受付嬢二年目・海の国編7
たゆたう空気。
まるでゆりかごの中で寝ているようだった。それかお母さんのお腹の中に戻ったような、暖かな温もり。
「ん……」
頬を撫でられる感覚に、意識が浮上する。
真っ暗な闇の世界から光のある場所に出たような、随分長い眠りから覚めるような気怠さ。
瞼を瞬かせて、ぼやけた視界の焦点を合わせる。
横たわっているであろう私の下には、柔らかな感触のする……布とはまた違う、赤ちゃんの頬っぺたみたいな肌触りの敷物が敷かれていた。色は、唇の色みたい。
ゆっくりと上体を起こして、私は辺りを見回す。
目に映るのは、空の青とは違う、澄んだ中にも光が混ざったような美しい青色の世界。
私が寝ていたであろう寝台のようなものは、よく見れば砂浜で見た貝殻のような形をしている。
周りには不思議な形をした、星のような置物があちこちにあった。ユラユラと揺れる長い草も生えている。
でもここはどこかの部屋で、外じゃなかった。
白い、そうまるで貝殻の裏側のように少し光沢のある白色の壁に囲まれた空間。
天井を見れば、見たことのない生き物や魚が伸び伸びと泳いでいる。
結んでいたはずの私の髪はほどけていたけれど、どこか普段とは違っていた。
まるで水の中にいるように、フワフワと広がっている。
「……」
しばらく考えて、私は腕を思いきり横に振ってみた。
――ブクブクブクブク……。
若干の抵抗力と泡しぶき。
肌に触れる空気とは違う、ぬるま湯に近い水の中に浸かっているような……、
「――え?」
――ブクブク。
――え。
「……ええ!?」
私は水の中にいた。
*
「なにここ……」
口を動かすたびに、ポコポコと泡がでる。
海に引きずり込まれてから、何がどうなったのか分からない。あの奇怪な生物も見当たらないし。
水の中にいると気づいてから思わず口を押えたけれど、とりあえず不思議と息が出来ているようなのでほっとした。
死んでなくて良かったと心底安心する。まだまだやりたいこともやれていないこともあると言うのに、こんな変な場所で死んでたまるものか。
ニケやベンジャミンも今頃どうしているだろう。せっかくの旅行なのに友達が海で遭難とか、迷惑極まりないだろうに。
「ハッ! 資料室整理やってない!」
それに……仕事だ! 仕事はどうする!
まだ受付のお姉さんになって一年しか経ってないのに、それにこのままここから帰れないなんてことになったら、無断欠勤もいいところだ。休暇を取る前に終わらせた書類整理はともかく、休暇明けにやろうと思っていた資料室の本の番号の付け直しは、所長から直々に頼まれていた仕事。やばい所長にぶっ飛ばされる。
お休みはあと三日だけでゾゾさん達のお土産だってまだ買ってないし、チーナが欲しいと言っていた砂浜で採れる色んな貝殻だって集めていないし、所長が地味に頼んできたセレイナ王国の名産品『パークルの乳』というお菓子も買ってない。
貯めたお金だって、せっかくあと少しで目標金額になるのに、それが全部パーになるのは本当に嫌だ。こんな場所で絶対に死んでたまるものか。
なんて一人で思っていても、ここがどこだか分からなくては話にもならない。
試しに魔法を使ってみるけれど、何にもできなかった。
「シーシシシ」
立ち尽くすならぬ座り尽くしていると、そんな音? 声? が天井から聞こえた。
上を見れば、魚顔に人間の男性の上半身、足の部分は魚の尾をした生き物が泳いで、目の前におりてくる。水の流れに押されて、私の身体が揺れた。
「魚?」
これは……人魚なのだろうか。
私が絵本や念写で見てきたものや、噂で聞いていた姿とだいぶ違うような。
ギョロ、と二つの目が私に向いた。
「シシー、シーシ」
口をパクパク動かして、私へ向けて何か喋っている。
しかしさっきからシーしか聞こえない。何かを伝えようとしてくれているのは身ぶり手振りでよく分かるのだが、全部シーなので発音がどうとか区別の付けようがない。
「シ? ……シー!」
