第九十九話
「アルヴィース! アルヴィース!」
倒れるアルに駆け寄ったヒルドが叫ぶ。
必死に治癒を施すが、反応はなかった。
完全に意識を失っている。
「…直撃は辛うじて避けましたかァ」
それを眺めながらヴェルンドは一人呟く。
もし、雷霆が直撃していたなら死体すら残らなかっただろう。
『手心を加えたのではあるまいな?』
「まさか。俺は本気で人類を滅ぼすつもりですよ」
心の内から聞こえる声に、ヴェルンドは答えた。
確かにアルのことは嫌いではないが、長年の計画を捨てる程ではない。
ヴェルンドは人類を滅ぼす。
その中には当然、アルも含まれている。
「…ん?」
ヴェルンドは異臭を感じ、首を傾げた。
鉄のような臭いと共に、水気を帯びた音が響く。
「『スリーピング・ビューティー』」
水量を増した血液が凝固し、茨の森となってヴェルンドへ襲い掛かる。
「鉄の抱擁を受けなさい!」
咄嗟のことで動けないヴェルンドの身体を縛り上げ、全身を茨が貫く。
鋭い棘は黄金の鱗を破り、その身を深く抉った。
「―――まだ理解していなかったようですねェ」
全身を串刺しにされながらも、ヴェルンドは余裕を崩さない。
「俺は、俺の中の『エルフとしての部分』を依り代にニドヘグを顕現し、同化しています。俺の肉体の半分は術式で具現化している状態」
「…?」
「…極端な話、肉体の半分程度までなら失っても即座に再生できるんですよ」
雷霆が茨を溶かし、液体に戻す。
風穴が空いていたヴェルンドの身体は一瞬で元の状態に戻った。
脅威なのは雷霆だけはない。
ニドヘグが憑依した肉体は、神の躰だ。
生半可な攻撃では傷一つ付けられず、こうして損傷を負わせても即座に再生する。
アンドヴァリの時は玉座を破壊すれば良かったが、ヴェルンドにはそれがない。
エルフ式の魔術には魔力切れはなく、その魔術が自然に解除されることはない。
「くっ…半分人間だって言うなら、どうしてそこまでエルフに拘るのよ!」
アルの意識が回復するまで時間稼ぎをするべく、ヒルドは叫んだ。
「エルフではなく、人間として生きる道もあったんじゃないの!」
「………人間として生きる道、ですか」
ヒルドの言葉に、ヴェルンドは静かに呟いた。
目も鼻もない無貌がヒルドの方を向く。
「そんな物は養父に裏切られた時点で諦めましたよ。俺は人として生きれない」
「…あなたは、アンドヴァリを」
「本気で父親だと思ってましたよ。森を追放され奴隷となったエルフの母と、それを買った人間の父を持つ俺にとって、初めて親と思える相手でした」
ヴェルンドの呪われた境遇の一端に触れた気がした。
掟を破り、森を追放された黒エルフ。
行き場を無くしたエルフが行き着いたのは、奴隷商。
貴族の男に買われ、あらゆる尊厳を失った。
本来、人間とエルフの間に子供は生まれないとされるが、性質的に人間に近い黒エルフだからだろうか。
奇跡に近い確率で、その奴隷は身籠った。
『私は全てを憎む』
『私を愛さない全ての存在を憎悪する』
『エルフは私を排斥した』
『人間は私を拒絶した』
『神すらも私を愛さなかった』
『ああ、忌々しき私の子よ』
『この私と、あの男の血を引く呪われた子よ』
『お前も私と同じだ』
『―――決して誰からも愛されない』
それは、母の日記に残された呪いの言葉だった。
母の絶望を、母の孤独を知っているが故に、ヴェルンドは誰よりも愛情を求めた。
「それが、それが! 裏切られたと知った時の苦痛が分かりますか! 何一つ信用されていなかったと気付いた時の絶望が分かるかァ! 分かるかよォ!」
思いの丈を叫ぶヴェルンドの言葉には、それでも憎しみはない。
あるのは深い悲しみ。
人間に拒絶された絶望。
「俺はもう、人間に何の期待もしていない! お前達は滅びろ! 俺の目的の為に!」
ヴェルンドは両腕を天へ翳した。
「白魔よ、来たれ! 我は憎悪に満ちて打つ者。その闇を以て、我が名の意味を知れ!」
帝国全土を覆う暗雲に巨大な陣が浮かび上がる。
大気が凍てつき、全ての生命が終焉を予感した。
「黄昏術式『フィンブルヴェト』」
新たな術式が完成し、暗い雲の中から光る物が堕ちてくる。
それは『雹』だった。
禍々しくも、輝きを放つ魔力を秘めた結晶。
「こんな、ことが…」
空から無数に降り注ぐ雹の嵐。
