ハーレ就業編・8-2
依頼書の複製に私の調印をしたあと、出しっぱなしにしていた自分の筆を茶色い革袋に入れる。
何か片付けるものは他にあるかと見回して、私はゾゾさんに頭を下げた。
「お疲れ様です」
「お疲れ。所長のところに行くんでしょ? 明日から破魔士の受付だものね」
「はい!」
私は明日、ついにあの場所へと進出する。気分は晴れやかだ。
ソレーユ地で一ヶ月を過ごし、所長との約束で一ヶ月経ったら破魔士の受付に座らせてもらえるということで、私は就業後に所長室へと呼ばれていた。働き初めて半年が過ぎ花の季節も残り半分というところだが、自分で言うのもなんだけれどここまで順調に来ていると思う。うまいこと順調に。まぁそれ自体は凄く嬉しいことだけれど、調子に乗らないようにと今一度気を引き締めていかなければ。
頬をパンパンと叩いて、ニヤけそうになる口を押さえる。
*
「所長失礼します。……あれ、声が無いからまだかな?」
所長室に入ると、所長はまだいなかった。
もしいなかったら中で待っていてと言われていたので、私は所長が使う机の前に立って待つことにする。木彫りのリュンクスの置物は未だ健在で、私が初めてここに来たときから位置が変わったことは一度もない。よほどお気に入りの物なのか、リュンクスの頭の上には白いキュピレットの花が飾ってあった。花とは言っても作りもののようで、布感がある。所長にも可愛いところがあるのだ。というか所長は美人だし、かっこいいし、それと同じくらい可愛いところがたくさんあると皆知っている。所長を「嫁ぎ遅れ~」なんてからかう男性職員の人だって、あれは所長のことを好きだという気持ちの裏返しであり、騎士団長がいる手前実りそうもないその恋に私達同僚が慰めの酒に付き合うのが恒例化していた。
「待った?」
しばらくしてガチャと所長室の扉が開く。
遅くなってごめんなさいねと入ってきた所長の顔を見れば、髪が少しだけ乱れているせいかどことなく元気が無いように思えた。というか髪だけのせいじゃない、いつも凛々しく山を描いている眉毛が垂れぎみだからそう感じるのだ。
何か仕事で大変なことがあったのだろうかと心配になるが、ハリス姉さんやアルケスさんが聞くならともかく私が聞いてもよいことなのかと悩む。
「いよいよ明日からね。頑張って頂戴よ?」
「はい」
受付についての簡単な資料と、手の平ぐらいの大きさの分厚い記入帳を手渡しされた。
赤い記入帳の表紙には『あなたが影を踏んだのは?』的なことがテックル文字で書かれている。テックル文字はシーラやドーランなどそのほか近隣諸国で使われている私達の言語の基本文字で、この記入帳を開くには、その文字の下に合言葉になる言葉を考えて書かなければいけない。
所長に今決めちゃいなさいと言われたので、何にしようかと考える。
私が影を踏んだのは……鳥、いいや木の……違うな、父親とか……母親? それも単純でしっくり来ないし、何か別の……あ。
「ララ、と」
使い魔である白いリュコスを脳裏に浮かべて、表紙に筆で書き込む。
「できた?」
「なんだか楽しいです」
「そう、良かった」
所長はそう言うと、椅子の後ろにある窓の外を眺めた。私も追って見てみれば、天馬が飛んでいるのが見える。
今日はよく天馬が飛んでいるのを見かけるけれど、騎士団も忙しいのだろう。ニケも久しく見ていないので、そろそろ会いたくなってきた。手紙を出しても仕事の都合で会えなく、二ヶ月ほど前にベンジャミンと二人でお茶をしに出掛けたときがあるけれど、騎士って本当に大変よねと二人でお菓子をバクバク食べながらニケの心配をしたものである。
今日も空を飛んでいるのかと目を細めて、茜色に染まる空を見つめた。
「あの、所長?」
「……あ、うん? どうかした?」
同じように、まだ所長も外を見ていた。
明日からの説明をすると言っていたが、無言の時間が長いのでこれは資料を見て自分なりに解釈しろということなのかと悩んだが、彼女を見ているとそうでもさなそうな雰囲気なので、意を決して私は声をかけた。余計なお世話だと言われたら一目散に所長室から出よう。最後に礼をするのを忘れずに。
「気もそぞろのような感じがしたので」
私の言葉に目をパチクリとさせた所長が、ふふ、とわらった。
相変わらず眉は垂れている。
「嫌いなやつに守られるのって、嫌よね」
「?」
嫌いな奴?
騎士団長のことかと言いかけた私だったけれど、天井が仄かに光だしたので上を向く。すると小さな魔法陣が上に現れて、そこから一枚の紐で括られて丸まった紙がポトリと落ちてきた。所長はそれを手に取ると中身に視線を滑らせて読み始める。
何が書いてあるのだろう。そもそも誰が出した魔法陣なんだろう。
「やっとなのね。……ナナリー」
「はい?」
「先程、オルキニスの女王が崩御したわ」
………………え。
「え?!」
「貴女にはやっと言えるんだけど――」
それから所長が話してくれたのは、呑気に過ごしていた私の頭を鈍器で殴り付けられるような内容だった。