの人はもしや海王様ではないのかなと思っていた私は、今ハッキリとそう名乗ってくれたセレスティアル王にありがとうございますとお礼を言うと、近所のおじさんによく似た親し気な笑みを浮かべて、ただ一言「よい」と言った。
「陸へ返すのは容易いが、領海を行き来することはなるべく避けなければならぬ。仲間が迎えに来るまで、有意義に過ごすといい」
「仲間?」
仲間とはニケやベンジャミンのことを言っているのだろうか。仲間が迎えに来るって分かるんですかと恐る恐る聞くと、この海で起こりうることは過去から未来まで全て分かるのだと返された。海王様についての噂は数多くあるけれど、まさかそんな芸当が出来るほどとは思っていなかった。超人だ。ロックマンだって、こんな人には流石に敵わないだろうと首を頷ける。
しかし迎えに来てもらうなんて、私の性が許さない。
出来うるなら自分自身でここから脱出したいのだ。迷惑を掛けたくない。けれどこの考えこそ迷惑になるのではと思うところもある。が、迎えに来ると言っても(予言みたいなものだけれど)本当に来るのかは定かではない。
『待ってて』
『必ず行く』
あんなこと言って。
私が素直にいうことを聞くなんて思っているのだろうか。
とは思いつつ下手に動かないでいようなんて思っている時点で、いうことを聞いているも同然なのだが、そんなの知ったこっちゃない。アイツの言葉を素直に聞いているわけではなく、あくまでも海王様の言葉を信じているだけだ。
だからけして、けしてそうなのではない。
この指輪だって何のために渡してくれたのか謎だ。
薬指から外して小指にはめても緩く、中指も、人差し指も、親指にもはまらない。
結局薬指に戻す。
「それはドルセイムの知恵だな」
「これ、ですか?」
海王様が私の手を持ち上げてそれを眺める。
大きな手に鷲掴みにされた。折られたらどうしよう。
ドルセイムの知恵とは西方の国に伝わる不思議な指輪のことである。その指輪は持ち主の使い方次第で何百通りもの使用法ができ、ある時は指輪を縦に引っ張り弓矢の弓に出来ることも、ある時は標的目がけて鉄砲のように飛ばせることも、縄のように伸ばしてその代わりにしたり等々、使い道はたくさんある。
ドルセイムの知恵を作ったとされているのは、同じく西方にいたとされるドルセイム人だった。耳がとがっていて、比較的背は小さく、知能も高い民族が生み出した物と伝えられている。もう何百年も前に絶滅したと言われているので、ドルセイムの指輪も各地方で発見されては高値で取引がされていた。
そんな物を、アイツが?
まぁ金持ちのボンボンだし持っているのも可笑しくはないと思うが、そんな物をどうして私にやったのだろう。
「ドルセイム人の魔法もまた特別であり、我々と違う性質を持つ。その指輪、この海の中でも役に立つだろう」
「これが……」
なんてものを寄越しやがったんだ。それを分かって寄越したのだろうか。
反射的に渡されたっぽかったので、そこまで考えていたかは明確ではないにしろ、そもそも使えると分かっていたらあの海辺で使ってた気がするし、なんだか借りを作られたようで恐ろしい。
「あの、ナンニョクって?」
ついでに気になったので、あの巨大生物のことを聞いてみた。あの生き物が私の中で衝撃的過ぎて今もずっと悶々と頭の中に残っている。
聞いてみるとこれまた海王様は快く答えてくれて、あれは海の掃除屋なのだと教えてくれた。海底に沈んでいる汚れやゴミを食べる怪魚で、毎日休まず海を綺麗にしているのだという。
けれどまだ気になることが一つ残っている。
ことの発端である勘違い人さらいはどうして起きたのか、と失礼にならないよう遠回しに聞いてみた。
「娘がいたんだが、もうずいぶん昔に家出をしてしまった。戻ることはもう無いと確信している。だが、その娘を探すとナンニョクが言い出してな。それ以来あれはずっと探しておるのだ。もう良いというのに聞かない奴でのう」
「良いんですか?」
「愛の形に正解はない。例えば一人の女が一人の男を見続けることと、一人の女が一人の男を見続けないことは、考えてみれば不思議なことに、その二つに違いはないのだ」
白いひげを撫でながら、海王様はニッコリと笑った。