私が首をかしげると、あ、やべぇ忘れてた、みたいな顔をしたその魚人間? は、ポンと手を叩いて、どこから出したのか丸くて白い小さな玉を差し出してきた。
受け取れということなのかずいずいと押し付けてくる。
そのうえ口元に指をさすしぐさをされたので、もしやこの得たいの知れない玉を飲みこめということなのかと考えた。
……毒だったらどうしよう。
「……ムグッ?!」
「シシシー! シシ――はやく食べて!」
「やだ飲み込んじゃったじゃん! ……て、あれ?」
無理やり魚人間に玉を口へ突っ込まれて、思わず飲み込んでしまった。最悪だ、これ私死んじゃうのかな。
けれどさっきからシーとしか聞こえていなかった声が、突然言葉として聞こえるようになっていた。完全に男……というか男の子、の声が魚人間から聞こえてくる。
ビックリして後ずさるけれど、魚人間に腕を掴まれて引き戻された。揺れ浮く自分の髪が顔にかかる。
「お前は姉上に似ているが、姉上ではない」
「は?」
「けれどナンニョクが連れてきたから匂いも同じ……血縁ということもあるのか? もしや姉上は結婚されたのか? 僕を差し置いてやはり人間の男と!?」
言葉は分かるようになったのに、言われている意味が分からない。
「でもまぁ良い。父上には仕方なくお前と番になると」
「なに言ってるのか全っ然分かりませんから!」
近くに置いてあった大きい貝を投げつけて、隙をつく。
まったく人攫いも大概にしてもらいたい。息が出来ているなら今のうちに逃げようと、私は足をバタバタさせて泳いだ。
けれどやはり魚人間相手にそんな子供だましは通用せず、足をガッと掴まれてしまい進むことはかなわなかった。
そのピチピチの尾ヒレが恨めしい。
「お前を海王の元へ連れていく」
「うみおう……? それって、もしかして、海王――セレスティアル?」
あの巨大生物も言っていた『海王』。
本で得た知識しか持ち合わせていないけれど、ここがもし人魚の住む海の王国だとして、彼の言うそれがこの海を支配している王だと言うのなら、恐らく、いや、確実に海王とは『セレスティアル王』のことに違いない。
海は彼の気分一つでどうにでもなる、という記述を確か見たことがある。
王が怒れば海は荒れ、幸せな気分ならば穏やかに波は揺れ、悲しくなれば海は凪ぐ、など海と王は一つの魂で繋がっている、なんて本に載っているのを見た。
「知っているのなら話は早い。行くぞ」
「いやいやあのすみません、私たぶん人違いされてますよね? というかここどこですか」
「姉上の部屋だ」
「そうじゃなくって、ていうか姉上ってあの――うわ!」
魚人間に腕を引かれて、吹き抜けている天井から部屋の外に出る。
質問に全然答えてくれないし何だこいつ、とブクブク空気の泡を口から出す私だったけれど、部屋から出て見たものに泡を出すのを止めた。
「な……んなの、ここ」
今まで見たどの城よりも大きく、白く光輝いている。いったいどんな人が作ったら、こんな壮大な芸術作品が生まれるのだろう。
巨大な柱がいくつも立つ中心にあり、螺旋状になった貝のような塔を真ん中にした、金色の光が漏れている楕円形の窓、穴がいくつもあるお城。建物の壁には宝石が散りばめられているのか、海の上から射し込む太陽の光を受けて小さく輝きを放っている。大きな貝殻も所々に張り付いていた。グルグルと渦を巻いた貝や、細長い貝、それに周りには青白い草や赤い草、黄色い草がお花畑みたいに生えていた。
音楽が流れているのか、耳障りのよい音階が聞こえてくる。
私の前を、ピュンと小魚が横行した。
「見て分からないのか? お前がさっきいた部屋もこの一部だぞ」
私のいた部屋は、この大きな建物の一部に過ぎないという。
「僕の偉大なる父にして、この海の世を統べるセレスティアル王の潜窟の城、溟海の宮殿だ」
そう自信満々げに言われて、引っ張られていく。
――憧れていた、海。
掴まれている方の手、左の薬指にはめられた金の指輪を眺める。
これが観光だったらどれだけ楽しめたことだろうかと、私は魚人間に連れられながら思った。