その一つ一つに込められた魔力を感じて、ヒルドは絶望した。
常人を遥かに超える魔力を持つヒルドとほぼ同等の魔力を秘めた結晶。
そんな物が無尽蔵に地上に振り続けている。
「身に余る魔力は毒に過ぎません。この雹の嵐は、人間にとって酸の雨に等しい」
それは正しく、人類を滅ぼす魔術。
「酸の雨に焼かれた人間は朽ち、新たな生命を育む土壌となる。大樹の養分となる」
生命を一掃し、地表を塗り替える神の偉業。
「―――『冬』だ。これより我は地表に永き冬を齎す!」
ヴェルンドは、ニドヘグは終焉を告げる。
「三度の冬を越えた時、人の歴史は終わる! 新たな時代は始まる!」
目のない顔を上げ、空を仰ぐニドヘグ。
ヒルドに意識すら向けてない。
その必要がない。
ヒルドが何をしようとヴェルンドを殺すことは出来ず、この滅びは止められない。
「…創生術式『ミストカーフ』」
「………あ?」
心底不愉快そうにニドヘグは声の主へ顔を向ける。
「魔力付与………創生『グングニル』」
翡翠の槍を杖にして、辛うじて立ち上がった男に侮蔑を示す。
「まだ立ち上がるか、塵芥。だが、それに何の意味がある?」
その声には憐れみすら含んでいた。
「人の世は既に終わった。勝敗や強弱ではない。現実を受け入れるかどうかの問題だ」
結果は変わらない、とニドヘグは語る。
最早、それは抵抗ですらないと。
現実を受け入れられなくて泣き喚く子供の癇癪に過ぎないと。
「受け入れられる訳、ないだろうが」
アルは不敵な笑みを浮かべ、グングニルを投擲する。
「俺はまだ生きているんだ! 人類はまだ滅んでいないんだ! だったら諦める理由なんてないだろうが!」
渾身の一撃が風を切り裂き、ニドヘグへ迫る。
それをニドヘグはあっさりと受け止めた。
「解き放て『グングニル』」
圧縮された魔力が解放される。
光の爆発を浴びて焼け焦げる身体を見ながらも、ニドヘグの態度は変わらなかった。
「…はぁ」
瞬時に肉体を再生させながらニドヘグはため息をつく。
まるで虫にでも噛まれたような雰囲気だった。
「ヒルド。まだ魔力に余裕はあるか…!」
渾身の一撃をあっさりと防がれても、アルの戦意は挫けない。
ニドヘグが再生に集中している隙に距離を取り、ヒルドを傍に寄せた。
「え、それはまあ、まだまだ余裕あるけどー…?」
ヒルドはどこか暗い表情で呟く。
楽観的な性格だが、流石にこの状況を楽観視することは出来なかった。
アルと異なり、ヒルドの心は既に折れかけていた。
「何て顔しているんだ。勝機はまだ残っているんだぞ」
「…それ、本当に?」
「ああ、アイツの姿をよく見ろ。アンドヴァリの時と比べて違和感を感じないか?」
ヒルドはそう言われて、ニドヘグへ視線を向ける。
二メートルを優に超える体躯。人間に近い骨格と肉食獣のような爪。黄金の鱗。
目も鼻もない顔に、切り裂いたような巨大な口。背中から尻尾のように伸びる大蛇。
左右非対称に浮かび上がっている黒い紋様はアンドヴァリになかった物だが、それは重要ではないだろう。
「…眼?」
「そうだ。アイツには眼がない」
言われてみれば、アンドヴァリの時には深緑色の単眼があった。
それがヴェルンドを依り代とした時には、存在しなかった。
それでも周囲の状況を理解しているようなので、決定的な弱点とは言えないが。
「あの眼はファフニールの時にも存在した。アレは恐らく、ユグドラシルの種子だ」
ニドヘグを具現化する物体。
古代エルフの遺産。
ニドヘグの術式を維持している本体。
「それが無いってことは、体内に隠していると言うことだ」
「体内に…」
「だから、それを見つけてヴェルンドから引き剝がす。そうすれば術式は止まる筈だ」
ニドヘグの発動には種子を取り込む必要がある。
故に、種子とヴェルンドを再び分離出来れば術式は解除される。
「一度取り込んだ物を引き剥がすことなんて出来るの?」
「出来る。そうでなければ、ヴェルンドがそれを隠す理由がない」
ヴェルンドが『眼』を隠したことが、アルの推測を確信に変えた。
外的要因で分離することが無いのなら、それを隠す必要が無い。
種子を体内に隠すのは、それが弱点であることの証明。
「行くぞ。もう時間が無い」
アルはヒルドと肩を並べ、ニドヘグを見る。
「奴が人類を滅ぼすのが先か。俺達が阻止するのが先か。最後の戦いだ」




